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書名:読切
章名:パロディ童話

話名:桃パロ(旧題:桃源郷の夢を見る)


作:ひまうさ
公開日(更新日):2003.3.10
状態:公開
ページ数:6 頁
文字数:31095 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 20 枚

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p.1

 美しく流れる清流に私は辿りついた。足映えは陽光ですっかり渇き、踏みしめる緑は一歩ごとに風の調べを奏でる。空気も時間も穏やかに流れ、キリキリとした精神も自然と和らぐのがわかる。こんなのんびりするのは好きではないのだが、たまにはこういうのも良いかなと顔もほころぶ。これでこの手の洗濯籠さえなかったら思う存分昼寝したりもできるのにと考え、こめかみの辺りが痙攣をおこしかけた。

 清流に沿って丁度よい岩場に籠を降ろし、流れに手を浸すと思ったよりも温かい。というか温い。上流で温泉でも湧いているのか?

 追求したい気持ちが半分、洗濯物が気になるのが半分。結局姉の悲しい性かなと私は一度、立ったもののその場に座り直した。手に取った一つ目の洗濯物は誰の物かわからない男物の大きな着物だ。染め色は濃い黄みの橙でイエロー・オーカーや黄土色と言われるが、かすかに薫る桃の香りからすれば楊梅色だろう。ヤマモモを使って染めるとこのような色と香りになるという。

 どちらにしてもそれ以上にこの着物は臭い。何といえばいいかわからないが、どちらかというと男臭い。父はきれい好きでこんな匂いになるまで着ないし、弟には私が着させない。母も私もこれほどの身長はないし、和装より洋装が似合う母は着物自体を嫌っている。それならいったい誰のもので、どうして私がこんなものを洗わなければいけないのだろう。

 とりあえず洗っておけと、私は水にそれを勢いよく浸けた。清流がかすかに色を変えるのが見え、思わず手を離しかけるのを抑えて、私はそのままの状態で上流に目をこらした。ここは見晴らしも良いし今日の天気は晴れだから、上流に温泉の気配ぐらいは見えるかもしれない。空には濃い雲が舟のように左右を行き来している。

 桃の香りがした。目を凝らすとピンク色のなにかが流れてくる。丸いピンクの固まりは近づいて来るにつれて大きくなっていった。遠近法をまったく無視したとすれば、の話だが。

 手に持っていた着物を岩場に引き上げ、籠の中身を草の上にぶちまけ、私は桃が来るのに備えた。桃は大好物だ。病気にならないと食べさせてもらえないのが難点であるが、あの甘く優しい気分を運んでくれる不思議な果物は最高の食材に違いない。

 家でひとりこっそり食べる。

 そんな目的のために目前を桃が通過するのを待っていた。

 桃は予想以上にでかくなりつつあった。普通の十倍以上はあるのではないかと安易に考え微笑む。それが間違いだったとは云わない。なにより桃は大好物だから、多少多めでも問題ない。

 ゆっくり流れてきた桃は十倍どころでなかったが、経緯はともあれ私は桃を手に入れた。

p.2

「やったーっ!?」
 姉の桜葉の叫び声に僕はビクリと身を震わせた。

「桜葉?」
 本日、桜葉は風邪で38度も熱があるというので学校を休んでいた。病院に行って注射を打ってもらって、午後からずっと寝倒しているというのを両親に聞いている。

 寝る前に桃缶をねだっていたとか言っていたので、帰宅してすぐにわざわざ買いに行かされた。ずっと寝ていてくれれば、今日は何事もなく終わったはずなのに。

「静葉ちゃん~、桜葉ちゃん起きたみたいだから~熱測るように言ってくれる~?」
 階下からの母の叫び声に、しかたなくシャープペンを置いた。今日の復習も明日の予習も宿題も全部終わってしまってやることもないのでクロスワードを解いていただけだし、机をそのままにして隣の部屋に向かった。

「入るよ、桜葉」
 襖を開けると彼女はベッドの上でシクシクと泣いていた。

「あたしの桃~ぉ」
「はぁ?」
 僕の声に気づいて泣きはらした顔を上げる。寝起きなので彼女自慢の長い漆黒の髪もぐしゃぐしゃだし、熱の所為で顔もほんのり桜色だが、姉ながら可愛いと思ってしまった。もっとも桜葉とは一卵性の双子なので同じ顔だ。次には自分も同じように思われていたらどうしようと真剣に青くなった。

「静葉ぁ~」
 彼女が泣いているところに桃缶を差し出した。普段はこれですぐに泣きやむのだが一瞥しただけで首を振る。

「でっかい、でっか~い桃を捕ったところだったの~」
「本物の?」
「たぶん~、捕ったのに~なんで目が覚めちゃうのよ~」
 知らないよといいたいのを我慢して、僕は熱を測るように勧めた。

「まだ熱があるんだよ。ほら顔も赤いし泣きすぎると目が腫れるよ。父さんが帰ってきて心配するから」
 父は何処かの研究所で働いている。場所は教えてもらったことがないが、一度桜葉が発信器をつけて探ってみたことがある。その時は発信器が近所の猫の首輪に付け替えられていてひどい目にあった。後をつけた僕が。

 泣きやまない桜葉の隣に座って、彼女と目を合わせた。

「どんな夢だったの?」
 大きな桃の夢を見るなんて、余程桃缶が欲しかったと見える。趣味以外で唯一の楽しみだというのだが、彼女は決して病気の時じゃなければ口にしない。他の誰かが病気の時は必ず見舞いに持ってきたりもする。入院しているときなんかはマイ缶切りを持参してくるほどの徹底ぶりだ。

