妙にだるい日だった。何もやる気が起きない。生きているのか死んでいるのかそれさえもわからない、けだるい一日。まだ夏は来ていない。外の緑も深く濃く、照り返す陽光は長く白くなってはいる。けれど、だるい。
寝返りを打ったら、さっきまで自分のいた場所に大きな振動がきた。芝が濡れていたので、その上にローブを引いて寝転がっていたんだけど、それももうほんのり芝と土の匂いに染まっているかもしれない。
「起きろ、馬鹿」
低い、けれど明らかに少女の声は耳のすぐそばで聞こえた。聞きなれた耳に心地好い声は怒っているようではなく、よくある悪戯の色を秘めている。
「起きなきゃ、蹴るよ?」
本当にやりそうな気がして、起きあがろうとすると、襟首を引っつかまれた。
深い夜空色の瞳の奥に、俺がいる。
「なんだよ、リサ?」
彼女は口元を歪めて、頬をひくつかせている。同年の少女の中でも特に白いとはいいがたいが、たしかにやわらかな肌、それの感触を俺は知っている。
「説明が、欲しいんだけどね?」
どうやらひどく怒っているらしいと知って、俺は態勢を立て直すためにその手を掴む。小さく包みこんでしまう手は、強く襟元を締め上げようとしていた。
「ちょっとまて。聞くから、手ぇ離せよ」
「やだ」
有無を言わさず、締め上げてくるもんだから、流石に命の危険を感じそうになる。でも、この震えている手じゃ、何もできないだろうけど。
「シリウス・ブラック?」
「なんだよ、リサ・ミヤマ」
わざわざフルネームで呼んで、なんだってんだ。
「昨日、なんつって私の友達を泣かした?」
「は?」
「あんたに告白してきた子がいたでしょ、濃いブロンドがソバージュのカーワイイ子!」
なんのことかと思えば、それか。なんか勘違いしてきた、変な女。
「あぁ、アレか」
最近の俺はおかしいと思う。どんなに綺麗なブロンドでも、どんなに綺麗な姿でも、これが全部黒ならいいのにと考える。リサと同じ、黒い髪、黒い目を探している。代わり、ということだろうか。でも、どれも違うと知ってるから、どうにもならない。
「アレ!?」
強く締め上げ、引き寄せられて、吐息が顔にかかるほど近くなる。あと、10センチあるだろうか。
「あんたのおかげで、私の仲良しスクールライフはめちゃめちゃよ!」
それに気がついていないのか、リサは瞳を潤ませて、怒っている。可愛いなぁと、苦しくなってきた息の下で思った。
なんていったかな。あの勘違い。「私のこと、ずっと見てたでしょ?」だっけ。「私のこと、好きなんでしょう?」だったかも。
どちらにしても、それはとんでもない勘違いだ。俺がずっと見ていたのは、隣にいたリサの方。
「理由わかんなきゃ、喧嘩できないじゃない!」
血の気が多いとは知ってたけど、そんな理由か。
「誰と?」
「ルームメイトの彼女とよ!」
突き飛ばすように手を離されて、地面に強かに後頭部を打ち付ける。急にはなすなよ、まったく。ここがやわらかい地面で良かった。
「昨日あんたにふられてから、ひとっことも口聞いてないのよ? こんな状態、いやなの。だから、張本人に聞きにきたのっ」
だから、教えなさいと命令する。太陽の直射を受けて、細めた瞳が、余計に泣きそうで。俺のローブに膝をついて、自分のローブをキュッと握り締めて、泣かないように堪えている。
そんな仕草も表情も、ひどく男を誘うものだと気がついていないのだろう。でなければ、俺の前でそんなことはしない。
「なんて言ったかな…」
「思い出さなきゃ、また締めるよっ?」
睨みつけてくるその様子は、本気だと物語っているけれど、そんな表情さえも。
「そうやって暴力揮ってると嫌われるぞ」
いつものようにいってやると、もっと泣きそうになったので慌てて引き寄せる。思うより細い肩に少し躊躇したが、でもそれ以上に反発されるかどうかということが怖い。
「泣くなよ」
「離してよ…っ」
「俺が泣かせてると思われんだろ」
「誤解されるでしょ」
涙声が胸のうちでポンと跳ねた。離してといいながら、しがみついてくる様子に安堵して、その肩を叩く。腕の中にすっぽり収まってしまうミニサイズ。だけど、大人しく収まってはくれないリサ。そんなお前が、俺はーー。
「いいじゃん」
「私が良くない。シリウスのファンは怖いのよ」
「え?」
「女の子って同性には厳しいの」
