Routes -1- rinka ->> 本編>> 15#-18#(完)

書名:Routes -1- rinka -
章名:本編

話名:15#-18#(完)


作:ひまうさ
公開日(更新日):2009.12.1 (2010.2.14)
状態:公開
ページ数:4 頁
文字数:33597 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 21 枚
15#よくある婚礼劇
16#よくある転移劇
17#よくある系統劇
18#よくある終幕劇

前話「14#(王子視点)」へ 15#よくある婚礼劇 16#よくある転移劇 17#よくある系統劇 18#よくある終幕劇 あとがきへ

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15#よくある婚礼劇



 程良い闇に月が輝く夜、リズールの西南西に位置する樫、椎などの常緑広葉樹が生い茂る深い森の奥で、闇の中に静かにほうと啼く梟の声を合図にひっそりと明かりが灯る。ひとつ、またひとつと道案内をするように、深い緑の奥の奥へと続く明かりは刻竜のメンバーらが持つ松明だ。全員が黒装束に全身を包み、その背には目立たないが黒い糸で刻龍の文様が刺繍されている。

 俺の後ろから同じ黒装束ながら、緋色の刻龍の文様を背負った紅竜が声をかけてくる。彼の背後に控えている数人もすべて黒と赤と白以外の糸でそれぞれの背に刻龍の文様を刺繍してあるのを、俺はもう随分前に見せてもらった。

「綺麗だろう」
 ふわりと後頭部から背中にかけて温かくなったと思ったら、俺は後ろから紅竜に抱きすくめられていた。だが、それだけじゃなく、俺の頭に白くて光沢のある大きな布をかけたのだというのは、視界の上半分と肌に触る感触で気がつく。闇の中に俺一人だけ、シンプルな白いドレスに身を包み、遠目に見れば、刻龍に囲まれているなど気がつかないだろう。

 人の温かさが去り、隣に紅竜が立つ。見上げる体躯は闇になれた目でもとても大きく、それ以上に大きな存在感に圧倒されてしまい、俺は小さく舌打ちして視線を逸らした。

 風にふわりと白い布が流れ、俺の視界を軽く遮る。俺だって伊達にこの年で一人で生きてるわけじゃない。この白い布が値打ち物であることもわかるし、普通の女性なら大喜び間違いなしだということもわかる。だが、俺にとってはただの白い布でしかない。

「リンカ、俺はお前のために最高の花嫁行列を用意したつもりだ」
 まっすぐに闇に燈る火を見つめ、俺は口を強く引き結ぶ。紅竜の言うように、松明に照らされた地面はキラキラしい虹が浮かんで、幻想を際立たせている。道に散りばめられているのは小粒のラルク石だ。爪先程度の一粒が一〇〇〇オールはくだらない高価な宝石を惜しげもなくばらまけるのは、刻龍に有り余るほどの財力とそれを稼ぐ実力があるということだ。敷き詰めないだけましと思うべきなのだろう。

「行くぞ」
 紅竜からかけられた声に俺は一歩を躊躇する。足元に広がる一面の虹の綺羅綺羅しい道は自分には分不相応で、かといって踏まずに進む足場などない。先に歩き出した紅竜が二歩目で気がつき、俺を振り返る。その視線が俺を下からゆっくりと見上げ、視線が交わると、左の口端をかすかにゆがめ、面白そうに俺に手を差し伸べる。

「どうした、抱いて連れて行ってやろうか?」
 面白がっているのは分かるが、紅竜の瞳はこれまでとは違って、不自然なほどに柔らかい。それもこれも俺が女の格好をしているからなのだろうか。

「自分で歩ける」
 差し伸べられた手を拒み、俺はドレスの裾を両手で摘んで持ち上げて、右足を踏み出した。

 ぱきり、と足元で虹の砕ける音がする。二歩目の左足の下でも、ぱきり、と薄いガラスが砕けるのと似た音がする。耳障りな音だが、同時に自分の全てを棄てるには相応しい音なのかもしれない。俺がリンカでいられる時間はあとわずか。自分で選択したことなのだから、最後ぐらいは自分の足で歩いておきたい。

 俺が隣に来ると、紅竜も俺にペースを合わせて歩き出す。彼の下で潰れるラルク石は何を思って、悲鳴を上げるのだろう。それとも、なんとも思わないのだろうか。俺の見上げる紅竜の向こう側で、細い細い弓月が雲間から姿を現し、一時彼を照らして消えた。

「フッ」
 隣を悠々とあるいていた紅竜の口から、堪えきれない微笑が零れるのを俺は聞く。

「何がおかしい」
「さて、ね」
 紅竜は何も語らず、ただ楽しそうに俺の隣を歩く。ふと見上げた顔は本当に楽しそうに、子供のように邪気のない笑顔では、とても最強最悪の暗殺集団ーー刻龍の頭領には見えない。

 そういえば、と気がつく。いくらリズールの町から少しばかり離れているとはいえ、ここはまだリズールの警備範囲に入る程度の郊外だ。だが、こんなにも明るくしているのに、警備兵が来る気配もない。既に買収されているのか、あるいは、正面きって刻龍と敵対するような者はいないということか。

 わかってはいたことだが、僅かに俺は落胆した。神殿にいるのは大抵貴族や王族だし、もともと期待していなかったのだが、かすかでも期待していた自分に驚き、口元が歪む。

ーー嫌いにならないで。

 王子の声が、言葉が唐突に過ぎる。そんなはずがないのに、存在を近くに感じて、同時にあの二人でいた時の自分よりも幼い様子の王子を思い出して、頬が熱くなる気がした。

 俺は貴族や王族といった連中が嫌いだけど、王子たちは嫌いじゃないと言ったのは嘘じゃない。でなければ、いくら雇い主でもここまでして守ろうとなんてしない。

 好きなのかと問われれば、たぶん俺は違うと思う。だって、まだ会ってから三日も経たない。ただあんな男でも容姿や肩書きではなく、内面に惹かれているのは間違いなくて、愛情とも忠誠とも違う想いに俺は戸惑う。

 思い出すなと自分自身に言い聞かせ、俺は強く奥歯を噛む。そして、名付けの儀式のことへと思考を巡らせる。

 俺は俺がリンカの名を棄てることなどないと思っていた。もともと孤児だった俺は養父に幸運にも拾われたが、拾われる前から名前があったという珍しい事例らしい。俺は物心がついたときには、リンカと言う名前を持ち、使っていた。それだけに過ぎない。

 今更だが、俺は誰に名前をつけられたのだろう。誰なのかわかっていたら、聞きたいことは山ほどあるが、今日これから名前を変えてしまえば、それも意味などなくなる。

 隣を歩く紅竜の足音が止まり、俺も足を止めて顔を上げた。向かい風に一度目を閉じてから開くと、並ぶ火が目に入る。視線を少し上げれば、頭上を覆っていた木々の葉はなく、闇夜に瞬く星が地面に広がるラルク石よりも澄んだ光を放つ。

 上も下もきらめく光に包まれて、圧倒される。丁度、刻龍たちが全員黒装束というのと闇というのが重なって、俺はまるで世界に自分ひとり残される錯覚に陥った。それは、初めて感じる感覚ではなく、これで三度目だ。

「おっと、どうした?」
 紅竜に肩を支えられ、俺は自分が倒れかけたことを知る。なんでもないと振り払い、前を見るが、俺の思考は生まれたばかりの疑問に支配されていた。

 全てを失う感覚の一度は養父を失くした時だが、もう一度は記憶にない。だが、確かにこれは三度目なのだと思う。棄てられた記憶もないのに、喪失を感じるわけが無い。だが、心のうちでは間違いなくこれが三度目だと伝える。

(でも、自分の意思で失うのは初めてだ)
 俺は自分を無理やりに納得させ、しっかりと前を見据えた。どうせすぐに意味などなくなることを考えても、無駄でしかない。

 こんな奥深い森の中に不自然な広場が、俺の前にあった。中央には幅約二メートル、奥行きは三十センチ程度、高さは一メートルの表面が平らな岩が据えられてある。岩の上には高槻が置かれ、その上に二つの朱塗りの杯が並べられていた。

 俺たちの前に黒装束の一人が進みでて、その杯に透明な液体を注ぐ。とくとくと注ぐ音を聞きながらの香りは、澄んだ上級の酒の香りを届けてくる。差し出された一つを紅竜が手にし、促されるままに俺も手にした。

「始めるか」
 紅竜の声を合図に俺は目を閉じる。今更、暴れるつもりもないし、そうしたところで意味も無い。

 そっと、俺の頬に紅竜の手が触れるのを感じる。前髪に紅竜の吐息を感じて、俺は吐き気を堪えて、強く口を結ぶ。

(知らなければ、よかった)
 王子に出会わなければ、俺はこの手を受け入れてもまだなんとも思わないだけで済んだ気がする。あの手の暖かさ、腕の中の心地よさを思い出すだけで、他の誰に触れられても、俺はーー。

「随分仰々しいな」
 耳慣れてしまった少し低めのテノールが聞こえ、俺は目を開いて顔を上げる。ここにいてほしくない声で、だけど今一番聞きたかった声だ。

「妻のためだ、当然だろう。なぁ、ディルファウスト・ラギラギウス・クラスター王子」
 紅竜の言葉と共に、正面の木々の闇から人の姿が現れるのを俺は凝視して見つめていた。

 別れた時に使っていたあの上等のくすんだ緑のマントではなく、汚れ一つ見えない純白のマントをつけて、その下は白地に金糸で刺繍が施された正装らしき装いの王子が姿を見せる。

 闇の中、俺と同じく映える姿に喜びと共に舌打ちした。なんで、よりにもよって、そんなに目立つ格好をしてやがるのかと襟首を捕えて、説教したくなる。

「なんっで、」
「俺が招待状をやった」
 何かを言おうと口を開く俺を遮り、紅竜があっさりと楽しそうに白状した。その様子はどう見ても俺の反応を楽しんでいる。会いたかったんじゃないのかと目で問われている気がして、俺は視線を外さざるを得ない。

 会いたかったのは確かだけど、今ではないというのも紅竜だってわかっているはずだ。それに、王子だって俺が来てほしくないと、本国へと戻って欲しいと願っていたことだって事実だ。

「だからって…っ、来るんじゃねぇよっ」
 どうして逃げてくれなかったんだ。これじゃあ、俺がなんのために紅竜の花嫁になろうとしているのか、わからないじゃないか。

「お祝いにきたんだよ、リンカ。君のためにね」
 刻龍に囲まれているというのに、王子は臆することもなくまっすぐに俺に近づいてくる。誰も阻もうとしないのは、それをする必要が無いからだろう。何しろ、ここには刻龍でも最強のメンバーが揃っている。そこを出し抜いて逃げ出すことなど不可能だ。

「なんで来たんだよ」
 俺の前に立つ王子は最初に出会ったときと同じ笑顔で、でも目だけが優しさに満ちていて、俺はひどく泣きたい気分だ。

「リンカ、やっぱり君は女の子だね。とてもよく似合っているよ」
 どこから取り出したのかわからない、王子が差し出した俺の視界を塞ぐ程の季節の花を盛り込んだ豪華な花束を、俺は両腕で抱えて受け止めた。だから俺は王子がその後何をしていたのかはわからない。

