(沖田視点)
御陵衛士との事件から葉桜さんは少し変わったような気がする。いつも遠くを見ている人でその視線の先まで決して探らせない人だけれど、最近は自分の周りの人たちを見ながら寂しそうに笑っていることが多くなった。
近くなったという人もいる。だけど、僕はやはり遠くなったと思う。
「葉桜さん」
「んー? 苦いから飲みたくないなんて言ってもだめだぞー?」
僕の薬を用意し、僕の身体を起こしながら叩かれる軽口はいつも通りだ。だけど、どうしてだろう。極端に優しく感じるような気がする。渡された薬を口にし、手渡された水で一気に飲み干す。彼女の言うように、たしかに薬は苦い。だけど、これも葉桜さんと生きるためと思えば苦ではない。
「なにかあったんですか?」
横になる前にと葉桜さんを振り返って問いかけてみれば、あの寂しそうな笑顔を浮かべて、何もないと答える。僕がそれでダマされると、本気で考えているのだろうか。倒そうとする力を利用して、その思う以上に細い腕を引き、あっさりと一緒に倒れてくる体を抱き寄せる。
「総司、冗談はよせ」
動揺のない笑いまでも含んだ声に少しばかり意地になる。
「葉桜さんはいつもそうですね」
「何がだ」
「僕の前ではいつも強がってばかりだ」
わずかな強張りが布団越しでも伝わってくる。それは、僕の言うことが当たっているということだ。本当にこの人はいつもこうだ。たしかに僕よりは歳が上かもしれない。だけど、僕だって男なんだ。頼ってほしいこともある。
「これは僕の勝手な思いこみかもしれませんけど、本来の葉桜さんはそんなに強くないと思うんですよ。本当はいつだって何かに脅えているみたいに見えることがあるんです」
「…て、ない…」
「例えば、気配のひとつひとつに、風の音ひとつひとつに。振り返る度に、誰かを探していたり」
「総司!」
鋭い声に遮られ、僕は話すのをやめた。腕の中で葉桜さんは小さく震えている。まるで、産まれたばかりの仔猫みたいにふるふると耳を押さえて、体を縮めて。
「お願いですから、僕の前でまで無理しないでください。真実は知らなくても構わない。僕を一番に好きにならなくてもいいです。だから、どうか笑っていてください」
空いている手で彼女の頭をゆっくりと撫でる。しなやかで冷たい感触は手に触れるだけでもとても心地よく、ずっとこうしていられたらと願ってしまう。でも、それじゃ彼女の笑顔は決して見えない。
手を弛めると、のろのろと起き上がった葉桜さんは僕の枕元にぺたんと座り込んだ。今にも泣きそうだけれど、さきほどまでとは違って気の抜けた様子だ。
「総司、おまえいつからそんな謙虚になった?」
「もとからですよ」
「あはは、それは初耳だ」
笑い続ける葉桜さんの瞳からほとりほとりと雫が零れ始める。僕が体を起こしても気がつかない葉桜さんをそっと包み込む。
「ええ、僕もこんな風に思ったのは初めてです。いつもはあなたに会いたくて、触れたくて仕方ないぐらいだというのに」
「え?」
「何を驚いているんですか? 僕だって葉桜さんを好きな一人の男ですよ」
葉桜さんの生きる世界を守りたいと願う、一人の人間だ。腕の中で気配に気がついた葉桜さんの空気が変わる。いつもの強い人のそれに。
「総司」
「ふふ、こういう時でなければ押し倒してしまいたいところです。無粋な人たちだ」
「冗談言ってないで逃げるぞ」
