耳に焼きつく甘い低音。甘いのが苦手なアナタとわかっているのに、私はたまにそれを聞きたくなる。甘くて切なくなる声、いつも強気なシリウスの弱さを受けとめたい。
「好きだ。 おまえがいてくれれば、何もいらない」
繰り返されるそれは時に触れ合うよりも、強く私を縛り付けるとあなたは知らない。
「うそばっかり」
咎めるよりも優しい声音だけで返す。目は手元の本を追っていて忙しい。シリウスが後ろから抱きついてきている時点でその内容は頭に入らなくなっているけれど。
「リサしかいらない」
ため息と共に吐き出される切ない響きが首を撫でるけれど、さすがにいつものことだし慣れたようにみせかけるまでは完璧だ。みせかけるのは。完全に慣れることはできないと思う。日本人は得てして謙虚で恥かしがりで、こんな談話室でスキンシップなんて慣れていないのだ。いくらテスト明けでほとんど人がいないとはいえ。
「なにかあったの?」
弱音を吐くなんて、シリウスらしくもない。明日は飛行術もあるし、雨なんて降ってほしくないんだけどな。
ソファーを乗り越えて隣に座ろうとするので、わずかに沈みこんだ身体が傾いて広い肩に収まる。頭だけ。
「なにかあった?」
髪を避けて首や耳や頬に触れてくる手の冷たさに、勝手に身体が反応する。条件反射ってヤツだ。ーーちがうか。
「私しかいらないなんて言われても困るわよ。シリウス・ブラックはとっても欲張りだものね」
ひとりじゃ手に余る、なんていうと、きっと困った顔をしているに違いない。
「おまえな…」
情けないため息混じりの声に振りかえると、やっぱりひどく情けない顔をして私をみつめている瞳に正面からぶつかってしまった。いつまでも透き通る輝きを忘れない彼の瞳にのまれそうになる自分を抑えて、ただ微笑むだけに留める。こんなことで流されるくらいなら、そもそもシリウスと付き合ってなどいない。
「違う?」
答えは返って来なくて、深い深いため息だけが彼を取り巻いているようだ。
「信じてくれないのか?」
「何を」
「俺にはリサしかいない。リサしかいらない」
本当に本当だ。なんて、まったく。
「ジェームズやリーマスやピーターだって、リリーだって信じてるわよ。誰もシリウスを疑ってなんか」
「おまえは?」
泣きそうというよりも、虚無が見え隠れする。どうして私の前だとこんなにこの人は弱いのかしらね。
「信じて…」
「どうして私が疑ってると思うの」
ベシッと額を叩いてやると、あっさり仰け反ってソファーから転がり落ちた。こんなあっさり転がるなんて、尋常じゃない落ちこみよう。そんなに、ショックかしらね。ショックの度合いといえば、私の方が大きいと思うのだけど。だって、恋人に信じていないと思われているなんて、私の方が信用ないんじゃない。失礼しちゃうわ。
「どうして私がシリウスを疑うの」
やんわりと言っても、のっそり起きあがってその場に座ったままのシリウスは動かない。しかたないから、足音小さく近づく。
「だって、お前、噂聞いたんだろ?」
抱きしめようと伸ばした手を引っ込めて、向かいあって座るだけに止める。
噂というのは、私が編入してくる前のシリウスに関するものだ。かなり派手な女性関係だったらしい。そう、付き合っていたという女生徒から聞かされたのが数日前。
「それで疑ってたんじゃないのか? それでここんとこ、俺を避けてたんだろ?」
それからの数日なんて、思い出したくもない。テスト期間ということもあって、気づかれてないと思ったんだけどね。心の中が醜く黒く変色していく自分が嫌で、そんな自分をシリウスには見せたくなかったから遭わないようにした。さりげなく、誤魔化せるように。リリーには一応、話したけど。
「そうね、否定はしないわ」
最初は今でもまさか、なんて疑ったけど、よく考えると四六時中一緒にいたシリウスにそんな暇はなかったはずだ。時間があればいつでもどこにいても探しに来てくれて。最高に優しく過保護な恋人。疑うなんて、馬鹿らしいと思えた。
「でも、疑うよりも信じる方が楽だわ」
いつまでも誰かを恨み続ける自分がとても嫌いなんだ、私は。シリウスは私の透明な心を愛してくれたから、私はそのままであろうと思う。
世界中、誰もあなたを信じなくても私が信じてる。そう思うこと自体が疑ってるなんていわないでよ? 私が愛するののはあなたしかいないんだから。
伸ばす腕で貴方を包み込む。大きくて広い身体は納まりきらないから、柔らかで真っ直ぐな髪を抱え込んで、手の中に感触を掴む。少し伸びたね。切るの担当の私が離れていたせいとか、うぬぼれてもいいですか。私以外に触らせていないのだと、喜んでもいいですか。