 貴重で透明感あるユーチャリスを始めとし、ややクリーム色の巻きが美しいホワイトヘリテージローズ、深い赤色が印象的なレッドヘリテージローズ、一番外側の花びらにほんのりピンクの刺し色がある、やわらかいイエローヘリテージローズ、ひらっとした花びらが印象的な白いフロリバンダローズ、繊細で小ぶりなホワイトトレリスローズ、中心から外への赤いグラデーションが綺麗な濃いめのトレリスローズと華やかに薔薇が飾られ、白いジャスミンの花、ミニシサスアイビーやふの入った柔らかな印象のフレンチアイビーが緑を彩る。俺には相応しくもない豪華な花束だ。

「花嫁にブーケは付き物だよ、紅竜さん」
 能天気な王子の声に能天気な王子の笑顔を浮かべて、俺は泣き出しそうな自分の顔を特大のブーケに埋めた。しかし、すぐに何か刺すような痛みを感じて身を離す。

 抱えているだけでも身動きが取れなくなる花束だ。俺の些細な変化は誰に見咎められることもなかった。一見して、薔薇の刺は除いてあるし、花束自体にも魔法の気配は無いように見える。

「祝いご苦労。儀式が終われば、晴れてクラスターの王子は自由の身だ。誰に狙われることもない自由を謳歌すればいい」
「刻龍が手を退くだけで、か」
「わかるだろう、クラスターの王子」
 二人の会話が俺を素通りする中、俺はようやくそれを見つけた。奥の葉に隠されたーー誓いの言葉。

「そんなつまらないもの、僕が望んでいると思うのか?」
 急に背後から紅竜に腕を掴まれた俺は、バランスを崩した拍子にその花束を手放してしまった。目の前を舞う切り花の編み目の先で、微かに王子の口端が上がったようだが、俺はそれを気にする余裕もない。

「紅、な、にっ!」
 王子が出てきた場所とは別の、丁度今王子が背にしている辺りから、女性の強い声が発せられる。

(テンペスタ)!」
 それが魔術を紡ぐものと俺が思い当たる前に、王子が続ける。

「ーー魔術の意思は僕に従え。僕の女神リンカは僕の元へ戻れ」
 王子の言葉が終わった時には俺の前は白に覆われ、その身に纏う香りは俺が王子の腕の中にいるのだとすぐに知らせる。互いに息つく時間もなく、王子はさらに魔術を重ねる。

解放(ラン)
 王子の髪が、マントが青と緑に色づく魔力風にはためき、裏側に黒く描かれた魔方陣が目に入ることで、それが既に用意された魔法なのだとは俺は気付いた。

 俺の耳元で、かすかに王子が安堵の息を吐き、俺を強く抱きしめる。決して逃がしはしないと、手放さないと無言で告げる。

「リンカは馬鹿だよ」
「っ」
 反論する前に、俺は風が唸る声を聞いて、急いで王子の腕から抜け出す。王子も力を緩めてくれたおかげで、完全に抜け出さないまでも、俺は状況を目にすることができた。

 俺と王子を囲むように球形に巡らされた、虹色に揺らめく半透明の幕の向こう側では、強い魔力の奔流が渦巻き、嵐のように木々の葉を強く揺らし、周囲の刻龍メンバーさえも木の葉と同じく夜空へと巻き上げる。残っているのは地に根を張った木々と王子と俺、それから刻龍でも色のついた刺繍を背に持つものだけだ。

 ここにいる刻龍の色つきの力は知っていたが、同等かそれ以上の魔力と実力をもつ王子はとんでもない化け物だと、俺は改めて思う。

 この場に来るまでに王子が使った魔術は合計三つ。まず、王子自身ともう一人の女性を隠すための姿隠しにひとつ。俺と紅竜に巡らされていた見えない魔術の檻を破り、俺を強制的に引き寄せるのがひとつ。さらに、今の魔力風から俺と自分を守るために一つ。

 すべて高等術式で、綻びの欠片もない証拠に俺も王子も傷一つない。これだけの高等術式をやってのけている癖に、汗一つ掻いていない辺り、やはりこの王子の魔術力も信じられないほどでたらめだ。とても普通の平和な王侯貴族が持ち得るものではない。

「ちっ、外したか」
 王子の舌打ちと、素の言葉に俺ははっと顔を上げる。目の前には黒装束のフードを魔力風で押し上げられた男がいた。背には深紅の龍が棲む男で、久しぶりに俺はその素顔を見る。さして特徴の大きくない造形であるため、それは一際目を引く。

 顔を大きく斜めに切り裂く向こう傷と鷹の目を思わせる視線と合わせれば、只人が戦慄し、恐怖するものだ。

「残念、イイ男じゃないの。てっきり二目と見られないような顔かと思ったのに」
 王子の舌打ちする声に次いで、姫の嬉しそうな声がした。先ほどの女性の声に聞き覚えがあると思ったら、姫のものであるらしい。

 声の聞こえた場所の木の枝から身軽に飛び降り、駆け寄ってこようとしている姫が着ているのはドレスでも旅装束でもなく、ベージュのロングブーツとショートパンツにハイネックの黒いシャツ、その上からカーキ色のジャケットを羽織り、手には数枚の長方形の紙を持っていて、長い髪は後ろで高く結い上げ、ポニーテールにしている。

「っち、ーー(ヘキ)!」
 刻龍のひとり、紅竜と俺たちの間にいた緑竜が札を手に、魔術を開放すると、轟音と共に土煙を上げつつ地面が盛り上がり、姫と俺たちの前に土肌色の分厚い壁を作り出す。だが、俺から姫が見えなくなる寸前、姫はすばやく手元からもう一枚を掲げて壁へと差し向ける。

(ヘイメル)っ」
 姫の唱える声と共に、土壁のすぐ上空に忽然と現れた灰色の槌が重力に引かれるよりも強い勢いで打ち付けられる。轟音と衝撃でまた舞う土埃に思わず俺は目を閉じたが、すぐに王子の小さな笑い声に目を開く。確かに目の前は土煙で何も見えないが、風も粉塵も王子が作った球形の壁の内部までには届いていない。まるでその威力を知っているかのように完全な結界だ。

「大丈夫ですよ、リンカ。姫は僕の認める札士です」
「姫が?」
 そうです、と肯きながら王子がそっと俺と同じ高さまで屈んで、額を軽く合わせる。つい抵抗を忘れた俺と王子の視線が交わる。澄んだ秋空の高い高い場所と同じ色の王子の瞳は迷いも曇りもなく、ただ温かく、戸惑いを俺は覚えて視線を逸らした。そんな場合じゃないのに、俺の顔が、耳が熱くなる視線だ。

「信用されているのはわかってるけど、少しは心配してくれてもいーんじゃない?」
 先ほどよりも近い距離に、聞き覚えのある不満げな声音に既視感を感じて、俺はびくりと身体を震わせる。ゆっくりと振り返った先で、あの時と倍は離れているものの、あの時と同じく半眼で俺をーー王子を睨む姫の姿が目に入る。格好だけならどこにでもいそうな町娘だが、やはり王子の幼なじみというのかとても迫力がある。

 その姫の背後に黒い影が迫るのを見て、俺は声を上げた。

「姫っ!」
 咄嗟に飛び出そうとする俺を王子が抑える。その向こうで紅竜の振りかぶる剣が、勢いをつけて重く振り下ろされた。

 紅竜は簡単な魔法を使えて、かつそれを剣に纏わせて使うことのできる魔法剣士だ。彼が今もつ雷を纏う魔法剣の衝撃波で、昼間の太陽のように眩しい火花と強い爆風が巻き起こり、俺は反射的に顔の前へ差し上げた腕だけでは耐え切れずに目を閉じる。

「っ、姫…っ」
 その威力の程を身をもって知っているだけに、俺の不安が大きくなる。直撃を受けたら、絶対に助からない。せめて、少しでも外れているようにと、祈りながらゆっくりと目を開けた。王子が俺を抱く腕にもかすかに力がこめられる。

「女の子相手に、容赦なさ過ぎるんじゃない?」
 その中で聞こえて来た姫の軽口に俺は安堵した。少なくとも生きていることだけは確認できたからだ。

「冷や冷やさせるな、ウィドー」
 同じく安堵と共に非難めいた声音を王子が口にすると、次第に良くなる視界の中に尻餅をつき、後ろ手に地に手をついて身体を支える姫の姿が現れる。振り下ろした紅竜の剣は姫まで届かず、半端に留まっていた。その理由は紅竜の剣を細長い棒のような得物で受ける者がいるからに他ならない。

 受け止めていたのは白く頬まで痩せこけた、まさに痩身といったひょろりとした細い目の男で、パステルブルーのジャケットを素肌に直に着て、膝までで乱雑に切られた黒のジーパンを履いている。服にはシルバーチェーンやら、どこかの勲章みたいな黄色いバッジやら、青や赤のバッジやらをジャラジャラとつけて、首にもシルバーチェーンのタグプレートをつけている。一見白髪にも見えそうな薄い金色の短い髪を逆立てて、瞳を隠す茶色の色つきのメガネをかけて、耳には丸いリングピアスをつけて。如何にも弱そうな男が紅竜の剣を受け止めていることに、俺は驚いた。

「間に合ったんやからええやないか、殿下っ」
 軽口を叩きつつ、ウィドーと呼ばれた男は持っていた棒を力任せに振って、あろうことか紅竜を弾き飛ばした。驚愕に目を見開く俺の前で、彼は億劫そうに座っている姫の右の二の腕を掴んで、乱暴にこちらへと放り投げる。

「うわ」
「きゃっ」
 俺はなんとかそれを受け止めるが、後ろで王子が支えてくれなければ転がっていたことだろう。それだけ軽く見えて、重い衝撃だった。

「それに遅れたのはわいだけのせいやないぞ。殿下がそっちのお姫はんに気を取られてたからやないか」
 言ってから、男はまっすぐに俺を凝視する。何か言いたげに口を開閉し、それから茶色の色つきメガネを少しずらしてニヤリと笑った。

「こないなとこで会えるなんて、なんて幸運や。お嬢はん、わいとデートせんか?」
 訛りの強い言葉で何を言っているのかいまいちわからない俺が聞き返そうとすると、王子が後ろから強く抱きしめてくる。

「ウィドー、後で紹介してやるから今は戻れ」
 王子に命じられ、不満そうに口を曲げた男だったが、すぐに笑顔になった。

「紹介は不要や。だって、嬢ちゃんはわいの運命の女やからな」
 俺に投げキスをするウィドーの姿が、紅竜の振り下ろす剣の先で陽炎のようにゆらりと消える。それを残念がるでもなく、紅竜は振り下ろした魔法剣を鞘に治めた。俺を抱く王子の指が深く俺に食い込む。

