謹慎明けからずっと私は山南の所に入り浸っていた。回復のための無理やりな謹慎の間で山南の方が先にすっかり回復してしまって、池田屋襲撃が終わったら看病してあげるという約束がフイになってしまったかわりに、山南塾の手伝いということになったからだ。
ただ、問題は段々とこの山南の隣の居心地良さが増しているという点で。それは私にとって、とても問題のある事態だ。
「葉桜君」
あの一件以来私は山南の隣に座ることが出来なくて、なんとなく机の端と端に座っている。対角線上、一番遠い位置で山南の書いた教本を書き写して、大抵私の一日が終わる。
「葉桜君、聞きたいことが」
「うわっ!」
急に耳元で聞こえる山南の声に驚いた私は聞こえた側とは反対側に移動しようとして、背中を本の山にぶつけ、どさどさと降ってきた本に軽く潰されてしまった。
「だ、大丈夫かい、葉桜君!?」
大急ぎで本を避けてくれた山南を見上げ、私は照れ笑いを返す。情けない。いくら驚いたからって、何をしているんだ、私は。
「ごめんなさい、崩しちゃいましたね……」
「怪我はないかい?」
山南に肩を掴まれた私は、軽々と崩れた本の山から救い出され、そのまま逃げ出せないほど近くにある顔に思わず視線を背けてしまう。だって、こんなに近くで山南の顔を見るなんて、あの一件以来で。絶対、今の私の顔は赤くなってるに違いない。
「怪我はありません。……だから、その、離してください」
山南もそれは同じらしく、慌てた声で謝罪と共に私は肩から手を離された。しばらくお互いにその場から動けなかったのだが、とうとう山南のほうから腕が伸びてきて、思わず引きそうになった私を捕まえる。
「や、山南さん……」
「私の気のせいでなければ」
眼鏡が逆光で光って、私の位置から山南の瞳の奥の言葉は読み取れない。
「気のせいでなければ、葉桜君は私を避けていないかい?」
「そんなっ!」
本当に避けるつもりなら、毎日山南の所に足を運ぶわけがない。本気で避けるつもりなら、私は幾らでも理由をつけて来ないことができるのだ。
それを伝えようとしたけれど、私は声に出すのを止めた。言ってはいけない、と私の中で警報が鳴っている。山南はあれから私の答えを待っているのに、そんな風に先伸ばしにし続けること自体が残酷過ぎるだろう。
だからと言って、私に山南を拒絶することなんて出来ない。惹かれている確かな想いを私は否定したくないんだ。
「それとも、沖田君が気になるのかな?」
私が顔を上げた機が悪かったのだろうか。山南に掴まれていた右手が、私から離れる。
「やはりそうなのか」
「違」
「沖田君なら今日から稽古をしているよ。行ってきたらどうだい?」
山南らしくない、責めるような言葉に、私の身体に震えが走る。だめだ、絶対に傷つけた。誤解をされた。いや、誤解されてもいいけど、私は山南にこんな顔をして欲しいわけじゃないのに。
「避けていたワケじゃないんです。ただ、山南さんをみるとどうしても思い出されることがあって……怖くて」
私に震える手で山南の腕を掴むことは出来ても、縋り付くなんて真似は出来ない。それに、そんな女が山南の隣にいられるとは思えない。この人は自分の足で立って生きている私を見てきて、そんな私を好いてくれている。
「私は約束を守るために新選組にいると言いましたよね? 山南さんといると私はきっと弱くなってしまう。約束を、守れなくなってしまう気がして怖いんです」
ああダメだ、泣かないと決めていたのに、私の目から雫が落ちて、じわりと山南の羽織を濡らしてしまう。
本当の私は全然自分だけじゃ立っていられない子供で、望みさえ満足に口に出すことが出来ない。私の望みが依頼通りに新選組を救うことなんて、本当じゃない。本当の私は、自分が楽しく笑っていられることしか望んでいない卑怯な人間なんだ。
「葉桜君は充分強いじゃないか」
私は強くなんかない。軽い気持ちで受けた依頼に、今は私自身が絡め取られ、どこにも進めなくなっているのだ。ここの強い影響力に揺さぶられる私自身を制御できなくなってきているのに、そんな自分が強いとは私には到底思えない。
