戦国系>> 落乱>> おかえりなさい - 1#-8#(完)

書名:戦国系
章名:落乱

話名:おかえりなさい - 1#-8#(完)


作:ひまうさ
公開日(更新日):2011.12.27 (2012.7.31)
状態:公開
ページ数:8 頁
文字数:32388 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 21 枚
デフォルト名:/美緒
1)
1#いつものこと(忍/た/ま/ドリーム?っぽいもの。帰着点が不明すぎる…
2#ろしあんるーれっと(今日のお客はきり丸と土井さん。それから……
3#似ているから(前回続きからの、利吉のターン(改)
4#六年生の贈り物(六年生が来ました
5#五年生は過保護です
6#四年生の呼び方
7#信じてますから(鉢屋のターン(笑)
8#おかえりなさい(完結にするか、一部完にするか、迷うー。

1#いつものこと 2#ろしあんるーれっと 3#似ているから 4#六年生の贈り物 5#五年生は過保護です 6#四年生の呼び方 7#信じてますから 8#おかえりなさい あとがきへ 次話「きり丸 - きり丸の炒飯」へ

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p.1

1#いつものこと



「お待たせしました、戸部さん」
 店先の長椅子に座る細面で額に三日月傷のある、細目で寡黙な剣客に、私は団子と渋茶を出す。彼は黙って茶をすすり、そばに立つ私を見ないで言う。

「旨い」
「ありがとうございます」
 それから、しばらくは黙って団子を食べて、渋茶を啜る彼を見ていたのだが、店の中から呼ばれて、一度店内に戻る。呼んだのは店主で、たぶん養父ということになると思う。出会った時には目も悪く、耳も遠くなっていて、私を亡くした孫娘と間違えている、らしい。

 私がここに来たのはだいたい三年くらい前で、それより前のことは覚えていない。戸部さんは戦災孤児だろうと 言っていた。でも、親の顔も思い出せない私は別に哀しくもない。

 覚えている最初の記憶は今より小さな私が戸部さんに手を引かれて歩いているところからだ。戸部さんは既にとても強い剣客で、私は彼が負けたところを見たことがない。

 それから三年、私はたぶん十五ぐらいの年齢なのだそうだ。

「戸部さん、お待たせしました。いつもの……」
 店主から握り飯の包みを受け取り、また店先に戻ると人が増えている。戸部さんの知り合いらしく、ここで話す姿もよく見かける人だ。

「美緒ちゃん、私にもお団子とお茶をいただけますかな」
「い、いらっしゃいませ、山田さん」
 戸部さんの隣に座っている四十ぐらいの髭の男性は、人当たりのよいにこやかな笑顔で私を見る。その顔にどうしてかドキドキして、落ち着かない気分になるのは何故だろう。

「少し待ってください。あの戸部さん、これ、いつものです」
 戸部さんは何故か複雑そうな顔で私を見ているが、うむ、と頷いて受け取る。その包みは懐に入れられ、戸部さんが立ち上がる。

「また」
「はい、お待ちしてます」
 微笑んで軽く頭を下げると、戸部さんは微かに笑ったようだった。

 見送って直ぐに私は店内に戻り、団子とお茶を持って戻る。

「山田さん、お待たせしました」
「ありがとう」
 受け取った山田さんが食べている姿をじっと見つめる。

「うん、美味い」
「ありがとうございます」
 この人に褒められるのは誰に言われるよりも嬉しくて、私は自分でも自然と笑顔になったのがわかった。

「美緒ちゃん」
 山田さんが私を呼ぶ声にどきりとする。

「きみが戸部先生に拾われて、どのくらいになる」
「三年、だと思います」
「何も思い出せないままかね」
 山田さんは私の事情を知る人だ。素性についても調べてくれているというが、漠然と私は諦めている。

 三年前に戸部さんに拾われた時、私は本当に何も知らなかった。一般常識とされることを知らず、着物ひとつ一人で着ることができなかった。普通に育ってきたなら、当たり前にできることができない私を、戸部さんや山田さんはどこかの落城した姫ではないかと調べたらしいが、その頃に戦をしている城で、私ほどの年齢の姫というのはいないらしい。

 私は困ったけれど、笑みを浮かべたまま、山田さんに首を振ってみせた。

「そうか」
 難しい顔で眉間に皺を寄せる山田さんに、私は慌てて付け足す。

「山田さんのせいではないのですから、そんな顔をなさらないでくださいっ。それに、私は今でも十分に幸せなんです。こうして、住む場所があって、戸部さんや山田さんが来てくださって、他にも来てくださる皆さんもとても親切ですし。……本当に、私には過ぎた幸せで」
 だけど、私が言えば言うほど、山田さんは顔を険しくする。

「両親の顔も思い出せないなんて薄情だと思いますが、だからこそ、哀しくならないわけですし」
「美緒、俺にもお茶をもらえるかな」
「っ」
 唐突にかけられた声で、私はいつのまにか山田さんの隣に彼の息子の利吉さんが座っていたことに気がついた。いくら話に夢中だったからって、気がつかないにもほどがある。

「す、すぐにお持ちしますっ」
 慌てて奥に戻る私の背に利吉さんの苦笑の声がかかる。

「急がなくてもいいから、足元に気をつけて」
「は、」
 返事をしようとしたそばから、私は何かにつまづいてバランスを崩した。転ぶ、ととっさに身体を固くして、目を閉じてしまう。しかし、いつまでも衝撃はやってこなかった。

「急がなくていいって、言ったでしょ」
「あ、ああ、ありがとうございますっ、利吉さん」
 利吉さんが支えてくれたから転ばなかった、と気づいた私は立たせてもらってから、利吉さんに笑顔で礼を言った。それから、山田さんに格好悪いところを見られてしまった、と頬を少し熱くして盗み見たが、山田さんは目を閉じて茶を啜っている。どうやら、見られていないと胸を撫で下ろす私を、利吉さんが戸部さんと同じような、でも苦笑混じりの笑顔で見ている。

「美緒って、」
 何か言いたげな利吉さんの顔を見上げると、じっと見つめ返される。

「利吉さん?」
 いつまでも続かない言葉に首を傾げると、頭に手を乗せて、柔らかく撫でられる。

「お茶、ゆっくりでいいから」
「ありがとうございます」
 利吉さんの気遣いがうれしくて、私が心のままに微笑んで礼を言うと、利吉さんは苦笑しつつ、山田さんのところに戻っていった。

 でも、私が頼まれた通りにお茶を運ぶと既に利吉さんの姿はなくて。

「あれ、利吉さんは?」
「仕事が忙しいらしくてね、もう行ってしまったよ」
「また、ですか」
「すまないね、美緒ちゃん」
 私が利吉さんを見送ることができたことはない。いつも、気がつくといなくなってしまうから。

 見送りぐらいしたいのにな、と少しだけ淋しい気持ちになる。

「あいつも少しぐらい落ち着くといいんだがなあ」
「利吉さんは落ち着いていらっしゃいますよ。……さすがは山田さんの息子さんですね」
 私なんて、いつまでたっても子どものままで、いつまでも戸部さんや山田さんに心配されていたいなんて、甘えたで。

「そういう意味じゃないんだが」
 困った様子の山田さんを見つめると、なぜかため息をつかれた。

「まあ、今はこのままでもいいか」
 山田さんの大きな手が私の頭を柔らかく撫でる。心地よくて、温かくて、少しだけ胸の奥がむず痒い。思わずふにゃりと顔が緩んでしまう。

「また来るよ、美緒ちゃん」
「は、はいっ!お待ちしてますっ!」
 思わず大きな声で返した私を山田さんは、少し目を見開いて見た後で、苦笑しながら、ポンポンとまた軽く頭を叩いて、行ってしまった。

 その背が見えなくなるまで、私はずっと見送った。

p.2

2#ろしあんるーれっと



 誰もいない店先で、私はのんびりと空を見上げる。傍らには自分で淹れたお茶と試作の白玉団子。中身は、いろいろ。

 遠くから走ってくる小さな人影を、私は腰をあげて迎える。

「美緒姉ちゃんー!」
 走って来たはずの少年は息も乱さずに私に抱きつく。名前はきり丸、という十歳の男の子だ。 きり丸はくせのある肩口ぐらいの長さのクセのある直毛で、後ろの高い位置で一つに結わえている。少しつり目な上、お金関係となると銭の形になるのは、どこかで見たような気がするのだけど、思い出せない。

「久しぶり、きり丸。早速だけど、試食する?」
「また新作作ったの?」
「うん、今回はロシアンルーレットの白玉だよ。普通の餡子と花蜜とみたらしの他にひとつハズレ入り」
「ハズレ?」
「んっふっふっ、食べてのお楽しみってやつ。ハズレを引いたら、お代はいただきません!」
「美緒姉ちゃん、それは当たりじゃねえの?」
「まあまあ、で、やる?」
「やる!」
 よしよし、ときり丸の頭を撫でてから、私は店の奥に戻った。盆には新たに用意したみっつのお茶と、冷たい水だ。

 きり丸のもとに戻ると、案の定ひとり増えている。きり丸の保護者だという二十代半ばの男だ。

「こんにちは、美緒」
「いらっしゃいませ、土井さん」
 お茶を差し出すと、受け取って直ぐに傾ける。

「土井さんときり丸とお二人でいらしたということは、しばらくは学園がお休みになるんですか?」
「そうなんです」
 土井さんときり丸は、同じ学校の教師と生徒という関係だ。土井さんが身寄りのないきり丸の保護者がわりをしているのだと、出会った頃にきいている。放っておくと、きり丸はバイト三昧で休むことをしないのだとか。

「あれ、お友達は一緒じゃないのね、きり丸? 乱太郎としんべエはどうしたの?」
 きり丸と中の良い二人の名前を出して尋ねたが、当人は白玉を選ぶことに真剣だ。

「すぐに来るよ。……うーん、これにする!」
 悩んでいたきり丸が白玉をひとつ口に放り込む。眉間に皺を寄せて難しい顔をしていたきり丸は、少しだけ残念な顔をした。

「どうした、きり丸?」
 理由がわかる私は、きり丸にお茶を渡しながら、くすりと小さく笑う。

「ハズレは引けなかったみたいね」
 聞き返す土井さんに事情を説明すると、呆れられてしまった。

「美緒はたまに妙なことを思いつくね」
「そうですか?」
「その、ろしあんなんとかってのは、南蛮の言葉みたいだけど、第三協栄丸さんにでも聞いたのかい?」
 え、と私は目を丸くする。そういえば、誰に聞いたのだろう。知らない間に知っているというのも変だが、これは空白の記憶の中のひとつなのだろうか。

 だったら、素性を調べてくれている山田さんの手助けになるのかもしれないし、すぐにでも知らせたほうがいいだろう。

「美緒姉ちゃん?」
 落ち着きない私にきり丸が不安そうな顔をする。確かに焦ってはいるが、心配ないよと私は小さな頭を撫でる。

「ちょっと思い出したみたいだから、山田さんにお知らせしたほうがいいかなって思っただけだから」
 きり丸と土井さんは、私が戸部さんに拾われたことも、それ以前の記憶が無いことも知っている。特にきり丸は同じ戦災孤児だからか、私が思い出すことに不安を強く感じるようだ。