「ウィドーの奴…っ」
「噂どおり、たいした王子だ。あれが風の守護精霊ってやつか」
 紅竜の言葉に俺は眉を潜める。確かに精霊は人の姿を模すとは聞くが、それにしたって生身の人間と違いは見えない。たぶん俺が今までに出会った中で、彼以上に派手で軽い人間はいないだろう。それにいくら人間を模しているといっても、あまりに俗物的だ。

 王子が何かを答える前に、ウィドーに投げ飛ばされた姫が呻きと共に目を覚まし、俺の前で胸を揺らして、身体を起こした。

「ディルといい、ウィドーといい、私のことを何だと思ってるのかしら」
 土埃のついた髪を軽く叩いて整える彼女に触れられない俺は、恐る恐るの声だけをかける。

「お、おい、急に起き上がって大丈夫なのか?」
「慣れてるから平気。それよりさ、リンちゃんはどう思う?」
 痛むのか後頭部を擦りながら、彼女は俺を見つめる。王子と同じく碧眼だが僅かに混じる赤茶の虹彩のせいか、妙に迫力に満ちている気がする。

「どうって」
 姫にとりあえず状況を考えろというのも忘れて俺が見つめ返していると、姫の方が先に視線を外して、俺の背後に視線を向けた。

「そういえば、さっきの札ね、ディルに急遽作ってもらったんだけど、リンちゃんには怪我ないわね?」
 強く睨む姫の視線には、俺の耳元に息を吹きかける距離で王子が囁くように返す。

「僕の結界の中で、怪我なんかさせるわけがないだろう。それに姫の力も知っているから、強すぎる札は渡さないことにしてる」
「ということは、強い札持ってるのに今までくれなかったのね」
「分相応のものを使うべきだと言っているだけだよ」
 睨むというよりも挑む視線を王子に向けていた姫が、視線を外さないままにいきなり俺の腕を掴んで引き寄せる。

「うわ」
 柔らかな胸に抱きとめられる感触に、俺は顔が熱くなると同時に甘やかな芳しさに心地よさを感じる。かすかにフラッシュバックする覚えのない温かな思い出から記憶を閉じて、俺は目の前を見つめた。

 紅竜も他の刻龍も俺たちに攻撃を仕掛けるでなく、見守っている。その不気味な対応に、俺は小さく身震いした。怒るならまだわかる。だけど、紅竜は口の両端を吊り上げるように笑っている。笑って、いるんだ。

 背筋を冷たいものがじわじわと這い登ってくる感覚に陥りそうな俺は、急にヴェールを取り払われて、それをした姫を見た。すかさず姫は俺の頭に茶色くて大きなものを被せる。既に一度つけられているのでわかるが、栗色の背中ぐらいまでの長さのカツラだ。

「リンちゃんはなんでも似合うから白のヴェールだけでもいいけど、こっちの方がもっと似合うわよ」
 いったいどこから取り出したのかとか、なんで持ち歩いているのかとか姫に突っ込みたいことは多いが、本当に今は空気を読んで欲しい。それとも、わざとなのか。

「折角の舞台を台無しにしてくれるとはねぇ」
 やけに楽しそうな紅竜の声にかすかに姫の体が震えた。それで俺は姫が気づいていて、気がついていないフリを、虚勢を張っていたのだと気がつく。そんな俺たちを守るように王子が立ち、強く紅竜を睨みつける姿を見た。

 守られていると俺が気がついた時、急に王子の眉根が強く寄せられて、長いまつげが上下に数回動かされる。

「ディル?」
 何か不思議なものを見るような、そんな視線を辿ると、そこには紅竜が怪訝そうに眉を顰めている。

「姫、こいつの顔、見たことないか?」
 紅竜の素顔を知る人間はほとんどいないはずなのに、王子が言い出す。

「そう…言われてみれば。なんか、こう、面白いのがあったような気がするわね」
 姫も片手を頬に当てて、秀麗な眉目を顰めて唸る。そうして、力一杯悩む二人に俺は問いかけた。

「面白いのって?」
「そう、なんか、見たことが…あるようなないような」
 二人の要領を得ない返答に俺も眉を寄せる。

「紅竜が頭領になったのって、四年前だったよな」
「よく憶えてるな」
「自慢してたじゃないか」
 嬉しそうに紅竜は言うが、そんなに昔の話でもないから忘れるはずもない。加えて、そのせいで俺は仲間でもないのに刻龍の余計なことまで数多く知らされている。

 その中でも頭領に関するものといえば、実に刻龍らしい掟だ。刻龍の頭領は代々決闘においてのみ継承される。弱ければ上に立つ資格なしとされるのは当然だろう。何しろ、元々が犯罪者の集団だ。押さえつける能力もなければ、統率など出来るはずがない。

 先代は世界唯一の魔法と拳闘を使う男で、刻龍でも最長の十九年を務めたという。また刻龍の悪名のほとんどを広めたのはこの先代だとか。

 その他にも紅竜が顔を隠せるから、刻龍に入ったとかも聞いた気がする。

「あぁっ、ディル、あれよ! あんときのおっさん!!」
 俺の思考を中断させて、姫の嬉しそうな声と手叩きが聴こえた。おっさんって今もおっさんじゃねぇかと、心の中で俺はこっそりとつっこむ。

「あれって?」
「ほらぁ、城の時計台から足滑らせて落っこちて、落ちる途中で鐘の紐に引っかかって、鐘鳴らしたやつ」
 思いも寄らない壮絶な解説に、俺は思わず無言で姫に聞き返していた。

「ぁ…あっ、八つの時にきた刺客か」
 俺と同じぐらいの歳には既に命を狙われていたのかとわずかに驚いたものの、姫の話と合わせるとあまりにもアレだ。内容が情けない。

「紅竜?」
 王子たちが八つというと、まだ刻龍に入る前の若かりし頃ではなかろうかと俺は紅竜に目を向ける。俺から見て、心なしか紅竜の表情は強張っているように見える。

「あの時は確か僕が剣術習いたてで、誕生日に贈られたばかりの剣で遊んでたら、刺客がきて」
「ディルのデタラメ剣術に窓から足を滑らせたのよね。顔の傷はそのときのじゃない?」
 違うぞ、と紅竜が必死な目で俺に訴える。

「信じるなよ、リンカ」
「そういや、その傷の話だけは聞いてねぇな」
 それほどの傷、内容が内容なら紅竜の性格で武勇伝を話さないわけがない。

「そうだったか? これは、俺が先代と決闘した時に…」
「とりまきのねーちゃんとかがその前からあったって言ってたけど」
「ちっ、あのバカ女」
 小さく舌打ちして零しているが、耳のいい俺には丸聞こえだ。

「他に古竜を倒した時だとかも聞いたけど、あんたから聞いたのはひとつもないな」
 紅竜は少し視線を外した後で、口端を上げ、歯を見せてニヤリと笑った。

「まあ、そんなことはどうでもいいじゃねぇか」
 同時に空気がビリビリと震え、黒い圧力がかかる。俺を守るように抱きしめる姫の身体も震えてはいたが、彼女はまっすぐに紅竜を睨みつけていた。

 王子も、この殺気と同じ圧力に気がついていないはずはないのだけど。ふわり、と広がるマントの影に見える表情にはかすかに笑みが浮かんでいるように見える。

「ディルファウスト王子、儀式を台無しにしてくれた代償は負ってもらうぞ」
 更に強くなる圧力に耳鳴りと頭痛と吐き気がこみ上げてきて、俺は両手で口を抑えた。

「ちょっと、ウィドー! ちゃんとリンちゃんもカバーしなさいよねっ」
 姫が叫んだとたんに圧力が消え、俺は深く息をついて顔を上げた。目の前で雪の結晶に光が当たったみたいにキラキラと光る風が、俺と姫と王子の周囲を舞い踊っている。姫を見ると、彼女は俺の視線に気がついて、小さく笑った。

 精霊の力ーー確かに紅竜の一撃を抑えてはいたが、この圧力まで消せるほどの実力の持ち主というのはそうそういない。そして、それだけの高度な精霊が人間の守護をすることなど稀と聞く。

 その希少な守護を受けている王子に視線を向けて、それから俺は紅竜を睨んだ。

「紅竜、話が違うだろ。俺があんたのものになったら、王子は狙わないといったじゃないか」
「ああ、だがまだ儀式は完了していないだろう?」
 嘲笑う紅竜を前に俺が悔しさを噛み締めていると、王子は楽しそうに笑った。

「こいつは端から約束を守る気なんかないよ。その証拠に、僕をここに招待したんだからね。おそらく、先にリンカに名付けの議を施した後、僕たちを消すつもりだったはずだ」
 それに姫が重ねて続ける。

「名付け主の命令には、逆らえないものね」
 この世界で力を持つものの一つが、名前、である。名は体を表し、名前によってヒトは世界に存在することを許されるといわれている。加えて、改名するというのはその理を乱すことになってしまうから、名付け主には逆らえなくなるのだ。だから、よほどの事情でもない限り、誰も改名をしようとはしない。

 俺が紅竜に名前をつけろと言ったのは、すなわち刻龍に入るという意味もあった。

「紅竜は、そんなやつじゃないっ」
 俺を見る紅竜を見て、それから俺は具現化する不安を振り払おうとして、何度も首を振った。相手が相手だけに、まったく過ぎらなかったわけじゃない。だけど、俺が信じなければどうにもならないじゃないか。

ーー信じて欲しかったら、自分がまず相手を信用することだ。

 養父にはそう教えられてきたし、そのおかげで何度も救われてきた。悪人でも善人も変わらない理が崩れたら、俺は何を信じたらいいかわからなくなる。

 痛くなるほど強く首を振る俺を止めたのは大きくて少し冷たく、だけど傷もない滑らかな王子の両手だった。真っ直ぐに見上げられるように俺を固定する王子の姿がわずかに歪む。

「リンカ、僕たちのために犠牲になんてならなくていい。そんなことのために結婚なんてする必要はないんだ」
 犠牲になるつもりだったわけじゃない。ただ、王子を助けたかっただけだ。

「そんなつもりじゃないっ」
 他に俺に何が出来たかわからない。だけど、何もしない後悔だけはしたくなかっただけだ。養父を失ったときのように、先が見えているのに何も行動しないでいたら、俺は。

「リンカの名も捨てるな。軽々しく捨てていいものじゃない」
 簡単に、捨てるわけじゃない。俺は理屈じゃなく、ただ王子には生きて欲しかったんだ。性格に問題だってあるし、王族で魔法使いで、俺にとってはそれだけで嫌いな部類の人間だ。

 だけど、俺はどんなやつであっても、少しでも関わったやつが死ぬのは嫌なんだ。

「…俺…」
 紅竜の落ち着いた声が王子の向こうから聞こえてくる。

「刻龍は約束を違えない。俺のもとに来れば、王子たちに手を出さないというのも本当だ」
 俺はその言葉を信じたい。だけど、ここに王子を呼んだのは紅竜で、姫や王子のいうようにそれだけでも既に紅竜への信頼の針はぶれる。