 ともあれ泣きながら夢を聞き出すと、涙も止まってなぜ洗濯していたのかということをこと細かく説明された。

「それって、なんだか“桃太郎”みたいだね」
 逃げ腰になりながら素早く感想を述べると、彼女は呆けたようになり同じ顔が怪しく輝いた。

「静葉~、お姉ちゃんはちょっと趣味に~」
「病み上がりなんだから止めなよ」
 満面の笑みで僕を追い出した。

「ありがとう」
 お礼を言われたはずなのに寒気を覚えた。桜葉がただで礼など言うわけがない。

 いったい何を思いついてしまったのだろう。

 桜葉は顔が母似であるが中身は父似である。日々くだらない研究に没頭し僕を実験台にする傍迷惑な彼女だが、外見は街頭スカウトを受けたことが何度もあるくらい十人並み以上で僕の友達も絶賛している。それが面倒であまり外出も好まないというが、僕は絶対に趣味の研究のためだと思う。父の友人でロボット工学博士という人が来たときも留学を勧めていたが、彼女は通信教育でなんだか世界的に有名な大学の博士号をとっているとかいう理由を持ち出して、丁重にお断りをしていた。

「どうだった?」
 居間に降りていくと、夕食の支度をしている母が楽しそうに聞いてきた。部屋中に味噌汁と鯖の煮付けの芳しさが充満している。

「元気みたい」
 ポットから自分でお茶を入れて台所の卓についた。このポットの中にはいつでもお茶が常備してあるが、入れるところを僕は見たことがない。母が替えているという気はしているのだが、何時替えているのだろう。

「ご飯食べれるかしら」
「なんか考えついたみたいだから、邪魔しない方がいいかも」
「桜葉ちゃんはパパに似てるものね~」
 中身だけなら似すぎるほど似ている。僕はどちらとも中身は似ていない。

「静葉ちゃんはなっちゃんに似てるわよね~」
 なっちゃんは父の妹、つまり僕の叔母さんだ。彼女は結婚するまでこの家で僕たち双子の面倒を見ていてくれていた。母は料理しかできなくて他の家事を任せると家に住めなくなる。

 それを助けてくれていたのが叔母さんだ。科学者しか能のない父と料理しか能のない母の面倒を見てくれた彼女は、3年前に結婚して近所に住んでいる。

「似てないよ。それより父さんは?」
 おたまを持ったまま楽しげに母は振り返った。

「もうすぐ帰ってくるわよ」
 その時僕は何故か、桜葉のさっきの笑顔と同じ恐怖を覚えた。

「えー…と、夕飯まだだよね? 風呂入ってくる」
 逃げるように部屋を後にした。おそらく帰ってくると電話があったのだろうが、ほぼ10日ぶりというぐらい久々だ。笑顔の理由はそれなのだろうが、戦慄の理由は一体なんなのか僕には見当もつかない。

 風呂から上がる頃、まだ父は帰っていなかった。

「桜葉ちゃんを呼んできてくれる? 静葉ちゃん」
 笑顔なのに目が笑っていない。時計はもう8時を回っている。

「は…い」
 早く帰ってきてくれ父。

 桜葉の部屋をノックして開けると、そこには誰もいなかった。

「桜葉?」
「できたー!」
 床下から彼女の声は聞こえ、次に本棚が動いて人が出てきた。パジャマの上に白衣をつけ髪をまとめた桜葉だ。後ろに何かがいる。

「きいてきいてーっ」
 黙って踵を返した僕の腕を冷たいなにかが引き寄せた。

「うぁぁぁぁっ!」
「やめなさい、桃汰」
 制止の声で腕を引く冷たい感覚がなくなった。恐る恐る振り返るとそこには身長130?でつり目三白眼の桃太郎がいた。ヤツの目が僕をしっかと睨みつけていた。

「おおお桜葉こいつ何?何なの?」
 彼女は自信を持って胸を張った。

「見ての通り桃太郎よ! ちなみに正義忠臣機能つきよ」
 どんな正義。どんな忠臣だよ。

「さあ桃汰! あたしのために大きな桃を捕ってくるのよ!!」
 やはりそんなことか。

「うむっ行って参る!」
 思った通りの甲高い声に僕は驚きを隠せなかった。少なくともこれまでの人形に言葉を解する機能はなかった。

「えっ今しゃべってっ?」
 ちび桃太郎が部屋を出た直後、制作者は倒れた。

「頼んだわよ~桃~」
 彼女の熱は上がっていた。僕は苦労して彼女をベッドに寝かせ、部屋を後にした。

「母さん、桜葉の熱ぶり返した」
 居間に戻った僕が目にしたのは夕飯の残骸だった。僕の胃に入るはずだった夕飯すべてが、ちび桃の中に収まってしまっていた。母はそれをニコニコと見ている。

「遅かったわね~。トータちゃんが全部食べてくれたわよ~。降りてこない人たちや~、帰ってこない人の代わりに~」
 かなりお怒りのご様子。この調子じゃ今日の夕飯は絶望的だ。もう絶対に作ってくれない。

