目を閉じると、世界の声が聴こえる気がする。目を開けば、柔らかな下生えで両腕を枕に寝転がって見上げる私の前には白雲の流れる青空が広がる。上空は風が強いのか、雲の動きはとても早い。雨の匂いは混じってないし、友達の妖精が伝えにこないから天気に問題はないだろう。
ゆったりとした長いパンツの上から巻いたカラフルなスカートが風にはためき、同じ布で作ったバンダナで結んだ髪が風に流されて揺れる。上だけでなく、この辺りも村の中よりは風が強いようだ。
風に乗って流れてくるのは人の声や、鳥たちの囀り。ここは私のお気に入りの場所で、オーサーも知らない秘密の庭だ。村の入口とは全然別の場所にあるし、容易に他の人が入れないようにまやかしの魔法もかけてある。だから、正真正銘ここに来られる人間は私しかいない。
「ふふっ」
思わず口から笑いがこぼれたのは何かが可笑しかったとかじゃない。ただ単に幸せだからこぼれた。だって、小さい頃はこんな風に穏やかに過ごせる時が来ると思わなかったから。誰にも命を狙われることのない穏やかな日々がくるなんて、まさしく夢だったから。それを叶えてくれたのは、思わぬ人物だった。
「笑ってる場合じゃねぇだろ、アディ」
呆れた声が聞こえた私は慌てて体を起こし、相手を振り返る。
そこにいたのは大神殿までの道をともにしてくれた私の騎士で、女神の従者だった男だ。旅が終わった今もここにいる理由はひとつ。騎士の契約があるからに他ならない。
「他の人は連れてきてないよね」
「そんなことできるか」
ゆったりとしたパンツも袖のないシャツも土がついたりしていることから、先程まで働いていたのだとわかるディは、大股で近寄ってくると、私に寄り添って腰をおろした。
大きな手が私の頭に乗せられて、そっと叩かれる。
「オーサーのやつがまたアディのこと探してたぞ。何かしただろ」
疑問形でなく何かを確信しているディを私は小さく笑う。
「今日は、何もしてないよ」
「今日は、か」
つられたように笑うディを見ると、そっと私の頬に手が添えられた。そのままそっと撫でる手は荒れているから、少し痛い。でも、よく見なくてもその手が剣を握る人のものだとすぐにわかる。気がつけば村の大人たちはこういう手をしているから、村を出るまで私は気付かなかった。
私は目を閉じて、ディの手をつかんで自分から擦り寄る。
「それで、ディは私を怒りに来たの?」
そうじゃないことはディの纏う空気でわかったけど、私はあえて口にしてみた。案の定、ディからは否定が返される。
「まさか」
私がつかんでいるのとは逆の手が伸びてきて、私を引き寄せる。
「わ」
予想もしていなかった私は、ディの広い胸板に落ちた。ディも倒れたので、私はディの上に乗る体制になる。私よりも少しだけ低い体温に触れると、隣に来てもなんとも感じていなかった私の体温が急に高くなる気がする。
「ちょ、急に何す」
文句を言いかけた私はディの顔をみて口を噤んだ。
「アディがオーサーを遠ざけるのは別にいいんだよ。それにこうでもしなきゃ、」
途中で口を切ったディを見上げると、ディの深い森の葉っぱと同じ色の瞳が優しく笑っていた。
「な、なによ」
戸惑私をディは笑っている。
「な、なんなのよ」
「ははは、まあ、気にすんな」
「気になるわよっ」
起き上がった私がディを見下ろそうとすると、ディも起き上がって、今度は倒れずに私を抱き寄せる。見上げたままの私をディが優しい眼差しで見つめている。自然と流れる甘やかな空気が、嬉しいような恥ずかしいような気分で、とても落ち着かない。
「そんなに、気になるか」
「う、うん」
自分の心臓が忙しく動いてて、それが伝わってしまうような気がして、さらにどくどくと波打って。それでも、視線を外したら負けのような気がして、私は動けない。
からかうように、風がくるりと私とディの間を通り抜ける。後ろから巻き上げられた私の髪をディはゆっくりと撫でる。
「こうでもしなきゃ、オーサーはアディ離れできねぇし」
「何、よ、それ」
「アディも、オーサー離れしねぇとな」
