彼女に家族はいない。死んではいないけど、海の向こうのずっと遠い異国に住んでいる。東の向こうの黄金の国といわれたこともある、小さな島国だ。ここイギリスとは、少し似ているかもしれない。気候が合うせいか、何年もチカは住んでいる。
「先生ー! いらっしゃいますかー?」
住所は地図に名前も記されない小さな村だ。秋には小麦の畑が一面に広がり、収穫祭で村が賑う。近くの森は獣達が住み、妖精や伝説上のユニコーンやドラゴンでもいそうな雰囲気を持つ。でもそれは夜のことで、昼間は明るい陽光を落として、道々を照らしてくれる。木漏れ日街道ーーと、勝手にチカは呼んでいる。
その道の先に、一人の青年が住んでいる。鳶色のボサボサ髪のぼんやりとした風貌の男だ。村を普通に歩いていてもなんの違和感もないのに、彼ーーリーマス・ルーピンはあえて人の近寄らないこの森の奥に住んでいる。どうして「先生」と呼ぶかといえば、別に勉強を教えてもらったことがあるとか、そういうわけは全然なくて、単なるあだ名だ。チカが勝手に呼んでいるだけなのである。雰囲気がそんな感じだと言う理由で。
「先生ってば! いないんなら、ケーキ持って帰っちゃうよ!?」
反応がないので、持っていた籠に掛けていた布を持ち上げて、中の甘い匂いを嗅ぐ。我ながら上出来な林檎のパイケーキだ。一緒に持ってきた隣村の友人んとこで作ってる赤ワインを傾けながら食べると美味しいんだ。これがっ
「(いないのかなー?)」
普段なら、この手で寝ていても起きてくる人である。それでも家の中が静まり返ったままで、挙句、動き出す気配もないというのは。少々どころかかなり気になる。
第一、このケーキ。ここに住んでいる人の為に作ったもんであって、他の人間じゃまず食べられない甘さをしている。
「しっつれーしまーす!」
がつんと扉を叩いたが、痛いだけで微動だにしない。見た目はただのボロ屋なのに、頑丈である。
「せんせーってばー!! もーホントに帰るよ!?」
玄関から正攻法で押しかけても拉致があかない。ぐるりと回って、窓を探した。1階建てなので、どこかに見つかるだろう。
いつも通されるリビングはいつもどおりに乱雑で、難解な文字が印字されている本が積みあがり、家中のいたるところにわけのわからない見たことのない道具が落ちている。反時計回りでそのまま隣へ移るが、そこは小さめの窓で、見えるのは食器とか料理器具からキッチンだとわかる。影になりかけた東側には大きな出窓で、そこでようやく白いものが見える。あの影からするとシーツだろうか。それも誰か眠っている。この家の住人といえば、一人しかいないのだから、彼しかいない。
「ぅっふっふっお昼寝中ですか~襲われちゃいますよ~?」
間違いではない。襲うのではなく、ぼんやりしているうちに襲われてしまいそうな気がするのだ。ここの住人は。なんだかひどく頼りないのに、たまに強かったりする。そう、笑顔で値切り倒すとか。
かすかに見えた髪の色で、チカは立ち止まった。見慣れてきた鳶色じゃない。自分と同じ…黒い色…。
「(う、浮気現場…?)」
結婚しているというわけじゃないのだから、浮気もなにもあったもんじゃないし、リーマスもイイ年だ。恋人がいてもおかしくない。
ここで普通なら踵を返すのだが、いかんせん、チカは好奇心で人生を生きてきているような人物である。また一歩、その窓近くへまわった。枕から零れているのは、長い、黒髪。光というか、艶が足りない。それに手入れもされていないし、これは。
「チカ?」
「ぅひゃぅ!!」
突然肩に手を掛けられて、変な声が飛び出した。これはもう不可抗力である。振り返った反動で倒れそうになったところを腕を捕まれて、もう片方の空いた手で体を引き寄せられた。引き寄せられた体からは、強くチョコレートの匂いがする。蟻が登ってくるから、やめなさいって言ってるのに。また服に隠し持っているのだろうか。
「こんなところで、なにしてるんだい?」
「先生、な、何って!」
肩を捕まれて、顔を覗きこまれる。その目にわずかに非難の色を見止めるのが怖くて、視線を逸らす。でもきっと、たぶんいつもの笑顔を浮かべているのだろう。
「先生がいないから。死んでんじゃないかと思って」
