春も近づき、庭の白梅が小さな花を咲かせる頃になると、私にとっては絶好の昼寝時期となる。
ここ最近は一番隊組長代理と沖田の薬の調合、滋養分に富んだ食材の調達などと忙しく動き回っていただけに、久々の何もない休日を過ごせるのは正直有難い。特に、何も考えずにこうして庭を眺めながら、一人手酌で盃を傾けている時間などは、私にとって至福の一言に尽きる。
穏やかに流れる雲は早いが、雨の気配も雪の気配も今のところないし、今夜はきっと良い月が拝めるに違いない。そんな風にただ穏やかに、人目の少ない西本願寺の一角で私が時を過ごしていると、久しぶりに明るい声がかけられた。
「葉桜さんっ」
「あ、伊東さん。ずいぶん嬉しそうですね。何か」
「近藤さんがとうとう私たちの離脱を認めてくださいましたっ」
私に駆け寄ってくる伊東が最初、何のことを言っているのかわからなかった。記憶を辿り、私は角屋で伊東と話したことに行き着く。
「やっとですか。良かったですね~」
永倉に手伝ってもらって行ったあの宴会の成果が出たってワケだ。これでとりあえず、近藤さんの無事は確保されるだろう。
「はい、葉桜さんのおかげですっ」
「私は別に何もしてないですよー。伊東さんの熱意の結果です」
「いいえ」
私の杯を持つ手を、伊東がそっと押さえる。
「あれは葉桜さんが私たちを心配してのことだと、皆さんにお聞きしました」
誰だ、しゃべったのは。永倉か、近藤さんか。それとも、才谷辺りが勝手に類推したか。どちらにしても今回私はほとんど何もしていない。それどころか鈴花まで巻き込んでしまったのだ。伊東にも礼を言われるようなことは何もしていない。
「有難うございます」
でも、うん、今は素直に喜んでおこう。伊東がこんなに嬉しそうな顔というのも、私は久々に見た気がする。
「よく近藤さんと土方さんを口説き落とせましたねぇ」
伊東が外してくれた手から、私は杯を傾ける。
「お二人とも誠意を持って話をすれば、必ずわかってくださいます」
近藤さんはそうだろうけれど、土方はそんなに甘い男じゃない。それぐらい伊東だってわかっているはずだ。私が訝しむ視線を向けると、素直に伊東からは笑顔が返ってきた。
「それより、私は葉桜さんに話があって来たんです」
いやに輝いた目をしている伊東を前に、私はため息をつく。話の内容は、容易く予想がつくからだ。
「やはり、あなたも私たちと来ませんか?」
「伊東さん~、あの時も言ったはずですよ~」
「ええ、わかっています。ですが、葉桜さんの考えはむしろ私たちに近いのでは?」
「ふふっ、どうしてそう思われます?」
手酌を傾けると、一滴しか落ちてこない。私は徳利を覗きこみながら、伊東に尋ねた。
「あなたは戦いの場でもよほどでない限り、殺さずに捕らえてくるのだと聞きました」
本当に、いったい誰が伊東に余計なことを吹き込んだんだ。
「それはやはり今の新選組に不満を持っているからではないのですか?」
伊東は、本当に、鋭い。だから、私は伊東にそばにいられると、近づかれると困るのだ。
「ふふふ、買い被りすぎですよ、伊東さん。それに、何と言われようとも私は近藤さんと土方さんのお側を離れる気はないと言ったでしょう」
伊東は私が徳川の巫女だと言うことを知らないし、こちらも言う気はない。何か考え込んでいる風だが、何を言われようとも私は新選組から離れるわけにはいかないんだ。あの紙に書いてあるとおりにことが起こるとすれば、なおさら。
「私は、山南さんを誘おうとも思っているんですよ」
続けられた伊東の言葉を聞いて、私は静かに杯を床に置いて、彼を見つめた。そんなことをされてはもっと困る。伊東のところに行っては、山南は必ず歴史の流れにまた戻ってしまうだろう。それに、伊東が作る組織はいずれーー。
「山南さんが私たちに同意してくださるとなれば」
「伊東さん」
思う以上の自分の冷たい声に、私は自分で驚いた。これでは、この人は落ちない。一度心を落ち着けてから、ゆっくりと満面の笑顔を形作る。
「人の思想に垣根はありませんし、私がとやかく言うことではないですけど。それだけは止めていただけませんか。あの人はあのままあの場所で平穏な時を過ごすのが一番いいんです」
せっかく私が辛い気持ちを押し込めて、剣士としての山南の命を奪ってまで生かしたのだ。またこの流れの中に戻すなんてことをされたら、全てが水泡に帰してしまう。