軽く手をついて俺から離れようとする。深緑と深い空の色と、白い雲、それに光を受けた石の壁。それら全部にリサが溶けてしまいそうな気がして、慌ててその腕をつかんだ。二の腕の細さと柔らかさに、ドキドキする。
「どーいう意味?」
「その、ままよ」
「なんかあったのか?」
「何もないわ」
ウソだと直感する。だって、何もないといいながら、また泣きそうだ。
「何があった?」
「何もないっ」
「言え!」
「言わないっ」
「言わなきゃ押し倒すぞ?」
「また締め上げるわよっ?」
掴んだままの腕を強く引き寄せると、彼女の震えが伝わってくる。弱い抵抗はたしかに女のモノで、彼女はたしかに女で。そして、俺が大切にしている者のひとりだ。
「言えよ」
かすかに触れた唇は冷たく、そして柔らかい。もっと触れたいと強く願う。
「本当にヤるぞ?」
耳元で小さく囁くと、正気に返ったように急に暴れ出す。
「離せ、馬鹿!」
「じゃあ、何があったんだ?」
「嘘吐き! 変態! 強姦魔!」
「ヤってねーよ!」
「うるさ…っ」
騒ぐので、また口を塞いで、さっきよりも長く、深く、吸い上げて、意識を撹乱させる。彼女の中は冷たいのに柔らかい。もっと熱いのかと思っていた。
「…で、何があった」
「ひきょー…」
「いいから、答えろ」
肩に頭を寄せてうつむく力ない姿は儚くて、やはり風に吹き消されてしまいそうだ。
「別に」
また気がつかれないようにローブを強く握り締めている。細い小さな手が白くなるまで握り締められて、黒いローブに淡い光の皺が寄る。
「言え」
「…聞いてもしょうもないよ」
深く深くため息が吐き出される。それでも、話してくれる気配はあって、少しだけ、手を緩め、額を合わせる。
「聞きたい」
「…つまんないよ?」
「そんな期待はしてない」
またため息。湿った芝の匂いは俺からしていた。陽光で蒸発していく過程で、俺たちを包み込む。
「視線ってさ、けっこうわかっちゃうもんなんだよね。そんでさ、気がつくと気になるでしょ。気になると、トクベツになっちゃうの」
「うん」
「そんで、私もさ、あんたが見てるの、彼女だと思ったわけ。で、昨日、の前の晩だから一昨日? 絶対大丈夫って、けしかけたの」
「…へぇ~」
「あ、なにそれ」
「いや、いい。続けろよ」
「うん」
それでさ。と小さくボソボソと続ける彼女の声は小さくて、小さくて、息を止めないと聞き取れそうもない。でも、リサとこんなに近づくのも、こんなに話すのも実は初めてで、悪いなと思いつつ俺は幸せを噛締めていた。
「で、昨日。あんた、ふったでしょ?」
「うん」
そういえば、初めて話しかけてきたのは彼女の方からだった。妙に気さくに来られて、心臓が痛いくらいにうるさくて、部屋に戻ってから、悪友たちにからかわれたのは記憶に新しい。
「あの子、怒りながら帰ってさ、布団に入って泣いてた」
話してみて、あまりに違うギャップに驚いたけど、でもなんだか風みたいで気持ちの良いさっぱりした少女で。俺は、見ていただけの時よりももっと好きになっていた。
「フラレたんだな、ってわかった。でも、ごめんって思いながら、私も少しホッとしてた」
ーーヤな女だよね。私が一番、イヤな奴だ。
なんでホッとしていたのか。言われなくてもわかって、そのまま引き寄せそうになる俺に、強く、また彼女が言った。
「それまでさ、私たちって、同志だったのよ」
この場合の私たちというのは、彼女とそのルームメイトの話だろう。
「女の子って好きな人の行動に敏感だから。あんたのその視線、その先に私たち二人がいて。呼び出されたりとか、いろいろあったけど、あんたがいつも嫌われるぞっていう暴力で、二人とも切りぬけてたわけよ!」
彼女の言うことはすぐにイメージできた。金髪の少女を背にかばって、勇ましい少女の姿。たぶんカッコイイだろう。震えながら、拳を握り締めて、傷つかないように守る少女。
「それがさ、今朝から話も出来ない状態のまま、いたら、さ」
小さくなる声に、もっと頭を下げる。
「あの子、いつもみたいに囲まれてて」
リサのことだから、助けようと思っただろう。
「で、一瞬目があったの」
けど。
「反らされて、さ。何も、言わなくてさ」
顔は見えないけど、小さく白い手に水滴がひとつふたつ…と落ちた。透明なそれは滑り落ちずに、水の珠を作って、やがてじわりと染みこんだ。
