「葉桜さん、助けてくださいっ」
始末書を枕に転寝していた私は、焦った鈴花の声に起こされた。でも、次に聞こえてきた山崎の声に、すぐに起きるのは止めて様子を見ることにした。
「鈴花ちゃん~?」
山崎の声は怒ってみせてはいるけれど、楽しんでもいるようだ。
「だ、だから、ごめんなさいって言ってるじゃないですかぁっ」
「謝って許されると思ったら大間違いよっ。大人しくこっちへいらっしゃいっ」
「えええーっ、葉桜さんっ、ちょ、起きてくださいっっ」
いったい何をしたんだか知らないが、こんな状態の山崎の対応をするつもりはないので、私は全力で寝たふりだ。狸寝入りだ。
それを邪魔するように鈴花が私を揺らすけれど、程なくそれもなくなった。
「葉桜ちゃん、邪魔して悪かったわね~」
部屋を出ていく二人の気配に、私は身を起こしつつ、ひらひらと手を振って返した。
「え、葉桜さんっ!? そんなぁ~っ」
悲痛そうな鈴花の声を聞きながら、私は両腕を伸ばして、凝り固まった筋を伸ばした。それから、書きかけどころか何も書いていない真っ白な紙を手にして、ひらひらと降る。今回はなんと書いたものか考えている間に、つい寝てしまったようだ。
「葉桜さん」
「はーい、なにか御用ぅっ!?」
名前を呼ばれたので振り返りながら返事をした私は、そこにいた人物を見て、目を丸く見開いていた。
そこにいたのは、この新選組屯所に似つかわしくない清楚な美女で。だが、さっきの声は伊東だし、この美人もよくよく見れば伊東に間違い無いだろう。そして、この新選組屯所内でそんなことをする人物といえば、一人しかいない。
「伊東さん、烝ちゃんに捕まりましたかぁ~」
私がそう言うと、はにかむようないつもの笑顔が、普段の倍以上に可愛い。この人、生まれてくる性別間違ったんじゃなかろうか。
「はぁ、あの…私はどうしたら…」
山崎はさっき鈴花を引っ張っていったし、しばらくはそっちで遊んでいるだろう。
「もったいないですけど、落とすしか無いでしょうね」
そして、男の伊東が化粧をどう落とすか知っているかと考えると、知らない気がする。近藤や土方、永倉なんかは遊女から聞いてそうだけど、普通の男には困ることだろう。
「少しこの部屋で待っててください」
私が伊東にそういって一人で部屋を出たのは、さすがにあの姿を伊東の取り巻きが見たら問題になると考えたからだ。私は炊事場に足を運び、今日の炊事担当を誤魔化しつつ、竈の灰を少しもらい、それから井戸で水を汲んで部屋へと戻った。
「お待たせしました」
私がそう言って戻ると、伊東は安堵の表情を見せてくれたのだが、これがまた女にしか見えないのだ。
もったいないけれど、伊東が困っているのもわかるので、私は貰ってきた灰を始末書の上に乗せ、少しずつ水で溶かして、泥のようにする。それを伊東の顔へと少しずつ塗ってゆく。
「あの、葉桜さん」
「はいはいー」
こういう風に化粧を落とす作業は、ちょっと子供の頃の泥遊びみたいで心楽しくなってきた私は、弾んだ声音で答えていた。
「…楽しそうですね」
「あはは、まあ、そうですね~」
それからしばらく伊東は黙ったままで、私は一度濡らした手拭いでその顔を丁寧に拭う。それから別の綺麗な手拭いを水に濡らして、伊東の手にポンと渡した。
「はい、後はご自分でどうぞ。今、鏡も出しますから」
私は部屋の隅に置いてある中ぐらいの葛籠を開いて、中から小さな手鏡を取り出し、伊東を振り返った。彼は両手で手拭いを持ち、顔を拭っている最中だ。その前に戻った私は、手拭いから顔を上げた伊東に見えるように手鏡を差し出した。多少曇ってはいるが、ないよりはマシ程度だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
伊東から丁寧に頭を下げられて、私は苦笑する。別に化粧を落とす手伝いをしただけのことだ。そういえば、着物もこれは山崎のか。
「伊東さん、着替えは」
「はい、部屋にあります」
そりゃああるでしょうよ、という伊東のボケにはつっこまず、私は軽くため息を付いて、伊東を手招きした。
「その格好で屯所を歩きまわったら大事件ですよ。私のをお貸しします」
「え、いえ、そこまでしていただくわけにはっ」
遠慮する伊東は置いておき、私は葛籠から適当に着物と袴を取って、伊東に押し付けるように渡した。
「私は部屋の外の縁側にいますから、着替えたら出てきてください」
「いえ、あの…っ」
「いいですね?」
有無を言わせず、私は部屋を出て、障子をぴしゃりと閉めた。ここを離れてもいいが、今日は誰か来ると都合が悪すぎる。こういう時に限って、誰かが来たりするんだ。
私はいつもするように縁側の柱に寄りかかるように座り、目を閉じた。
さやさやと風が流れて草木を揺らす音、鳥たちの囀る歌声、それにそこかしこから聞こえてくる人の営みの声に、ゆったりとした眠りが私を誘う。
日差しはまだ暑いけれど、風はいつの間にか秋の訪れを伝えてきてくれたようだ。
「葉桜さん」
静かにかけられた声に目を開けると、着替えを終えた伊東が私の前でいつものように苦笑を浮かべていた。私は障子が開いたことに全然気が付かなかったけれど。
「さっきの女姿も似合うけど、伊東さんはやっぱりその姿のほうがいいですね」