「美味かった礼を申す」
「お礼なんていいのよ~」
「では拙者急ぎの用事があるのでこれにて御免っ」
 出ていくちび桃を僕は慌てて追いかけた。

「待てちび桃!」
 ちび桃太郎の割に足が速く、ヤツはあっという間に玄関についた。このままでは外に出られてしまう。

「むむむ、これはどこから出るのじゃ?」
 設定が侍になっているのは桜葉の趣味に違いない。しかし、今はそれがものすごく助かった。身長の所為も相まってドアは開けられない。

「た~だい~ま~っ」
「むっ?」
 あぁっこんな時に帰ってくるな父。

 無念にもドアが開けられ、その隙間からちび桃が出ていってしまった。これでもう回収不可能だ。帰ってこられる燃料なんて桜葉が入れているわけじゃないし、いつもいつも僕が探しに行かされる。それがわざとであるような気がしてならないのも、たぶん気のせいではない。熱が出ていようが出ていまいが、博士号を取っていようが、僕にとっては迷惑の種を作り出す天才だ。主にそれは僕に降りかかってくる災害である。

「か~わ~い~い~っ」
 父の声だ。

「貴様何をするっ離せっはなさんかっ」
 そして、父に抱えられてちび桃は戻ってきた。安堵して僕は玄関に座り込んだ。

「はぁ~っ」
「静葉ただいま~。出迎えてくれるなんて嬉しいぞ我が息子っ」
「おかえり父さん」
 父の腕の中でちび桃はジタバタと暴れているが、抜け出せるわけがない。小さい頃はどうしてか僕もその腕から出られなかった記憶がある。

 彼は両腕でそれを僕に差し出した。

「これは桜葉が?」
「はなさんか~っ」
 ジタジタジタバタ。

「うん。桃が食べたかったんだって」
 父は最後まで聞かずに、姉の名を呼びながら二階へ上がっていった。

「お父さん帰ってきたの」
 居間のドアが、そっと音を立てて開いた。母が立っていた。背筋をピンと伸ばして、柔らかく微笑んでいる。

「ちび桃抱えて」
 上を指すと、母はあの笑顔を浮かべて居間のドアを閉めた。知らないぞ、僕は。

 二階に行って僕は再び机に向かった。やりかけのクロスワードを少し解いてため息をつく。お腹が空いて落ち着かない。

 隣の部屋は父がひとりで騒いでいる。姉はきっと、また桃の夢を見ているのだろう。そんなに好きなら元気なときにも食べればいいのに。

「えーい離せーっ」
 ちび桃もまだ捕まっているようだ。

「拙者は主に桃を取って来ねばならんのだ!」
 作られたとはいえ、主人に恵まれない。

「そんなの作ってあげるから~っ」
 偽物じゃ桜葉は誤魔化せないだろうに。

「なに?作れるのか?」
 おいおい。

「もちろんだよ。私に不可能はない!というわけで研究室に直行っ」
 ガコゥンンンという何かが落ちる音が聞こえた。

「落ちるぅぅぅぅぅぅぅッ」
「はっはっはっ」
 慌てて隣の部屋に向かいドアを開けると、床下が閉じたところだった。切れ目もないし、叩いても重い音しかしない。桜葉は赤い顔で唸りながら寝ている。熱を測った方がいいかな。

「静葉~?」
 手で熱を測っていると、熱で潤んだ瞳が開いた。熱は相変わらず下がっていない。彼女は僕を見て微笑むと再び目を閉じた。

 眠っているだけなら、僕も友人たちの意見に素直にうなずける。ただ良い夢を見ているだけならいいのだが、現実に反映させようとしないで欲しい。

 僕は桜葉の額のタオルを替えてから自分の部屋に戻った。

 隣の部屋と同じようにこの部屋にも秘密がある。むしろ家全体にといったほうがいいかもしれない。

 それは地下に父と桜葉のための研究室があることと、一階の寝室とダイニング以外すべての部屋にそこに行くための通路があるということだ。工具を使うこともあるので近所迷惑にならないようにといっていたが、僕は本当のところは父の趣味とみている。父の跡を継ぐまでいかなくとも、同じ道を選んで欲しいという親心だと母は云っていた。

 机の引き出しから錆びれた金の鍵を取りだし、壁に掛けておいたジグソーパズルの窓がわ2番目を裏返す。後ろには小さな鍵穴があって、金の鍵を差し込んで回すとカチリとはまる音がし、壁の後ろを何かが落ちたり転がったり動く音がした。

「出られたー!」
 ドア側から3番目のジグソーパズルが扉となっているのだが、開くと同時にそれは飛び出してきた。

「助かったぞ。あの男我が主をカラクリなどで騙そうとしておったのじゃ!」
 ちび桃もそのカラクリなんだけど。

「ちょっといいかな」
 抱き上げてみるとずっしりとした重さがあった。燃料は何を使っているのだろう。たぶん背中に何かあると思うんだけど。背中には赤と青のボタンがあって今は青いボタンが光っている。

 青い方には忠臣機能。

 赤い方には正義機能。

 どちらも同じような気がする。

 その下にはガムテープで抑えただけの単3乾電池が3本はめられていた。冗談ではないのだろう。桜葉は好んでそういうことをする。いつも。

「ねぇ今は桜葉の忠臣なんだよね?」
 気を取り直して、ボタンの方に目を向けた。押し直せば、こっちに忠義を誓うのだろうか。そうなれば、もう少し僕も楽に平和に過ごせそうな気がする。

「そうじゃっ。だから桃を捕ってこなければならん」
「桃がなにかは知ってるんだよね?」
「大店に行けばあるのであろう?」
 どこだよ大店。いいかげん近代的な設定にすればいいのに桜葉はガンとして聞かない。その影響がここにも。

 とりあえず、このスイッチを一回押せば切れるのかな。僕が青いスイッチを押すと、ちび桃は人形に戻った。重さも増えた。

「うぐっ…」
 そのまま床に降ろしたが、かなり大きな音がしたはずだ。

 スイッチはこれか?