反論しようとした私に、急にディが顔を近づけるから、私は慌てて顔をそむけた。
「べ、別にオーサーのことはなんとも思ってない、」
「ほー」
耳元にふっと息を吹きかけられ、私の思考のパズルがバラバラと崩れる。これがオーサーなら攻撃して終りなんだけど、ディは私の拳を止められるとわかっていても、私がそうできない。好きだと自覚した日からディに冗談でも攻撃できなくなったことを思い出し、私は両目を強く閉じ、動揺してさらに早くなる心臓のあたりを両手でぎゅっと押さえた。
「アディ」
耳元で名前を呼ばれ、自分でもどうしようもないぐらいにびくりと体が跳ねる。
「目、開けろよ」
「やだ」
首を振って拒絶する私に軽いため息がかかり、私は嫌われたくなくて恐る恐る目を開ける。目があったはずなのに、すぐにディは私の頭を自分の胸板に強く押し付けた。土と汗の香りが強く香る。
「別にここで襲わねぇから、そんな顔するな」
そんな顔と言われても、私にはよくわからない。後頭部をゆっくりと撫でられる感触が心地よく、さっきまで緊張していたはずの体は心地よい安心に支配される。同時に、穏やかな天気に眠気も出てくる。
「アディ」
「んー」
「あんまりオーサーを構うんじゃねぇぜ」
「んー」
「いくら俺が寛大でも限度があるからな」
半分ぐらい夢に飛びかけていた私は、ディの言葉でいきなり現実に引き戻された。顔を上げようとした私のてっぺんに、何かが軽く触れる。この態勢で、後頭部に片手が合ってということは。やっぱり、キス、されてたってことだろうかとぐるぐる考えながら、言葉を舌にのせる。
「限度って、なななに」
「聞くな」
「それに、私がオーサーを構ってるんじゃなくて、オーサーが私を」
言い訳る私をディは呟く言葉で遮る。
「どっちでも同じだろ。ったく、仲がいいのは構わねぇけど、おまえらは限度がなさすぎるぜ」
ディのつぶやきの後半は、ほとんど愚痴だ。ディにしては珍しい。
「忘れるなよ、アディ。俺はアディに仕える騎士で、女神の従者だけどな、それ以前にアディの恋人なんだからな」
時々、二人でいるとき限定だけど、ディはこういう言葉を吐くから、私はどうしようもなく居心地が悪くなる。こんな密着した態勢でいると、私のドキドキまで伝わってしまいそうで落ち着かない。
「わ、わかってるよ。でも」
「ならいいんだが」
「でも仕えるとか守るとかはいいから、さ」
確かにディは恋人以前の肩書きが多いし、そのせいで私もよくわからなくなるけど。
「守らなくていいから、私より先に死なないでよね」
ディは強いとわかっているけど、それでも時々どうしようもなく私が怖くなることをディは知っている。以前はオーサーしか知らなかったことだけど、今では一緒に夜を過ごす間に知られてしまった。隠してなんておけなかった。
こうして平和になった今でも、私は子供の頃の夢を見続けている。全部終わったのに、私は時折来る悪夢から逃れられず、夜中に目を覚まして涙し続けるのだ。夢とわかっているのに、怖くて怖くて、仕方がなくなる。
「ディは強いけど、私を守って死んだりなんてしないでよ」
「……アディ」
「先にいなくなったりしたら、許さないから」
私を抱くディの腕に力が隠る。
「ああ、約束する」
今ではディの過去を知っているのに、そしてディが決して私を守ることをやめないと知っているのに、私は偽りでもディの約束を聞きたくなる。何度いわれても安心出来ないのに。
「独りにはしねぇよ」
私もディの身体に腕を伸ばし、抱きしめる。私の腕の長さでは、全然背中まで回らないのだけど。
「だから、アディもーー逃げるなよ」
「ん」
ディが腕を緩めるのに合せて、私も腕を緩め、その顔を見上げる。逆光がまぶしくて、泣けてくるから目を閉じる。
額に、頬に、鼻先にと降りてくるキスを感じながら、それを待つ。
「ずっと、一緒にいてよ」
「ああ」
触れ合う数で不安が消えてくれればいいのに。いつまでも消えない不安をキスに隠して、私たちは今日もただ重ねるだけの誓いをたてる。私の頬にディの手がかかり、ざらついた親指で目元に溢れた不安を拭っていった。