「紅竜、俺は…俺は…」
 信じたいけれど、信じきれない。だけど、王子たちの命は今紅竜の手の上にある。

「リンカ」
 王子と紅竜の二人が、俺の名前を呼ぶ。

 どちらも深く関わったわけじゃないし、出会った時間が早かろうが遅かろうが、大して違いはない。それなのに、自分でもなんでこんなに王子に肩入れするのか、理由は説明できない。でも、王子に生きていて欲しいと思う俺は間違っているだろうか。

 王子に背を向けようとした俺に、姫の柔らかな声が届いた。

「リンちゃんは自分の心の向く方へ行くの。私たちのことは気にしなくていいから」
 俺が振り返ると、姫は笑っていた。敵中にあってなお、戦っているときでさえ、先ほどから華のような笑顔は絶えることがない。本当に楽しそうに微笑んでいる。

 王族だとか貴族だとか、そんなものは関係なく強い女性なのだと思う。その強さが俺にもあったらいいのにと、何度も願った。だけど、やっぱり俺はいつだってこういう決断の時は迷ってばかりだ。

 俺の心の向く方はーーどっちなんだ。

「リンカ」
 迷い続ける俺に、王子が静かに語りかける。

「僕の昔のあだ名は、十倍返しのディル、というんだ。心配しなくていい」
 冗談めかした軽い言葉に、俺は状況も忘れて笑みを浮かべた。

(十倍だって? 百倍の間違いだろ)
 俺は思ったことは口にせず、王子を顧みる。

 王子は世界で五本の指に入るほどの実力を持った魔法使いで、猫かぶりで嫌な男だ。その嫌な部分も含めて、いつのまにか俺は信用していたのは確かで、実力もこの数日でわかりきっている。刻龍にもその程度の魔法使いがいるということも、王子一人では刻龍に勝てないということも、わかっている。

 でもーー。

「一人じゃないもんな、王子は」
 俺はドレスの裾を持ち上げ、一気に脱ぎ捨てた。シンプルなおかげで引っかかりは一つもなく、俺はすぐに白のキャミソールと白の短いパンツ姿になる。女物の下着を着けるのが嫌だと言ったら、すんなりと用意してもらえたものだ。

「悪いな、紅竜! やっぱ、俺、こういうのは性に合わないわ」
 先ほどは足下まで隠れるドレスでわからなかった茶色の編み上げロングブーツの踵を軽く打ち付け、つま先から飛び出した縦回転するナイフを空中でキャッチする。口元が自然と笑みを形作り、ちらりと向けた俺の目線に王子が満足そうにうなずく。

「王子たちの命はどうでもいいってことか」
 瞳を細めた紅竜は怖いけど、俺はもう決めたから。王子を信じると、決めたから迷うのはやめたんだ。

「よかないけど、俺は俺だから。やっぱ、誰のものにもなれん」
 つ、と首筋を冷や汗が通り過ぎるのを感じながらも、俺は紅竜から目線を外さずに、全神経を研ぎ澄ませる。少しでも隙を見せれば、俺も王子も姫も、命はない。

「それは困るなぁ」
 俺がそうして警戒しているというのに、急に王子が俺の体を軽々と抱き上げた。

「また時計塔から落としてあげるから、遊びにいらっしゃいな、紅竜さんっ」
 王子の隣で姫が笑い、自らの左耳につけていた瑠璃のピアスを外して落とす。

「ーー解放(ラン)ーー」
 同時に王子があの時を同じ短い呪文を唱えると、姫が落とした蒼い玉は地面に付く前に俺たちを包む円を地面に水平に描いた。

 魔法特有の色の付いた光が俺たちを囲み、王子も姫も俺も魔法風に服も髪も煽られる。はためく王子のマントの影、その彫刻張りの横顔はとても頼もしく、俺は視線を外さずに見つめる。

「高等転移門だとっ?」
 紅竜の後方で緑の刺繍を持つ刻龍の男ーー緑竜が、焦ったように喚く。

 転移門それ自体は一般的で、室内から屋外へ出る程度であれば簡易術式制御者であっても作り、発動させることはできる。ただし、簡易術式制御者の転移門は効果時間も短いため、描いてすぐに発動させる必要がある。

 緑竜が言っている「高等転移門」というのは、物体に転移式を組み込み、いつでも発動させることのできる移動術式である。効果範囲、移動距離は作成した者、発動する者の両方の魔法能力の高さに委ねられる。

「あれだけの小さな物体でなど、ありえんっ!」
 俺もそれ自体の発動を見るのは初めてだが、収めてあるものの大きさが、異常なほど小さいということはわかる。裏マーケットのリストでも、こんなピアス程度の大きさは見たことがない。

「ありえないは」
「ありえないわよ」
 王子と姫の不敵な言葉と共に、俺たちの足元の魔法陣が光の柱を立ち上らせる。

 刻龍の姿が全て白さに掻き消える中、俺を抱く王子の腕の力が強まった。俺にしかわからない震えが腕を通して伝わり、俺は王子を見る。

 世界でも類い稀な力を持つ王子が怖れているのがなんなのか、俺にはわからない。

 わかるのはひとつ。寝物語の姫君のように、俺が王子に救われたのだということだ。

「馬鹿だよ、王子は」
 俺の静かな呟きが聞こえているかわからないが、光の中で王子は笑っていたような気がした。

p.2

16#よくある転移劇



 冷たい風が俺の頬を撫で、王子と姫が同時に息を吐く。

「意外と早く戻っちゃったわねぇ」
「今回ばかりは、僕はまだ死ぬわけにはいかないからな」
 王子にマントで包まれ、横抱きされたままの俺が辛うじて見ることができたのは、灰色の石で作られた小さな室内だ。小さいと言っても、大人が十五人程度入れる広さはありそうで、正方形の部屋の一辺には濃い紅の分厚いカーテンがあり、カーテンの隙間から本やら書類やら筆やらと者が散乱している様子がわかる。部屋の床には白いチョーク石で描いた完全な円形を描いた魔方陣があり、中にも読めない文字や絵が描いてあるが俺には何が書いてあるのかわからない。

 王子のマントにくるまれているからマシではあるが、地下水道のようなひやりとした空気の冷たさに俺は身が震える。

「リンちゃんの服、私の貸そうか?」
「ああ、頼む」
 二人が話しながら木の扉を開ける軋み音に、俺は眉をひそめる。

「おい、ここはどこなんだ? ってゆーかもう降ろしてくれよ」
 俺の声が聞こえていないのか、二人は冷たい石の廊下を歩き出す。

「あーあ、もうちょっと遊びたかったなぁ。せっかく、さらわれてるって名目で遊べるチャンスだったのに」
 つまんないなーと口にする姫の言葉に、俺は嫌な予感をヒシヒシと感じていた。さっきの転移門で移動したまではわかるし、王子が本物の魔法使いであることも、化け物じみた魔法許容量を持つことも、使う実力があることも俺は知っている。単純に考えて、相当の距離を移動できることも。

 だが、北の大国クラスターはリズールから一マイルや二マイルなんて距離じゃないし、王都はクラスターの北部にあるし、途中で山越えだってある。地図上での直線距離にして、八百マイル。通常の転移門はせいぜい百マイルがいいところで、それ以上なんて聞いたことがない。そんな距離を移動できる転移門など、にわかには信じがたい。

「なあ、ここどこなんだよ?」
 王子の体を叩いて尋ねると、少し腕を緩められ、王子の意外そうな表情を目にできる。そこまで驚くことを口にした覚えはないのに、失礼な男だ。

「寒くありませんか?」
「寒いに決まってんだろ」
 俺が言い返すと、王子は数回瞬きした。わからないんですか、と無言で問いかけてくる王子を、俺はまっすぐに見つめて返す。

 俺たちを見ていた姫が呆れた息を吐き、何かを口にするのと同時に、俺の耳に複数の足音が届いた。金属の擦れあう音も混じる。

「ディルファウスト殿下、よくご無事でお戻りに、なられました……っ」
 先頭にいるカークを押し退け、真っ先に白銀の騎士の甲冑をつけた壮年男性が、王子の前で膝を折る。後に続く者も同様だ。次々と自分にかしづく男たちを前に王子が気まずい苦笑をする。

「おいおい、大袈裟だなぁ。皆も息災で何よりだよ」
 王子の言葉に、カークを除いた全員が感涙しているようだ。

「もったいなき言葉であります。我ら、殿下の帰還を心待ちにしておりましたっ」
 先頭の壮年騎士が涙ながらに応える。王子は柔らかな作り笑顔を張り付かせているようだ。

「王妃様は奥室にて、西の魔女殿と談笑しておられます」
「西の魔女殿が?」
 意外そうに王子が問い返し、カークへと視線を送る。カークはいつも通りの表情にしか見えないが、関係する者なのだろうか。

「偶然ではありましょう」
「そうね、めーちゃんはお母様を怖れてるみたいだから、適当に……うん、私の部屋に呼んでくれる?」
 騎士たちがいなくなってから、姫がカークに笑いかける。

「ま、めーちゃんが本気出したら、お母様もディルも敵わないけどね。一応ね」
 俺にはカークが心なしか安堵の表情を浮かべたような気がした。て、王子以上の魔法使いがいるのかよ。

「お父様はどこにいるのかしら?」
 次に姫が問うと、カークは一礼で応じる。

「陛下は講義謁見の間でコゼット公爵と執務を行っておられます」
 王子はそれをきくやいなや、迷いない足取りでスタスタと廊下を歩き出した。振動で落ちそうな気がした俺がしがみつくと、王子が俺を抱く腕を強くする。

「準備は出来ているか」
 姫も俺たちを追いかけてきて並び、斜め後ろからの声でカークが着いてきているのもわかった。

「はい、祭壇の間にて先ほどからお待ちです」
 俺には当然のように意味不明だが、誰がとも何故とも言わなくても王子も姫もそれで理解できたらしい。

「何々、そっちが先なの?」
 妙に嬉しそうな姫はともかく、俺はとにかく王子の腕から逃れようと試みた。この腕の中は居心地が良いけれど、もしも俺が予想する通りの場所ならば、この状態は非常に良くない展開を引き起こすに違いない。

「もちろんだよ。そうでなければ納得しない方が多いからね」
「ディルは外面いいものね」
 笑いを含めて姫が口にすると、王子はぴたりと足を止めた。

「もうちょっと言い方があるだろう、姫。リンカもあまり暴れないで」
「だったら降ろせ」
 俺がすかさず言うと、王子は逃げるから嫌だと言った上にあろうことか、走り出した。

「走んなぁぁぁっ! ゆ、ゆれるっ」
「着いたら、すぐ降ろしてあげますから、我慢してください」
 振り落とされないように俺がしがみつくと、ますます王子は走る速度を速めるので、俺は寒いということも相俟って、動けない。

 俺が王子の腕の中で揺られながら見た後方では、姫とカークは何かを話しているばかりで、二人とも王子の行動についてはまったく気に留めていない。そこからもだが、これまでの短い期間の間だけでもこれが王子のやり方だと気がつき、俺はげんなりと気持ちを曇らせた。