「思い出したの?」
「ほら、さっきのロシアンルーレットって言葉、ここの言葉じゃないんでしょ? それが鍵になるかもしれないじゃない」
「……とか言って、それを口実に利吉さんに会いたいだけだったりして」
「え、なんで利吉さん? お知らせするのは山田さん……あ!」
 しまった、と口を抑える私の顔は熱を持ち始めているから、二人にもばれているだろうか。気づいたきり丸が、これ見よがしにため息をつく。

「美緒姉ちゃん、趣味悪ぃー」
「きり丸に山田さんの良さはわからないわよー。ね、土井さん?」
 話を振った土井さんを見ると、困った様子で苦笑しつつ、頭をかいている。

「土井さん?」
「美緒、以前にも同じことがあったのを覚えているかい?」
「そう、でしたね」
 そういえば、言葉ひとつに振り回されて、かなり山田さんたちに迷惑をかけたことを思い出した。その時に戸部さんの勤め先にも迷惑をかけてしまったんだ。

「へへへー」
 ポンポン、ときり丸の頭を軽く撫でる。

「きり丸はぶれないよねー」
「美緒姉ちゃんも変わらないよね」
 そうかな、といいかけて口をつぐむ。三年前のあの日からなにか変わったかと言えば、答えはノーだ。できることは増えたけれど、どうもそれは知らなかったことを知っただけのような気がする。

 元から、私は自分のことは自分でやっていたような気がするのだ。だから、姫かもしれないなどと言われた時には、なんだか非常に居たたまれなく、恥ずかしさにひとりで身悶えたのだ。

「山田先生なら、休みの間も学園に残るはずだから、後で差し入れでもした時に今の話をしたらどうかな?」
「え、また、お帰りにならないんですか?」
 苦笑いを返されて、なにか事情でもあるのだろうか、と首を傾げる。山田さんは利吉さんという息子がいるように、既に結婚されているが、単身赴任以来十年帰宅していないらしい。そんなに怖い奥さんなのだろうか。

 だからといって、そこにつけこむつもりは微塵も持ち合わせていない私は思案する。

「きり丸、白玉のお代はいいからさ、代わりに届けてもらえないかな」
「いいっすけど、自分でいけばいいんじゃ」
「準備してくるから」
 きり丸が何か言おうとするのを遮って、店内に戻り、素早く書をしたためる。といっても、書いたものは紙ではなく、風呂敷だ。この店には余分に紙を置いていない。書いた風呂敷で先程の白玉を包み、店先に戻る。

「あ、美緒姉ちゃん、こんにちは」
「おいしそうな匂いー」
 そこには既に茶色の天パで大きなメガネをかけた乱太郎と、油をたっぷり付けて整えた髪をひとつに縛っている小肥りな男の子のしんべエがいる。先ほどきり丸と土井さんに出した白玉は跡形も無い。

「あらあら、二人が来ちゃったなら、届けてもらえないかしら?」
「だから、美緒姉ちゃんが自分で」
「定休日でもないのに、店を空けられないわ。それに、きり丸たちがお休みってことは、まだまだお客さんがくるってことだもの。稼ぎ時に店を開けてどうするの」
 私ときり丸の話を聞いていた乱太郎が手を挙げる。

「よくわからないけど、届けものなら僕が行きましょうか?」
 きり丸が何か言う前に、私はありがとうと言いながら乱太郎に風呂敷を押し付けた。この子は足がとても早いのだ。以前に食い逃げがいた時も真っ先に追いついてくれた。まあ、それよりも先回りしていた土井さんは更に早いということになるのだけど、そこは大人と子供の歩幅の違いというところだろう。

「学園に戻ってもらうことになると思うんだけど、これを山田さんに届けてもらえるかな」
「はい、じゃあね、きりちゃん、しんべエ。さようなら、土井先生」
 乱太郎は三人に礼儀正しく挨拶すると、あっというまに駆けていって、すぐに見えなくなった。はー、と私は感嘆の息をこぼす。

「羨ましい、俊足」
 私の袖をきり丸がひっぱる。

「いいのかよ、美緒姉ちゃん」
「いいかげん、しつこいよ、きり丸」
 しつこい男はもてないよ、と言ってもきり丸は袖を離す素振りもない。そういえば、と先程のことを思い出す。

「きり丸、白玉なくなってるけど、誰が当たったの?」
「え」
「う」
 口を抑えたのは土井さんでした。

「美緒さん、白玉に竹輪でも入れた?」
「うん、竹輪のチーズ揚げ」
 げ、ときり丸としんべエが顔を青くする。うん、まあ、作った私も食べたくない味だよね。美味しいとは思ってないけど、山葵や芥子よりはマシだと思うんだけど、どうだろうか。

「えーと、じゃあ、きり丸の分と土井さんのお代は無しで良いですよ。あ、作りすぎちゃった竹輪のチーズ揚げ持って行きますか?」
「いいいいや、おお、お気遣いなくっ!」
「美緒姉ちゃん、土井先生は」
「そういえば、練り物が苦手なんでしたっけ。えーと、じゃあ、おにぎり持って行きますか。戸部さんの分なので、あまり多くは差し上げられないんですけど」
 待っててくださいね、と奥に戻ってから握り飯を六つ包んで、戻る。さすがというか、土井さんは既に持ち直しているようだ。それに、三人とも乱太郎を待たずに発つらしく、既に席を立っている。私は土井さんに近づき、おずおずと包みを差し出し、見上げる。

「おにぎりと、お漬物もおまけしましたから。……えーと、あの、またお待ちしてます」
 冗談で作ったけど、やっぱりまずかったかな、これで来てくれなくなったら困るな、とついつい不安が顔に出てしまったらしく。土井さんは少し頬を赤くして視線を逸らしてから、咳払いして、優しい笑顔を向けてくれた。

「お茶、美味しかったです。また寄らせていただきますよ」
 よかった、と安堵の笑顔を零す私の腰の当たりに小さな手が巻きつく。

「きり丸」
「美緒姉ちゃん、どうせなら俺と一緒に帰ってよ」
 淋しいなんて可愛いな、ときり丸の頭に伸びかけた手は次の言葉で留まってしまった。

「美緒姉ちゃんが手伝ってくれたら、この休みの間にもっと稼げるのにーっ」
「こ、こら、きり丸っ」
 撫でようと伸ばしていた手をそのまま握り、軽く落とす。こん、という軽いものだったが、驚いた顔できり丸が離れる。そうすると歳相応で可愛くて、私はしゃがんで、きり丸を抱きしめた。

「あんまり頑張りすぎないでね、きり丸。御飯はちゃんと食べて、夜はしっかりと布団で寝ること。それから、危ない仕事はしないこと。それから、休みが終わったら、元気な顔を見せてね」
 最後に額を合わせて、私がにっこりと笑うと、きり丸は泣きそうな顔で笑って、抱きついてきた。その後に聞こえてきた小さな声は、私だけの秘密だ。

 それから、しんべエもぎゅっと抱きしめてから、三人の前に立ち、丁寧に頭を下げる。

「またお待ちしてます」
 三人の姿が見えなくなるまで、ずっと私はそれを見送っていた。

p.3

3#似ているから



 ぽん、と肩に手が置かれて、私がびくりと飛び上がってしまったのは、きり丸の最後の言葉を考えていたからに他ならない。まだまだ子供のきり丸、親が恋しくないわけじゃない。でも、生きるためには落ち込んでなんていられなくて、私のこれはただの同情にすぎないのかもしれないけど。

「どうしたの、美緒」
「利吉さん」
 そこにいたのは見慣れた顔で、彼は振り返った私の顔を見てから、何故か抱きよせた。利吉さんの肩口に顔を抑えつけられて、少し息が苦しい。

「美緒、君さえよければ……」
 いつもハキハキと話す利吉さんにしては、どこかためらうような声に、口をはさむのを躊躇う。でも、私を抱きしめる手が、肩に食い込んで、痛い。

「痛いです、利吉さん」
 力が緩められたが解放はされずに、肩口で溜息をつかれた。

「……ここまで脈なしってのも、傷つくなぁ……」
「あの、お茶をお持ちするので、離してください」
 私は利吉さんから解放されて直ぐに奥に戻り、お茶を持って戻る。そうすると、座っている利吉さんの手元には、山田さんに渡した風呂敷があった。山田さんにでも頼まれたのだろうか。ということは山田さんは来てくださらないということだ。少し残念。

「また思い出したって?」
「はい」
「ろしあんるーれっと、どういう意味?」
「えーっとですね、例えば白玉がいっぱいあって、中に全部餡が入っているとします。そのうちの一つをこっそり山葵とかに替えて、それを当てる遊びなんです。元は度胸試しみたいなんですけど、そのお遊び版ってことで」
「へぇー」
「ロシアンっていうのは外国の名前で、ルーレットっていうのは回転する円盤に球を投げ入れ、落ちる場所を当てる遊びのことです」
 話を聞いている間の利吉さんの真剣な目はやはり親子なのか、山田さんとよく似ている。

「他に思い出したことは?」
 立ったまま、いいえ、と首を振る私の手を座ったままの利吉さんが掴んで、まっすぐに見上げてくる。

「気にしなくていい」
「え?」
「たぶん、以前にあったのと同じだろう。言葉だけ思い出したっていう」
 それだけしか思い出せないという不安にこくりと頷く私を、利吉さんは優しく笑う。

「もう誰も君がどこかの忍者だとか、そういうことは疑わないから。だから、そんなに不安そうな顔をしないでくれ」
「不安そう、ですか?」
「もしかして、自覚ない?」
 ああ、そうか、とやっと納得する。土井さんに指摘されてから、ずっと落ち着かなくて、誰かに話を聞いてほしくて、違うのだと言って欲しかったのだ、私は。

「……やだ、子供みたい」
 顔に熱が集まってきて、隠してしまいたいのに、利吉さんは手を離してくれない。

「あの、離してください」
「なんで?」
「な、なんでって、恥ずかしいからに決まっているじゃありませんかっ」
 よく見れば、利吉さんの顔は意地悪く笑っている。間違いなく、からかっているのだ。振りほどこうとするが、利吉さんの手はびくともしない。

「利吉さんっ」
「くっ、はははっ!」
 笑い出して、やっと手を離してくれた利吉さんは、笑いながら私の前髪に手を伸ばして、くしゃりと撫でる。

「わ、わら、笑い事じゃないですっ! もう、やだ、絶対にこのことは山田さんに言わないでくださいねっ?」
「私も山田なんだけど、」
「そんなことわかってますよっ。でも、山田さんを名前でお呼びするわけにはいかないから、山田さんは山田さん、利吉さんは利吉さんでいいんです」
「……それは、私が山田伝蔵の息子だから?」
「あたりまえじゃないですか」
 私が即答すると、利吉さんは少し笑ってから、深い溜息をついた。なんで、そんなに疲れているのだろうか。

