私の仕事は海に出ることじゃない。出航前の軍船の整備だ。乗る予定はなかった。そのはずだ。それなのに。
「なぜ私は今、海の上にいるのだろうー……」
船の縁で柵に身体を預けながら、真っ直ぐな地平線を見つめ、私はため息を付いた。
「なんだ、船酔いか?」
「ちがわぁ……」
力なく応える私に、仲間は頭をぐしゃぐしゃと撫でて返してくる。海の男らしい荒っぽさに頭を左右に振られていると、本当に酔ってしまいそうだ。
なので、その手を両手でがっしりと抑え、私は仲間を見上げる。
「ねぇ、帰っていい?」
「泳いでか?」
遠いぞーと笑う男を下から睨みつけ、しかし効果もないので、俯いて息を吐く。
「よし、わかった」
私が思いつきで船の柵を乗り越えようとすると、それを安々と遮られる。ーーつまり、私は仲間の腕の中に抱き込まれていた。
「まてまて、冗談だ、冗談!」
「じゃあ、いい加減説明をしてもらおうか、元親サン。なんで私がわざわざ船に乗る必要がある? つか、最初にあっちの言葉は話せないから、通訳できないって言っておいたはずだよね。なのになんでこんな退屈な場所に私を連れてきた!?」
私が一息に文句を言うと、元親は苦笑しながら口先だけで謝ってくる。最初は信頼だけであった関係が、今は少しずつ変化しているような気もする。だが、私はそれを気のせいだと割り切っていた。
「悪ぃ悪ぃ。おまえいねぇと最近退屈でな?」
「私は、今っ、退屈してるんだが?」
「おう、じゃあ、あれだ。賭けでもすっか」
「はっ! その手に乗るか」
自慢じゃないが、賭け事に勝ったことはないのだ。そうでなくても、元親は賭け事に馬鹿強いらしいってのに、負ける勝負をするつもりはない私は、自分を拘束する腕を外そうと手をかけた。
「桜夜」
耳元で名を呼ばれ、ゾクリと肌が粟立つ。それは嫌悪からくるものではなくて、どちらかというと恥ずかしくなるような甘さを含んでいる気がした。
「実はな、船長室に外来の酒を隠してある」
囁かれた内容に私は一瞬動きを止め、口を尖らせた。
「……おい、それは……」
「飲むか?」
「……ぅ……む……しかし、それは……」
酒好きには実に魅力的な誘いだ。しかし、それは「売り物ではないのか」と言いかけた私は、周囲の目に口を噤んだ。
「どうするよ」
こっちが気を遣って黙っているのをいいことに、嬉々として訊ねてくる元親の吐息が首筋に当る。
「……ん……しかた、ないね。代わりに賭けの内容は私に決めさせてよ」
「いいぜ」
腕をタップして離してもらおうとしたが、元親は私を手放さずに歩き出した。
「お、おい、こら! 自分で歩けるっ!」
「ははっ、気にすんな」
「するに決まってるでしょうが!」
腕の中で暴れる私をものともせず、元親は悠々と船長室へと足を進めていった。
船長室は案外に綺麗なもので、それは陸での元親の私室も同じだった。それが意外だったが、整頓の苦手な私としては非常に羨ましいスキルである。
「適当に座ってろ」
元親は私をベッドに下ろし、自分は部屋の奥の棚へと足を向けた。完全に私に背中を向けているのは余裕なのか信頼なのか迷うところだ。
私が元親の直属で働くようになって、既にひと月が立つ。最初こそ無茶な要求は多かったが、対等という言葉通りに私が言い返すと、納得いくまで聞いてくれる姿勢には好感をもてる。かといって、こちらの言い分が全部通るわけでもなく、駄目なものは理由含めてしっかりと突っぱねてくる。
さすがは四国の海賊を名乗る王だ、と当初は軽い感動を覚えたものだ。まあ、それもすぐに払拭されたわけだが。
ブランデーの瓶を手に戻ってきた元親は、ベッドに座ったままの私を見て、わずかに足を止めた。だが、すぐに気を取り直して隣に座ってきた。
「これは」
「へぇ、こんなのまで入ってくるんだ。グラスは……あるわけ無いか」
私は元親の手から瓶を取ると、コルクを抜いて、鼻を近づけた。芳醇な葡萄とアルコールが合わさり、発酵した絶妙な薫りに、思わず目を閉じ、息を吸い込む。
「桜夜」
「んじゃま、いっただっきまーす」
そのまま瓶を口に当てて喉へと流し込むと、円やかな味わいが喉元を通りぬけ、体中に染みこんでゆく。
「んー、おいしー」
私が完全にそれを一口飲んだ所で、元親は神妙に口を開いた。
「アンタが、こことは別の世界からきた、って話は本当なのか」
私は隣にいる元親を見上げ、口端を上げて笑った。
「さて、どうだろう?」
この世界にきてから私は自分が別の世界から来たと直接話したのは二人だけだ。私を見つけた隊長とその妻。二人は私を助け、守ってくれた。そして、それは今でも同じ事だ。
だからこそ、二人ともがそれを話さないだろうということもわかっている。
私は元親を横目に見ながら瓶を傾けた。そして、私が話すのを待っている彼を見て、小さく笑う。
「……隊長は、何も?」
「ああ」
「じゃあ何故そう思うのか聞いても?」
元親はしばらく考えた後、ただの勘だと答えた。もちろん、私が爆笑したのは言うまでもない。