立ち上がろうとする体を強く押さえ込む。
「…久しぶりだし、楽しませてもらいましょうか」
「なっ、馬鹿なことを言うなっ。総司はまだダメだ!」
「うーんでも、この人数、強さ…葉桜さん一人では厳しいですよ」
「一緒に裏口から逃げるんだ」
見上げてくる必死な様子に、そんな場合ではないのに心が躍る。葉桜さんの瞳はいつみても吸い込まれそうにキレイだ。
「だから、ここは僕が」
「総司!!」
「はぁ、仕方ないですねぇ」
安堵しかけた彼女に持ちかける。
「葉桜さんが僕に口づけてくれたら、大人しく逃げましょう」
怒られるだろうかと面白そうに見ていたら、即座に唇に柔らかな感触が触れて、さっと離れた。怒ってもいなければ、戸惑い一つ無い。
「逃げるぞ!」
腕から抜け出し、僕の腕を引く葉桜さんについて部屋を移動しながら、自分の唇に触れる。冗談、だったのに。まさか、本当にしてくれるなんて。嬉しいような、それとも意識されていないというような寂しさが募る。
裏口から抜け出したところで、二人とも気配を潜める。と、屋内から声が聞こえる。
「いないぞ! どこへ行った!」
「あっ! 裏口があるぞ!」
「追えっ! 沖田を始末しろ!」
明らかに僕を探しに来た人たちに葉桜さんが歯噛みする。
「総司、伏見の奉行所まで走れるか?」
全神経を襲撃者に集中している葉桜さんに今、何を言ってもだめだろう。何より、すぐそこに敵は迫っている。
「こうなっては走るしかないでしょう。できる限りやってみますよ」
よし、と頷いて葉桜さんが僕の手を引いて走り出す。行く道はまさに一本道で、民家が在れば、その中を平然と通り抜けてゆく。そうして、屯所にたどり着くと、迷い無く葉桜さんは近藤さんの部屋へ向かっていく。
「葉桜さん」
「ここならもう大丈夫だ。今日は近藤さんも土方さんもいるはずだから」
真っ直ぐに進んでゆく葉桜さんの手に逆らい、足を止める。彼女が一番頼りにしている人たちが誰なのかなんてわかってはいたことだけれど、それでも少し胸が苦しい。
「総司? どうしたんだ?」
見上げてくる葉桜さんを抱き寄せ、今度は僕から口づける。触れるだけの優しいものじゃなくて、記憶に残りそうなほどに濃厚なものを。どれだけそうしても葉桜さんの奥には近づけないと分かっていても。
「…な、」
「僕は本当に葉桜さんが好きなんです」
堪えきれずに零れる甘い吐息も全部、今は僕だけのもの。
「…総…」
「僕だけを見てくれなんて言いません。今の僕を頼ってくれとも、言いません」
力が抜けてもたれ掛かってくる体を大切に抱きしめる。
「僕を、置いていかないでください」
最近の葉桜さんは以前の明るさを取り戻したかに見えて、その実はとても危なっかしい。これが最後だとでも言うように無理して笑顔を絶やさぬようにしている姿を見かける度に、そのうちに彼女がどこかへ消えてしまうような予感さえしてくる。
そう、この予感こそが不安を奥深くからえぐり出し、掻き出している。彼女は「約束」してくれたのに、それでもいなくなってしまう予感は日増しに強くなっている。だから、僕の力で留めておきたいと願ってしまう。
僕を見つめる彼女の瞳は潤んでいたけれど、やはり雫は零れなくて。
「そんなこと言って、私を置いていこうとするのは総司の方だろう?」