 遠ざかっていく幾つかのドアは王子の身長よりも高く作られていて、それぞれ別な場所にラルク石を使った模様がついている。しかし、それ以上に気になるのはこの回廊だ。一定の区間を抜けるごとに、それまでの俺の五感を狂わせて行くようで、徐々に気分が悪いなってゆく。

 その原因がこの城全体に強力な力が作用しているせいだと聞いたのは、後になってからだ。女神を守るための檻だと、この時の俺にはよくわからなかった。

「王子、どこに行く気だ? まさか、さっきの、こう……何とかの間じゃないだろうな」
「公儀謁見の間? まさか」
 良かったと俺が安堵したのはつかの間だ。

「もちろん直に連れて行きたいのは山々ですけど、その前に最低限の許可を取ってこないといけないんです」
 僕と血がつながっているとは言ってもこの国の王ですから、と話す王子が走る速度を少し落としたのがわかる。

「本当はリンカにもちゃんとした姫の格好をしてもらいたいところですが、姫の準備を待っていられないというのは残念です」
 王子のいうのが前回の姫の手でさせられた女装ではなく、本格的な衣装だということぐらい、いくらなんでも俺は気がつく。

「ちゃんとじゃねぇって!」
 回廊はいつの間にか冷たい石造りへと変化していて、俺は怒鳴り返せる程度には回復していた。石の回廊は先ほどのような方向感覚を狂わす作用はなくて、ただ延々と石の柱が続いている。既に走るのをやめた王子の腕の中から見えた回廊の窓からは、星と月の煌きが行く先を照らしていた。

 ここが大神殿の最深部に近いといわれなくても、俺は回廊に零れている空気の欠片から微妙な変化を感じていた。ここに来るまでの道は俺を受け入れない、反発する圧力で押さえ込まれる感じで気分が悪くなったが、この石の回廊はどこか懐かしい空気を持っている。

 記憶の中にこんな感覚になる場所なんて、ひとつしかない。でも、あの場所は既に存在しないんだから、あり得るはずがない。

 急に王子が立ち止まって、俺をどこかの扉の前に降ろした。扉から溢れてくる力に、俺は自然と身体が強ばる。この温かく優しい力は俺を歓迎しているけれど、俺は。

「ここ、は?」
 扉には何の宝石も使われていなくて、ただ不可思議な文様が彫り込まれていた。中心には一枚布を纏う豊満な身体の女性が二人描かれていて、扉の中心で互いの手を併せている。

 他にも両扉それぞれに二人ずつが描かれ、左下には木陰で休んでいる女性がいて、左上では同じ木の上で鳥と遊んでいる女性がいる。右下では水辺で遊んでいる女性がいて、右上には七つの光の輪を投げて回す女性がいる。彼女たちは有名な創世の女神たちだ。

 一人足りない、と俺でもすぐに気がつく。

「怖いですか?」
 俺にというより、自分自身に問いかけるように王子が言う。肩に置かれた王子の手から、いつになく彼の体が強張っているのがわかった。

「王子が怖いんだろ」
「ふっ、ばれましたか」
 感情を隠そうとしない王子はどうしてか震えていて、だけど俺にはその理由がわかる気がする。力があるものは誰だって、ここに描かれていない、あの女神を恐れる。ここにないということはこの向こうにいるというのと同じ意味で捉えていいはずだ。すべての女神が同じ場所にあるからこそ、ここは大神殿たりえるのだから。

 王子は一度大きく深呼吸してから、扉を叩いた。中から男のしゃがれた声が応え、意外なことに王子は一礼をしてから扉に手をかける。

「老師、失礼します」
 王子が力を込めると重そうな軋み音を響かせて、絵が半分に割れた。ゆっくりと開いてゆく扉の隙間から白い光が溢れてきて、俺は思わぬ眩しさに両目とも閉じる。それは目を射すような光でなかったし、暖かな春の空気の中で居眠りする空気が流れてくる気がしたが、それでも瞬きせずにはいられない光量だったのだ。どんな魔法を使えば、こんな目の眩む部屋になるんだと俺は目を閉じたまま呻く。

 俺の周りをぐるり、温かな力が巡り過ぎる。目を開けた俺はまたぱちぱちと瞬きした。改めてみた室内はいたって質素で、乳白色の大理石で四方と天地を囲まれている以外には何もない部屋だ。扉にいなかった女神の姿も描かれていないし、あの温かい光はどこから出ていたのかと俺はキョロキョロと周囲を見回した。

「その娘がそうじゃな?」
 しゃがれた男の声は、俺のすぐ近くで聞こえた。すぐに声を顧みたが姿はない。そういえば、部屋の中には俺と王子の姿しか見えない。

「座ってください、老師。僕は構いませんが、リンカはまだ老師に慣れていませんから」
 王子は真っ直ぐ空に話しかけているが、その視線をたどっても、俺には誰も見えない。

「王子、だれかいるのか?」
 まさか幽霊と話しているわけでもないだろうと考えたが、俺は自分の掌がじんわりと汗をかくの感じる。俺の隣に並んでいる王子は、お願いしますともう一度丁寧に願い出た。

 誰かが俺の背中側から肩を押し、俺は前に倒れそうになって、反射的に振り向き様に握った拳を向ける。

「ほっ」
 何か柔らかい布のようなものが拳に触れた気がしたが、当たらない。攻撃が交わされたことはよくわかり、俺は苛立ちを隠さずに叫んだ。

「なにしやがるっ」
 ため息で返された返答に俺はますます苛立つ。

「やれやれ、おなごがそんな言葉を使うでないわ。神力が落ちるというのを聞いたことはないかな?」
 声がまた目の前で聞こえたかと思うと、俺の正面に肌色の人の頭が現れた。頭の次には大きな目がぎょろりと現れ、皺くちゃの首、肩、腕、身体、足と順に出てきて、最後には身長百二十センチメートルぐらいの、異様に大きな目をもつ、しわしわの老人になった。

 老人が着ているのは青白の神官服だが、こんな子供サイズなんて、俺は初めて見る。リズールにも故郷にも神殿はあったが、皆屈強な身体をしていたから、そういう服しかないと思っていただけに、俺は怪訝に老人を睨みつけた。

「ねぇよ、んなこと」
「わしもない」
 ケタケタと老人はおかしな笑い声を上げる。王子が諌めなかったら、俺はすぐにでも殴り飛ばしているところだった。

「老師、気持ちはわかりますが、今は先に例の……」
「そう急かすな、ディルファウスト殿下よ」
 老人はのんびりとした口調だが、その言葉には王子をも従わせる力があった。

「娘よ、名はなんと申す」
「リンカだ」
 いつもの口調で答えた俺は後頭部を叩かれ、叩いた王子を顧みる。

「なんだよー」
「他はどうでも構いませんが、リンカ」
 俺を諌める王子をしゃがれ声が明るい笑い声とともに遮る。

「ホッホッホーッ。リンカさん、お主、血の気は多い方かな?」
「へ?」
「まぁどちらでも構わんがの」
 いかにも面倒くさそうに、老人は杖を取り出して掲げる。それまでのからかい気味の様相が一辺し、真剣なものへと変わる。

 まるで神官みたいな清らかな空気が一瞬で俺を包み込んだ気がして、時間が少し止まった。

「あ、術式を忘れてしもうた」
 気のせいかと俺は小さく安堵し、だが次には安堵した自分を不思議に思う。安堵したということは、逆にいえば不安だったということだ。こんな老人など畏れるに足らないはずなのに、俺は何を不安がっているのか。

「大丈夫、大丈夫じゃ。リンカさん、目を閉じて心を少し鎮めなされ。そのように騒いでいては、真実は見つけられぬよ」
 別に騒いでいるつもりもなかったし、この老人にかなり不満はあったが、俺はどうしてか言うことを聞いてしまっていた。

「そうそう、そのままじっとして居るのじゃよ」
 目を閉じて闇の中にある俺の額に何か柔らかいものが当たり、闇が弾けて、いっぱいの白い光になる。

「リンカ!?」
「落ち着きなされ、殿下」
 下を見ると意識のない俺を王子が抱きかかえていて、老人に文句を言っているのが遠くに聞こえる。近くに行っても影みたいに触れられないのが不思議だ。

 王子たちのことが気にならないわけでもないが、俺はそれよりももっと強い旋律が自分を引っ張るのを感じて、天を仰ぐ。部屋全体をぐるりと巡るキラキラ輝く風の流れが見えて、それは天井を通り抜け、さらに高い場所を目指す風と光の柱みたいに見える。その柱そのものが音を発していて、それは水の流れだったり、せせらぎの音だったり、風の吹く声だったり、虫の合唱だったりする。風の流れに混じる白いものは白雲だろうか。

「リンカに何かあったら、ただじゃすませませんからね、老師」
「おーこわっ、短気ではおなごにもてぬぞ」
「あなたに心配されたくありませんね」
 王子と老人の声を聞きながらも、俺はその柱の先に呼ばれているような気がして、二人に背を向けた。その瞬間、抗いようのない強い力に引っ張られ、二人の声があっという間に遠ざかっていく。

 風と光で出来た柱の中は外から見ていた以上に強い風力と光量で構成されていたから、俺は強く目を閉じてしまって、ただその流れに身を委ねた。

 不安は不思議なほどなくて、流れの中にいるのは泣きたくなるほど懐かしかった。

p.3

17#よくある系統劇



 暖かくて柔らかな光が俺の瞼にそっと触れる。鼻先に香るのは春の日差しが作る若草の匂いのようにも思えるが、春は少し前に終わったのになとはっきりしない頭で俺は考える。

「ユーシィ、ニンゲンがいるよ」
「こら、そういう言い方しないの」
 囁く会話が俺の耳元をそよ風と同じく、そっと通り過ぎる。ひとつは甲高い幼女の声で、ひとつは落ち着いた大人の女の声だ。

「だって、ユーシィ、この子変よ。ニンゲンなのに、アタシとおんなじだもの」
 甲高い声が続ける「変」と言う言葉がちくりと胸を刺す。孤児だった俺には言われ慣れているはずなのになんで今更傷つくのか、俺もよくわからない。

「アタシとおんなじに、ユーシィみたいな女神の加護を持ってる」
 女神と聞いて、俺はゆっくりと目を開けた。うっすらとぼやける視界の向こうには、陽色の波打つ髪を垂らした、白くて長いドレスを着た女がいる。その前には白くてふわふわした何かが、ひょこひょこと長い耳を揺らしている。ウサギのようにも見えるがそれにしては丸過ぎる体型で、どちらかというと白くて丸い毛玉に無理矢理耳を生やした感じだ。

「別に変じゃないわよ。だって、この子はリンカだもの」
 事も無げに言われて、俺は吃驚して目を見開いた。

「ユーシィ、知って」
「あんた、俺を知ってるのかっ?」
 起き様に俺が噛み付くように問いかけると、白い毛玉は転がるように女の背後へ逃げて、すぐにその肩口から俺を伺いみてくる。でも、そんなことはどうでもいい。目の前の女は驚くでもなく、少し潤んだ空色の瞳で俺をじっと見つめる。それが意味するところはわからないけれど、心のどこかで俺はこの女を知っている気がする。