「ちょっと出掛けていたんだよ」
小さな笑い声で顔をあげると、後頭部というか首から耳の後ろあたりのあいまいな部分に1本の銅線でも詰められたような痛みが走った。ものすごく痛いけど、それもこれもこの男を見上げようとしたせいだから、何だか非難したくもなる。心配して来てやってるというのに、それも専用に甘い菓子まで作って。
「今日は林檎?」
籠を持ってくれて、チカの手を引いて歩き出す。さっきの人も気になるけど、しかたないので小走りになりながら後を追いかける。
「そーなの。隣の家にすんごい沢山送られてきてね。お裾分けもらったから先生にも」
玄関をすんなり開けて、いつもの部屋に通される。さっき見たばかりだが、窓から見えないところには新聞まで散らばっている。いつもながらとんでもない部屋だ。これで他よりもマシというのだから、他の部屋はどうなのだろう。
「テーブルの上、適当に退けていいよ」
ここまで散らかっていると片付けるのもイヤになりそうだが、この中でおやつもいやだ。
「その前にここ、片付けましょうよ」
「食べてからね」
実に楽しげな声であるところからして、もう彼の意識は今日の林檎パイに移っているようだ。
仕方ないので、とりあえずいつも通りに窓を開ける。ここの窓は立て付けが悪いのか、いつもガタガタいって、それでもなかなか開かなくて、リーマスが紅茶を持って入ってくると、急に開くのだ。
「ごめんねー立て付けが悪くて」
「いいええっ先生のせいじゃありませんからっ」
これも壊れそうな椅子の上から新聞をそっと避けて落として、その上に静かに座る。なんというか、乱雑に動くと埃が立ちそうなのだ。この家は。
「はい、砂糖はいらない?」
「自分でやります」
差し出されたカップを慌てて受けとると、声を立てずに笑いながら、リーマスはソファーにどかりと座った。意外にも埃は立たない。
「しかし、いつにも増して…あ、食べてていいですよ。いつも以上に散らかってますね」
何も言わずに籠から取り出して食べ始めてしまうリーマスに、一言いって、チカも紅茶をすする。下手な紅茶専門店よりも美味しいのだ。これを飲む為にケーキを作ってくるといっても過ぎたことではないだろう。
「んんん~美味しいっ」
「チカのケーキもいつもながら絶品だね」
「そーでしょ?」
飲み終えてしまうと、もう2杯目が用意されていたり、結構気配りのきく人である。いや、チカが人より気配りが足りないとか、そんなんじゃないけど、この人の場合は余計に。
「どこ出掛けてたんですか?」
「ちょっと友人の家まで」
「へ~近いんですか?」
「そうだね。姿あらわしを使えば簡単だよ」
「へ~ぇ」
姿あらわし?なんのことだと思いながら、自分の持ってきたパイに手を伸ばす。
ーーあぁ、我ながら一口が限度だ。このストレートの紅茶がなければとてもじゃないが食べられない。
「二人じゃ多すぎましたね。やっぱり」
「そうかい?」
これを普通に食べられるあなたは別な意味で尊敬にあたります。それでその細さだ。一体どういう作りをしてるんだか。
「次からはもっと多めでも大丈夫ですか?」
ふと、いろいろ含ませて言ってみる。
「そうだね、チカのケーキは美味しいから毎日でも食べたいよ」
なんの気もなく返される。
「主食で?」
「それでもいいかもね」
ほんとうにこの人のどこにそんなに消えてるのかな。
「先生みたいな人は特殊だからいいでしょうけど、同居人の方にはきっついんじゃないですか?」
いってから、一気に紅茶を飲み干す。それから視線を戻すと、彼にしては珍しくとても珍しい拒絶的な笑顔を浮かべている。
「同居人? ここには一人で住んでるよ?」
とぼける気だろうけど、そうはいかない。二人分作るからには、それなりに調整もしなければならなくなる。なにより、ここでリーマスに紅茶を入れてもらう為には、その同居人に嫌われるわけにはいかない。
「私を、ごまかせるつもりですか」
たちあがって寝室へ向かう。
「ここに眠ってる人がいるでしょう?」
「そこには誰もいないよ」
「誤魔化しはききません。黒い長い髪の恋人でしょ?」
今度こそ、完全にその笑顔が凍りついた。