 持ったままというのはなかなかつらい。手探りで押したが人形はピクリとも動かない。

「あれ?」
 それどころかどんどん重くなる。このままでは床が危ない。

「も少し考えて作って…」
 言いたい相手は熱にうなされているのだからどうすることもできない。ふと見るとこころなしかちび桃が成長している気がする。そして重くなる身体。

 とうとう静葉は手を離した。肩で大きく呼吸を繰り返しそれを見てうめいた。本当に成長していやがる。寝ているとはいえ身長180?ぐらいはありそうだ。

 そして床が不吉な音を立てた。

「い…っ!?」
 派手な音が家を一直線に貫いた。いや、文字通り一直線に地下室まで部屋の床は落ちた。僕も一緒に。

「…ったー」
「大丈夫か我が息子静葉」
 駆け寄ってきた父が抱きついてきたことで、僕は意識を手放さずに済んだ。この人の前で正体をなくすなど自爆行為だ。眠ったが最後なにをされるかわかったものではないという前科がある。

「ちび桃は?」
 父を振り払って辺りを見回すと、1メートルも離れていない場所に彼はめりこんでいた。

「これは静葉がつくったのか?」
「こんなイカれた人形を?」
 にっこりと笑顔で返し人形に近づいた。幸いもう成長は終わっているようだった。ボタンを押し間違えた危険が一番高い。

「正義機能か」
 どんな機能かはわからないがきっとろくでもない機能に決まっている。とりあえずボタンは戻しておいた方がよさそうだ。

「っっっ!」
 転がそうとしたがビクともしない。それを脇から僕ごと誰かが転がせた。

「ぅわっ!」
 勢いがつきすぎて僕だけが壁際に吹っ飛ばされた。

「おいおい、よしひと君も少しぐらい手加減しなさいって」
 抱えおこす父の影に、細い金髪の小綺麗な青年が見えた。よしひと君は父の助手であり、父の作るヒューマン型アンドロイドの1号である。

「彼が重すぎたんですよ」
 重いといいながら、桃汰を軽く持ち上げる。

「大丈夫ですか?」
 僕が止めるまもなく、よしひと君が桃汰をつねったり殴ったりしてみるものの反応はなし。気絶しているのか人形なのに。それとも落ちた衝撃でなにかバグでも起こったのだろうか。

 いや桜葉がそんなへまをするはずがない。

 考え込んでいる僕の目の前で彼は文字通り跳ね起きた。こちらをピタリと見据えて問いただす。

「悪者はどこだ」
 まさに正義。そのままの意味の正義だ。

 とりあえず僕は父を指してみた。

「なんんでぇ~静葉君~っっっっっ」
「このあいだ僕のオヤツ食べたの父さんでしょ」
「それは許してくれたんじゃ…っ」
「それに僕のバイク改造したでしょ。勝手に」
「静葉君がよろこんでくれると思って~っ」
 後ずさりしていた父の背中がなにかに当たった。

「ひと~つ 人世の生き血をすすり」
 低うい声が研究室に反響した。父は僕と桃汰を交互に見て、警戒しながら一歩退く。

「ふた~つ 不埒な悪行三昧」
 鞘を刀が滑る音が静けさに響いた。桃汰も音のしない足運びで間を詰める。

「み~っつ 醜い浮世の鬼を、退治てくれようぅっ」
 鍔を返す音を聞く前に父は駆けだした。それを桃汰が追った。

「待てえぃ~っ! 成敗してくれるぅ~っ!」
 すぐに壁際に追いつめられる父は、研究者なので体力がない。

「観念しろ」
「できるかっ」
 どちらが悪人なんだかわからない。とりあえず僕は背後から忍び寄って赤いボタンを押してみた。しかし、今度はランプは消えず桃汰も止まらない。

「なにをする!」
 桃汰が振り向きざまに、刀を右手に斬りかかってきた。本物ではないにしろ当たったら痛い。間一髪で避けて目を見開く。その輝きには本物の波が見える。

「こうなったら、よしひと君発進!!」
「私に戦闘用の機能はありません、博士」
 桃汰はまっすぐ父だけを追いかけて行くが、助手は僕のところに来た。

「静葉さんはお嬢さんに、彼の停止方法を聞いてきてください。私はこちらで探します」
「え? ちょっ、よしひと君っ? うそでしょぉっ」
 桜のピンクの花弁をあしらったプレートのかけてあるドアに助手は飛び込み、僕も非常口と表示された通路の先の階段を登った。

「静葉君までっ?」
 泣きそうな父の声が背中に当たった。

p.3

「桜葉起きて」
 赤く充血した目がうっすらと開いた。

「ちび桃が大きくなってんだけど」
「うふふふふふふ~っ かっこいいでしょぉ」
 熱はまだ高い。答えてくれる可能性は少ない。

「どうやって止めるの?」
「止めるぅ?どうしてぇ? トータはぁ悪者ぉ退治しないとぉとまらないよぉ」
 うつろな目が笑っている。熱に浮かされどこまで本当か謀れない。