「忘れるはずないわ」
 女が伸ばした白くて細い腕に微動だに出来ない俺に、女の細い指が触れる。微かに見える赤い線は先の尖った葉っぱに触れてできたミミズ腫れだろうか。

「どれだけ姿が変わっても、私たちは忘れないわ。だって、あなたはーー」
 女が何かを続ける前に遠くで誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。ユシィと聞こえるな、なんてぼんやりと考えていた俺の前で、毛玉が騒ぎ出す。

「ちょちょちょっとやばいよ、ユーシィ! アレスが探してるっ」
 言った方はすごく焦っているが、言われた女の方はおっとりとそうねなんて呟いている。

「そろそろお茶会の時間だからね。今日こそは私にゲームで勝つって息巻いてたから、探してるんじゃない?」
「そんなのユーシィが勝つに決まってるのに、アレスってば何無駄なことしてるの……じゃなくて、このニンゲンがアレスに見つかったらヤバイでしょって!」
「なんで?」
 毛玉はポンポンと女の周りを飛び回りながら訴えているが、女には一向にそれが伝わっていないのが俺から見てもわかる。

 というか、これはなんなんだろう。

 無造作に手を伸ばすと、簡単にその耳を捕まえられた。

「痛いっ、何するの!?」
 耳を掴んでいるつもりだったのだけど、身体と思しき球体部分がぐりんとこちらを向いて、サファイアみたいな赤い目をいっぱいに見開き、身体が半分に割れるんじゃないかというほど大きな口を開けたので、俺は驚き、手を離してしまった。

「ひどいニンゲンだわ! 痛いじゃないのっ!」
 目の前で跳ね回りながら抗議してくる物体を俺はじっと見る。こんな生き物は見たことがないから、魔物か妖精だろうか。

「ユーシィ、こんなニンゲン放っておきましょ。アレスを待たせたら、……うぶっ」
 怒りながらの白い物体の提案は、あっさりと女の手に遮られた。

「確かにアレスに見つかったら、少し面倒になるから」
 笑顔で差し出された女の手と顔を交互に見て、俺はどうしたものかと迷う。それに気づいているのか、女は俺の手首を掴んで、あっさりと立たせた。

「私じゃ送ってあげられないから、ソプラ姉様のとこに行きましょう」
 簡単に手を取られて、俺は内心で動揺していた。身体に染み付いた拳闘士の技は無意識下でも、自然と俺を警戒させて、掴ませないはずなのに。完全に安心しきっている自分に、俺は一番動揺していた。

 誰かに手を引かれながら歩く。そんなのはたった一度養父にされただけなのに、この女と歩くのはひどく懐かしい気がして、夢でも見ている気がして。

「リンカは毎日何をして過ごすの?」
「毎日楽しい?」
「一緒にいる人たちがリンカに優しいと、私も嬉しいなあ」
 ぶんぶんと繋いだ手を振って、女は楽しそうに歩く。でも、それも少しの間のことだ。

 風に音が混じる。聞いたことのない旋律が、強く俺を揺さぶる。

「良かった。ここからはソプラ姉様がリンカを導いてくれるね」
 またね、と言われて俺が顧みた時には隣に女の姿は既になかった。あの毛玉もいない。

 残された俺は音の方へ顔を向ける。音の種類は聞いたことのないもので、だけど覚えのある音律の並び。

 一歩ずつ、俺は前に進みはじめる。

 聞いたことのないはずなのに、覚えのある音律、香りのよい緑の木々や色とりどりの見たことのない花々、争いとは無縁の世界を俺は導かれるように進んでいく。触れることも匂いを嗅ぐこともできるのに、現実味がない。

 ここは俺の生きていた現実ではないとわかるのに、これこそが現実であるべきと誰かが俺の中で騒いでいる気がする。

(違う)
 歩きながら、俺は否定する。ここは現実じゃない。俺がいるべき場所じゃない。俺がいる場所は血生臭いけれど暖かい、人の血が、温もりが通う世界だ。こんな風な突き放した温もりなんて、いらない。

 いらないんだ。

「お久しぶりですわね、リンカ」
 急に手を取られて、俺は目の前に立つ女を見上げた。

 さっきのユーシィとかって奴とは別の女のはずだが、容姿はよく似ている。違う点といえば、女の体から発せられているような穏やかな音律だ。俺が引き寄せられた、音の波。

「でも、ここに来てはいけないはずなのに、誰が遣わしたのかしら。徒に送らないでって、いつもいってあるのに、しょうのないヒトね」
 女の口調から、おおよその状況を彼女が読み取っていることがわかる。

 さあと促されるままに俺は柔らかな草の上に座らされた。抵抗一つしない自分の異変は感じても、逆らうことができない。逆らおうとも思えない。

「リンカはまだここに来てはいけないの。だから、もうしばらくはあの場所で生きて、導いてあげて」
 女が小型の竪琴を取り出し、静かに歌い出すと、彼女の纏う薄布がリズムを取り始める。

 女の歌う音は心地よく、聞き覚えのない子守歌に包まれて、俺の目蓋が重くなる。

(誰、だ?)



:ーー愛しき女神の娘

:ーー貴方は女神の願いを託されし者

:ーー永き世を導き……



 歌は音になり、音が風になり、風は光になり、俺は微睡みに流された。

p.4

18#よくある終幕劇



 目を覚ました俺が最初に見たのは不安そうな青空色の瞳で、すぐにそれが端正な王子の顔の一部と気がついた。王子の前髪は俺の前髪に触れていて、鼻先一インチもない。それぐらいの距離で、俺は王子に抱きしめられていた。

「お、王子っ?」
 王子は少し驚いた顔で数度瞬きし、そのまま顔を近づけてきて。ーー俺の肩に顔を埋めた。

「……よかった」
 それは心の底からの安堵で、こんな風に心配されることがない俺は戸惑う。なんで俺なんかをそこまで心配するのか、今も俺には分からない。だから、こういう時にどう反応したらいいのかわからない。感謝も謝罪も違うだろうし、だからって慰めるのはもっと違うだろう。

 俺はただ微かに震えている王子の背中に手を伸ばす。

「大丈夫じゃと言うたんに、わしゃ信用ないのー」
 しゃがれた残念そうな老人の声で、俺は伸ばしかけた手を止める。無意識とはいえ、自分が何をしようとしていたのか考えると、逃げ出したいほど恥ずかしい。だけど、王子の腕の中から逃げ出すのが難しいことはわかっているので、俺は視界の範囲だけで状況を判断するしかない。

 王子の金髪や身体が邪魔でよく見えないが、石造りの天井はすごく高い場所にある。こんなに高い天井を最近見たのは、王子に連れてこられた大神殿しかない。そういえば、あの場所へはここから飛ばされたんだと俺は思い出す。それほど時間が経っていないのは、王子の匂いやマントの汚れ具合からもわかった。

「王子、俺……」
 俺は手を動かせるだけ動かして、王子の身体を叩くが反応はない。

「おい、王子」
「そのままで構わんよ、リンカさん」
 目の前に皺だらけの顔が逆さまに映り、俺は瞬間的に身体を硬直させていた。

「竪琴を弾く女性には逢ったかの?」
「たて、ごと……?」
 こういうのだ、と老人が宙に描いて見せるが、俺だってそれぐらい知っている。ただあまりに唐突だったから、聞き返してしまっただけだ。

「会ったよ」
「ほうほうっ」
 イラついた俺の返答に対して、老人は嬉しそうに笑う。

「元気じゃったか?」
「病気には見えなかったな」
「そーかそーか」
 俺の皮肉にも上機嫌に頷き、老人が何かを口にすると、俺と老人の間に大きめの厚紙が出現した。その寸前、かすかに俺は老人の目に涙が光っていたのを見た気がする。でも、すぐ後に訛声で調子の外れた下手な鼻歌が聞こえてきたから、気のせいだったのだろう。

 老人は自分の顔ほどもある大きな白い羽ペンを取り出して、厚紙に何かを書き込んでいる。

「おい、王子」
 その隙に俺は王子をもう一度叩く。もう震えてはいないから、何か別な考え事でもしているのだろうか。

「いい加減に離せ」
 さっきよりも強めに叩いたせいか、王子はしぶしぶと顔をあげて、俺を見下ろす。

「老師は信用してますけど、」
 俺の頬にそっと王子の大きな手が触れる。

「それとこれは別です。僕は本気でリンカをーー」
「できたぞー」
 俺と王子の顔の間を丸めた紙が遮る。顔を向けると、にやにやと人の悪い笑顔の老人が俺たちを見ていた。

「大切にするのは構わんが、余裕のない男は嫌われるぞ」
 不機嫌の証に眉間にシワを寄せた王子が老人から紙を奪いとる。おかげで少しばかり距離ができた俺は安堵の息をつくことができた。いくら顔に興味がないといっても、鼻先の触れ合う距離での会話は落ち着かない。

「あなたには言われたくありませんね」
「年寄りのいうことは素直に聞いとくもんじゃよ」
 話しながら紙を広げた王子が一瞬固まる様子に、俺は首を傾げる。紙が厚くて、俺からは何も見えないから、何故王子が固まったのかがわからない。

「これは……本当なんですか、老師」
 老人が深く頷くと、王子は辺りに花でも飛ばしそうな満面の笑顔を浮かべた。

「リンカっ」
「わっ」
 また俺を抱きしめてきた王子はさきほどよりも強い力で、苦しいぐらいだが、喜びだけはいやというほど伝わってくる。

「な、なななんだ!? おいこらヤメロっ!!」
「リンカはやはり僕が直感したとおりの人です! これで僕は堂々と言うことができる」
「あ!? 何言ってんだ、王子、」
 俺の疑念に答えることなく、唐突に俺から身体を離した王子が老人に向き直る。

「ありがとうございます、老師っ」
 対して老人はホッホッホッと奇妙な笑い声をあげる。

「殿下が礼を言うと、槍が降るからやめなされ」
 少し離れたからと言って抱かれていることに違いはなく、俺は王子と老人の間の見ない会話にかすかな予感を感じていたから、逃げたくて仕方がない。

「離せってば」
「それじゃあ、僕はもう行きますね」
 俺を抱えたまま王子が歩き出すから、当然俺は慌てた。王子の足は戸口ではなく、外の光が入り込むテラスのような場所へと向いている。

「下ろせって言ってんだろ、王子っ」
「暴れないでください、本当に落としてしまいますよ」
 そう言いながらも王子の腕が緩む様子はなく、勝手に開いた大きな窓から俺たちは外へと出た。上から降ってくる眩しい光に俺は目が眩んで、少しだけ目を閉じる。

「老師」
 王子が一度部屋の中を振り返る。その笑顔は陽の光よりもまぶしく見えて、俺は一度は開いた目をすぐに細める。この人はなんでこんなにも俺を気に掛けるのか、まだ俺にはわからない。