ふるふると首を振る私の頬に、大きな山南の手が添えられる。剣を手にする人と同じく、ごつごつと硬い山南の手を両手で掴んですり寄せると、墨の薫りがする。
「貴方にいなくなられたら、きっと私は動けなくなってしまう。それが怖くて、しかたがないんです」
山南のせいじゃない。惹かれるこの想いが、目の前で不安そうにしている人を見捨てられない私の弱さが、私の足を止める。
山南の望みが知りたくて、書を読み、討論もしたし、普通の話もした。だが、歩み寄るほどに惹かれている自分が居る。芹沢がいなくなってからそれは顕著で、いなくなってしまったら私自身がどうなってしまうわからない程だ。最初に近付いた理由は山南が一番時間がなかったからだったのに、それさえももう私自身に対する言い訳にしかならない。
私の脳裏に変わらず点滅する映像はやっぱり青空と鮮血で、それは山南のものだ。山南のいない未来が書いてあるから、今、私は山南に惹かれることが怖い。
「沖田、調子は良さそうだな」
道場で剣を交えながら私が問いかけた相手は、普段と変わらない笑顔を返してくる。
「ええ、なんともありませんよ」
沖田は、まさかつい先日に血を吐いて倒れた者と同一人物にはとても見えない。私は力では沖田にまったく敵わないから、今みたいな鍔迫り合いはかなり危険な行為だ。当然それに対する返し技を私が持たないわけではないが。
「引け」
「嫌です」
笑顔で忠告を拒否する沖田の答えは予想できていたが、私も多少なりとげんなりした気分になる。病み上がりの人間に私が使える技なんてないというのに、沖田はそれもわかっていてやってるのかもしれない。
「んじゃ、せーので引こう」
「葉桜さん、いつもみたいにはいかないんですか?」
「バカか、おまえは。仮にも私は病み上がりだぞ」
「三日も謹慎していれば完全に回復してるでしょう?」
いちいち揚げ足をとるな、と私は呟く。私がせっかく気を使ってやってるっていうのに、甲斐のない男だ。
ふっと私の纏う空気が変わったのに気付き、沖田の目が輝く。他の隊士なら逃げ出すものなのに、これをやると沖田はいつも大喜びをするから、私としては少し困る。
「今日こそはその技、破らせてもらいますよ」
楽しそうないつも通りの沖田としばし見つめ合い、私はため息を吐いた。技を破ってほしい気持ちがないわけじゃないが。
「やっぱやめ」
「え?」
「今日は気がノらない」
そうなんですか、と残念そうに沖田が離れたところで、私は礼をして試合を終わらせる。
試合でもすれば気が晴れるかと思ったけれど、相手に気を使っていて晴れるわけがない。こういう時はどうせなら永倉辺りとの試合の方が私は気を使わなくていいんだけど、今日は残党狩りに参加しているとかで屯所にいないのは確認済みだ。
道場の端に正座する私の隣で、沖田が胡座をかく。
「山南さんと何かありました?」
やっぱり沖田にはバレたか。流石に交わす剣先に出てくる私の迷いには気がついたのだろう。でも、だからってそれと決めつけることはないと思う。
私が無視していると沖田は好き勝手なことを話してくれる。
「今日は随分と集中が乱れているようでしたよ。普段ならどうとでも抑え込んでしまっているものなのに」
「謹慎明けからずっと山南さんの所に通っていたようですから、今日の苛立ちはそれのせいとしか考えられませんよ」
それに、と言葉と共に私の頬へ誰かの手が伸びてきて、触れる。冷たい指先に思わず振り見ると、ずいぶんと私に近い位置に沖田の顔がある。逃げようにも、既に片方の腕を抑えられていて、私はのけ反ることさえ出来ない。
「葉桜さんが泣くほどの何かが山南さんとの間にあったんでしょう? ……悔しいな」
「ちょっと、沖田。なんのつもり」
他の隊士達も見ているのに、何をするつもりだ、と私は沖田を睨みつける。
「僕が見たのはたった一度きりなのに、ずるいですよ」
「何言ってんだよ、離せっ」
沖田は私の反応も意に解さず、私の腕を引き、自分の膝に横倒しにさせる。