「退治って?」
「んんとぉ動かなくぅなるまでぇ」
「何秒?」
「10秒ぉ」
 急いで地下に戻る途中、研究室の扉の前でいきなり電気が消えた。立ち止まろうとしたがすでに遅く、壁に激突して弾き返された。

 手探りでノブを探し当てて開くと、暗い部屋に一枚のスクリーンが降りている。映っているのは満面の笑顔を浮かべた母。何か言い終わった後なのだろう。

「春乃さん、ひどいよ~」
 相変わらず泣きそうな声で父が駆けていくと、目の前でスクリーンが消失した。すぐ後に部屋は非常電源に切り替わり、父はスクリーンの前でへたりこんでいる。

「ごめんっていってるじゃないか~」
 聞こえているのかどうかはともかく、桃汰に闇は関係あったのだろう。今にも走り出しそうな体勢で止まっている。たぶん光電池を使っているのだと思った。あの乾電池は何が何でもカモフラージュだと信じたい。ただの飾りなのだと思いたい。

「そりゃぁね、実験が重なって最近帰らなかったりしてたけど~ずっとひとりだったんだよ」
 振り上げたままの刀がわずかに動いた。

「春乃さんに会うために頑張ってるのに」
 僕の存在に気が付いていないのだろうか、父は。

「…て…」
 桃汰の口が動いた。

「どぉしてっ?」
「父さん、来るよ!」
 一足飛びに間合いを詰めてくる桃汰と父を前に、僕は桃汰に体当たりしようと駆け寄った。

「さがってください、静葉さん」
 その肩をつかんで後ろに引き倒された。とっさに受け身を取ったものの、衝撃は軽くない。僕をそうさせた張本人は父と桃汰の間に何かを投げつけた。

 眩い光が辺りを白く埋めた。

「博士!」
 駆け寄る声と応じる声、金属のぶつかる音。

「え?」
 まさか助手が応戦しているのだろうか。

 必死にこらす瞳が見たものは、剣圧に押されながらも桃汰の白刃を受ける父の姿だった。

「博士は剣道三段をお持ちですから。どのくらいかはわかりませんけど、これで幾らかの時間はできたハズです」
「よしひと君?」
 隣で聞こえる声に振り返ると、涼しい顔で助手は父と桃汰の戦闘を眺めている。もとから、あの間に割りこむ気がないようだ。

「お嬢さんの研究室で彼の設計図のようなものを見つけました」
 助手の見つけた停止条件は静葉の聞いてきたのと同じで、10秒間動かないこと。加えてその間も攻撃はされるらしい。

「なんか弱点はなかった?」
「そりゃお嬢さんの機械には、絶対に効くのがあるでしょう」
 機械共通の弱点というと水や電撃のことだろう。だが、桜葉の機械の弱点となると二つに限られる。

 ひとつは先ほどの通り闇に弱い。暗いところだと電池でしか動けない。

 もうひとつは―――。

「なんでもいいから~はやく~たすけて~」
 剣を交えながら逃げつつ、父はまだ元気だ。

「よしひと君」
「はい」
「父さんの体力はあとどのくらい持つと思う?」
 彼は少し考える仕草を返した。

「博士は全部が謎ですからねぇ、あとどのくらいかは」
「こうなったらとっておきの、スーパーマグナムマキシマムミックス爆弾をくらえぃ!」
 父の手から桃汰めがけて手榴弾が飛んだ。とっさに助手が盾になってくれたので爆風だけで済んだ。

 無茶をする…と助手のため息が聞こえた。

「相変わらず変なネーミングだね」
「この間開発したばかりのヤツだから実験したかったんでしょう」
 走りながら広い研究室内に父の高笑いがこだまする。

「ふははははっ見たかこの威力! 次は…」
 もっとも桃汰はかすり傷ひとつ負っていないようだ。

「桜葉も簡単に壊されないように最近、考えていたみたいだから難しいよね」
 実は桜葉の作るものはよく暴走を起こすので強制終了させることが多い。大抵がプログラムのたった一文字あるかないかのミスだったりということが多く、止めるのも僕の役目だ。

「防水加工もされてそうですね~」
「たぶん服だけだと思う父さんもう少し頑張ってて」
「早くしてね~静葉君~っ」
 僕たちは先ほど助手の出てきたドアを開けた。桜葉の研究室は足の踏み場もないほど普段から散らかっている。工具金属部品はもちろんのこと、大型パソコンが壁の右半分を占領して、キーボード部分より半径50センチ以外は隙間さえあれば紙やら基盤やら部品やらが落ちている。

「あれ?」
 一度部屋を出て、桜のあしらわれた雅やかなプレートを確認してからもう一度入る。何度見ても室内は磨き上げられ、新築同様の様相を呈している。チリ一つ落ちていない。

「よしひと君が片づけたの?」
 助手は表情を変えずに首を振った。

「お嬢さんが掃除用の人形でも開発したのでしょうか」
 父の雑用のために開発された助手が不思議そうにつぶやく。それも無理からぬ事だ。桜葉はわざと散らかしているのだから。どんなに乱雑でも本人にはどこになにがあるのかわかるらしい。

「だといいんだけど」
 僕は大型パソコンを起動し。

「よしひと君、桃汰のデータ出せる?」
 助手にまかせた。いくら双子とはいえ桜葉ほどの頭脳は持ちあわせていない。それに少しもコンプレックスがないとは言い切れないが、僕は僕、桜葉は桜葉だ。比べられる人間なんてどこにもいない。