「私も、このほうがホッとします」
「はははっ」
私が乾いた笑いをあげる様子を、伊東はじっと見つめたまま動かない。何か話したいことでもあるのだろうかと思いつつ、私は視線を逸らして、空を見上げた。
「そろそろ秋が来ますね」
「ええ」
「…早いものですねぇ」
私がここに、新選組に入って、四年が経った。様々なことがあったけれど、あの紙の予定からすれば、もうそろそろ遊びの時間は終わるのだろう。
「葉桜さん?」
「伊東さんはここにきてどのぐらいになりますか」
「丁度二年ほどです。葉桜さんは?」
「…四年と少し、かなぁ」
毎日が楽しく、嘘みたいに平和で、幸せで。
「私の倍ですね」
「はい」
泣きそうになるのを堪えて、私は目を閉じて笑う。
「伊東さん、私は新選組が大好きなんですよ」
「はい」
「幸せすぎて、今が夢のようなんです」
「はい」
「…でも、夢はいつか終わるんです」
毎日毎日父様と遊んでも足りなくて、帰りたくなくて駄々をこねた私に、父様が言ったのだ。
悲しみが終わるために、楽しい時間も終わるのだ、と。
目を開いた私が見た伊東は、優しい顔で微笑んでいた。
「葉桜さんにとって、今は夢なんですか?」
私は言葉を返さずに、ただ笑うことしかできなかった。
伊東さんがいなくなった後で、私は目を閉じて、声をかけた。
「そろそろ出ておいで、斎藤」
気配はごく僅かだったけれど、私が声をかけるとすぐに近づいてきた。そして、私の前に立ち、なんだと無言で問いかけてくる。対して、私は自分の隣を叩いて、斎藤に座るように促した。
「どこから覗いてたんだか知らないけど、趣味が悪いぞ」
無言のままの斎藤に笑いかけたが、やはりその表情は変わらない。
「夢ではない」
「うん」
「葉桜も、俺も、皆もいる」
「うん、そうだね」
「俺はいつもお前のそばにいる」
「それはちょーっと困るなぁ」
はははと私が笑って言うと、斎藤には頭を軽く叩かれた。冗談が過ぎるというところだろうか。
「さっきさぁ、改めて、ここに来てもう四年になるんだなぁって、思った。斎藤たちと出会って、四年。こんなに長く道場を開けたのは初めてだよ」
「私がいなくても道場は大丈夫だってわかってるし、私はわたしにしかできないことをやるためにここにいるんだけどさぁ。楽しすぎて、嫌になるよ」
「ここを、新選組を離れるなんて、考えられない」
とりとめもない私の話を斎藤は黙って聞いてくれる。わかっているけど、私は止められなかった。
「彼にも、ここに居場所を作ってあげられたら良かったんだけどね。私の力じゃ、私だけの力じゃどうにもできなかった。それだけだって、わかってるんだ」
彼、と私がぼかしていったのが誰なのか、斎藤にもわかっただろうに、その表情は眉一つ動かない。でも、責めているわけじゃないんだ。
「できることをやってきたつもりだけど、こういうのは少し堪えるよね」
私にはただでさえ大仕事があるし、そうでなくとも彼ら以外はもうーー。
「あの人は、自分でそれを選んだ。葉桜が自分を責めることはない」
「うん、斎藤もね」
私が切り返すと、ほんの少しだけ斎藤の目が見開かれた。それは、こうして近くにいなければわからないぐらいだ。
「俺は別に」
そんなことはないという斎藤の頭を、今度は私が撫で返す。
「私も別に、誰も責めてないよ。ただ事実だってだけだし。それに、土方の判断も信じてるし」
武田は長州に渡りをつけようとした時点で新選組の敵と決まってしまった。中枢に関わってきた武田から情報が漏れてしまえば、新選組こそが窮地に陥るかもしれない。だから、土方の判断が正しいことを私だってわかっている。
私はもう一度空へと視線を移した。ゆっくりと雲が流れて、天気は穏やかだ。先日まで毎日夕立が降っていたというのに穏やかで、平和だ。
「そろそろ秋になるな、斎藤」
答えの返らない斎藤を振り返ると、困惑した顔で私を見ているのが面白くて笑えた。
「秋といえば、秋刀魚の塩焼きに、栗ご飯、それから秋茄子で煮浸しもいいなぁ。近く栗でも拾ってきて、夕餉に作ってもらうか」
さきほどまでの空気を払拭するように明るく私が言うと、斎藤は少しの間の後で小さく笑った。
「葉桜も桜庭も、色気より食い気だな」
「え?」
「今日の夕餉にはその茄子の煮浸しがでるそうだ」
「お、やったっ」
私が手を叩いて喜びを露わにすると、斎藤もことさらに楽しげに微笑む。
鼻歌を歌い出した私の頭を軽く叩いて斎藤が立ち去った後で、私は縁側にごろりと寝転がった。
秋といえば、いろんなものが終わりそうな物悲しい季節でもあるが、収穫の季節で美味しい物も多く出まわる季節だ。夏の暑さが終われば、秋の虫が鳴く涼しく長い夜の季節がくるのだ。
「栗、そろそろ拾えるかなぁ?」
小さく呟いて、私は一人秋の楽しみを想像して笑うのだった。
元々の「9.2.1-慰め」を直していたら、このイベント前のですが会話がちょろって出てたので、先に配置。
あと、久々にゲームやり直しました。
なのに、内容がこれってどうよ(笑
まあ、ゲームの方はギャグ回だし、いーんですけどね!
暗くなりすぎたので、最後は慌てて修正しました。
……成功してますかね?
(2012/10/20)