ただいつものようにふわりと笑った。寂しそうなその笑顔の先に重ねているのは、彼女の父上だろうか。彼女を置いていったその人は、今なお深く彼女に根付いて離さない。
僕の胸に頭を当てて、囁く。
「誰も総司を置いていったりしないから」
自分が、と葉桜さんは言わなかった。だけど、この時の僕は気がつかなかった。気がつかないで、ただ葉桜さんが愛しくて、彼女を抱きしめた。互いに置いていかないことを願いながら。
しんしんと、雪が降る。外は明るく、まだ日が高いことを告げている。それなのに、なんとはなしに目が覚めた。強く切なく想うのは、今そばに彼女がいないことだ。昨夜あれだけ話したのに、何故だか葉桜さんが消えてしまう予感のようなものがした。
起き上がろうとすると、襖がそっと開けられ、冷たい空気が滑り込んでくる。
「眠っている分、余計に鋭くなるのかね」
入ってきた葉桜さんは柔らかな含み笑いをしており、優しく僕を撫でる手はとても温かい。昨日までの張り詰めた様子はない。温もりに安堵して目を閉じると、彼女がほっとしているのが空気でわかった。
「私、ちょっと出掛けてくるけど、気をつけるんだよ」
「?」
「近藤さんを迎えに行かなきゃ」
たしか、少し前に僕の所に来たときに二条城の会議に呼ばれているとかで、島田さんと馬で出掛けたはずだ。その時も一緒に行かせてほしいと葉桜さんは頼み込んでいたのだけれど、あっさりと断られてしまっていた。あれほどに葉桜さんが動くとき、それは何かが起こる前兆だ。彼女の突発的な行動にはすべてに意味がある。
僕の視線に気がついた葉桜さんが、少し寂しげに笑う。
「ごめん、総司。話せないんだ。総司はまだ流れの中にいるから」
「流れ、ですかーー?」
「そう。いつか、お前には全てを話せると良いな」
とても哀しそうに微笑んでいるので布団から手を伸ばして触れようとしたら、冷たい何かが手の甲に落ちてきた。葉桜さんは確かに笑っているのに、瞳から雫がはらはらとこぼれ落ちている。
「何が、哀しいんですか?」
「何も哀しいことなどありはしないよ。さぁ、もう行かないと」
なんだかそのまま葉桜さんが消えてしまう気がして、必死で身体を起こした。昨夜のように走るのは今難しいが、多少動く程度の体力はある。剣も持てる。それらを少し前に葉桜さんは守り刀のおかげと笑っていた。
「葉桜、さんっ」
「くれぐれも気をつけて。先日のように無闇に敵と向かい合うなよ。総司はまだまだ安静が必要なんだからな」
頭に乗せられる手はかすかに震えているのに、強く押さえつけられているわけでもないのに、僕は動くことが出来なかった。強く強く眠りに誘われる。葉桜さんの声は、とても、遠い。
「また直ぐに逢えるよ、総司」
寂しい声は寂しいままに、消えていった。
(葉桜視点)
日はまだ高く、辺りは冬らしい寒々とした風景で囲まれている。枯れたススキが風に身体を倒しながらもなお生き長らえている中を一頭の馬が一直線に蹴散らしながら駆けてゆく。乗っているのは全身を真っ白い布で覆っている葉桜だ。馬にしがみつくようにして駆けてゆく。普段は自力でのんびりと移動してばかりだから、あまり馬の操作は慣れていないのだ。だけど、今はそんなことを言っている場合じゃない。間に合わなければ、近藤の身が危ない。
時間的にはそろそろ近藤も二条城から戻る頃だ。その前に、間に割り込めれば私の勝ち。
(間に合ってーー!)