「さっき、美緒が土井先生ときり丸たちを見送ってた時に何を考えてたの?」
 どきりと、胸が軋む。あの時すぐに声をかけてきた利吉さんには見抜かれている気もするけれど。

「なんの、ことですか?」
「美緒は嘘が下手だよね。本当、忍びには向いてない」
 それはもうずっと前に言われたことだ。

「お兄さんに、正直に話してごらん」
「……お兄ちゃん?」
「いや、やっぱり今のは無しで」
 山田さんと同じ、優しい手がくしゃりと私の前髪を撫でる。

「淋しいって、思ったんだろ」
「そんなことないです」
「ほら、また嘘ついた」
「嘘なんかじゃないですっ!」
 声を張り上げた利吉さんが驚いた顔で私を見ている。

「だって、ここは戸部さんが用意してくれたおうちで、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お客さんもみんな優しくて。こんな、こんな記憶もない、得体のしれない私に優しくてっ」
 記憶がないにしたって、何かがおかしいと自分でも感じていた。それが、嘘と決め付けられたことで、箍を外してしまったみたいに溢れてしまう。こんなこと、言いたくないのに。

「それなのに、淋しいなんて、言えるわけない。そんな、我儘……っ」
 急にぎゅうと誰かに抱きしめられる。ここにいるのは利吉さんだけで、着物の匂いも利吉さんだ。

「いいんだよ、淋しいって言っていいんだ、美緒は頑張った」
 利吉さんの優しい言葉がひどく胸に痛くて、苦しい。どうして、この人は私の欲しい言葉をくれるのだろう。

「だから、もっと我侭になってもいいんだ。父上と一緒にいたいというのなら、そう言ってもいい」
 山田さんと一緒にいたいなんて、考えたこともなかったけれど、それが利吉さんの口から出たことで私は反射的に否定していた。

「違うっ」
「美緒」
 宥めようとする利吉さんの目を見つめて、違うのだと言っても伝わるのかどうかわからない。でも、言わずにはいられなかった。

「違うんですっ! 山田さんは確かにあこがれの人だけど、そういうんじゃない! 私、山田さんとどうにかなりたいわけでもないし、奥さんから奪いたいわけでもないんです。ただ、山田さんは……似ている気がするから、だから……っ!」
 ないはずの記憶の影と山田さんの姿が重なるのだと、その時初めて私は気がついた。

「似ているって、誰に?」
 時折現れる記憶の欠片が、それが誰なのか教えてくれる。

 夕暮れの中、小さな私の手を引くその人は。

「……さん、に」
「え?」
 それはこの三年ずっと思い出せなかった記憶の断片のようなもので、今初めてカチリと何かに嵌った気がする。

「……お父さんに、似ている気がするんです……」
「………………え?」
 驚いた利吉さんが私を離して、まじまじと顔を見つめる。

「ええと、もう一度聞くよ。美緒、父上が誰に似てるって?」
「……何度も言わせないでくださいよ。自分でも、ちょっとどうかと思うんですから」
 利吉さんは少し考える素振りをしてから、おもむろに立ち上がった。そして、見たこともない怒った笑顔で言う。

「ねえ、美緒。ちょっと私につきあってくれないか?」
「え、でも、お店がっ」
「ああそうだ、母上もね、君の作る南蛮料理が食べてみたいって言ってるから、しばらくうちに泊まるといい」
「へっ? い、いや、でも、私がいないとここを開けられないし、お爺ちゃんとお婆ちゃんも心配だし」
「そう長いことじゃない。三日もしたら、ちゃんとここに返してあげるし、出張手当もはずんであげるよ」
 きり丸ではないけれど、出張手当という言葉に思わず私は利吉さんの手をとっていた。

「本当ですかっ?」
 利吉さんは私の手を握り返し、しっかりと頷いてくれる。

「じゃあ、美緒も準備があると思うから、夕刻ごろに迎えに来るよ」
「わかりました。……あ!」
「ん?」
 いつもは言えない言葉が言えると気がついて、私はにっこりと微笑んでいた。

「お待ちしてます、利吉さん」
 利吉さんは少し照れた様子で、でもしっかりと頷いてくれて。

「ああ、じゃあ、また」
 利吉さんが言った直後に吹いてきた大風に私は目を閉じてしまって。開いたときには利吉さんの姿はなかったのだけど。

「ふふふ」
 初めて利吉さんにお帰りの挨拶をできたことが嬉しくて、いつまでもひとり嬉しさを噛み締めていた。

p.4

4#六年生の贈り物



「ふんふんふふーん」
 久しぶりの外出に心踊り、私はつい鼻歌を口ずさんでいた。誰もいないからと、笑顔で見上げる空はなんだかとっても澄んでいて。

「ご機嫌だな、美緒」
「ひあっ」
 唐突にかけられた声音に、素直な驚きが飛び出る。

 振り返ると、いつのまにか長椅子に凛々しい青年と疲れた顔の男が二人。親子というには歳が近い気がするし、友達というには離れすぎに見える。だが、これでいて二人は同い年の学友なのだという。しかも、私とも同い年だときいたときは、互いに嘘だといいきったものだ。前者であり、声をかけてきたのが立花仙蔵君、後者が潮江文次郎君という名前である。

「いらっしゃい、立花君、潮江君。他も後から来るの?」
「ん?」
「さっき、土井さんときり丸たちがきて、今日から休みなんだって教えてくれたの」
 そうなのか、と話しているとぼそりと小さな声で催促される。

「ああっ、ごめん、中在家君」
 催促してきたのは無口な中在家長次君だ。私は慌ててパタパタと奥に戻り、六人分の湯呑みを手に戻る。まだ三人だったけど、たぶんすぐに来るはずなのだ。だって、此処に来るときは決まってそうなのだから。彼らは戸部さんの勤め先に通う生徒たちで、土井さんや山田さんはその同僚だと聞いている。

 戻ってくると案の定、中在家君の隣には七松小平太君と食満留三郎君がいて、それから善法寺伊作君と六人揃っている。

「いらっしゃい、中在家君、七松君、食満君、善法寺君。……応急箱が必要みたいね」
 苦笑と共に私が付け足したのは、善法寺君があまりにあんまりな格好だったからだ。まるで、落とし穴に落ちた後みたいな。

「あはは、いつものことだし、美緒も構わなくていいよ」
 なんでも後輩に穴掘り名人とまで言われる者がいて、善法寺君はよくそれに落ちるのだとか。

「そうもいかないよー。これから帰るんなら、余計にもう少し綺麗にしないと、親御さんが心配されるでしょ。奥で着替えてって」
 本当にいいのに、という善法寺君を私は奥の座敷へと案内する。これが初めてというわけでもないから、彼は迷いなく私の前を歩く。

 奥座敷には常に男物と女物の両方の着物が備えられている。誰が使うのかは知らないが、私が来る前からこうなのだと聞いている。最初は一着ずつしかなかったそれを少しずつ増やしているのは、主に私と店の客だったりする。

「ほらほら、これとかどう?」
 善宝寺君に濡れた手拭いで汚れを落として貰いながら、私は男物の着物のひとつを差し出す。

「美緒、また買ったんだ」
 それに対し、善宝寺君は苦笑いで返して来た。

「染物屋さんが商ってくれたから、増やしちゃった。戸部さんに似合いそうでしょ」
「おまえの趣味はよくない。それは留三郎のが似合う」
 座敷で話していると、入口から立花君の声がかかる。どうやら奥座敷についてきてたらしい。

「俺?」
 そして、自分の名前が出たことで、食満君まで寄ってきた。もともと四畳程度しかない座敷はそれだけで狭くなる。

「そうかなぁ」
「留さんてより、長次じゃないかな」
 善法寺君と二人で首を傾げる。そうして話している間に座敷に上がり込んだ立花君が女物をひとつ引っ張り出してきた。

「美緒、これを着てみろ」
 見たことのない柄なので、私は戸惑って眉根をよせた。

「着ないよ」
「いいから着てみろ」
「やだ、それ、高そうだもの」
 ぎくりとした反応をみせたのは、意外にも差し出している立花君ではなく、善法寺君のほうだ。

「そんなに高いものじゃない、と思うよ」
「高いって」
「高くない」
「そんな肌触りの良さそうな生地に金糸銀糸まで入れていて、派手にしか見えない着物なんて、一介の茶屋の娘が着るものじゃないよ」
 時々、今では本当に稀だけど、私が見た覚えのない着物が混ざっていることがある。もちろん、戸部さんや山田さん、利吉さんが置いておいてというものもあるし、常連さんがおいていくこともある。

 だけど、それ以外で置かれる知らない着物ーー特に女物というのは目の前の立花君とか若い男の子や女の子たちが私にくれる贈り物のようなものだ。もちろん、貰う理由のない私は丁寧にお断りすることにしている。

「立花君、善法寺君、センスは悪くないと思うけど、これは貰えない。私には立派すぎるよ」
「そんなことないって。美緒はいつも地味すぎる格好だから、そう思うんだろ。仙ちゃんが見立てたんだから、絶対似合う!」
 否定したのは、入口から顔を出した七松君で、いつもの太陽みたいな眩しすぎる笑顔を向けてくる。つまり、彼も噛んでるってことだろうか。

「だが、確かに一介の茶屋の娘には過ぎたものだな。だから、俺はやめておけと言ったんだ」
 呆れたように言ってくれたのは潮江君で、でも今ので関わっているのがバレバレだ。

「……狭い」
 不満と共に、ふわりと私の頭に何かが被せられる。同時に私の手元にあったはずの着物が無くなっているのは、問題としている着物を中在家君が私に被せたからだ。とりあえず、併せてみろということなのだろう。

 鏡を見なくとも自分に似合っていないことがわかっている私は、俯いたまま溜息を吐いた。

「中在家君まで何してるの」
「……」
「ほら、長次も似合うって、言ってるぞ」
 通訳したのが誰かはともかく。着るつもりのない私はそれを丁寧に外した。

「贈り物される理由がないし、こんな高価なもの速攻で売り払うよ」
「っ」
「着る機会だってない……」
 そういえば、利吉さんの家というか山田さんの御自宅に行くのにいつもの格好というのは駄目だろうか。少しは女らしい格好とかしたほうがいいのだろうか。山田さんの奥様はとても綺麗だと聞いているし、少しぐらいは私も粧し込む必要があるだろうか。

 でも、単にお食事を作りに行くだけだし、仕事だし、やっぱりいつもの格好じゃないと動きづらいし。

「美緒?」
「こりゃ完全に自分の世界に入り込んでるな」
「今のうちに着せちまえばいいじゃねぇか」
「そうだな」
 着るものといえば、今着ている他に持っているのは二着ぐらいしかないし、どれも少し古くなってるし、ここのを借りていってもいいだろうか。山田さんや常連さんたちにも好きにしていいと言われているし。でも、でも、一応預かり物であるわけで、汚したらマズイし。

 あ、でも、こないだの行商さんからイイ染み抜きをもらったから、試してもみたい。って、これじゃ汚すの前提だ。割烹着は格好悪いから作っておいたエプロンを二つぐらい重ねて付ければ、大丈夫かな。