 たまたま桜葉は父の仕事が好きで、真似が高じて博士号まで取るに至っただけだ。

 たまたま僕は父の仕事にそれほど興味を持てなかっただけだ。

 助手が原因の8割は桜葉にあるともいったことがある。僕は否定する気もないが、肯定もできなかった。

 最初に、ディスプレイの全面に人型の図形や数字やらが表示される。当然のごとく英語表記であるが、それ以前にこんなモノを見ても僕にはさっぱりわからない。

「プログラムだけ見せて」
「はい」
 すぐに画面の右半分が切り替わって、英数字が溯る滝のように流れた。数年前からアルバイトで校正処理なんかをやったりしているのと、もともと本を読むのが速い方なので、僕にはこれでも大体のことはわかる。

 その最初の数行で助手が小さく声をあげる原因も分かっている。あえてそれを無視して、僕は滝のままにそれを見続けた。8分ぐらいでそれはようやく止まった。

「みつかりました?」
 かぶりを振って返した。僕にわかる範囲の間違いというのはなさそうだ。

「壊せるんですか?」
「自爆のプログラムは入ってた?」
「ないですね」
 残る方法は二つある。

「壊すんですか? お嬢さんは起きてから怒らないですかね」
「ヤなこと言わないでよ。熱に浮かされたまま作ってたみたいだから覚えてないって」
 もし覚えてるとしたらと考え、僕は大きなため息をはいた。

 こいつもこいつだ。どうして今、こんなことをいう。

「さっきのプログラムの最初にありましたね。いつもの」
「あぁあったな」
「壊す以外の方法があるってことじゃないですか?」
 助手はかなり楽しそうにこちらを見ている。桃汰も彼の仲間といえば仲間だから、壊したくないのもあるのだろう。

「わざと入れたんでしょうね」
 やっぱり壊すしかないと僕は決意した。

「でもやってみる価値はないですか?」
「ないね。それよりここの電気を落として」
 僕の指示しようとする声を遮って、助手がささやいた。

「うまくすれば…」
 ささやきに僕は耳を塞ぎたかった。でも可能性として考えていた策でもあるので、言葉はすんなりと飲み込めてしまう。

「し~ず~は~く~ん~っ、ま~だで~すか~っ」
 父も呼んでいる。

「ね?」
 可愛らしく首を傾げないでほしい。

 考え込んでいる間に、助手は部屋のどこかの扉に消えていった。

p.4

「秘技、桜花乱舞っ!」
 ドアを開けると部屋一面ピンクの花吹雪だった。床を滑る風が落ちる花弁を巻き上げて一見目くらましのように思えるが、桃汰よりも父の目くらましになっているようである。

 手を伸ばしてつかんだそれは、秘技とかいうわりに、小さく切っただけのピンクの色紙だった。四角や三角など大きさも形もまちまちだが、ただの紙。というかゴミ。後ろからそれを見た助手が呻き声をあげた。片づけるのは助手だからだ。

 紙吹雪に騙されると云うよりそれを隠れ蓑にして、一気に桃汰は間合いを詰めていた。

「くぅっ! 見えん!」
 やった本人がそれに気づいていない。正面から堂々と近づいて、桃汰は刀を振りかぶった。

「止めなさい、桃汰!」
 振りかぶったままこちらを見た桃汰は、とても困ったような混乱した瞳をしていた。そこに映るのがどんな姿なのか考え、僕は内心げんなりとした。

 舞う花吹雪の影に漆黒の髪が踊り、纏うピンクの白衣が風に吹き上げられる。その姿は紛れもなく…。

「やっぱやめ」
 僕は踵を返して部屋に舞い戻った。扉を閉めた3秒後に、向こう側で再び追いかけっこが始まった。

「どうしたんですか?」
 満面の笑みで写真を撮りながら、助手が訊ねてくる。ピンクの白衣と黒髪のづらを外し、僕は彼に向かって投げつけた。

「真面目に別の方法を考えろ」
「いやだな。全然真面目じゃないですか」
 笑う助手の頬を掠り、マイナスドライバーが鉄の壁に刺さった。後ろを振り返り、それを確認した助手の笑顔が笑顔のまま凍り付く。

「考えろ」
「は~い」
 助手は大型パソコンを操作してなにやら始めたので、僕はもう一度桜葉の元へ向かった。桃汰を止める他の方法をもう一度聞くために――。

「桜葉」
 彼女は例によってぐっすりと眠っている。額に手を当てて僕も少し安堵した。熱はだいぶ下がったようだ。

「起きて桜葉」
 軽く頬を数回叩くと、ぼんやりと彼女の黒い瞳がのぞいた。

「お…」
「私の」
「は?」
「私の眠りを覚ますのはだぁれ?」
 にっこりという聖母の微笑みが僕の方を見た。母とよく似たあの戦慄の笑顔。

「お前か?」
 ふと寝起きの桜葉の最悪のパターンを思いだした。この後に待つものを考え、一気に僕の顔は蒼白になったことだろう。自分じゃ見れないが。

「おやすみなさい~っ!」
 逃げだそうとしたら襟首を捕まれた。

p.5

 その後のことはよく思い出せない。

 気が付いたら僕は地下の桜葉の部屋にいた。正確には今、目の前にあるドアの向こうから父と桃汰の鬼ごっこの声が聞こえる。

「じゃあ、がんばって止めてきてくださいね」
 何処かで聞いたようなセリフだなと思いつつ、僕はドアノブを回した。目の前に一面のピンクの花畑が広がり、その中を白衣姿の30歳代のメガネをかけた男と、代錯誤な絣の着物と袴を来た24歳ぐらいの男が走り回っている。