まさに風のごとく通り過ぎてゆく風景に恐怖しながら、それ以上に怖いのはあの人の心を少なからず折ってしまう怪我のこと。剣士にとってどれだけ剣を振れることが幸せか、剣士にとってどれだけ剣を振れることが大切か、よくわかっているつもりだ。私自身はそんなことになることはないのだけれど、それでももしも剣を振るう腕が無くなってしまったら、動く足が無くなってしまったらと思うともう生きることさえ考えられない。誰も助けることが出来ない自分なんて自分じゃない。
近藤だって、いつだって余裕で飄々として底抜けに明るくて、どんな心配だってどんな恐怖だって吹き飛ばせるあの笑顔じゃなきゃ。私は私を許せない。
紙に書かれたのはたったの一文。
「近藤さんが二条城からの帰路で狙撃される」
死ぬとは書いていなかった。だけど、簡単に書かれたそれを見たときから決めていた。絶対に阻止すると。たとえ、自分の身体を犠牲にしてでも、止めてみせると。
そのためにいろいろとやってきた。御陵衛士たちと闘ったあの夜からも何度も連絡を取ろうとした。だけど、当然ながら篠原は頑固で、彼の仲間たちも同じで。いくら薩摩に操られていただけだと話しても聞き入れてはくれなかった。結局は伊東さんらを殺してしまったのは新選組だから。
何を言ったって言い訳にしかならないことはわかってる。守ると言いながら、伊東を守れなかったのは私だから。あの時少なくとも一人で来なければ伊東は死ななかったかもしれないのに、私が「信じてほしい」なんて余計なことを言ったから。
私ならいくら責められたって構わない。だけど、篠原達はまったく取り合わなかった。彼らの話を盗み聞いて、襲撃の計画を知ったけれど、それは誰にも話すことができなくて。あげく、焦燥を沖田に見抜かれてしまった。
強くならなきゃ誰も守れないのに、弱い自分を見抜かれて、支えられて。そうして私は生きてきたから。支えてくれた人たちに哀しい想いをさせたくない。絶望を、報せたくない。
必死にしがみついている葉桜の耳には風に混じっての話し声が聞こえる。二つの、音。まずい、もう時が無い。馬が暴走するのも覚悟して、葉桜は馬の腹を蹴りつけた。一度高く嘶き、先ほど以上に馬が暴れ出す。まずい、これに気づいて近藤さんが立ち止まるのもいけない。
「こ、近藤さーん!!」
遠くから急いで駆けてくる二つの蹄の音に合わせ、わずかに身体を起こして確認する。こちらへ向かってくる馬上には、遠目でも似合わない裃を着た近藤と島田の姿が見える。すれ違うときが勝負だ。風の音に声が混じって、段々と鮮明に聞こえてくる。きっと篠原たちのこの時を狙うはずだ。
近藤の差し出す腕に飛び込む寸前に、声を限りに叫ぶ。
「やめろ、篠原! 撃つなー!!」
間に合えと、強く願った。その願いは届き、熱い痛みがこの身に残る。背中に熱い熱が残る。近藤の腕は届かず、私は草むらに転がり落ちた。衝撃で息が詰まりそうになるけど、そんな状況で、もう一つの音を聞いた。
絶望を放つ音は、まっしぐらにあの人へと伸びてゆく。そして、近藤の呻きと、島田の焦る声。
「あ、ああ…っ」
「葉桜さんっ、先に行きます!」
情報では銃は一丁だったはず。何故、どこでそれを手に入れていたのか。馬にしがみついている近藤に必死に声をかけている島田の姿が見える。その手綱を手に、駆け去ってゆく。安堵して、馬の走り去る音を聞きながら、苦しい身体を起こして、同じく草むらから姿を現した篠原と対峙する。あちらは鉄砲。こちらは、たった一本の懐剣を握るのがやっとだ。だけど、それが何だ。
島田には一言だけ、言ってある。二条城からの帰り道、何があっても立ち止まるなと。だから、あとは大丈夫だ。近藤は彼に託しておけばいい。
「近藤さんを殺したいなら、先に私が相手になってやる! 私を殺してから行け!!」