「別にそんなことは気にしませんから、私。先生に恋人がいてもいいんです。第一、その年で相手がいないなんて絶対おかしいもの」
ドアノブに手をかけて、力をこめる。
「チカ、こ、恋人って…はは…何、いってるの!?」
動かそうとしたドアノブは反発して動こうとしない。後ろから聞こえるリーマスの笑い声に、チカも笑って顔だけ振り向いた。
「なんでもいいんですよ。でも、変な誤解されちゃ困るじゃないですか。先生が」
「僕は困らないけど?」
「私も困りませんけど、でも、ほら、相手の人に悪いし」
「いや、だからね。僕には恋人はいないんだよ」
「だから何でもいいんですって」
「恋人になって欲しい人はいるけどね」
「じゃーなおさら誤解されちゃダメじゃないですか!」
「その人はケーキを作るのがすっごく上手なんだ」
ぴたりと、チカはドアを開けようとするのを止めた。
これはまずいことになったぞ。私よりもリーマス好みのケーキを作るのか。そいつはすごい。そして、まずい事態だ。
「その人は僕のいれた紅茶を本当に美味しそうに飲んでくれるんだ」
リーマスがソファを立って、近づいてきた。
自分が美味しそうに紅茶を飲んでいるかという自信はない。でも、本当にリーマスの紅茶は美味しい。こんなことなら美味しそうに紅茶を飲むのみ方ってヤツを誰かにきいときゃよかった。
「その人以外は、別にどうでもいいんだ」
やんわりと微笑まれて、身動きが取れない。顔は笑っているのに、視線が真剣で、これはもうダメだと思った。
「先生…」
「わかったかい?」
「…はい。私はもう、来ちゃいけないんですね?」
もう美味しい紅茶が飲めないんだと思うと、涙が溢れそうになった。だめだ、リーマスにきた折角の春。祝福してあげなきゃいけないんだから。
「チカ…?」
「心配しないで下さい。邪魔、しませんから。美味しい紅茶が飲めるところなんて、世界中捜せばきっと他にもありますから!」
ケーキ作るだけで、美味しい紅茶を飲ませてくれるイイ場所だったのに。もう、お別れなんだ。
「ここにいる、その人も疲れてるんでしょう?」
軽くドアを叩いて、努めて微笑む。ちゃんと笑えていないのか、リーマスの表情が揺れている。
「あんまり苛めると、ケーキ作ってもらえなくなっちゃいますよっ」
ドアを叩いた腕で軽くお腹を殴りつける。その手をやんわりと取られて、とまどった。
「チカ、君、誤解してない?」
「だから、ここの部屋に眠ってる髪の長い人がその、ケーキが上手で、紅茶を美味しく飲んでくれる、先生の恋人にしたい人なんでしょう?」
見上げると、本当に困ったように微笑まれて、チカのが困った。なんというか、ききわけのない子供をみている先生みたいだ。だから、先生と呼ぶのだけれど。
「その誤解は最低だよ」
聞いたこともないくらいひくぅい声で、哀しい笑顔だ。どうでもいいが、自分の頭一つ分高い身長はとても首が疲れる。
「ここにいるのは古い友人で、恋人でもなんでもない。それどころか、ほっといても勝手に生きてく、生き物だよ」
軽く叩いたように見えたのに、鋭くて大きな音が響いて。私を閉じ込めるように打ちつけられた扉の向こうが少し、気の毒に思える。まだ寝てるんじゃないのかな。
ーーてゆーか、イキモノって、先生ー。
「じゃ、他にもここにケーキを持ってくる人が…?」
「こんな森の中にケーキ持って来てくれるのは、チカ、君ぐらいだよ」
「ですよねー。それじゃー先生が食べに…」
「ケーキは来てくれるんだ」
もうなんというか、妙な汗が背中を通りぬけてゆく。
なんだかなーもう。来てくれるって、そんな。
「ケーキは歩きませんよ」
こんな返事しか返せない。
「そうだね。ケーキを運んでくれる人は一人しかいない」
小さな笑いはチカの前髪を揺らした。気のせいでなければ、それが私を指している予感がするんですが。
「まだわからないのかな?」
あわわ。そんなつもりで来ていたつもりは毛頭ないのですが。
先生は先生で、私は美味しい紅茶が飲みたいから、アナタ好みのケーキを焼いて来ていただけなんですー。
「チカ…?」
ぎゃーっ、こ、こんなに男の人に近寄られたことないんで、精神的にパニックです。パニックとはパパのニックネームのこと。て、ちがーう!!