「もちろんこんなのは私の単なる自己満足でしかない。だけど、山南さんにだけはこんな殺伐とした時の流れの本流に戻したくないんです」
子供たちに教えている生き生きとした山南の姿を、私は目の前にしなくても覚えている。あの場所は懐かしくて、とても楽しくて。いつまでもあの時が続くことを、私は願っているんだ。いつか帰って来れたら、と願うことさえある。そんな時間はおそらく私に残されてはいないだろうけど。
「これは私の我が侭です。だけど、どうかあの人はあのままに置いていただけませんか。山南さんは私にとってかけがえのない人なんです」
誰も山南に代わるコトなんて出来ない。近藤も山南が戻ると言えば快諾するだろう。だけど、それでももう私は山南に、ここへ戻って欲しくない。この先を、あの人に見せたくはない。
この先の辛い時に関わってしまえば、山南は本流にきっと戻ってきて、そしてきっとあの時のような辛い選択を繰り返すことになってしまうに決まっているのだから。
「葉桜さん」
ひどく哀しそうな顔で、伊東は私の願いを了承してくれた。
カタカタと小さな音を立てながら、お茶汲み人形が私に向かって歩いてくる。私もとうとう歩くまでなったとは、知らなかった。しかしながら以前と同じく、人形の持っている湯飲みにお茶が入っている様子はない。てことは、やっぱり口からってことですか。
カタカタカタ…
私の足元近くまできた人形は、そこでぴたりと止まる。この辺りは普通の茶運び人形と同じなのだろう。ここからが山南の違うところでもある。おもむろにカパッと人形の口が開き、そこからダーッとお茶が湯飲みに注がれるのだ。いつもこれを見る度に私は笑いを堪えるのを苦労する。
「あ、有難う」
口を閉じた人形の盆の上から、私がお茶を受け取ると、人形はまたカタカタと小さな音を立てながら歩き去っていった。
私はそれを眺めつつ、ズズズとお茶をすすり、湯呑を机に置く。ここで味について、とやかく言ってはいけない。人形が淹れてくれるということの方が重要だからだ。
「また改良したんですね、山南さん」
「ふふふ、気に入ってもらえたようだね」
「ええ、とーっても可愛いです」
皆は怖いというが、あの人形はあれが可愛いんじゃないか。あの愛らしさはなかなか出せないと思う私の趣向は、人よりも多分に風変わりといわれている。
手招きに誘われて、私は山南の前に移動する。と、手を引かれて、私は山南の腕の中に収められる。いつもの場所と言えば、いつもの場所なのだが。
「山南さん、今日はあまり長居できないんです」
「話は山崎君から聞いているよ。病床の沖田君の代理として一番隊の指揮を取っているそうだね。それから、彼の薬の調合や食事の世話までしているそうじゃないか」
先手を打たれて返ってきた言葉に、私は思わず舌打ちした。最近お互いに忙しくて、山崎と会わないと思ったら。山南のところに愚痴を零しにきてやがったのか、山崎のやつは。
「今日はなかなか休まない君を気遣って、皆に与えられた貴重な休みのはずだ。何故、ここに来たんだい?」
咎めるような口調も言葉も厳しいものだが、如何せん山南自身の声に笑いが混じっていては台無しだ。休みに自分の所へ私が来たということを喜んでくれるのは私も嬉しいが、以前よりも素直になりすぎでしょう。
伊東と話をした直後、私は近藤たちにあることを提案し、ここへ来た。それは。
「実は」
しかし、口に出そうとして、直前で私は躊躇ってしまった。だって、これはどうしたって卑怯なお願いだ。優しい山南は、きっと私の頼みを引き受けてくれるだろうし、責任感も強いから伊東たちについて行くことなく面倒をみてくれるだろう。それじゃは卑怯すぎるだろうか。
「伊東さんたちの話は聞いてますか?」
「ああ、この間の件で君たちが謹慎処分を受けたという話かい? それならーー」
「いいえ、その後の話です」
伊東らの分離が、正式に近藤から認められたのは今日だ。だけど、その前から既に伊東から誘われていたとしたら、私のお願いなどよりもよほど山南には魅力的なのではないだろうか。不安に見上げる私を苦笑し、山南は優しく頭を撫でてくれた。
「わかっているよ。葉桜君は、私にここにいて欲しいのだろう?」
「正直伊東君から誘われたときには、私も迷ったよ。私だって、国を思ってここまで来た身だからね」
やっぱりもう既に、伊東は山南を誘っていたのか。それならば、返事を返していてもおかしくはない。
「返事、したんですか?」
不安色の声音を発する私の頬に、山南の大きな手が添えられる。