「老師、僕はリンカを妻にします」
 堂々とした宣言は何度も耳にしているが、冗談に聞こえたことは一度もない。

「そのつもりでわしを叩き起したんじゃろ。わしゃ昼寝の最中じゃったに」
 老人はそれを驚きもせずに欠伸で答えて、俺たちに背を向ける。その背に王子が言葉を続ける。

「あなたの証明が一番効くんですが、ここまでしてくださるとは思いませんでした」
「なんの話じゃ。わしは嘘の証明など書かぬよ」
「そうでしょうね」
 王子の視線が俺に降りてきて、その甘やかさに俺は居心地の悪さを感じて顔を背けた。

「後ほど大神官殿宛で極上の神酒を届けさせますが、飲みすぎないでくださいね。おそらくすぐにでも……」
「わかったわかった。もう昼寝するから、すぐには起こさんでくれれば、それでよいよ」
 老人の気配が唐突に消えて、俺は室内へと目を向ける。残滓もないが、あれは何者だろう。

「リンカ、もう少しだけ我慢してください」
「え?」
 俺が何かを問い返す前に、ふわりと俺たちを魔力のこもる風が巡りだす。魔力風で王子の金髪も緩やかに波打つ。

「ーー風の間隙、空の裂け目……ーー」
 王子の魔力が解き放たれる瞬間、俺は強く王子の襟を掴む。安心させるように笑いかけてくれるが、不安ばかりが俺の中を過ぎる。

 この人はなぜこんなにも俺に拘るのだろう。俺はただの孤児で、綺麗でも可愛くもないし、女にさえ見えないのに。

「王子」
 魔力の風が止んだ場所で、俺は王子を見上げたまま問いかける。

「なんですか、リンカ?」
 王子は最初と変わらない笑顔を返してくれるが、もう俺はそれが作り笑いじゃないと見分けられる。瞳の奥の甘やかさに気がついたのはあの遺跡の後で、俺はそれから必死に目を背けてきた。

 王子と俺は住む世界の違う人間だ。 何をどう望んでも、俺と王子が一緒にいることなんてできない。どれだけ王子が望んでも、無理なものは無理なはずだ。

 俺が願っても、いや、俺が願えば王子はーー。

「何してるの、二人とも」
 固い姫の声音に、俺は我に返る。自分が何を考えていたのか、何を言おうとしていたのかを思い出して、恥ずかしい。

 俺は腹黒王子なんかどうでもいいはずだ。目的はこいつから金をせしめることであって、一緒にいたいなんて望んでもいない。勝手にこんな遠くに連れてこられて、迷惑しているはずだ。

「な、なんでもねぇ、よ……」
 緩んでいた王子の腕から抜け出した俺は姫が抱えているものを前に一歩後付さる。それは記憶がそうさせるのだから、もう不可抗力だ。

 姫が手にしているのは、青いベルベットの光沢を持ったひらひらしたドレスで。

「姫、五分でできますか」
「任せて」
 姫を助けに行った時の状況を思い出して逃げたい俺の両肩は、後ろから王子にしっかりと抑えられていて。

「すぐに迎えに来ます、リンカ」
 俺にささやいた王子はそのまま俺の背中を姫に向かって強く押し出した。

「ちょ、まて、王子……っ」
「リ、ン、ちゃんっ」
 がっしりと姫に両肩を抑えられた俺を残して、王子のくぐり抜けた扉はあっさりと閉まってしまった。

「リンちゃんにはレースとかフリルよりもシンプルなこういうタイプが似合うと思うのっ」
「ひ、姫」
「時間はないけど、私が世界一の美少女にしてあげるわねっ」
 これだけ嬉しそうな姫を留めることができるわけもなく。俺は観念して、抵抗そのものを諦めた。そもそも俺が姫に怪我を負わせることができるわけもなく、怪我を負わせずに彼女から逃げ切れないのは前回で身にしみている。この姫は王子の幼なじみというだけあって一筋縄ではいかないのだ。

 大人しくドレスに袖を通し、鏡台のない部屋の中で椅子に座らされた俺は、姫を前に問う。

「なあ、姫、」
「動かないで」
「……はい」
 しゃべるのもダメだと無言の意思を感じて俺は仕方なく問うのをやめた。そのあとはされるがままに化粧を施され、きっかり五分後に部屋の戸がノックされる時には目の前で姫が満足そうな笑顔を浮かべている。

「私、天才っ! 美容師に転職した方がいいんじゃないかしらーっ」
 王子も王子だが、姫も行動が謎だ。人を着飾るのは趣味だと以前に聞いたが、姫は本気で王子が好きだと俺でもわかる。その王子は俺に求婚していて、了承しているとはいえ、それでも姫にとっての俺は俺の意志に関わらず恋敵となるはずだ。なのに、俺を着飾ろうとするのが理解できない。

 部屋をノックする音で、返事をしながら戸口まで駆けてゆく姫を、俺は呼び止める。

「姫、なんで、あんたはここまでするんだ? 姫にとっちゃ、俺がいない方が都合いいはずだろ。俺がいなけりゃ、姫は王子と結婚できるんだから」
 好きなんじゃないのか、と俺が問うと姫は至極真面目な顔で俺を見返してきた。

「そうね、確かにリンちゃんの言うとおりよ」
「だったら、」
「でもね、それじゃいつまでもディルは私を好きにならないし、私も不満の残る結婚になるだけだわ。そんなのはまっぴらっ!」
 姫の白くて小さな手が彼女のドレスの裾をきつく握り締める。

「私はディルを好きよ。でも、私を愛してくれない人とは一緒になれない。だってそんなの……そんな哀しい結婚なんて、私に似合わないでしょ?」
 一瞬姫は泣くかと思った。だけど、俺の予想に反して姫は凛とした綺麗な笑顔で微笑む。

「姫、まだですか?」
 戸の向こうから、少しばかり焦った王子の声と忙しないノックの音が響く。

「リンちゃんは嫌かもしれないけど、私はディルの願いが叶って欲しいと思ってる。だから、どうかディルをーー」
 一際大きなノックに、姫の声はかき消された気がしたけれど、俺には聞こえた。

「おまたせー、ディルっ」
「何をしていたんですか?」
 部屋に入ってきた王子が俺を見て、あの時のように息を飲む。王子も着替えてきたのか、服もマントも新調している。

「んー、女の子同士の内緒話よ。ね、リンちゃん」
 姫のさっきの言葉が俺の中で木霊する。

ーーどうか、ディルを好きになってあげて。

 俺の前にゆっくりと歩いてきた王子が俺の前に跪く。それは、絵本で見るような騎士の礼だ。

「……リンカ」
 王子が白い手袋をした俺の手をとる。見上げてくる王子の視線は愛しさが溢れていて、姫に言われなくても俺はいつの間にか王子のことを好きになっていたのかもしれない。

「どうか、僕の願いを叶えてください」
 俺はきつく両目を閉じる。

「僕の女神になってください、リンカ?」
 それは古くからある求愛の言葉で、俺は俺がそれを言われるに値しない人間だと知っている。どんなに望んだとしても、俺にはその資格がない。俺はーーあの時に決めたんだ。

「王子、立ってくれ」
 目の前が影に遮られたのがわかり、俺は静かに目を開いた。彫刻のような造詣を持った端正な顔、白磁の肌に、金を縒り集めた輝きを宿す髪、そして、果ての無い魔力。容姿も地位も何もかも、王子は俺とは別の世界の人間で、そして、俺は王子を利用しようとする汚い下層の者だ。

「茶番はここまでだ、王子。あんた、最初から何もかも気がついてたはずだろう。俺がアンタたちを売ろうとしていたことも、全部知ってたんだろう?」
 目の前の王子の表情は揺らがない。

「俺は女神の眷属なんかじゃねぇし、王子が思うほど綺麗な人間じゃないんだ。あんたの隣にいられるような人間じゃないんだよ」
 だから、と俺が続ける前に王子が俺の顎に手をかける。

「だから何です?」
「っ、だから、そんなもの受けられないって……っ」
 俺の叫びが塞がれる。大きく目を見開く俺の前には王子の蒼天の瞳が閉じられていて。長い睫毛が震えているのが見て取れる。

 顎をつかんでいる右手はそのままに、左手で俺は王子に腰を掴んで引き寄せられる。王子と触れ合う口から俺に伝わってくるのは甘い痺れで、触れているだけなのに泣きたくなるほど優しくて。俺に抵抗できなくさせる。

「リンカが汚いと言うのなら、僕の方がもっと汚い。僕は僕の意志でこの手を染める事なく何人もの人間を陥れてきたんだ」
 北の大国クラスターは冷酷非情な王が治める国と、俺も聞いていた。王子といるほどにそれに王子が関わっているだろ言うことにも気がついていた。

「リンカ、誤解しないでほしい。僕は願いと言う形をとってはいますが、最初からあなたを手放すつもりないんです。女神の檻に閉じ込めて、あなたを幽閉することもできる」
 だけど、俺は知っている。非情なだけじゃ人はついてこないし、王子は真実の優しさを知っている。だからこそ、城に戻って迎えてくれる人がいて、姫やシャルダン様のような味方がいるのだと。

「……あんた、馬鹿だな」
「リンカには及びませんよ」
「俺が大人しく幽閉されるとでもいうのか。刻龍が破れない檻なんかあると思っているのか?」
 助けだされたとはいえ、紅竜があのまま俺を諦め、引き下がるわけもない。どんな檻も刻龍にとっちゃ意味のないモノだから、すぐにまた俺は捕まり、今度こそ逃れられないだろう。そして、舞台を台無しにした王子達は。

 俺の肩と胸が苦しくなり、耳元で王子が囁く。

「だからこそ、リンカは僕の隣にいなければいけません。そうしなければ、弱い僕はすぐに死んでしまいますからね」
 冗談めかしているけれど、大切に俺を抱きしめる腕の力が語っている。

「あんたを守れと?」
「はい、そういう契約です」
 王子は優しいから、俺がそうしなければ動けないとわかっているから。道を作ってくれる。

 逡巡する俺を腕を緩めて見下ろす王子がどうだと微笑んで見せる。本当に噂通りの大した策士だ。だけど、俺はその索に収まるような人間じゃないんだ。

 両腕をつっぱって王子から体を離す。

「本当に馬鹿だよ、王子」
「ふふっ、そうかもしれません」
 笑顔で肯定する王子を、俺は真面目に問い詰める。

「あんた、最初から全部知ってて仕組んでるのか? 俺が本物の、女神の眷属、と知ってて」
 久方ぶりにそれを口にすると、離れた場所で姫が息を飲んだ。王子は驚かないと言うことは、やはり。

「いいえ、リンカ。僕が知ったのはついさっきです」
「うそつけ」
「本当です。でなければ、大神官の署名まで求めに行く必要などないでしょう。それより、僕はリンカが知っているとは思いませんでしたよ」
 そうだろうと、俺は顔を背けて、卑屈に笑う。

「知らなきゃ、ここまで生きてこれねぇよ。とっくにどこかに売り飛ばされてどこぞでくたばってるだろうな」
 俺が自分の系統(ルーツ)を知ったのは養父と出会ってから数年を過ごしてからのことだ。俺が養父を師と呼んだその日に、彼から俺が女神の眷属であると知らされた。それが何を意味するのかと言うことも、全部を聞いた。

