時計の音がやけに大きく聞こえる。その音で目が覚めたのだと思った。一瞬の錯覚が訪れる。
ここは俺の家であって、俺の家ではない。いわゆる居候ともいう。本当はこんな所に住まなくても、アパートなりなんなり借りる金もあてもある。だが、それをどうしてしないのかなんて、決まっている。
「おかえりなさい、ロッシュ」
静かにドアを開けた方が言った。今までこの家にいた俺ではなく、この家の家主、志姫の方が。
「早かったな」
台所へまっすぐに向かう彼女を目だけで追いかける。流しに流れる水音に、なにかが過りかけるのを頭を振って払い落とす。
視線を感じて振り向くと、彼女が汲んだ水を飲み干したところだった。動作が流れて、ガシャンと少し乱雑にコップがその手を離れた。
「ロッシュ」
顔を背けられた上に、彼女の細い金茶の髪がかかって、顔は全然見えない。とても薄い色なのに、見えない。でも、俺は彼女がどんな顔をしているのか容易に想像できる。今、彼女が何を言おうとしているのかもわかっている。
「昨夜は、何、してた?」
「ひとりでビデオ見てたよ」
「ここで?」
「ここで」
昨夜、俺は家主を追い出した。理由は彼女が知るハズもないこと。知ってはいけないことだ。志姫は強いようで弱いから、きっと傷ついてしまうと思ったから。
「私、昨日さー友達とこの辺、通りかかったんだよね」
夜中に。
どうして、とはきけない。俺の思うとおりにいかないのは彼女だけだから。
「でさー、うちから出てくる人見たの」
大丈夫だ、何もなかったんだから。そう自分に言い聞かせる。顔だけはいつも通りに繕って。
「仕事、なの? あれも仕事?」
泣きそうに瞳が潤んでいる。
「そうだよ」
いったとたんに、顔を伏せてしまう。床に、小さな染みが広がってゆくのを少し眺め、上へと持ち上げる。泣き顔を見たいわけじゃないけれど、それさえも見えない。
「俺のこと、信じてないのか?」
静かな部屋に彼女の苦しげな嗚咽と、俺の冷静過ぎる静かな声だけが響く。
「信じられるわけない!」
苦しげな言葉の端々に彼女の感情が混じる。無理やり、信じたくないと叫んでいるように聞こえる。何故だろう。そう、思ってしまった。
「ロッシュ、ねぇ、どうして私なの? どうしてここにいるの?」
ここにいる人じゃないでしょ、と。そう言っている。でも、俺が帰る場所はここしかない。騙しきれるとは思っていない。だけど、知ってほしくはない真実もある。
「私はもう泣いてるだけの子供じゃないんだよ?」
「泣いてるだろ」
「ロッシュがいなくても自分で立てるよ?」
立って、志姫の傍へ行く。細い手に触れようとすると引っ込められ、それでも俺はその肩に触れた。
「知ってる」
「…さ、さわらな…で」
押し返そうとする手を片手で抑えつけて、腕の中に抱きこんだ。
「何もなかったよ」
「ウソ!」
「ウソじゃない。あいつは、ただの依頼人」
「昔の彼女でしょう」
「一度だけ付き合った。でも、すぐにわかれたよ」
腕を緩めて顔を見ようとすると、一歩下がられる。信用されてないみたいだ。
志姫と出会う前。今考えても、どうして彼女と付き合ったのか、もう理由はわからない。ただ、あの頃はどうしても寂しさから逃れたかった。心の中の冷たい空間を押し出したかった。それだけのために、たぶん何人も傷つけた。俺はそんなことに気がつけるほど、自分を知っていなかった。
「じゃ…なんで、あんなカッコで、あんな、怒って、たの?」
あんな、というのは。彼女がミニスカートでタンクトップにカーディガンを羽織っただけの姿だったからだろう。
「現物支給を断ったから」
寄せようとした唇を両手で拒否される。
「じゃ、なんで、口紅ついてんの」
泣いている声ではあったけれど、そこには静かな怒りがある。今日もやはり怒るか。
「断わったのに、どうして?」
「志姫」
宥めようと伸ばした手を跳ね除けられる。
俺と志姫はステディな関係だ。利害の一致が最初の理由だったのに、いつしか、俺は彼女の闇と力に気がつく。利用、しているといえばそれまで。
だけど、本当に愛しているんだ。
「ロッシュなんか嫌い!」
「志姫」
「嫌い…っ」
嫌いといいながらしがみついてくる細い手。彼女はその手に溢れる程の幸運を与えてくれる。
「志姫」
泣きつづける肩を引き寄せると、今度は強く胸を叩いてくる。その強さを堪えて、細い髪に指を通す。
「愛してる」
上に口を寄せると、さっぱりとして甘いチェリーの香りがした。
「うそばっかり」
「志姫が嫌っても、俺は志姫を愛してるよ」
見上げた瞳は大きく開いているけど、表情は拗ねたままだ。
「うそが上手よ。ロッシュは」
信じてはもらえないけど、本当に好きだよ。世界で一番愛してるんだ。
ポケットに手を伸ばす。これで信じてくれるといいんだけど。見た瞬間、どんな顔をするだろう。怒るだろうか、それとも泣くだろうか。 できれば、俺の大好きな笑顔を浮かべてくれるといいな。
「愛してるよ、志姫」
一日ぶりに合わせる唇は、かすかに震えていた。これから起こる出来事を予感するように。