「私に、今教えている子供たちを放りだすことは出来ない。葉桜君が命を賭して残してくれた、私の生きる道だからね」
目を見開く私に、山南は穏やかに続ける。
「私は伊東君たちにも近藤君たちにもつかない。それでいい」
「山南さんーー」
私の想いを汲んでくれるのだと、そのためにこのままでいてくれるのだという山南の言葉に、私は嬉しくもあり、反面で心苦しくもなる。だから、どういう顔をしていいかわからなくて、俯いたしまったのだけど。
「それから沖田君のことだけれど、ここの離れを借りようと思う」
まだおくびにも出していなかった話を山南から先にされ、私は俯いた顔を上げた。
「え、いいんですか?」
「新選組で世話になっている立川先生という医師がいるから、そこの先生に時々足を運んでもらうとして」
「だ、だって、総司は労咳なんですよ? ただの病気じゃ……!」
動揺し、山南の襟を掴んだ私を彼は笑う。
「ああ、だからだよ。労咳は難しい病だ。このまま葉桜君ばかりが世話を続けては、先に君の方が参ってしまう」
このことは山崎に言われたことだと山南は付け足してはくれたけど、なんて優しい人なのだろうか。こんな人に沖田を押しつけて良いわけがない。これ以上、私の我儘を押し付けるべきじゃないだろうと、私が断ろうと口を開けると、先に山南が言葉を続けた。
「沖田君は元来子供好きだから、きっとあの子たちの声を聞いているだけでも元気になれると思う」
私のためばかりではないとさりげなく気遣って、山南は私の言葉を封じてしまう。これでは、私は何も言えない。たしかに子供たちの元気な声を聞くだけで、力を分けてもらえる気がするのは、私も同じだから。
「は、ははは、もう…優しすぎますよ…」
私はもう言葉にしきれないほどの感謝で泣きたくなって、山南の肩に顔を埋めた。山南もそっと、私を抱きしめてくれる。
「せめて、薬だけは私に調合させてください。それと、沖田の費用もすべて私が」
「ああ、薬は松本先生のお墨付きなんだって? 時間のあるときにでも頼むよ」
できれば私自身に届けて欲しいと言いつつ、無理はしないでと山南は付け加えてくる。少し前ならば、絶対に私が届けることを条件にしていただろうけれど、そこまで私を気遣って、甘やかしてくれる。それなのに、私は誰かを選べないのに。私はこの人にどう恩を返したらいいのだろうかと、気持ちが溢れて。
山南の首に腕を回して、私はぎゅっと軽い力を込めて抱きしめ返した。
「有難うございます、山南さん」
それから、と山南から続けられて、少しだけ私は戸惑った。これ以上の用事なんてなかったけれど、もし見返りとして求められるのが私自身となるととても困るのに、今は断れる気がしないから。
言葉の止まった山南を訝しんで、私は体を離し、その顔を覗きこむ。なんだか、物凄く照れているように見えるんですけど。あの初めて抱きついた時みたいに、耳まで赤くなっている。
「そ、その、私のことは名前で…いや、ああ、やっぱりいい…」
言いかけた言葉から先を推察し、私は、なんだそういうことか、と苦笑した。おそらく山崎から、私が沖田のことを名前で呼んでいることを聞いたんだろう。
「あははっ、山南さんカワイー」
「なっ、こら、からかうんじゃ…っ」
「それぐらい良いですよ。これから総司の面倒を見てもらうんですから。ね、敬助さん」
だけど、私が名前を呼んだ途端に、目の前で更に山南の顔が赤くなって。
「うわー真っ赤っ! って、あれ、敬助さん? どうしちゃったんですか、敬助さん?」
慌てて赤い顔を隠す山南が面白くて、さらに私が彼の名前を連呼していたら、やっぱり以前のままで良いと言われてしまった。
だけど、ああ、うん、なんだか可愛いからもう一度やろうっと。
私は久々に、本当の意味での満面の笑顔を、自然と浮かべていたのだった。
伊東さんで書き始めたら、そういえば山南さん生きてるから当然のように誘うだろうなぁ。と思い当たり。
書いてたら、また山南さんで遊んでしまいました。
とりあえず、書いてる方は楽しいんですけど、これだけ長くなると読むのが大変ですね。
その大変なのをわかっているのに、先日少々書き直しました。
読み返したら、あら酷い。ってことで。
人称ばっらばらなんだもん。
御指摘くださった方有難うございました~。
また妙なの見つけたら教えてください。
(2006/07/12 09:39)
改訂
(2012/11/21)