「これでどうだ」
「流石、作法委員会委員長っ」
「見違えるな」
「いつもこうしてたらいいのにね」
「美緒は化粧しねぇからな」
 ああ、そうだ、材料を仕入れておいてもらわなきゃ。いくら私でも最低限の材料がないと作れないもんね。南蛮料理って言っても作れるのはたかがしれてるんだけど。

 て、それじゃ何を作ればいいのかな。数日泊まるんじゃ、どうしたって作れる品数に限りがある私にはやっぱり無理なんじゃ。

「うん、そうね、利吉さんに相談してみようっ」
 ぽんと手を打つ私の前に、六人が座ってお茶を飲んでいる。

「あら、こんな狭いところでお茶してないで、表に行ってよ」
「利吉さんって、山田先生の息子の?」
「相談って、何か悩みがあるのか、美緒」
 矢継ぎ早に質問されて、あっという間にパニックになった私は、一度強く柱を叩いた。

「じゃまだから、表に行ってって言ってるんだけど?」
 若干キレ気味に私が言うと、それであっという間に彼らは表に戻っていった。

 奥座敷にひとり残った私は深く息を吐く。もちろん、自分が着物の上から着させられたことには気がついたが、どうして彼らはああも手際がいいのか。

「もー、これから利吉さんと出かけるのに、こんな格好じゃ手間でしょうが」
 ぶちぶち言いながら例の着物を脱ごうとすると、後ろから身体に腕が回され、私を拘束する。

「美緒、何をしている」
 それをしたのは立花君で、咎める声が私の耳に当たって、擽ったい。

「っ立花君、着替えるんだから離して」
「着替えなくてもいいだろう」
「良くない、こんな上等な着物汚したくないもの」
「……次はもう少し安いのにするか……」
「そうして頂戴」
 私が言った途端に、ぱっと立花君が離れた。そして、私の身体を反転させて、少し屈んで笑顔の瞳を合わせてくる。めったにこんな笑顔は見られないだけに、私は少しだけどきりと胸が高鳴った。

「言質は取ったからな」
「へ?」
「自分で言ったんだから、次はちゃんと受け取れよ、美緒」
「え、ええっ?」
 用は済んだとあっさりいなくなる立花君の背を見送りつつ、私はええとと呟いてから苦笑した。

「しかたないなぁ」
 なんだか大きな弟みたいだなぁと的外れなことを考えたのは、彼らにはいわない方がいいだろう。

「美緒、まだかー」
 表から七松君の私を呼ぶ声がして、私は前掛けを結びながら、彼らの元へ戻った。

 見れば、既に湯のみは片付けられ、六人ともが帰り支度を終えているようだ。彼らは私を笑顔で迎えてくれる。

「なんだ、着替えちまったか」
「動きにくいって言ったでしょ、食満君」
 残念そうでなく口にする食満君に、私は口を尖らせ、言い返す。

「それで、皆もう行っちゃうの?」
 彼らは数少ない同い年の客だけに、他と違って、別れは少しだけ寂しくなる。それが表情に出ていたのか、皆一様に温い笑顔を浮かべる。いや、潮江君は固まっているか。

 こういう時にいち早く動くのは中在家君で、軽く私の頭を撫でる手は大きくて優しい。ムスッとしているが、機嫌はよさそうだ。

「……ありがと、中在家君……」
 照れくさいけれど、確かに感じる優しさが嬉しくて、私は彼を見上げて微笑んだ。少しだけ目が潤んでいたのは、嬉しかったからだ。

 それから、私は一歩下がって、頭を下げた。

「また、お待ちしてます」
 顔をあげようとした私の頭に、中在家君ではない手が乗る。

「また来る」
「うん、立花君」
「休みが開けたら、一緒に走ろうな」
「それは出来ないけど、お茶とおにぎりを用意しておくね、七松君」
「怪我に気をつけるんだぞ」
「何かあったら、すぐに飛んでくるからね」
「うん、食満君も善法寺君も元気でね」
 ひとりひとりの優しい手と言葉に顔が上げられない私は、涙を堪えるのに必死で。

「あまり、考えすぎるなよ。美緒は美緒なんだからな」
 最後に聞こえた潮江君の声に、え、と私が顔を上げたときには、そこに六人の姿はなかった。

 いつもいつの間にかいなくなってしまうのは確かだけど。

「……ありがとう、潮江君」
 何故この隠している不安がわかったのかは、私にわからない。でも、そのさりげない優しさは、じんと胸に響いた。心なしか自分の頬が熱い気がして、私は両頬に手を当てる。

(でも、不意打ちは困る)
 そっけない振りをしているけど、気にかけてくれているのがわかると、どうしてこんなにも嬉しくなってしまうのだろう。

 疲れていそうな潮江君がつぎにきたら、特製花蜜茶でも出してあげよう。

p.5

5#五年生は過保護です



 山田先生の家に持っていく手土産は何がいいだろうかと考えながら、六人分の湯呑みを片付け、私はまた空を見上げてぼんやりする。

 同じ年だと思えない戸部さんの学校の生徒たち。彼らがどんなことを学んでいるのか知らないけれど、それをやりたいかと訊ねられれば私は否と答えるだろう。なぜなら、私にはこの茶店で戸部さんを迎えるという大切な役目があるからだ。いつまでとか、そういうことは考えない。考えたら、きりがない。

「美緒」
 誰かに呼ばれて振り返った私は、少しまだぼんやりしていて。

「またそんな顔をしてるのか」
 私の目の前に立った青年が、遠慮なしに私のほっぺたを引っ張る。

「っふぃたふぃ、ふゃちふゃ」
 泣き出す私のほっぺたから手を話した鉢屋三郎は、不機嫌な顔で私の頭を自分の胸に引き寄せた。

「だから、その顔をやめろ」
「っ」
 なんのつもりなのか、私が鉢屋に会う時はいつも泣き出す寸前みたいな気がする。

「なんでいつも泣いてんだよ」
 どうやら相手も同じことを考えているらしい。なんて偶然だ。

「またくだらないことでも考えてたんだろう」
「くだらなくなんかないっ」
 反射的に言い返して顔を上げた私をみおろし、鉢屋がいじわるな笑顔をみせる。

「ほー」
「わ、私だって、子供じゃないんだから」
「へー」
「いつかくる別れが怖いなんて、そんなわけないんだから……」
 じわりと自分の目元にまた涙が浮かんだ気がして、私は慌てて袖口でこする。

「そんなふうに乱暴にこすっちゃだめだよ、美緒ちゃん」
 そういって、私の手を止めるのは鉢屋と同じ顔の不破雷蔵君だ。いつのまにそこにいたのだろうか。

「おじさーん、冷たい手拭いー」
「わわっ、尾浜君、待って、ストップっ! 自分で持ってくるからっ!!」
 その上いつの間にか来ていた尾浜勘右衛門君に注文されそうになり、私は慌ててその場を離れた。奥に入る前に、あ、と立ち止まり振り返る。

「いらっしゃい、鉢屋、不破君、尾浜君。すぐにお茶を持ってくるね」
「その前にちゃんと冷やしてくるんだよ、美緒」
「はーい」
 ぱたぱたと奥に戻り、六人分のお茶を盆に乗せていると、養父から冷たい手拭いを渡される。

「美緒もしゃんと冷やしておいで」
「はい」
 用意している間に、つい、後回しになってしまった。養父のこういう風に何気ない気遣いが私は嬉しい。

「そうだ、今朝作った豆腐あるよね」
 私が話している側から、養父が小皿に五人分手際よく用意してくれる。そうして、奥に行く前は店頭にいたのが三人だけだったが、お茶を手に戻ってきてみれば、思ったとおりに二人増えている。

「いらっしゃい、久々知君、竹谷君も」
 全員にお茶を渡してから、お茶菓子がわりに豆腐を渡すと、久々知兵助君からはキラキラとして目で礼を言われ、他のものからはまたかというような呆れた視線が豆腐に注がれた。

「おい、美緒」
 文句を言いたそうな鉢屋から距離を取り、私は機嫌のよい久々知君の隣に座って、持ってきた冷たい手拭いを目の上に乗せて、わずかに上を見上げた。

「はー、きもちー」
「美緒ちゃんて、泣き虫だよね」
「そーかなー?」
 クスクス笑う声に、手拭いを少しずらして様子を見ようとすると、上から誰かに押さえつけられる。

「私が泣かしたわけじゃないからな」
 不機嫌そうな鉢屋の声はすぐ上から聞こえてくる。どうやら、手拭いを抑えているのは彼のようだ。

「……ちょっとね、今日はいろいろあるのですよ、うん」
「色々?」
「そうだ、久々知君は料理が得意って言ってたよね」
 体ごと向き直ろうとすると、肩と手拭いを抑えられる。

「美緒、動くな」
「ちょっ、今ぐきっていったよ、鉢屋、ぐきってーっ」
 文句を言う私を優しく笑う不破君の声が聞こえる。

「料理っていっても、兵助のは豆腐限定だよ」
「そうなの?豆腐で南蛮料理なんて、麻婆豆腐ぐらいしか知らないからだめだもんなー。て、麻婆は中華か」
 困ったなと私が考えているのは山田先生の奥さんに披露する南蛮料理で、うんうんと唸りながら、献立を考える。

「材料は利吉さんに頼むにしても、私もそんなに引き出しないしなー」
「美緒?」
「おーい、美緒さんー?」
「完全に自分の世界に入っちゃってるな」
 考え込んでいた私は、急に目の前の重さがなくなったので、目を開いた。そこにあるのは逆さまの鉢屋の顔で。

「……鉢屋」
「利吉さんと料理とどういう関係があるんだ、美緒」
「今日、泊まりに行くことになってるだけだよ。山田さんの奥さんが南蛮料理を食べたいからって」
「ええっ?」
 ぐいと正面から両手を握られ、私はそちらに顔を向ける。いるのは久々知君だ。

「泊まりって、美緒さんひとりでか!?」
「へ?」
「悪いことは言わない。山田利吉はやめとけ、美緒」
「んん?」
「料理ならここで作って持って行かせればいいじゃん。美緒ちゃんがわざわざ行くことないって」
「……なによ、みんなして」
 久々知君、鉢屋、不破君の順に、口々に止めようとする面々に、私はなんだか腹が立ってくる。

「竹谷君と尾浜君も同じ意見なの?」
「え、俺?」
 竹谷八左ヱ門君が戸惑う声を上げ、尾浜君が何かを言う前に、私は言葉を続ける。

「正直ね、ちょっと考えちゃってはいるの。いくら山田さんの息子だからって、そんなホイホイ話に乗るのはどうかなーって。もしもの場合泣きをみるのは女の私だけだし。それに、何より山田さんにご迷惑はかけたくないし」
 うん、とひとつ頷き、私は彼らに向けて、ニッコリと笑う。

「うん、やっぱり嫁入り前の娘が外泊なんてダメよね。よし、じゃあ作り方でも書いて利吉さんに渡そうっと」
 そうしましょうと私が手を打ち鳴らすと、何故か全員が脱力してため息を吐いた。