「そんで、俺のこと締めにきたんだ」
手を取ろうとしたけど、もっと強く握り締めて動かない。耳元で、諭すように小さく囁く。風に消されないといいけど。
「…リサ」
「一言で、よかったの。助けようと、思ってたのに、私、そんなことで、怒って、逃げたの」
たぶんあの少女は、リサがいなくても自分で切りぬけるぐらいは出来る。そう思ったけど、言わないでおいた。
「…リサ」
「私、卑怯だよ。ただ頼られたかったの。あの子を守って、んで、頼られて。それだけでよかったの。そうじゃなかったから、怒ったの。そんで、やつあたりに来たの」
何度呼んでも届いていない。それはそれで、なんかムカついた。だから、もう一度、抱き寄せる。今度こそ、強く、閉じ込める。嗚咽が小さく、響いてくるだけで、反発はない。泣き声は聞こえなかった。震えだけが伝わってくる。
「好きなやつが、いる」
震えるほどに愛しい、少女が。そういうと、リサは静かに頷いた。わかっていないだろうけど。
「あんたのいう女に、たぶんそう言った」
肯く動作は、小さくてもわかる。
「そいつは、最初気になるだけだったんだ。同じ色に惹かれて、目で追うだけだった」
見ているだけでよかったとか、そういうわけじゃない。ただちょっと、引っかかるだけだった。そう、意識の端に置いた一個の純白の小石みたいな存在。ただ、それだけだった。
「話してみると、これが、面白いやつでさ。なんつーか、うん、足をとられたっつーか、掬われたっつーか」
当の本人は、ただ震えながらも聞いているのだろうか。聞いていてくれなければ、告白損だな。と、少しの笑みが零れた。笑いは震えとなって届いただろうか。
吸いこんだ空気に、甘い花の香りが届いて来る。
「そいつは他のことには勘がイイのに、恋愛に関しては超鈍感で」
意識の端にあった白い小石が目映く光放つまで、そう時間はかからなかった。もともとそうなるように、できていたのかもしれない。
「俺が今、何考えてるかまで思いつかないくらい、ルームメイトのことで頭がいっぱいなんだ」
女友達のことしか頭にない、リサがたまらなく愛しくて、可愛くて。
リサが守られたい側でなく、守りたい側だということはわかってる。でも、俺はリサを守りたい。
「言ってること、わかるか?」
「…わかんない」
腕を緩めて、リサのたおやかだけど、光を納める闇の髪を耳にかける。赤く染まる耳に触れると、びくりと震える。
「うそつけ」
「嘘、じゃ、ない」
「はっきり言わせたいのか?」
頬を両手で挟んで上を向かせると、ローズティーよりも赤い顔で、視線を逸らす。
「俺がずっと見てたのは、お前だ。リサ」
はっきり言うと、怯えるような泣き出すような瞳に俺と白い光が映る。太陽を閉じこめて、瞳が細められる。
「…嘘吐き」
「うそじゃねぇよ」
閉じた瞳から零れ落ちる涙を吸い上げる。塩辛いのに、甘い。そんな涙の味。
「嘘吐きで、いいのに」
「なんだよ」
「嫌いになれなくなるじゃない」
「嫌わなくていいんだよ」
やんわりと、胸を押し返されて、離れようとする。そうはいかない。
「嫌いにならなきゃいけないの。私、浮気な人は嫌いだもん」
「なんだよ、それ」
「私は私だけ、愛してくれる人がいい」
ーーシリウスは違うじゃない。
どこできいてくるんだか知らないが、根も葉もない噂だ。俺は誰に告白されても、付き合ったことはない。ヤるだけならあるけど。
「リサだけだよ」
「嘘つき」
「好きだ」
「私、嫌いよ」
「リサが好きだ」
「シリウスなんか嫌いよ」
「じゃ、抵抗しろよ」
「…嫌いよ」
もう一度触れるそれは優しく求めてくる。
「嫌いよ、浮気な人は」
しばらくして、リサは風の中に立って、走っていってしまった。
どうしてもだるさは消えなくて、追いかけられない。黒い髪の残影が、瞳の奥に焼きついていたので、そのまま瞳を閉じて、感触を思い出していた。
俺の幸せは君が隣に来てくれること。拒まないでいてくれること。気だるさは、春のなごりの密やかなまどろみ。
Catnap=うたた寝。
犬をフる話か…?
告白して、フラレて、わけわからんので、たぶん彼らの続きを書くかも。
一季節分早いですが、初夏の話。てことで。
しかし、うちの犬は手が早いな…。[おあずけ]を教えるべき?(笑。
(2003/03/03)