篠原らはしばらくこちらに銃を構えていたが、小さく舌打ちして走っていった。
いなくなったのを見届けてから、そのまま身体の力を抜くと、簡単に地面に打ち付けられる。体中が熱くて痛くて、もう背中の痛みなのかどうかもわからない。閉じた世界は真っ暗闇で、こんな人気のない道端で差し伸べられる手なんてあるわけもなくて、ただ痛みに耐えることしかできない。
「…っ…はっ…、」
近藤は、大丈夫なのだろうか。まだ近藤は死ぬ運命に無いけれど、懐から紙を取り出してみる。事象の書かれているそれの文字は近藤が撃たれたこと、それから、これから戦線を離脱して療養することしか書かれていない。生きているのは、確かだ。
私は、死ねない。死ぬほどの痛みがあっても、死ねない。幕府がなくならない限り、死ねない。
「ーーとう、さま…」
父様が死んでから、死にたいと何度も願った。芹沢を殺してからも、何度逃げてしまいたいと思ったことか。だけど、何があっても私は諦めることも逃げることも許されない。呪いのためだけじゃなく、父様と最期に交わした「約束」のためにも。ーー父様の分以上に幸せに生き抜くことを、諦めちゃいけない。
心臓のあたりを抑えて堪えていると、熱い痛みが頬を伝わり落ちてゆく。目の前が暗くて、誰もそばにいない。だけど、確かに感じる温かな気配が、それを拭う。
「葉桜ちゃん、しっかりするのよ!!」
山崎のせっぱ詰まった声。泣いているようだ。
「美人が、台無し…よ?」
目を開けると、歪んだ色が滲む。虹色がぐちゃぐちゃに混ざって、まるで芸姑たちの晴れやかな踊りでも見ているみたいな気になってくる。
「それどころじゃないわよっ、もう、いつかやると思ってたけどっっ」
山崎は笑ってるほうが好きだ。男くさい新選組における華だって、本気で私は思ってる。私よりずっとキレイで可愛い。
「莫迦なこと言ってないで! すぐにお医者様にみせてあげるからね!? しっかりするのよ!!」
包み込まれる優しさが、温かさが体中に染みこんでくる。こういうものを守りたいから、私は生きるんだ。
「…ちょっと、葉桜ちゃん!?」
焦る山崎の声を聞きながら、微笑みながら葉桜は意識を手放した。時が、終わらないことを感じて、また涙していた。
ひらりと舞い落ちてくる何かを感じて、ゆっくりと目を開く。ひらりひらりと薄紅の欠片が踊るように揺らぎながら、自分の上に落ちてくる。季節外れの桜の花が狂い咲いているのだろうか。起き上がると、周囲で桜の花片が散らばり落ちる。
そこは見渡す限り一面の薄紅に埋もれていた。様々な土地に行ったけれど、こんな場所は見たことがない。救う花片のいくつかはふわりと逃れて落ちるが、半分以上が留まっている。それらを一気に空に放り投げると、花片がいくつもいくつも降り注いでくる。
「どこだろ、ここ?」
桜はキレイだから好きだ。昔はこんな一斉に咲き誇るような桜はなかったらしいけれど、近年になって江戸の染井村の職人達によって育成された。最初に咲いた一枝を、父様と見にいったことがあったっけ。それ以来、毎年のように二人で見に行って、父様がいなくなってからも一人で見に行った。もちろん、あそこの人たちは葉桜の身分や役目のことなんて全然知らない。ただ、桜の花咲く季節になるとふらりと訪れる浪人程度に思っている。でも、行く度に良くしてくれる。何者かもわからない葉桜に宿を貸し、花見に混ぜてくれる。
ぐるりと見回すと自分の真後ろに大きな桜の木を一本見つけた。とても大きなその木はまさに満開で、葉桜は起き上がって、木に駆け寄る。幹に触れようと伸ばした手が、直前でパチリと白い光が弾けた。目の前で起こった出来事が信じられなくて、目を瞬かせる。
「何、今の」
もう一度手を伸ばしてみる。
「っ!」