「大好き、シリウス」
あなた以外見えなくなるぐらい、好き。
しばらくそうしていたけど、珍しく私は照れることもなく穏やかだった。こうしているのが幸せなんだと知っているから。
「リサ」
「なあに?」
優しく押し返されるままに見上げてくるシリウスの顔はいつもの私と立場も顔も正反対で、いつもは彼もこんなに楽しんでいたのかしらと考えた。損していたかもしれない。
綺麗な顔の弱くて情けない恋人。単純で、不器用で、優しいシリウス。ふわりと優しく触れてくる唇はとても冷たくて、どこか熱くて、ちいさく震えている。
「やっぱり、おまえしかいらないな。俺」
「…っ うそばっかり」
「リサがいて、俺だけに笑ってくれる。これ以上に望む幸せなんてない」
真顔で言い切られ、顔が火照るのを感じる。
「だから、信じてくれ」
「信じてるわよ」
隠すように顔を背けて、笑いを少しだけ零しながら答える。
談話室の炎がゆらゆらと2つの影を揺らしているのが目に入る。グリフィンドールの赤に色取られた鮮烈な部屋には、その影がまさしく恋人達の影として映し出されている。
「そうじゃない」
床に小さくつけられた腕に閉じ込められる。私はギクリと自分の目の前で伸びてきた手を見る。細いけれど、しっかりと強い、男の、手。
「そうじゃないんだ」
「シリウス?」
「俺、まだ、お前に話してない事がある」
降って来る声は低く、固い。なんとなく、告白した時の自分を思い出した。
「なにを?」
「今は言えない」
今は、言えない。でも、いつかは話してくれるということだろうか。
少し前までの私なら、どうしただろう。問い詰めて、無理やりにでも聞き出しただろうか。きっと聞き出すことなどできずに、有耶無耶にされてしまうだろうけれど。なんだ、そうしたら結局同じだ。
今は、言えない。でも、いつかは話してくれるというのなら。
「待ってるわ。シリウス、あなたの口から話してもらえるまで」
ずいぶん辛抱強くなったものだ。
「ありがとう」
ホッとした声に、私も安心して、シリウスを見上げた。
「ーーと、言いたいところだが。その前に、医務室と俺の部屋、どっちがいい?」
は?
「3秒以内に選ばないと、俺の部屋に決定」
「な、なに?なんなの、急に!?」
見上げた角度から、悪戯を仕掛ける時と同じに笑う薄い口元が見える。かと思うと、少し下がって、膝下と背中にさっきまで見えていた両腕が差し入れられた。
「時間切れ。俺の部屋に決定な」
「や、だ、ま、まって!?」
「ダメだ」
強く、茶化していないと告げる顔と声に、私も口をつぐむ。部屋と同一色の深紅のカーペットのふわふわが離れていくのを手に感じ、首が重力に従って落ちそうに曲がるのを慌てて力を込める。それだけだと疲れるので、両手で肩に捕まったらローブが離せと滑り落とすので、しかたなく首に腕を巻きつける。シリウスの顔は整っているけれど、近づいてしまっても同じなのだと気がつく。キスの時は目を閉じてしまっているのだから、気がつかなかった。開いていてもきっと長い睫毛だとか、形の良過ぎる眉とかしか見えないから、下からの角度はまるで見たこともない。それでも、やはり人間として、綺麗なラインだと思ってしまう。少し悔しい。
「風邪引いてんのに談話室なんかにいるやつが悪い」
私が、風邪を引いてると。自分の額に片手をあてる。
「熱なんて、ないわよ?」
「今年の魔法族の風邪は、性格に影響あるんだよ」
可笑しそうに笑う。まるで私が何も知らないと云うように。今年の風邪は人格が変わるのだ、と。
いつもだったら、私はなんと言うのだろう。いらついて怒る、だろうか。そう考えると、風邪かなと思って、自分でも可笑しくなった。笑いながら、男子寮の扉をくぐる。
「レイブンクローのやつが調べた。んで、俺が風邪引かないからって、またジェームズ達にからかわれると思ったら、そうしないんだから気味が悪い。そんで、お前んとこにきたら、これだろ?」
基本は女子寮と大して作りは変わらない。それは、何度かリリーとお邪魔しているから知っている。それよりも、男子寮の廊下を堂々と女性の私を抱えて歩いているというのに、誰とも会わない。おかしい。変だ。監督生に何時捕まってもおかしくないのに。(いつもはジェームズの透明マントを借りている)
「それで、どうして医務室と貴方の部屋なの?」
「決まってるだろ。俺が、リサの看病したいから。だよ」
優しく愛しく見つめられて、心なしか熱が上がるような気がする。
一つのドアを蹴り開けて、部屋の奥のベッドへそっと寝かされた。何もいう間を与えずに、さっさとローブが取り去られ。シリウスの手でグリフィンドールカラーのネクタイが生物のように逃げだし。ブラウスの第一ボタンに手が掛けられる所で、ようやく私はその手を掴んだ。