「泊まりにいかないのはいいとして」
「山田先生以外眼中にないってのはどうなんだ?」
 何を話しているのだろうか。

 目頭を押さえて、ぐりぐりと押す。腫れぼったさも引いているし、もう大丈夫だろう。

「美緒、ちゃんと利吉さんに断れると思うか?」
「無理だと思う」
「ちょっと、それどういう意味?」
 私が強く言い返すと、全員が一呼吸置いて、溜息をつく。なんて、失礼な。

「断ることぐらいできますーっ」
「無理無理」
「絶対無理」
 まったく取り合ってくれない彼らを前に私は拳を握りしめる。

「貴方たちね、少しは私を信用しなさいよっ!」
 私の目の前で互いに顔を見合わせる彼らは全員私の一つ下だ。それらなのに、なんでまたこんな小さい子にされるような心配をされなきゃならないのだ。

「信用はしてるけど」
「それとこれは別だよな」
「だな」
 どうみても信用していないではないか、という抗議を私が口にする前に、彼らの空気が緊張感を増した。肌を刺す視線は私の後ろに注がれている。

 不思議に思った私が振り返るも、そこには誰もいない。それから、彼らに視線を戻すと、なんでか帰り支度をしている。

「え、もう行くの?」
 思わず出てしまった不満と不安の交じる声音に、鉢屋が止まり、不破君が穏やかに笑う。

「本当に泣き虫だね、美緒ちゃんは」
「年上には見えないんだよなー」
 失礼な一言に振り返るも、当人たちはにこにこと何故か満面の笑顔だ。

 まあ、もともと口でも勝てないのは分かりきっている。だから、それ以上睨むのはやめて、私は目元を拭ってから、営業用の笑顔を浮かべた。

「休みが開けたら、また元気な顔を見せてね」
 それから、彼らから一歩下がって、ゆっくりと頭をさげる。

「また、お待ちしてます」
 しばらくそのままでいると、ひとりひとりの手が頭に乗せられ、最後に抑えつけるように置かれた手だけが囁くように言葉を残していった。

「また明日」
 え、と私が顔をあげると既にそこには誰もいなくて。

「……ちゃんと断れるか、確認するってこと、かな?」
 信用ないなぁとなんともなしに、私の口からは笑みが零れていた。

p.6

6#四年生の呼び方



 誰もいなくなった店先で、私はお客よろしく座って、湯のみを傾ける。晴天の向こうにあるのは大きな大きな入道雲で、きっと夕頃には夕立でも来るのだろう。その前に利吉さんは迎えに来てくれるのか、それで私は何といって断ったらしいか。

「うーん」
 いい文句が浮かばないけど、どうしたものか。

「どうしたのー、美緒ちゃん」
 不意に背後からかけられた声に、一瞬だけ私は体を跳ねさせてしまった。でも、その声には聞き覚えがあったから、安心して振り向かないで会話を続けることにする。

「んー、なんていったらいいか……」
「髪弄ってもいーい?」
「どーぞー」
 お茶を啜りながら答えると、髪にそっと櫛を通された。髪を引っ張るかすかな感触が、それを私に教えてくれるのだ。

 彼もまた戸部さんの教え子で、斎藤タカ丸という。タカ丸君は超有名髪結処の若旦那だ。同い年だけど、学年が下だとかなんだとか言ってたけど、私にはよくわからない。そもそも学校に行っていないし、ここのシステムがどんなものなのかもわからないし。

 それはともかくとして、タカ丸君自身もカリスマと呼ばれる斎藤父と同じく腕の良い髪結いさんだ。髪が傷んでいたりすると引っ張られるので、私はタカ丸君と出会ってからは特に髪の手入れに気をつけるようになった。

「相変わらず、い~髪」
「タカ丸くんがいいシャンプーとトリートメントを教えてくれたからねー」
「美緒ちゃんがちゃんと手入れを続けてくれるからねー。今日はどうする?」
「なるべく手入れが楽な感じで」
「あははははー」
 タカ丸君が断りなく、私の髪を弄るのはいつものことだ。私は、どうせ許可をする前に終わってしまう早業なのだから、放っておくことにしている。

 そういえば、山田さんのお宅に行くには普段よりも少しぐらい身奇麗にしていた方がいいだろうか。……て、違う違う、行かないんだった。

「美緒ちゃん、なにか悩み事ー?きいてもいいー?」
「大したことじゃないんだけどね。今日、利吉さんから自宅にご招待うけちゃってー」
「え?」
「でも、さっき鉢屋と断る約束しちゃったからどうしようかなーって」
 手が止まってしまったようなので振り返ると、タカ丸君が固まっていた。

「タカ丸君、どうしたの?」
「利吉さんって、山田先生の息子の?」
「そうだよ。山田さんは帰ってないだろうけど、奥様に会うのは初めてだし、どっきどき。だったんだけどー、鉢屋に私は絶対断れないって言われちゃってさ」
 まさに売り言葉に買い言葉ってああいうことをいうんだね、と私がしみじみと頷いていると、急に両頬をタカ丸くんの手で掴まれて、見上げる体勢で抑えられてしまった。うん、どういうことだろうか。

「聞いてないよ」
「まあ言ってないよね」
「利吉さんといつからそんな関係なの?」
「割りと最初から?」
「……っ、美緒ちゃんがそんな人だったなんて……っ」
 目の前で泣きそうなタカ丸君に私は首を傾げる。なんだなんだ一体どうしたというのだ。

「だって、利吉さんは山田さんの息子さんだし、印象は良くしておきたいよね」
 なにしろあの山田さんの息子なのだ。どんな間違いも起こり得ないが、悪く思われたくないのは当たり前だろう。

「……その様子じゃ、何かあるわけじゃないんだねー……」
「は?」
「そういえば、美緒ちゃんて趣味が悪かったんだっけ」
 つぶやくようなタカ丸君の声はすぐ近くで響くように聞こえた。それは、前触れ無く抱き寄せられたからに他ならない。

「どーいう意味?」
「安心したってこと」
 本当に安堵の息が聞こえて、私は首を傾げた。

「なんで、タカ丸君が安心する……あ!」
 会話を続けていた私は、唐突に思い出した。既にタカ丸君の髪結いが終わっているということは、仕事の時間だ。

 私はタカ丸君の手を逃れて、ぱっと立ち上がると、彼に向かって両手を前に揃えて笑顔を作った。

「いらっしゃいませ、タカ丸君。今、お茶を持ってくるから、待っててね」
 何を言われるでもなく、私はパタパタと奥に行って、四人分のお茶を淹れて、店先へと戻ってきた。まだそこにはタカ丸君しかいないようだ。

「気にしなくていいのに」
「仕事は仕事だからね、うん」
 どうぞと湯呑みを手渡すと、タカ丸君はいつもの笑顔で受け取ってくれた。

「それで?」
「うん?」
「利吉さんに自宅にご招待されて、なんで行く気になったの?」
 ……お金に釣られたなんて言ったら、笑われるだろうか。笑われるよね、やっぱり。

「えーと、山田さんの奥さんが私の拙い南蛮料理を食べてみたいっておっしゃってるらしくって」
 あははははと笑ってごまかせば、いつになく真剣な目で怒られた。

「だからって、男の家に簡単にご招待されちゃだめだよ」
「山田さんのおうちなら間違いなんて」
「でも、招待されたのは利吉さんの家なんだよね」
「あー、そー……そうだね、うん」
「そうだねじゃないよーもー」
 警戒心が足りない、と珍しく怒られてしまいました。それから立ち上がったタカ丸君はもう帰る気配を見せていて、ほんの少しの寂しさに私は泣きそうになってたみたいで。

「明日、僕も来るから」
「え?」
「ちゃんとお店を開けてよね」
「う、うん」
 小さい子にするように頭をポンポンと撫でられて、やめてよと言う前にタカ丸君もまた姿が見えなくなってしまったわけで。

「なんでうちのお客さんはいなくなるのが早いのかなー?」
 私は軽く首を傾げてから、くるりと踵を返してお店に戻ったのだった。

「むう」
 なんで、綾部喜八郎君に私は睨まれているのでしょうか。この子と会うときはいつもこうだ。

「美緒さんはなんでターコちゃんに落ちないんですか」
「意味がわからないですー」
 彼もまた戸部さんの教え子となるはずだが、いまいち掴めない子だ。いつも私が何かに落ちるのを待っているらしいのだけど、とりあえず何かに落ちたことは一度もない。勘はいいほうなのだ。

「いらっしゃい、綾部君」
「喜八郎」
「……お団子食べる、綾部君?」
「喜八郎って呼んでよ」
「無理言わないでください、お客サマ」
 にっこりと拒絶すると、綾部君は頬をぷぅと膨らませる。可愛い顔をしているから、そんなことをしても様になるのは羨ましいと素直に思う。私がやっても、絶対に可愛くないだろうし。

「タカ丸さんは名前で呼んでるじゃない」
「タカ丸君は髪結いのお父様を知ってるし、名前で呼ばないと混同しちゃうでしょ?」
「……は?」
 不可解そうな顔をしている綾部君の頭をポンポンと私が撫でると、更に不満そうにしながら、抱きつかれた。綾部君のこれはいつものことなので、弟にするように私は笑って流せる。さすがに、立花君のあれは流しきれなかったなぁと、笑いがこぼれた私を見咎めて、くぐもった声で聞いてくる。

「何笑ってんの」
「うーん、綾部君は弟みたいで可愛いなぁって」
 更にぎゅっと抱きしめられて、流石に痛いので、私は綾部君の頭を少し強めに叩いた。

「痛いよ、綾部君」
「……たった二つなのになぁ」
「なんでもいいから、少し緩めて」
 何度もあやすように背中を叩いていると、綾部君からは忍び笑いが聞こえてくる。悪戯のつもりなのだろうか。だったら、可愛いものだ。

「綾部」「喜八郎!」
 うつむいて綾部君を見ていた私の上に暗い影が落ちたかと思うと、目の前にはお客様が。

「いらっしゃい、滝夜叉丸君」
 私が反射的に笑顔で応対すると、綾部君の力が心なしか強くなったような気がする。

「なんで滝まで……?」
 まだ名前に拘っているらしい。しょうがないなぁと私は文句をいいそうな滝夜叉丸君を手で制して、できるだけ優しく綾部君に声をかけた。

「平君て呼ぶと、長いんだよね」
 いろいろと長い口上を聞くぐらいなら、というとますます綾部君の力が強くなって、私は苦しい。

「喜八郎君、離してくれる? 私、仕事しなきゃ」
 名前を呼ぶと、綾部君改め喜八郎君がぱっと顔を上げた。そういえば、十三歳といえば中学生だ。まだまだ子供ね、と心の中で笑いながら、緩んだ腕から私は抜けだした。

「来るのが遅いよ、滝夜叉丸君。お茶が冷めちゃったじゃない!」
「「は?」」
 同じように聞き返してくる二人に、私はふふふと小さな声を上げて笑った。どんなに大人びて見えても、彼らはまだまだ弟と変わらない。