今度は指先から白い光に包み込まれてゆく。身体だけじゃない。思考までもがその光に包み込まれて、何も考えられなくなる。
ーー……。
そんな中なのに、誰かの声を聞いた。葉桜、と私を呼ぶ優しくて、くすぐったい声。どこかで聞いたことがある気がする。だけど、物心ついてから会ったことがある人にはない声だ。
「なんで葉桜なんだ!? なんでこいつ一人が傷つかなきゃなんねーんだ!!」
次に聞こえたのは父様の激昂する声で、そんな声を初めて聞いた。父様がこんな風に怒鳴るのなんて初めてだった。
「一人の人間が業とやらを昇華して行かなきゃならねぇ世界なんざ、滅びちまえばいい!」
「おい、飲み過ぎだ。葉桜が起きる」
「どうして…葉桜なんだよ…。こいつが何したってんだ…っ」
悲痛な声をただ布団の上で黙って聞いていた。いつも笑って守ってくれていたから、気がつかなかった。こんなにも私自身のことで父様が傷ついていたなんて、知らなかった。あれから、私はいつも笑っているようになったんだ。
「運命なんてもんはな」
また違う声だ。これは若い時分の芹沢の声。生気と自信だけに充ち満ちていた頃の、葉桜の好きな声だ。
「運命なんてもんは変えようと思えばいくらだって変えられるもんなんだよ」
撫でる手の重さを今でも覚えてる。意地悪で優しかった彼の言葉の全てを、覚えてる。そう、運命は自分の手で変えられると教えてくれたのは芹沢だった。だからこそ、ここまで一人で走り続けてきたのだ。今更戻るコトなんて考えてない。始めてしまったのは私だから、終わらせるのも私だ。
白い光の中に願う。居るべき場所へ戻れるようにと、願う。私の居るべき場所はーー。
起きて直ぐ涙が出ていることに気がついたけど、身体全体が重くて動かせなかった。そういえば、酷い怪我をしたりすると、時々こんな風に在る程度良くなるまで動けなることがある。新選組に来てからはおそらく初めてで、それだけ命に関わるほどの怪我だったということだ。良順に知られたら、最低一月は外に出してもらえないかもしれない。
「ふ…っ」
笑いと共に涙が溢れてくる。生きていることを嘆きたいのか喜びたいのか、今はよくわからない。だけど、生きているからできることもある。
「葉桜君、気がついたのかい?」
襖を開けて現れた近藤は白装束で、疲れた顔をしている。それでも、もう動けるほどには回復しているらしい。
「私、ずいぶんと休んでいたんですね」
「まあ、一週間ほどかな。具合はどうだい?」
気遣って笑ってくれてるけど、その落胆の様が空気を震わせ伝わってくる。ああ、やっぱりとまた目元が熱くなってくる。
「近藤さん」
「どこか痛いかい?」
枕元に膝をついて、目元を拭ってくれる大きな手は冷たい。もしかして、また布団を抜け出して考え事でもしていたのだろうか。
「守れなくて、ごめんなさい」
手の震えが伝わってくる。今の近藤は、ひどく苦しそうな顔をしている。今動けたら、その辛さを全部受け止めてあげられるのに。そう思うと涙が溢れて止まらない。
あの場所で会った理由ぐらいとうに気がついていることだろう。私が何故何のために苦手な馬に乗ってまで駆けつけたのか。
「何言ってんの。葉桜君のせいじゃないって」
重い頭をわずかに振って否定する。
「俺のことは良いから、今は自分の身体を治すことを優先しなさい」
責めてくれて良いのに。どうして報せてくれなかったのかとか、そんな風になじってくれた方がいいのに。そうしない近藤の優しさが、愛しくて、心が痛かった。
「ほら、もう泣かないで」
「近藤さんがいけないんですよ。あんまり、優しくしないでください…」
目元を大きな手で覆われる。視界を遮られて、不安になる。
「俺は、情けないな。こんな状態の葉桜君に慰められるなんて」
「…近藤さん?」