「先生…っあのっ」
「あぁ、やっぱり君からも甘い匂いがする」
そりゃ半日もケーキ焼いてりゃ匂いも付きますよ。でも、今ここでそれを言いますか!? 耳元で囁くと、あなたの声は殺人的って言われたこと、ないですか?
「っまだ、ケーキ残ってますよ!?」
辛うじて、悲鳴のように言い返すと、近かった気配が離れて、光が間に割り込んでくれた。でもまだ油断は出来ない。
「別に襲わないよ?」
「ぇ!?」
「まだケーキ残ってるしね」
くるりと踵を返して、テーブルに戻る姿を見ながら、そっと肩を撫で下ろした。ケーキなかったら襲う気だったんですか、先生。
「チカもそんなところにいないで、紅茶をもう一杯どう?」
なにか言い返そうと思ったが、なんか疲れてしまった。くすくすと楽しそうに笑っているところからして、からかわれたのかもしれない。こういう悪戯を好きな人なのだ。
「いただきます」
チカは紅茶を飲みに来てるのだ。紅茶を。別に餌付けに来てるわけでも、口説かれるために来てるわけでもないです。
それから、いつもどおり当たりさわりのない世間話をして、午後はゆっくりと過ぎていった。こののんびりとした時間の為に、日々過ごしていると言っても過言ではない。美味しい紅茶と、美味しいケーキと、のらりくらりと過ごす時間。
「また来週も来ていいですか?」
そう聞くと、驚いたように目が見開かれ、本当に安心してリーマスは微笑んだ。
「ありがとう」
ゆったりと過ごす時間は、止まりそうだがゆっくりと移動していく。
「同居人は、甘いものは?」
もう一度聞くと、彼はくすくすと笑う。そんな笑顔は悪戯の響きを帯びていて、面白いと思う。半分は彼の本質がでているからだろうか。
「あれ? アレには、そうだね。ドッグフードとかその辺でイイと思うよ」
「へ?」
「たまに鶏肉とか」
「あぁ、いつも先生が値切ってるヤツ」
「…知ってたんだ」
「チェルが笑ってました」
友人の名前を出すと、微妙に笑顔に影が落ちる。いつも笑顔なのに、どうしてこうも表情があるんだろうと、少し不思議に思った。
「そうだね。チカ、今度から先生じゃなくリーマスって呼んでくれない?」
「ヤです」
キッパリと言いきると、やはりどうしてと聞き返された。
「言い慣れちゃいましたもの」
「紅茶のお代わりいらないの?」
うぬ~っ、紅茶を盾に取るとは卑怯な!
「リーマス…」
差し出されたカップにはすでに紅茶が入っている。早技だ。見えない。
「…先生」
「言い慣れればいいんでしょ?」
懲りない人だ。
ぼんやりとしていて、掴み所がないけれど、思った以上にクセモノな人みたいだ。
「で、同居人の方は甘党? 辛党?」
そして、私も懲りません。
「どっちにしようかなー?」
楽しそうにリーマスはケーキを頬張っている。どうしよう。やはり、本人に聞くのが一番じゃないだろうか。
乱雑した部屋の中で、チカは子供みたいに無邪気に美味しそうにケーキを食べる男を見て、ため息と笑いが同時に零れてしまった。考えたことはないけど、別に嫌いでもないし、少しこの男のことも考えてみようと思う。世界一美味しい紅茶を入れてくれるというだけでなく。
しかし、返答を聞かないところをみると、答えはいらないのだろうかといぶかしむ。告白したかっただけ、なのだろうか。それはそれで、あんなことをされて、どうしろともいえないが。返事はするべきだろうか、しないほうがずっと紅茶を飲めるのだろうかと、笑顔で話しながら悩んでいた。
先ほどの扉の向こうで、彼の友人という人がハラハラとしているとは夢にも思わずに。
ケーキと赤ワインを森に住んでいる人の所に持っていく。
ふと気がつけば、流れは赤ずきんちゃんです。
今回は喰われなかったですが、次はどうでしょう!?
隠れている人は、たぶん思うとおりの人だと思います。
時期は3巻終りなあたりで。つまり、4巻始め…?
完成:2003/03/18