 もっといえば着物姿の方は白刃を振り回している。

「ねぇよしひこ君」
「なんでしょう?」
「僕逃げてもいいかなぁ~」
 背中を思いっきり押されて、僕は2人の男の間に倒れ込んだ。その僕に躓いて桃汰が倒れ、冷たい金属の床に思いっきり押し付けられた。花畑と思ったのは小さく三角や四角に切ったピンクの色紙だったし、それも対した量でもないので衝撃は緩和されずに直接伝わってきた。

「桜葉!」
 父が間違えるのも無理はない。といいたいところだが自分の子供の区別もつかんのか。一卵性双生児とはいえ親なら区別しろといいたい。

 先に立ち上がった桃汰が、僕を見下ろしたままで刀を振り上げる。しかし、また困惑した瞳で僕を見ている。

 父は今にも駆け寄りそうだが、桃汰がいるので動けない。

「桃汰」
 まだ刀は振り下ろされていないが、いつきてもおかしくはない。僕は頭の中で桜葉であればいうであろう言葉を捜した。

「誰に刃を向けてる?」
 彼はまだ少し逡巡しつつも白刃を鞘に収めた。

「本当に主であるか?」
 迷子のようにポツリとつぶやいた。迷っているというのは今までにないパターンだ。桜葉も少しは知恵を付けたということか。

 僕は立ち上がって桃汰の頬に手を当てた。

「桃汰“戻りなさい”」
 僕はよく頑張ったと思う。桃汰は壊れた人形のように微笑んで、ゆっくりと双瞳を閉じた。完全に閉じられた後から、その姿がだんだんと縮んで小さくなっていった。

「ありがとう~静葉くん~もうダメかと思ったよ」
 抱きついてきた父をかわすと、その指に絡まって鬘がずれた。もう必要ないので、それを取って近くの壁に投げつける。なんで僕がこんな事をしなくちゃいけないんだ。

「どうしてぇ」
「父さんもどうして有用な武器つくんないのさ」
「だってよしひこ君いるし、法律に引っかかっちゃうよ」
「何を今更! よしひこ君は? とっくに違反してるでしょ」
 親子の会話を微笑ましく聞いていた助手は、気が付いたように駆け寄ってきた。

「何をしているんですか。早く後ろの青いボタンを押しなさい」
 助手がちび桃の後ろからボタンを押す。

「ちょっとせっかく止まったのに!」
 閉じた瞳が弾かれたように開いて僕を凝視した。

「おぬしはだれじゃ?」
 好奇心だけを映し出す純粋な瞳に、僕は後ずさりした。

「…」
「…」
 そのまましばらく対峙し続けて1時間。

「僕は静葉だ」
 果たして彼が僕側になったのか、それとも桜葉の命令は今だ有効なのか。

「ワシは桃汰だ。これからよろしくな」
 微笑みの間から小さな牙がのぞいたのは見間違いだと信じたい。なんてものを付けてるんだ。桜葉が何を考えているかなんて一生分からないだろうし、分かりたくもない。もっとも、現時点で大抵のことは読めてしまうので手後れかもしれない。

「桃汰君、初めまして~」
 背後から捉えようとした父の腕をすり抜け、ちび桃は僕の背に乗った。当然の如くかかる重力に、僕は両腕をつく。

「おり…ろ…っ!」
 刀を抜く音にしてはやけに軽い音が上方で聞こえる。たとえば、よくある玩具のカタナ。もしかして、刀身も変化するのか?ということは、本体とリンクしてるんだ。あいかわらず、わけわかんないもん、作ってくれるよ。桜葉は。

「ワシになにようじゃ?」
 ちび桃はかなり警戒している。でも、人の背中の上で、自分の体重も考えないでそれはないんじゃないか。考えているだけで降りてくれる訳もなく、自分の体を支えるだけで精一杯なのに、無理やり落とすことなんてできない。だんだんと目の前が暗くなってくる。

「怖がらなくてもいいんだよ?」
「ちっ近寄るなっ!」
背中が軽くなったと思うと、助手の影に隠れている。

 じりじりと父はその差をゆっくりと詰めていった。

 それを見ながら、力尽きて座りこんだまま荒く息をつく。いくら慣れているといっても動けやしない。見ている分には楽しいんだけど、どこか小さい頃の記憶とリンクする気がする。昔から、父は馬鹿力で、一度捕まると絶対に逃げられない。そして、捕まったが最後、気が済むまで連れまわされる。桜葉は嬉々としていたが、僕はとてもついていけるほど強靭な精神力は持ち合わせていなかった。