慰めるような言葉を言った覚えはない。何をどう解釈したらそういうことになるのかわからない。手に力を込めてみる。でも、身体の方は石の下敷きになって居るみたいに動かせそうにない。
「笑いかけないでくれ。俺は、酷いヤツなんだ。俺はあの時、葉桜君を受け止められなかった。自分のことに精一杯で、こんな怪我を負っている葉桜君を置いていってしまった。そんな俺に無理して笑うことなんか無いんだよ」
いつも自信に満ちている近藤のらしくない言いぐさが哀しくて、涙が止まらない。
「無理なんかしてません。ねえ、近藤さん。顔、見せてください」
「駄目」
「お願いです」
「…駄目だよ。情けない俺を見られたくない」
こんな状況でそんなことを言うものだから、本気で声を上げて笑ってしまった。
「くっ、はははははっ、今更何言ってんですか? そんなことよく知ってますよ」
「そこまで笑うことないだろ~?」
「笑い所ですよ、今のは。だいたい情けなくない近藤さんなんて、私はそんなに多くは知りません」
視界から手が取り除かれて、近藤の笑顔が見えたのは一瞬で、近藤の眉間に哀しい皺が寄る。
「本当に、どうしたら泣きやんでくれる?」
近藤の言うように、どれだけ声を上げて笑っても溢れる涙が止まらない。流れて流れて、私が消えてしまうまで止まらないんじゃないかとさえ思えてくる。それは近藤も同じらしい。
「近藤さん、一緒に寝ませんか」
思いついたのは子供の頃の話。父様や母様と一緒にいるとき、安心できる人が添い寝してくれると、どれだけ泣いてもすぐに眠くなったコトだ。眠ってしまえば、きっと涙も止まるだろう。
「…あの、葉桜君?」
「うん、それがいい。近藤さんって少し父様にも似てるから、きっと止まります」
「…いや、でも、それって」
「前に、一人で眠るより二人で寄り添う方がイイって聞きました。一人だと不安が大きくなるけど、二人だと支えられるから安心に変わるんだって。だから、」
「だからじゃなくて、その、」
「申し訳ないんですけど、今は指一本も動かせないんで、自分で入って来てください」
「そうじゃなくて! あの、この間のコト覚えてる? ーー君が太夫姿だった夜に」
もちろん、覚えている。
「私たちは同じ目的を持った、仲間、です。それに、何もしないって言ったじゃないですか」
ただの仲間だと強調する。自分と、近藤自身に言い聞かせるためだ。近藤は先ほど以上にとても情けない顔をしている。そして、ひとつ大きく息を吐くと、掛け布団の上から葉桜の隣に横たわった。葉桜の枕を外して、自分の腕をその下に滑り込ませる手際はとても良い。慣れているのだろう。
「近藤さんの腕、冷たくて気持ちいい」
呑気なことを言っていたら頭を引き寄せられ、胸に押しつけられて、寝なさいと怒られた。近藤の心臓の音がどくどく聞こえて、その生きている音にとても安心して、葉桜はやっと穏やかな眠りについた。
(山崎視点)
数日後、葉桜ちゃんは勇ちゃん、総ちゃんとともに療養のために大坂へ下ることになっていた。
「こんな時期にみんなと離れるのは心配なんだがな」
「僕も、申し訳ない気分です。病気で迷惑をかけることよりも、この時期に大坂へ行くことが」
勇ちゃんと総ちゃんを元気づけるようなトシちゃんの言葉を聞きながら、葉桜ちゃんはまだまだ不満そうだ。実は大坂行きが決まってから毎日のようにもめていたのだ。大坂へ行きたくない、と。
「何を言うんだ。ここで気を抜かず療養してくれなければ、逆に士気が落ちる。二人とも、これも任務だと思ってゆっくりと療養してくれ」
それというのも、紙に新たな事柄が浮かんできたかららしい。
「いい加減に、観念しなさいよ。葉桜ちゃん」
一言言ってやると不満そうな顔を向け、噛みしめていた唇を弛めて抱きついてくる。
「いやぁっ。行きたくないよ、烝ちゃん~っ」