「今、新作メニュー出してるんだけど、食べるでしょ? 持ってくるまで、喧嘩しないで待っててね」
 返答も聞かずに私は店の奥へと戻った。喧嘩しないでといったからか、二人からは口論は聞こえない。いつもなら、喧々諤々と始まっているところだが、喧嘩するほど仲がいいと言っても他のお客様の手前はやめてほしいものだ。

 盆の上にきり丸たちに出したのと同じ白玉団子たちを乗せて、私は店先へと戻った。口論はしてないけれど、なんでか空気が悪いような気がする。涼しい顔でお茶を飲む喜八郎君とそれをすごい形相で睨みつけている滝夜叉丸君。

「美緒さん、私にもお茶をいただけますか」
「いらっしゃい、田村君」
 挨拶をしてから、そういえばタカ丸君と喜八郎君、滝夜叉丸君と田村君たちは同級生なのだと聞いたのを思い出した。ということは、だ。

「えーと、三木ヱ門君も新作の白玉食べるでしょ?」
「はい、ありがとうござ……え?」
 驚いた様子で私を見る田村君改め三木ヱ門君はともかく、なんで喜八郎君と滝夜叉丸君まで驚いてるかな。

「どうしたの?」
「美緒さん、なんでこいつまでっ!」
 噛み付くように文句を言うのは滝夜叉丸君。

「え、タカ丸君と喜八郎君と滝夜叉丸君と三木ヱ門君は同級生なんだよね?」
「そうですけど」
 不満そうに口をとがらせるのは喜八郎君。

「じゃあ、三木ヱ門君だけ田村君って呼んだら、変でしょ」
 ついでだというと、少ししてから驚いた顔をしていた三木ヱ門君がそういうことか、と頷いた。え、今ので何かわかるとかありえなくないか。……てか、彼らはなんで会話している様子もないのに、お互いに話が済んでいるんだろうか。謎すぎる。

「そんなことよりねえ、どこが新作って聞いてくれないの?」
 私が笑顔で要求すると、ようやく質問が返ってきた。自信満々に説明しようとして、私ははたと気がつく。ロシアンルーレットって言葉を使わずに説明しないと、まずいよね。でも、なんて言ったらいいのか浮かばない。

「美緒さん?」
「どうなさったんですか?」
「顔色が……」
 心配そうな三人に私は慌てて首を振った。

「ななななんでもないよ! これは、食べてみてのお楽しみ白玉だから! 当たりが出たら、今日のお代は私のおごりっ」
 一息に言い切って、私が差し出すと、滝夜叉丸君と三木ヱ門君は互いに顔を見合わせていたが、喜八郎君は考えこんだものの真っ先に白玉をひとつ口に入れた。

 私が固唾を飲んで反応を見守っていると、まったく顔色は変わらない。

「喜八郎君は何が入ってた?」
「普通の餡だけど、これはハズレ?」
 ほんの少し期待していた分だけ私が肩を落とすと、滝夜叉丸君と三木ヱ門君がそれぞれに白玉を手にした。と、そこでまた喜八郎君も加わる。

「一つだけってルールじゃないよね」
「っ、うん!」
 思わず笑顔で頷くと、三人は一様に固まって、それから三人同時に白玉を口にした。結果は……。

 一個を残して誰も当たらないってどういうことよ。

 しょんぼりと肩を落とす私に気遣うように声をかけてくるのは三木ヱ門君だ。

「あのー、美緒さん、ちなみに当たりは何が入っているんですか?」
「竹輪のチーズ揚げ」
 全員で口を抑えることはないと思う。私も美味しいとは言わないけど、山葵や芥子よりはマシでしょうに。

「料理が下手なわけじゃないのに」
「なんでそういう発想に行き着くんだっ?」
 これは褒められてるのか貶されてるのかわからないけど、最後に残った白玉はどうしようか。

 少し考えてから、私はそれを口にした。中身は、入れた覚えのない白餡。

「あれー?」
 私が奥に事情を聞きに行って戻ってくると、そこには喜八郎君しか残っていなかった。なんか、でっかい穴があるけど、なんだろう。それに、妙に晴れ晴れとした喜八郎君の様子は一体。

「喜八郎君、もう帰るの?」
「うん」
「そっかー……」
 また誰もいなくなるんだなぁと思ったら、また寂しさが募ってしまった。ここに来てから、特に一人になるのが怖くなったような気がする。今のところは隠せているけれど、きっといつか限界は来る。喜八郎君も他のみんなも、いつかはいなくなってしまう。私を預かってくれている養父も養母もいつかはいなくなってしまうだろうし、戸部さんもいつかは私をおいてどこかへ行ってしまうかもしれない。

 いつか、ひとりになったら、私はどうなってしまうだろうか。

「美緒さん」
 私と同じぐらいの背丈の喜八郎君が抱きついてくると、そのサラサラの髪が私の耳元をくすぐる。

「ん、くすぐったいよー、喜八郎君」
「また来るよ」
「うん」
 鼻声で答えてしまって、私は自分が本当に泣きそうなんだと気がついて、慌てて鼻を啜った。それをみた喜八郎君が綺麗な顔でクスリと笑う。

「そんな顔をされたら、お持ち帰りしちゃうよ」
「されませんっ」
 すかさず言って返すと、喜八郎君はくすりと笑って、私から離れた。暖かさが消えて、泣きそうなのをこらえて私は一度ぎゅっと目を閉じる。それから、目を開けて、目の前の喜八郎君に笑顔を見せた。

「またお待ちしてます」
 喜八郎君はなにか言いたげな顔をしていたけど、一度頭を下げて、歩き出してしまった。その背中を私は見えなくなるまでずっとずっと見つめていた。

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7#信じてますから



 肩に手をかけられて、私が振り返ると、そこにはあの山田さんがいた。さっきの利吉さんじゃないけど、変なところがよく似た親子だ。顔も性格もほとんど似てないのに。ーーいや、仕事人間ってところはとってもよく似てるって誰かから聞いた気がする。

「山田さん」
 思わず顔を歪めた私に、山田さんも困ったように笑う。

「美緒さん、利吉が無理を言ったようですまなかったね」
「い、いいえ! 利吉さんは私を気遣って嗚呼言ってくれたんだとわかってますから。だから、大丈夫ですっ」
 なんとか笑顔を作ると、山田さんは何故か複雑そうな顔をしている。そうだ、お茶を出さなきゃと私は気がついて、慌てて頭を下げた。

「あ、あの、いらっしゃいませ、山田さん。今、お茶をお持ちしますねっ」
 山田さんからの返事を聞かずに、慌てて店の奥へと戻った私は、お茶を準備しながら、深呼吸してドキドキを抑えこむ。いきなり現れたから、すごくビックリしてしまったが、変な対応になってなかっただろうか。

 考えながらも急いで準備したのは、少しでも長く話をしていたいからに他ならない。誰といるよりも落ち着かなくて、誰といるよりも安心する山田さんが来ているのだから、当たり前だろう。

「おまたせし……あれ、山田さん?」
 でも戻ってみれば、そこには山田さんはいなくて。

「やあ、美緒ちゃん」
「不破君?」
 何故か帰ったはずの不破君がいた。あれ、と首を傾げる私に近づいてきた不破君は、がっしと私の両肩を掴んで顔を見つめてくる。ん、これは不破君じゃないほう、だ。

「それで、美緒ちゃんはちゃんと断れたのかな?」
 双子ごっこでもしてるのだろうか、鉢屋は。しかたないから、つきあってやるか、と私は笑う。

「まだ利吉さんが迎えに来てないんだから無理だよ、不破君」
「そう」
 にこにこ笑顔が不破君のトレードマークみたいだけど、今は鋭い目線がすべてを裏切っている。

「ところで、山田さんがいなかった?」
「さあ、私は見てないけど」
「そっかー」
 私は近づいていって、鉢屋に湯呑みを差し出した。どうして鉢屋が不破君の真似をしているのかはしれないけれど、今の私には瑣末なことだ。つまり、どうでもいい。

「もう帰っちゃったのかなぁ」
 そんなことよりもせっかく来てくれた山田さんにお茶の一つも出せなかったのが哀しい。

 鉢屋の隣にすわって、私はその体に寄りかかった。今日は珍しく来客の多い日で、なんだか疲れてしまった。ずっとってわけじゃないけど、しばらくは会えなくなるって人が多すぎて、寂しさが募って。

「……山田さん、次はいつ来てくれるかなぁ」
 目を閉じて、山田さんを想うだけで、ドキドキするけど、いないことが寂しい。でも、それ以上に今日来てくれた友達に会えなくなることがなによりも寂しい。

「戸部さんも山田さんも、忙しいから無理を言っちゃいけないのはわかってるけど、寂しいなぁ」
 今の時代、ちょっとの別れが永遠の別れになるなんてザラなのは、ちゃんと私もわかっているつもりだ。でも、頭でわかっているのとは別で、心が寂しいと訴える。

 肩に置かれた手が私を強く抱きしめる。

「私がいる」
「うん」
「皆も、夏休みが終わればすぐに会える」
「うん」
「だからーー泣くな、美緒」
 腕が緩んだので顔をあげると、もう鉢屋は不破君のフリをやめていた。あの見透かすような目で、何か言いたげに私を見下ろしている。

「泣いてないよ、鉢屋」
「泣いてる」
「泣いてない。まだ、仕事中だもん」
 鼻を啜り、私は数回瞬きしてから、身を起こして鉢屋から離れた。鉢屋はまだ真剣な目で私を見ている。

「頭ではわかってるんだけどね、こんな時代だし、いつ誰がどうなるかなんてわからないからって、どうしても考えちゃうんだ。後ろ向きは良くないって、わかって」
「もういい」
 私の言葉を遮る鉢屋は、私よりも苦しそうに私を見ている。

「泣いていいから」
「泣かないよ、仕事中ーー」
「いいから」
「よくない、よ」
 鉢屋の言葉を跳ね除けようとすればするほど、視界が歪んでいく。泣いちゃダメだと自分にいくら言い聞かせても、とめられなくて、私は目を閉じた。私の頬を伝い落ちる雫が、幾筋も流れてゆく。それを荒れた太い指が拭う。

「美緒は、どうしてそんなに私達を気にかけるんだ? ただの客なんだろ?」
 鉢屋の問いに答えたくても涙で喉が詰まって声が出ない私は、ただ首を振った。ただの客なら、こんなに気にかけたりしない。私にとって、彼らは数少ない年の近い子供たちで、戸部さんや山田さんの教え子だ。だから、とても身近に感じていたし、彼らもそうであると思っている。そうでなければ、わざわざこの茶屋に寄る彼らではないだろう。

 戸部さんの勤めている学校には、全国から生徒が来ているのだと聞いている。だから、全員が全員、ここを通るのが不自然だということぐらい、いくら私の頭が悪くてもわかるというものだ。