「待って。どこまで脱がせる気なの?」
放っておいたら、全部脱がされそうな気がして、手を掴んだまま強く睨む。
「だめか…?」
「ダメに決まってるわよ。ここは」
「恋人同士なのに?」
曇り空を切り取った色そのままの瞳に気圧され、言葉につまる。
「風邪が、移るわ」
「移してよ」
「いや」
近づけられる顔から思いっきり顔を背けて、布団にもぐり込んだ。ふわりと香ってくる匂いは、いつものシリウスの髪と同じ匂い。思いっきり吸い込むと、安心とときめきが胸いっぱいに満たされる。
「ここ、シリウスの…?」
「そうだよ」
「シリウスはどこに寝るの…?」
「俺のベッド」
「…で、私は?」
「俺のベッド」
「狭いわよ」
「平気だって」
「私、寝相悪いから蹴落とすわ。きっと」
「そんなことにはならない。俺がしっかりと抱いとくから」
毛布ごしに身体全体にかかる圧迫感で、全ての状況が思い浮かべられてしまう。今日は冴えてるわ、私ー。などと、呑気に構えている場合じゃない。
「ゃぁぁぁっ! おーそーわーれーるー!!」
「でっ! 暴れんなよ。冗談…がっ!?」
「助けて、リリー! リーマス! ジェームズ! セブルス! ピーター!!」
「襲わないって…っ ま、まて、話せばわかる…っ」
圧迫感がなくなって、布団からおそるおそる顔を出す。視界には誰の姿も映らなくて、視線を上に向けると、シリウスが青い顔をして、壁に張り付いていた。視線の先には、黒い影が1つ。
「何をしてるのかな、シリウス?」
先に目に入ったのは、見覚えのある杖の色。何度も目にしてきたその色は忘れない。そのまま毛布を剥がしながら、顔と身体を上げると、リーマスは怖い笑顔でシリウスに向かって杖を向けていた。
「リサ、まだ何もされてないね?」
「う、うん。ど、して、リーマス…?」
「僕もこの部屋だから」
それで今のこの状況を説明しきれていると思っているのだろうか。
「あ、の、シリウスも冗談だって言ってるし…」
「いや、今日はぐっすり眠れないだろうから、手伝ってあげようと思ってるだけだよ」
その笑顔は絶対、嘘だわ。
「や、魔法使わなくてもね。ね?」
「そうだぞ。それに俺がリサにそう簡単に手ェだせると思うか!?」
「思うよ」
ちらりと視線が寄越される。それを見て、シリウスがリーマスを強く睨みつけている。
「………見んなよ」
「何を?」
「いいから、見んな」
強い視線を投げかけて来られて、少し怖くなる。なんで、私まで睨まれるの。
「寝てろ。毛布かぶって」
それに反発するより先に、リーマスが言う。
「リサ、リリーが心配してるから部屋に戻った方がイイよ」
「おい、リーマス!?」
「リリーが?」
「ほら、彼女も風邪で気が弱くなってたでしょ?」
いわれてから、記憶を探り出す。そういえば、今日はいつになく弱気で、いつも以上に可愛らしかった気が。あれも、風邪のせいってことかしら?
「あとで医務室から薬もらってきてあげるから」
布団を抜け出そうとして、固まる。
……く…す…り…?
「ここにいろ。俺が看病するから」
そしたら、薬を飲まなくてもイイという。
リサは何よりも薬が嫌いだった。だから、選択を迫られたら、大抵迷いなく、薬の使わない方を選ぶ。
「そんなこと言って、リサの風邪が悪化したらどうするのさ!」
「悪化なんかさせるかよ」
薬か、シリウスか。その選択肢なら、もうずっと前から決まってる。
「看病、だけだからね」
信じてるから。
「いいや、戻るんだ。でなければ、ジェームズのベッドで寝るんだね」
「勝手なことをいうな、リーマス」
「君達がここにいられたら、僕らはどこへいけばいいんだい!?」
と、ジェームズの声を聞きながら、毛布を被る。
「リサがどこにもいないの!」
「リサならそこの馬鹿犬のベッドにいるよ」
「ああ、リサがシリウスなんかの餌食に…!」
どうやらリリーまでも来ているらしい。だんだんややこしいことになるような。
「…僕、もう寝るよ」
「まて、ピーター! 君はリサがシリウスに食べられてもいいというの?」
「…もう眠いよ…」
「リリー泣くなら、僕の胸で泣くといい」
「ジェームズ…!」
うとうとと重くなる瞼とゆるゆるとゆるくなる思考速度を感じながら、リサが思っていたのはひとつ。
「…終ったら起こして~」
毛布の中から手だけを出して振ってから、今度こそ、心地好い眠りにすべてを委ねた。答えはきっと明日の朝までには出るだろう。
シリウスを信じてるけど、ここにいる親友全員を信じてるから、悪い方には転ばないはずだし。
疑うよりも 強く 信じさせて。