「あははははっ!」
「そこまで笑うこっちゃねぇだろっ!」
「いやだってそこまで自信満々に言っといて、勘って! ホント、元親サンは天才なんだか馬鹿なんだか。判断に困る人だよ」
「だから、ああ、もう!」
急に肩を押されたかと思うと、目の前、いや上に元親の顔があった。
「なんなんだ、オマエは」
「も、元親、サン……?」
「戦を知らない機械馬鹿で、男みたいに仕事して、半端に英語を操って」
「お、い……?」
「極めつけは、あのバイクだ。奥州のやつが似たような格好を馬にさせてるが、あんたのは全く別モンだ。あんな技術、まだ世界中探してもねぇだろうが」
「う、うん? そう、かもな。とりあえず、このどけてもらえないか?」
なぜかは分からないが取り乱した様子の元親に疑問を覚えつつ、女としての本能から退去を願い出たわけだが。
「じゃあ、アンタはなんなんだ」
一瞬だけだが、本当に一瞬だけだが、面倒だというのがよぎり、顔に出てしまったかもしれない。だが、とりあえず、元親にそのつもりはないはずだ。そうであってほしい。
「名前は名乗ったはずだけど?」
「どこの国のもんだ」
「日の本。出身は問わない自由な組織ってきいたから、いさせてもらってるんだけど?」
「……それでも、アンタには謎が多すぎる。俺らに敵対することはないだろうが、戦う力もなく、仲間と思っているかも怪しい」
いろいろと見抜かれてはいるようだ。こういうのは動物的な勘なのだろうか。
「こっちに来てから日は浅いけど、元親サンのことは信用してる。だから、話してもいいけど、ひとつだけ約束をしてほしい」
ごまかせるとは最初から思っていなかった。だから、この辺りが潮時なのだろう。
「敵になる気はないからさ、私が帰る道を見つけられるまで、ここに、四国に住んでいることを許してほしい」
「……信じろとは言わないのか?」
「そんな無茶は言わないよー。ほら、とりあえず、どいて」
私が元親の肩を押すと、その体は案外簡単に動いてくれた。ベッドから起き上がった私は床に転がったブランデーの瓶と、ぶち撒けられた中身に眉をひそめる。
「うわ、もったいないなー、もう」
瓶を拾い上げ、中に少しだけ残っていたブランデーを飲み干す。ほんの一口しか残らないそれを残念に思いつつ、私はジーンズのベルトに挟んでおいた汚れた手拭いで乱暴に床を拭った。
「私にとってこの世界はゲーム、こっちで言う遊戯の世界なんだ。兄貴がやってたゲームがこの世界と同じで、時々私も見学してたから、なんとなくわかるって程度だけどね」
床のブランデーを拭いていたのだが、雨のしずくのように何かが落ちる。それを拭きとるが、それは拭いても拭いても新たな染みを作っていく。
「あの日は雨が強い日で、珍しく雷も鳴ってた。会社帰りに兄貴から夜食買ってきてって頼まれて、私は少しだけ遠回りして、いつもと違うコンビニに行こうとしたの。ちょっとした遠回りは、近くの山を迂回する道があったんだけど、休みの日にはよく走っていたし、慣れてたし……早い話油断してたんだよねぇ」
「最悪のコンディションで、タイヤがスリップして。……後は、気がついたらたいちょーさんに拾われてたってところかな」
ああ、これは自分の目から流れてきているんだと、私は乱暴に目元を拭った。
「……な……」
「兄貴は毛利サンを使うのが好きだったみたいだけど、私は元親サンのストーリー、話のほうが好きだったな。まあ、過去を知った時は笑わせてもらったけど」
それから、床の染みを拭き取ると、もうそこはブランデーの薫りが残るだけになった。
私が振り返ると、元親は眉を顰めて、私を見つめている。
「信じなくていいよ。無理に、信じようとしなくていい。でも、これだけはわかっていてほしい」
最初から、信じてもらおうなんて、虫のいいことは考えていない。既に拾ってくれた隊長とその奥さんという二人の理解が得られているのだ。だから、そのことは私にとっては既に別にどうでもよかった。
でも、どうしても解いておきたい誤解がある。私がーー敵方の間者であると、疑い続ける雇い主に。
「私は元親サン、アンタが好きだ。アンタの生き様に惚れてる。だから……飛ばされた先が四国であったことも、隊長さんに拾われて、元親サンの下で働けることにも、半分は感謝してる」
もちろん、半分は私をこんな場所に飛ばした誰かを恨んでもいる。だが、今はそれをいう必要は無いだろう。
そして、こんなことで疑いが晴れるなんて、考えているわけじゃない。
「元親サンは元親サンの信じるものを信じればいい。私も私が信じたいものを信じるだけだから」
酒はもらっていくよ、軽く笑顔を向けてから、私は入口の戸に手をかけた。
「……アンタが、信じたいものってのはなんだ?」
出て行こうとしていた私は一瞬だけ動きを止めていた。
「隊長さんと、元親サン、それからーー」
私の答えを聞いた元親は何も言わなかったので、私はそのまま船長室を後にしたのだった。