 ひとしきり泣いてから、勧められるままに鉢屋に渡した茶を飲み、私ははーと息をつく。

「美緒は」
 そんな私に鉢屋が話しかけてくるので、彼の目を見る。

「なんでそんなに我慢するんだ。寂しいとか辛いとか、そういうことはもっと言ってもいいと私は思う」
 優しい鉢屋に私は泣きすぎて腫れた目で、弱く微笑んだ。

「……言えるわけない。だって、戸部さんは私を同情で拾ってくれただけだし、こんな風に住む場所を示してくれただけでも、すごく感謝してるの。私はそんな戸部さんの負担にだけは絶対になりたくない。お荷物になって、嫌われたくないもの」
 戸部さんに拾われて、一緒に暮らせない理由もちゃんと説明されたから、私は理解しているつもりだ。だから、そんな風に鉢屋が怒ることはないと思う。

「じゃあ、なんで泣くんだよ」
 苛ついた鉢屋の声に、私は思わず笑っていた。

「ふふっ、鉢屋が優しいから、かな」
「っ」
 何故か動揺している鉢屋から離れ、私は立ち上がった。鉢屋も立ち上がって、私の隣に立つ。

「美緒」
「あーあ、誰にも話すつもりなかったのに。どうしてくれるわけ、鉢屋?」
「……いつから、私が雷蔵じゃないと気づいてたんだ」
「なんとなく、ね。不破君と鉢屋じゃ、目が違う。不破君はそんな鋭い目で私を見たりしないよ。私をまだ疑い続けるかどうか迷ってるみたいだから。鉢屋は私の奥を見ようして、真っ直ぐに見てくるから、違う」
 困った顔をする鉢屋の頭に私は背伸びして手を伸ばして、小さい子にするように撫でた。

「大丈夫大丈夫。普段はよくわかんない。ただ、さっきはなんとなくわかっちゃっただけだから」
 確か鉢屋は変装の名人と言われる程に変装が得意だと聞いているから、私みたいな一般人に見破られるのは悔しいだろうと思って言ったのに、撫でていた腕を掴まれて、顔を近づけられた。

「こんなときばっかり勘がいいくせに、なんでわかんないかな、美緒は」
「え?」
 不破君に変装した鉢屋の顔が近づいてきたかと思うと、額に柔らかくて湿ったものが触れた。

 え?

 すぐに腕も離されたけど、これって、え?

「は、ははは、鉢屋が御乱心っっっ!」
 額を抑えた私は多分顔が真っ赤だ。こんなこと、家族にもされたことがない、典型的日本人なのに、なんでいきなりデコチューだ。

「私の前ならいくらでも泣いたって、弱音を吐いたっていいから、他のやつの前では絶対にするなよ、美緒」
「し、しないよっ! 誰にも言うつもりなかったっていったじゃんっ」
 後ずさる私を鉢屋は何故かニヤニヤと見ている。これって、からかわれてるんだよね。いつもの、延長線上、だよね。

 期待するな、誤解するな、私。鉢屋はただ、私を心配してくれただけなんだから。他意なんて、ないんだから。落ち込んでる私を慰めてくれてるだけだ。鉢屋は優しいから。

 両手で頬を包んで、鉢屋から顔をそむけていた私は、鉢屋がどんな顔で私を見ていたのか知らない。でも、なんとなく優しい雰囲気に包まれていたのはわかる。

「美緒」
 そうだ、そういえば近くに山田さんがいるかもしれないのに、私ってばなんて子供みたいなこと言っちゃってんの。それも、年下に!

「うにーっ!」
「美緒!?」
「鉢屋が悪いっ!」
「な、なんだ、急に」
「もしも山田さんに幻滅されたらっていうか、そもそも幻滅されるほどの関係じゃないけど、されたら鉢屋のせいだからねっ」
「……美緒?」
「いないかな、いないよね? いてほしいけど、いたら困るっ」
「……落ち着け、美緒。山田先生ならいないから」
「だってさっきまでいたのに、そんなわけないじゃないっ」
「それは、私」
「だから、鉢屋が来る前にーー」
「山田先生に変装した私だ、美緒」
 鉢屋の言葉を脳内でリピートした、私は一瞬の後にグーで鉢屋を殴った。彼は何故かおとなしく殴られてくれた。その鉢屋の胸をぽかぽかと叩いて、私は文句を言ったのに、鉢屋は全然やり返さなかった。

「鉢屋の馬鹿ーっ!」
「雷蔵と私は見分けたのに、どうしてわからないかなー」
「わかるわけないでしょう。山田さんの前に出ると緊張して、真っ直ぐに見れないんだから」
「……確かに、目は合わなかったが……あれは……」
「何っ?」
 何故か口元を覆い隠して顔をそむける鉢屋に私は、なにかまずいことでもあるのかと目を見開く。

「や、うん……美緒が山田先生を好きなのがよくわかった」
「だ、ダダ漏れですか……」
「でも、私は普段の美緒のがいいと思う」
「……鉢屋に言われてもなー……」
 好かれたいのは、山田さんだし。と、私が言うと、何故か極端に鉢屋が落ち込んでしまった。

「……趣味が悪いのは今更だけど、なんかやりきれないな……」
「何ブツブツ言ってんの、鉢屋?」
「ナンデモナイよ」
 お腹でも空いたのだろうか、と私は首を傾げた。やはりお茶菓子に豆腐じゃ、この年頃の男の子には足りないのだろう。

「鉢屋、ちょっと待ってて」
 私は店の奥に急いで戻ると、戸部さんのために用意しておいた握り飯を二つ手にして表へ戻った。

「鉢屋ー、これあげるーって、なにしてるの二人共!?」
 戻ってきた私の目には二人の間に火花が見えた気がした。

 そう、二人、だ。いつのまにか利吉さんが来ていたのだ。

「やあ、美緒。迎えに来たんだけど、準備はできてる?」
 利吉さんの言葉で、私は何故かれがここにいるのかを思い出した。それから、鉢屋が不機嫌なのも。

「そのことなんですが」
「母上も美緒が来るって聞いて、すごく楽しみにしているんだ」
 言外に断らないよねと利吉さんに念を押された気がしたけれど、私は鉢屋をちらりと見てから、もう一度利吉さんを見つめた。

「あの、やっぱり山田さんのおうちには泊まりに行けません」
「どうして?」
 理由はまだ考えてなかったけど、これで十分だろう。私は自然と浮かぶ笑みを抑えずに、利吉さんに笑いかけた。

「お客様が来てくださるから、お店を休むわけにはいかないんです」
「でも、に……学園はしばらく夏休みだし、ここに来る者は少ないだろう?」
「はい」
「美緒は耐えられるの?」
 来ない人を待ち続けられるの、と尋ねられて、正直心は揺れた。でも、答えはもう決まっている。

「信じてますから。夏休みが開けたら、また元気な姿で皆に会えると信じてますから、私は大丈夫です」
 はっきりと言い切った私を、利吉さんは少し眩しそうに見て、それから諦めの息を吐いた。

「参ったな」
「まいっちゃったんですか?」
「うん、参った。ますます本気で美緒が欲しくなってしまったよ」
「え?」
 私が利吉さんの言葉の意味を考えている間に、私は鉢屋の胸に抱き寄せられていた。

「美緒を狙うなら、私達全員でお相手しますよ」
 私は顔を鉢屋の胸に押し付けられているせいで周囲は見えなかったけど、なんとなく不穏な空気を感じて、鉢屋から離れようと抵抗した。でも、いつもと違って、全然逃げられない。

「君たちも同じだろう?」
「でも、アンタみたいに美緒を罠にかけようとは思わない。それじゃ、美緒が美緒でなくなる」
「同じだよ。どんな状況でも美緒は、おかえりなさい、と言ってくれる」
「同じじゃない。やっぱり、アンタに美緒はやれない」
「そうか」
 二人の会話はよくわからないけど、とにかくやめさせなきゃいけないことはわかる。ここで、私の店の前で喧嘩なんかさせないっ。

「鉢屋!利吉さ……?」
 なんとか腕を抜けだした私が二人の名前を呼んだとたん、私の体はぐらりと傾き、鉢屋の腕に抱きとめられていた。

「美緒っ?」
「ふたり、ともー、喧嘩ー、ダメー……」
 頭がグラグラして、気持ち悪い。なんだこれ、酸欠かな。

 考えている間に、私の意識は暗転した。

p.8

8#おかえりなさい



 目を覚ますと、目の前には帰ったはずの善法寺君がいた。それに、外にいたはずなのに、着替えのおいてある四畳の部屋に寝かされている。

「あれー、善法寺君だー?」
「気分はどうだい、美緒ちゃん」
 答えを返そうとして、視界の端に映った人に顔を向ける。部屋の中は狭いから、善法寺君と鉢屋しかいないけど、戸口にいるのは同い年の友人たちだ。

「んー……んー……? なんか、皆の幻覚が見える……」
「ふふっ、幻覚じゃないよ。皆、美緒ちゃんを心配して、戻ってきちゃったんだ」
 部屋の向こうがガヤガヤと騒がしいけど、善法寺君の周囲だけ、静かで穏やかだ。彼の笑顔に釣られるように、私もにへらと笑い返す。

 それから、お客様が沢山いるという事実に思い当たり、跳ね起きた。

「仕事っ!」
 その拍子に、思いっきり善法寺君の顔にぶつかった。口の端を抑える私と、口を抑える善法寺君。ーーこれは、不幸な事故だ。

「ごめん、大丈夫?」
「っ、なんで平然としてんだっ!」
 文句は部屋の外にいる潮江君から聞こえたけれど、これは私と善法寺君の問題だから、さくっとスルーだ。

「一度目はおでこで、二度目は未遂。惜しかったね、善法寺君っ」
「……少しは動揺しろよ、美緒」
 サムズ・アップする私に、食満君から脱力したツッコミが入る。

 いやいや、そんな場合じゃない。掛け布団を避けて起き上がろうとすると、鉢屋に肩を抑えられる。

「なにする気だ、美緒?」
「お客様にお茶出さないとって」
「……っ、アンタは自分がなんで倒れたか、わかってんのかっ?」
 激高する鉢屋には悪いけれど、理由はなんとなく自分でもわかっているから、私はただ笑って返した。

「いつから、眠れてないんだ」
「今回はまだ三日目だよ」
 私の記憶は戸部さんに会った時からしかないけれど、それからも時々眠れない日々が続くことがあった。いわゆる不眠症ってやつだ。それでも、昼間に少し転寝する程度であれば眠れるし、単に夜眠れないだけだから、そこまでの体調不良というのはない。それを、皆も知っているはずだから、そこまで心配されることではないと思う。

「さ、お茶を出さないと」
「美緒のじーさんが休んでてもいいっつってたし、俺らは勝手に飲んでるから気にすんな」
 七松君の申し出はありがたいけど、眠っていられるわけがない。だって、この仕事は私がここにいられる最大の理由なのだから。

「じゃあ、お代」
「とるのかよっ」
「ふふふっ、冗談だよ」
 笑っていると、布団に寝かされて、目蓋の上に手を乗せられた。冷たくて、薬臭い、善法寺の手だ。

「美緒ちゃんの不眠症は、たぶん不安からくるものだよ。今日は俺達がここにいるから、ゆっくりと眠るといい」
「……だめだよ、皆は帰る家があるんだから、ちゃんと帰らなきゃ」
 どかそうとしても善法寺の手はビクともしない。