「女神の眷属は至宝、手にするモノに世界のすべてを与えるーーなんて伝承があるせいで、何人も殺されたって聞いてる。だから、俺は自分を守るために拳闘の技を、禁忌にまで手を染めて身につけてきたんだ」
 俺がひとつ腕を振るう。何の小細工もしていないのに、小さな風が起こり、王子の左袖が切れて、その先で壁に大きな亀裂が入った。非常時以外には決して使わない、暗殺術。

「俺はこの技で生き抜いてきた。いくら女神の眷属でも、そんなやつにーー資格なんかねぇだろ」
 幸せになってくれというのが養父の遺言で、それだけを掴むために俺は生きてきた。でも、人殺しの技を身につけて、それを使ってきた俺にそんな資格なんて、女神の眷属である資格なんかとっくにないってことぐらい、自分でもよくわかっている。

「王子、あんただって、それだけの力を持ってる。誰かに守ってもらう必要なんかねぇだろ」
 この旅の間俺が何度も感じていたことだが、王子の魔力は本当に無尽蔵で果てがない。世界に三人もいないといわれる本物の魔法使いだと言うのも、今じゃ疑いようもない。

「俺も、今更誰かに守られたくなんかねぇんだ。だから、」
「ふっふふふっ、はははっ」
 俺の言葉を王子の笑いが遮った。

「言いたいことはそれだけですか、リンカ」
「お、おう」
 王子は綺麗な作り笑顔を俺に向けてきて、おもむろに俺の腕を掴んだ。

「言ったでしょう、僕はリンカが女神の眷属だろうが、他のなんであろうがどうでもいいんです」
「なっ」
 そのまま俺を引きずる力には迷いが無く、決意の表れなのか、俺にはまったくその手を外すことができない。

「僕にとってはリンカがリンカであることだけが重要で、それ以外は些末な事。もしあなたが女神の眷属ではないのだとしても、僕に釣り合う系統をでっちあげるつもりでした」
 姫の隣を通りすぎる時に助けを求めたが、相変わらずの笑顔で見送られてしまった。

「なんだよ、それっ」
「僕は最初から素手で叔母上の親衛隊を殴り倒すリンカを気に入って、そして、姫を助けようと真剣に考えてくれるあなたを好きになった。ただそれだけのことなんです」
 女神の眷属であることがどうでもいいだなんていう人間はこれで二人目だ。あの紅竜だって、どこかで俺が女神の眷属だと聞きつけたから手にしたがったっていうのに、それを関係ないだなんて。

「離せっ」
「まったくそんなことでこの僕が振られるなんて、冗談じゃないですよ」
 王子がどこかの綺羅びやかな大扉の前で立ち止まる。扉の両脇には剣を携えた兵士が両脇に控えていて、床には赤い天鵞絨の絨毯が敷かれていて、これではまるで「謁見の間」みたいじゃないかと俺は青ざめた。

「で、殿下、いつお戻りになられたので」
「父上は仕事中かな?」
 王子の問いに答えながらも兵たちが王子と俺を交互に見比べる。

「コゼット公爵と談笑をしておられますが、その、」
「そうか。じゃあ、開けてくれ」
 この扉が開かれたら、ますます後戻りができなくなる気がして、俺は躍起になって王子の腕を外そうと試みる。

「こ、国王陛下! ディルファウスト皇太子がお戻りになられましたっ」
 一人が扉の中へと入り込む間に王子が俺の腕を引き寄せ、しっかりと片腕で抱きしめる。王子の上品な太陽の香りが近くで香り、先程のキスまで思い出されて、心臓がうるさい。

「な、なにすんだ、離せっ」
「こらこら、仮にも国王陛下への謁見なのだから、言葉遣いはもう少しご婦人らしくお願いしますよ、リンカ姫」
「ひ、姫っ?」
 何を言い出すんだと俺が抗議する前に、大扉が開き始める。その向こうには威厳のある壮年の男性と、立派な服を来た白髪の小男がいる。白髪の小男は俺たちを見て、ひどく驚いているようだ。

「ディ、ディルファウスト殿下……っ」
 王子が冷ややかな目で小男を見てから、まっすぐに威厳のある男性の前へと進んでゆく。俺を片腕でしっかりと抱いたまま。

「ただいま戻りました、父上」
「よくぞ無事で戻ったな、ディル。まあ、お前に限って、無事に戻らぬこともあるまいが」
 王子が父上と呼ぶと言うことはすなわち、この男性はクラスター国王とすぐに俺は理解した。本当に俺をこんな場所に連れてくるなんて、今更疑うべくもないが本気なのだろうか。

「ところで、ディルよ。おまえはサフラン姫を迎えに言ったのではなかったか。その娘は何者だ?」
 サフラン姫って誰だと思ったが、流れからして、俺がずっと姫としか聞いていなかった女性のことだろう。

「姫ならばすでにそこにいるコゼット公爵のご子息と帰還しております。どうやら、どなたかの差金で刻龍に攫われているようでしたが、ここにいるリンカ姫の手をお借りして、無事に取り戻した次第にございます」
 姫をさらったのはシャルダン様じゃなかったかと考えかけた俺の肩が強く王子に掴まれ、見上げる。

「リンカ姫とおっしゃられるか。サフラン姫の父として、礼を申し上げる」
 国王と言う人に頭を下げられて、俺も流石に慌てる。貴族や王族は嫌いだが、頭を下げられたいわけじゃない。

「や、やめてくださいっ。私は王子に頼まれただけで……っ」
「本当に、有難うっ」
 深く深く頭を下げられては俺の立つ瀬が無い。どうしたものかと王子を見上げると、任せろとでもいうのか軽く頷いた。

「父上、こうして無事に戻ったばかりで恐縮なのですが、今日は急ぎの願いがあって、参上しました。本来ならばきちんとした手順を踏んでおきたいところなのですが」
 王子の言い回しに、俺は眉根を寄せる。これは、この流れはなんだか嫌な予感しかしない。

「お、おい、王子」
「姫を救うのを手伝っていただいた折に私はこのリンカ姫の勇敢さ、聡明さに心揺れてしまいました。つきましては、サフラン姫との婚約を破棄し、こちらの姫との婚姻を望みたいのですが、許可願えますか」
 やっぱりか、と俺は自分の腰に回された王子の腕を強く掴んだ。

「な、何言い出すんですか。その件については……っ」
「彼女も私を好いてくれておりますし、大神官殿に系統の検査をしていただいたところ、何の問題もないとわかりました」
 王子が国王にさっき老人に渡さえた紙を差し出す。受け取った国王はその内容と俺を何度か見比べ、柔らかな笑顔を浮かべた。

「おまえのことだから、他の姫君を黙らせる手はすでに打ってあるのだろうな」
「当然です」
「では、私が言うことは何もない。好きにするが良い」
 王子が口の両端をあげて、嬉しそうに笑いながら頭を下げる。

「有難うございますっ」
「后にはきちんと挨拶しておけよ。私にもあれはどうにも手に負えぬ」
「はいっ」
 失礼します、と二人で謁見の間を出たすぐあと、廊下にだれもいないのをいいことに、俺は王子の襟を掴んで締め上げた。

「誰が誰を好いてるって!? いい加減なことをいいやがってっ」
「う……っ、嘘ではない、でしょう。リンカは僕を好きなのだから」
 驚いて、俺が手を離すと、王子は荒い息を抑えて、数回深呼吸する。俺は一度も王子にそんなことを言った覚えはないのに、なんでそんなことがわかるんだ。

「なんでそんなことがわかるのかって顔をしてますね。そりゃわかりますよ。リンカは素直ですからね。それだけ全面に好きだと出されては気がつかない方が無理です」
 強気に笑う王子から距離を取ろうとしたが、すぐに俺は王子と位置を入れ換えられてしまった。後ずさりしてもすぐに背中が冷たい壁につく。

「リンカ、あなたは自分で思うよりもずっと素直で可愛いんですよ。この僕が手放したくないと思うほどに、とても魅力的な女性です」
 王子の右手の細い指がこのドレスに着替えた部屋の時のように俺の顎にかかり、持ち上げる。

「そろそろ覚悟を決めてください」
「覚悟って、何のだよ」
 柔らかく王子が俺に微笑む。

「もちろん、この僕を落とした覚悟ですよ。僕はこれと思ったものは手に入れる主義です。いつかリンカの心も僕のものにしてみせますからね」
 近づいてくる王子の整いすぎた顔に、俺は強く目を閉じる。そんな覚悟はないけれど、俺はとっくに王子に心を寄せている。知らないうちに信頼している自分に、気がつかないわけがない。

 来ると思ったキスは来なくて、俺は恐る恐る目を開ける。鼻先の触れ合う距離にいる王子はひどく切ない顔で俺を見ていて、だがすぐに強く笑って俺の鼻に噛み付いた。

「痛っ」
「さて、リンカで遊んでいるのもこの辺にして、僕の部屋に行きましょうか」
 鼻先を摩る俺の体がふわりと浮かび、この城に来た時と同じく王子の腕に収まる。

「へ、部屋!?」
「叔母上に挨拶に行けと言われたからには、作戦を練る必要があります。カーク、あなたの主人と姫と西の魔女殿を僕の部屋へ呼んでおいてください」
 短い返答が聞こえて俺が振り返ると、すでにそこには誰もいないが。

「……カークが、いたのか」
「彼はいつもいますよ。魔女の眼がありますから」
「は!?」
「西の魔女殿は僕以上の魔法使いです。きっと良い知恵をもっていることでしょう」
 王子が言っていることは、俺には分からない事だらけだ。だが、少なくとも王子が俺を無理やりどうこうするために部屋へ連れて行くのではないとわかり、俺は安堵の息をついた。

「本当なら、すぐにでもリンカを僕のものにしてしまいたいですが」
「……っ」
「それは後にしましょう。大神官殿にも厳命されていますしね」
 残念だといいながらも王子の足取りは軽い。

「それよりも、先に部屋にいて見せつけた方がいいかな」
「な……っ」
「そうですね、せめてリンカが僕を好きだと言ってくれるまで、彼らが来るまで口説きましょうか」
 とんでもないことを言いながら足を速める王子だが、相変わらず腕が緩む気配もなく。俺はこれからもこんなのと付き合っていけるのだろうかと軽い頭痛と、僅かばかりの和やかな幸福を噛み締めた。

「しかたねぇから、守ってやるよ。ディルファウスト・クラスター」
 立ち止まった部屋の前で俺を降ろした王子が、室内の騒々しさに軽く落胆しているのを見て、俺は王子の左手を握って小さく囁く。それが聞こえたかどうかはわからないが、少なくとも俺を見て微笑んだ王子は、悔しいけれどやはり格好良い本物の王子の顔をしていた。

あとがき

河内弁変換使用。
http:park16.wakwak.com/~yao/kawachi-ben.html,そろそろ終りと言うところから長い…。
(2010/02/10)


いろいろと書き直したら変わりました。
(2010/02/10)


やっっっと終わりました。
何年越しだろう。
そして、結末が随分と様変わりしたものです。
その割には進歩がない…(え
(2010/02/14)