「沖田っ」
「葉桜さんを泣かせる人に、葉桜さんは渡しません」
穏やかで、それでいて決意の籠もった沖田の言葉は私を通り越して発せられている。まさか、と私が探る頃と、丁度道場から山南の弱い気配が離れていくところで。一瞬私は山南を追いかけようとして、止めた。そんな女々しい真似は私に向いてない。
代わりに沖田に向き直ると、沖田は私に何時も通りの満面の笑顔を向けてくれる。こういうときは少しだけ憎たらしい少年だ。さっきの言葉もきっと近くにいた山南に向かって言ったのだろうから。
「……あのねぇ、山南さんとは別になにもないよ」
沖田のは単に、子供が玩具を取り上げられるのに駄々をこねているだけだってことは、私にはよくわかっている。そんな弟よりも弟らしい少年は愛しいけれど、その感情はまだ山南のそれには及ばない。きっと今沖田がいなくなっても、私はただ約束を果たせない自分自身を深く後悔するだけだ。
「本当ですか?」
「マジ、だから離せ」
「本当に?」
「本当だってば、しつこいぞ。……ってこら、こっち見てないで稽古しなさいっ」
私の叱咤に止まっていた道場内の音が再会する。まあ確かに一番隊組長と副長がこんなことしてたら目立つよ。私を膝にしっかりと抱えているのはいいんだけど、容易に振りほどけない力強さは元の通りだ。本当に、まさか池田屋で血を吐いて倒れた御仁には、まかり間違っても見えない。
「いいかげんに離せ」
「嫌です」
まだ言うか。
大きくため息をつき、私は最終手段を覚悟する。沖田の腕から私が逃れられないのは、とかく沖田に隙が少ないからだ。ないなら、怯むような隙をつくってやればいい。
「こら、総司」
沖田が吃驚して私を見ている間に、緩んだ腕から抜け出す。
「葉桜さん、今」
「金輪際こんなことしたら絶交だからね。稽古もしないし、散歩も行ってあげない。目の前でアンタの相手を全部捕縛してやる」
沖田の目が楽しげに輝く様子を私は訝しむ。しかも何時もと様子が違うのは、沖田の頬に赤みが差しているってことだ。
「それは困ります。稽古をつけるより、巡察より、葉桜さんや近藤さんたちとの稽古が面白いんですから」
全然全く困っていない様子の沖田に、思わず私は笑いが零れてしまった。
「はははっ、ウソつくなって。剣術遊びの方が楽しいクセに」
「葉桜さんとの稽古が楽しいのは本当ですよ」
沖田は稽古と言っているが、私が見たところ、あれはどう見たってシゴキだ。隊士達が逃げ出すのも道理。大体、沖田は剣を思うように振れないと言うことが全く理解できていない。元が天才だけに、大した苦もなく剣術を習得し、それを遊びと称しているのだ。他の人間がその域まで到達するのにどれだけの稽古を重ねても、追いつくのは困難。
「それより、葉桜さん」
「ああ、なんだ?」
クスクスと笑いながら返す私に、沖田が囁く。
「もう一度、名前を呼んでくれませんか?」
「沖田?」
「いいえ、下の名前」
「……なんで」
剣を握って強い相手と対峙している時よりも嬉しそうに沖田は促すから。私は仕方なしに口にする。
「総司?」
目の前で、沖田が満面の笑顔になったことに驚き、私は少し怯んだ。それを良いことにまた沖田は私に抱きついてくる。
「こ、こら、沖田!」
「葉桜さんに名前を呼ばれるのって、気持ちいいですねっ」
「はぁ!?」
「もっと、もっと僕の名前を呼んでください」
「何言って……こ、こら、あんたたちも黙ってないでこの馬鹿をどうにかしろー!」
それから原田らが稽古に来るまで、沖田は決して私を離そうとはしなかった。
なんで名前ぐらいでと思ったが理解できないわけじゃないから、だけど沖田のそれはまだ淡いから。私は何も気がつかないことにして、予感を振り払った。
山南さんで落ちると話が続かない。
でも、無視できない。
それで気分を晴らそうと稽古をしようとしてみたら、沖田と更に仲良くなってしまいました。
(2006/05/02)
リンク変更
(2007/06/27)
改訂
(2010/02/07)