 私は帰る家がある人を引き止めたいとは思わない。だって、私は永遠に会えなくなってしまったから、だからせめて、皆には生きていられる間はちゃんと家族といてほしいと願っている。

「帰らなきゃだめだよ」
「一日ぐらいなら、取り戻せる」
「俺はもともと途中に寄る場所があったから、ついでだ」
 皆が口々に言い訳をしてくれるのを聞きながら、私は久しぶりに眠りが訪れるのを感じていた。今は昼間で、皆は帰らなきゃいけないのに、甘えちゃいけないのに。

 眠くて、眠くて、仕方ない。

「……じゃあ、五分だけ……」
「おやすみ、美緒(ちゃん)(さん)」
 温かな声に揺られ、私はゆるやかな眠りへと誘われていった。

 不安はずっとあった。だから、眠れなくなるのもわかっていたし、そういうときは無理に眠ろうとしても眠れないのはわかっていた。だから、夜通し本を読んだり、書き物をしたり、新作メニューを考えたりして過ごしてた。

 戸部さんが来たら、たいていの夜は眠れるようになるのだけど、今回は長期の別れの客が多かったから、もう少しだけ長引くはずだった。

「美緒」
 優しく私を呼ぶ声は、誰だろう。

「無理してんじゃねぇ、馬鹿美緒」
 これは潮江君だろう。囁くように文句を言っているけど、文句に聞こえない。ああ、それに、これは少し前の出来事のはずだ。だから、これは夢なんだろう。

「無理しちゃダメなの?」
「ダメじゃねぇが、時々は息を抜かねぇと、倒れるぞ」
「なにそれ、経験談?」
「まあな」
「ふっ、それなら、私も負けないよ。既に倒れたし」
 私が無い胸を張ると、潮江君の痛い拳骨を頂いた。女の子に容赦無い。

「馬鹿美緒」
「ったいなぁ、潮江君。そんな風に女の子をいじめてたら、ますますモテないよ?」
「余計なお世話だっ」
 あはは、あの時の潮江君の顔は面白かった。その後になんかブツブツ言ってたのは聞こえなかったけど。

「で、いつ倒れたんだ?」
「潮江君たちに会う前の話だよ。まだ、ここに来たばっかりの頃」
「……ああ」
「そんときは婆ちゃんと爺ちゃんになんで言わなかったんだって、心配されて怒られた。後から、戸部さんと山田さんにも知られて、ものすごく心配されて怒られたの。それで、もうバレないようにしないとなーって」
「バカタレ」
 話してる途中で遮るとか、すっごく失礼だよね。顔が老けてるからって、許されることじゃないと思う。

「バレなきゃいいってもんじゃねぇだろ。……眠れないなら、伊作に相談するといい」
「うん、ありがとう、潮江君」
 あの話の時も不眠症だったんだけど、潮江君に気づかれてないから大丈夫だと思ってたんだけどなぁ。

「バカタレ」
 あれ、これはいつのバカタレだ。それに、頭をなでる優しい手。墨の匂いのする、優しいこの手は誰の手だろう。

「長次ばっかりずるいぞっ」
 これは七松君の声だ。てことは、もう起きなきゃ。

「静かにしろ、小平太。美緒が起きる」
 ゆっくりと目を開くと、まっさきに傷だらけで強面の中在家君と目が合った。その向こうには立花君の顔が見える。

「寝てろ」
 低い低い中在家君の声を拾ったけど、私は首を振って起き上がった。久しぶりに寝たから、寝起きの頭がくらくらする。

 部屋の中のメンバーが変わらないことを確認して、私は思わずへらりと気の抜けた笑いをこぼしていた。

「おはよー」
 答えを返してくれたのは、善法寺君と中在家君だけで、後はまばらに返ってくるか来ないかだ。とにかく顔を洗おうと、布団から出ようとした私は、ようやく自分が寝間着に着替えさせられていたことに気がついた。

 誰が、やったかどうかとか、聞くのはやめておこう。藪を突いて、蛇を出す趣味はないし。

 部屋を出て、つっかけをはいて、裏手の井戸まで行く私の後をついてくるのはやっぱり鉢屋だ。何も言わないので、私は井戸まで行って、自分で桶を組み上げて、顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。

 倒れたときは夕刻頃だったのは覚えている。鉢屋と利吉さんのバックは記憶の限り朱に染まり始めていたから。

 その後に一度目を覚ましたときは外を見ることはできなかったけど、部屋の中の燭台に火が点されていたし、たぶん夜だったんだと思う。

 で、今のこの空気は早朝の心地良い爽やかな空気だ。

「まだ明け六つだ」
「んー?」
「美緒が寝てから、半日も経ってない」
 鉢屋の意味するところを考えて、私はああと頷いた。

「そんなもんでしょ」
 いくら不眠症が長かったからといっても、それで長く眠り続けるわけじゃない。深く眠れたから、寝覚めもすっきりしているし、この分なら今夜も眠れるだろう。

「私は、知らなかったんだ」
「不眠症のことを知ってたのは、同い年の善法寺君らと戸部さんと山田さんぐらいだよ。知らなくて当然」
 むしろ、知ってしまってアンラッキーは鉢屋の方かもしれない。余計な心配をかけたくはないから、もともと知らせるつもりもなかった。

「利吉さんも?」
「ずいぶんと鉢屋は利吉さんに拘るね。ん、山田さんが話してなければ、利吉さんも知らないはずだよ」
 苦笑しながら私が言うと、鉢屋は何故か安堵したようだ。

 そこまで利吉さんに拘る理由は、私にはわからない。わからないけど、何かを鉢屋が恐れているのはわかる。それは、自分も同じだからかもしれない。

「私はここにいるよ。ずっと、皆が卒業しても、ここにいて、お店をやってると思う」
「……美緒?」
「だから、時々は顔を出してね。私がよく眠れるように、さ」
 これが私の精一杯のワガママだ。鉢屋がいいって言ってくれたから、すこしぐらいはと思えたのも事実。

 私がこんなことを言うのが珍しいからか、影から覗いていた皆が吃驚しているのが伝わってきて、恥ずかしい。でも、顔を隠さずに、私は皆の見回した。

「私はどんな時でもこの場所で、皆に、おかえりなさい、を言いたい」
 だから、と笑う私は彼らの目にどう写っているのかわからないけど、こんな些細な夢が叶うなら、少しぐらいはワガママを言ってもいいかもしれない。

「皆じゃなくてもいいんだぞ、美緒」
「むしろ俺だけにっ」
「あはは、七松君、この場所だから意味があるんじゃん」
 誰かが意味を聞いてくるのに、私は笑ってこたえた。

「ここは山田さんが来てくれるからねっ!」
 あれ、なんで皆で脱力してるのかな。ものすごく失礼だ。

「ちょっと、ここは重要な所だよ!? テストに出るんだからねっ!」
 あれー、ツッコミが返ってこないなー。

「……最大の敵が山田先生とか、最恐すぎる……」
「……美緒はなんであんなに趣味が悪いんだ……」
 遠くで失礼なことを言ってるのは誰だろう。少なくとも一人ではない。

「ふっ、ふふふふふ」
 私の笑いを聞いた付き合いの長い六人が一斉に顔を青ざめさせた。

「ちょっと、アンタたち、そこに正座しなさい。私が山田さんの魅力について詳細に語ってあげるから」
「おお落ち着け、美緒」
「話せば分かるっ」
「わかってないのは、アンタたちでしょうがっ!」
 六人を追い掛け回し始めた私は、木の影で利吉さんと鉢屋が話をしていたことに気が付かなかった。

「……アンタも苦労しますね」
「君もね」
「でも、私は引く気ないですから」
「ああ、俺もだ」
 そんな会話がされているとも知らず、私は息が切れるまで六人を追い掛け回したのだった。

 当然、追いつけないのはわかっていたけど、悔しいは悔しい。

「くっ、後で覚えてなさいよ!」
「美緒、それは悪役のセリフだぞ」
「誰のせいだと……っ」
 へとへとになって歩けなくなった私は、結局善法寺の手で担がれて、布団に戻されたのだった。

 お姫様抱っこにしてもらえばよかっただろうかとも考えたが、ろくな事にならない予感がしたので、とりあえず口にしないでよかった。

「じゃあ、次は私がお姫様抱っことやらで運んでやろう」
「ごめんなさい、やめてください、立花様ー」

あとがき

1#いつものこと
2#ろしあんるーれっと


公開
(2011/12/27)


3#似ているから


てか、後半どうなのって思うので、書き直すかもしれないし、思いついたら、このまま突っ走るのもありだろうか。
(2011/12/27)


書き直しました。
前のはぶっとびすぎだ(笑)
(2011/12/29)


分割ついでに、ちょっと直しました。
(2012/01/01)


4#六年生の贈り物


何年生を出そうか悩んだ末に、六年生にしました。
(2012/1/18)


うん?後半を追加したら、なんでか潮江落ちになりました。
次は何年生を出そうかな~。それとも、山田家に行こうかな。
(2012/1/30)


5#五年生は過保護です


遅くなりました。
……まだまだキャラの把握ができてないかもと痛感……orz
ひとりずつエピソードでも作ったほうがいいでしょうか。
(2012/04/18)


改訂
(2012/07/30)


6#四年生の呼び方


四年生を書こうとしたんだけど、何故かタカ丸君だけ別になってしまった……。


綾部滝田村は煩いと怒られたことがあるので、矢羽会話です(え
何を話しているのかは、読み手さんのご想像におまかせー


しかし、予定外に四年生だけ全員名前呼びになってしまったなー
そこまで好きかといわれるとそうでもないのに(オイ


三十路にもなって、夏季休業課題があるとかなんなの。
逃避して、書いている私は絶賛ピンチです←
誰かーたーすーけーてー
(2012/07/29)


7#信じてますから


そんなつもりはなかったんです。
鉢屋難しいし。
でも、なんか出てきた。
利吉さんも出てきた。
そろそろこの話も幕を引きます。
(2012/07/30)


8#おかえりなさい


時間がないときほど、書きたくなるのは何故だろう……。
とりあえず、これにて「おかえりなさい」は終了です。
あとはちょこちょこ短編で書いていこうかな。


山田先生スキーな女の子って、需要あるのかな(え
どれだけ周囲に好かれてもひたすらに山田先生大好きで押し通す所存です。
たぶん、戸部先生も被害者(笑)
まあ、年齢的に犯罪臭がしますけど、夢の中なのでスルーでお願いします。


なんでこんな話になったかというと、単純に私がおじさまスキーだからです(おい
他のキャラもいいけど、やっぱり奥様大好きな三〇すぎのおじさまが最高です!←不倫ではないですよー
そんな流れで、老け顔の潮江文次郎とか強面の中在家長次とかもありです(そうか?
体育会系の七松小平太はいまいちキャラが掴みにくいです。
キレイ目の立花仙蔵も同じく。
一番気が合いそうなのは食満留三郎かなー。
でも、彼は苦労が似合うので、出したら出したで苦労することでショウ!(決定か


鉢屋三郎はキャラが掴めてないのに、なんでこんなに押してきたのか、書いている方も謎です。
(2012/07/31)