「よしひこ君」
 困ったような笑顔で助手は肯き返している。もともと父の助手なのだからしかたないのだろうが、それは仲間を売り渡す行為とちがうのか。

「ぬぉ!?」
 いともあっさり助手の手に捕まり、父に差し出された。とくれば、いくらなんでもそれが何を意味するのかちび桃にも理解できる。

「た…助けろ、静葉!」
 必死の形相で云われても、いきなり呼び捨てでは助ける気も起きない。それにまだ体力が戻ってなくて動けない。

「別に何もしないよー?」
 父が胡散臭い笑顔で近寄ってくるのを、ちび桃は心底イヤそうに見返す。たびたび送ってくる目線に、過去の自分がリンクもされる。

 無言で諦めろと首を振って、小さく微笑んでやった。

「…う…裏切り者ぉぉぉっ!!!!!!」
 虚しい悲鳴が、地下室に響き渡った。

p.6

 病み上がりとは思えない勢いでテーブル上の皿が空になってゆく。

「よくわかったわねぇ」
 音を立てて味噌汁をすすり、海藻サラダ味噌和えに箸を伸ばしながら桜葉は云った。

「私がパスワードだって」
 衣服はパジャマではなく、黒のパンツに桜色の開襟シャツに着替えている。体のラインは丸く、僅かに膨らんだ胸元からはカードキーが2枚飛び出して揺れていた。肩にかかる烏羽色の髪は微細な母作のレース編みのリボンで緩くまとめられている。こうして見ているだけなら、無害な美少女なのに。

「だっていつものままだったよ。プログラムの最初のところが」
「風邪だったからね。変更するの忘れてた」
 変更する気は本当にあったのか?

「でも作ったのは憶えているわけか」
「あたしだからね」
 憶えてられるのよと続けて、分厚いマグロの赤身を口に放り込んだ。

「声紋に替えようと思ったんだけど、それじゃあたし以外に止めらんないと思ってさ。幸いあたしとあんたは同じ顔だし」
 好きで同じ顔に生まれたわけじゃない。

 いっても無駄なので、心の中で僕は反論した。この顔が気に入らないとかじゃなく、桜葉と同じ顔なのが迷惑なだけだ。

「現にあたしのふりして桃汰を止めたじゃない」
 桜葉が左手を翻すと、一枚の写真が魔法のようにこつ然と現れる。

「それは!」
 写真には、桜にまみれた髪を振り乱しても絵になるひとりの女が映っている。

「そのおかげで桃汰も手に入れたんでしょ?」
 あまり嬉しくないし。

「どうせ一番上位の命令は桜葉じゃないか」
 手が伸びてきて、僕の頬を引っ張った。

「あたしが知らないと思ってるの? あんた、桃汰のプログラムを書き換えさせたんでしょ」
「ふひゃらいふょぅ」
「情報によるとあたしの命令ってのもっと条件をつけたって話じゃなぁい?」
「ほへはひゃんてひ……いひゃいっへ!」
 なんとか手を振り払って、僕はテーブルから少し身を離した。

「僕の苦労も考えてよ。桜葉の作る人形はいっつも暴走するんだからね?」
「でもあんたが止められるじゃない」
 桜葉に懲りた様子はなく。

「だからあたしも安心して作れるのよね」
 箸をおいて、彼女は微笑んだ。僕に向けてではなく、デザートの桃に向けて。

「ワシにもくれ」
 テーブルに乗ったちび桃は母に抱えられてその膝に収まった。

「トータちゃんに食べさせても平気なの?」
「そんな機能は入れてないわよ。て何食べさせようとしてるのよ!」
 一切れの桃が母の手でちび桃の口に放り込んだ。

「でも昨日の夕食を片づけてくれたわよ?」
「うっそ…」
 驚いた瞳が僕の方を顧みた。

「本当だよ。だから僕も昨日の夕飯食べれなかったんだもん」
「そんな…今までどうやってもできなかったのに…」
 熱に浮かされて解いてしまった謎に呆然としながら、桜葉は桃を平らげた。

「ちょっと地下行って来る。お父さんもそっちだよね?」
「桜葉ちゃん、お片づけが残ってるわよ」
「桃汰に、頼んで」
 言い残してさっさと部屋を出ていってしまう。

「トータちゃんに?」
 母の膝から飛び降りてちび桃は胸を張った。

「お母上の料理は本当においしい。礼に片づけをしてやってもよいが、静葉の命令がなければやるわけにいかん」
「静葉ちゃん」
 世界で一番恐いモノは絶対に母だ。

「ちび桃」
「ワシは桃汰じゃ」
 ちび桃の分際で主張するか。手を伸ばし抓ってやろうかとも思ったが、髪を撫でると猫ののどを撫でたみたいに嬉しそうにしている。

「片づけ、頼むな?」
「待っておれ、すぐに片づけてくる!」
 ちび桃は食器を山のように抱えて、台所に向かった。その後ろ姿に少しの罪悪感を憶えた。

「うふふ」
「なに?」
 居間に映ってTVゲームにチャンネルを回した。コントローラーは、と探す。

「よかったわね、静葉ちゃん」
「何が?」
 聞き返して振り返ると、後ろにはもうちび桃が戻っていた。

「なんじゃ、それは?」
「おい、片づけは?」
「終わったぞ」
 さっき片づけると云ってから5分も経っていない。念のため、台所に行ってみると、元より綺麗になっている。これと同じモノをみたことがあるような。

 居間に戻ると、ちび桃はTVに釘付けになっている。

「すごいな。もしかして、桜葉の研究室片づけたのもお前か?」
 ソフトを入れ、ゲームをつけると目がどんどん大きくなる。

「この箱は何じゃ? 音が鳴っているぞ!」
 もうこの設定はどうにかしないといけないな。

「今度、現代の情報設定を追加してやるよ」
「えーっ」
 不満の声を上げたのは、母だった。

「そのままのが可愛い~」
「現代のとはどういう意味じゃ?」
 この2人、似ているかもしれない。