「葉桜ちゃん、今生の別れってワケじゃないんだから」
腕の中で小さく「違う、」と呟いたのが聞こえた。空耳、てわけじゃなさそうだ。つまり、それはこれから自分の生死に関わるようなことが起きるってコトだ。でなければ、ここまで大坂行きを拒む理由が見あたらない。
「明日になれば、剣も握れるし、明後日には隊務にも戻れます。だからお願い、土方さん~」
「駄目だ」
トシちゃんは振り返らない。おそらく、今の葉桜ちゃんを見たら、情に絆されてしまいそうだからだ。アタシだって、このまま手元で療養させたいぐらいに可愛いと思ってしまう。
「そうですよ、葉桜さん」
総ちゃんに肩を掴まれ、葉桜ちゃんがしがみついてくる。
「そんな身体で何が出来るっていうんです?」
ただ肩を掴まれただけでそんなに痛がっているのに、明日剣が握れるだとか無茶言うわ。
「…葉桜ちゃん…」
肩から総ちゃんの手を外し、痛みを堪える細い肩をそっと抱きしめる。
「元気になって戻ってくるの、待ってるから」
「…やだ…っ」
「…あんまりワガママ言って、困らせないでちょーだい」
泣いて縋りついてくる葉桜ちゃんの身体に腕を回し、誰にも聞こえないように囁く。
「葉桜ちゃんが戻ってくるまで、アタシは絶対に死なないから」
「っ!」
驚いて顔を上げた葉桜ちゃんと額を合わせて、瞳を閉じる。
「それでも心配なら、さっさと治して戻ってらっしゃい」
「烝…」
それから身体を離すと、もう葉桜ちゃんは観念して大人しくなった。不安そうな瞳は消えていないけれど。
「俺たちも急いで元気になるからさ。トシ、みんな、よろしく頼むぜ」
「それでは、また会いましょう」
勇ちゃんと総ちゃんの間で、葉桜ちゃんが目に涙を溜めて言う。
「みんな…行ってきます」
ホントはゆっくり療養するなんて気分じゃないと思う。なのに、三人とも無理に笑顔まで作って出て行って。
見えなくなるまで、アタシとトシちゃんはずっと見送っていた。本当は、あの子を遠くになんて行かせたくないのはアタシも一緒だ。でも、仕方ないじゃない。総ちゃんが襲われて、勇ちゃんが襲われて、守るために怪我までして。これから先、まだそんなことがあるかもしれないのに、葉桜ちゃんを置いておけるわけないじゃない。
「…三人とも、早く元気になって…」
「…そうだな」
隣にいたトシちゃんが踵を返し離れていくのを感じながら、アタシはいつまでもその場所から動けずにいた。
最初に出会ったときからまるで定められたみたいに意気投合して、アタシたちは親友になった。お互いのことは知らなくても、それでも一緒にいるだけで楽しくて。アタシのこの姿のことも手放しで褒めてくれるのは葉桜ちゃんぐらいだ。もともとは偶然会ったりという状態だったのが普通だったのに、葉桜ちゃんがここに来て、一緒にいる時間が長くなることで、より一層絆が深まった気がする。
だからだろう。怪我の療養のためとはいえ、こうして離ればなれになるのがすごく寂しくて、辛い。
空気にあの子のつけている香の匂いが残っている。アタシを取り巻くように、慰めるように、元気づけるように。いなくなっても案じてくれているのがわかって、少しだけ泣けてきた。
1-墨染
沖田を逃がす部分を書くか書かないか迷ったんですけど、
最近沖田の出番が少ないからなぁということで。
(2006/9/29 11:08:54)
2-墨染
すーっごい迷いました。
近藤さんの怪我を阻止するべきか否か。
(ヒロインが怪我するのは決まってました。自己犠牲の人なので)
駄目ですか?
ちゃんと阻止した方が良かったですか?
(2006/9/29 11:10:45)
3-墨染
ほら、GS2のあの人と声が一緒だから。
書いてて何だか被りました(オイ。
たぶん近藤さんは一緒に眠っちゃって、後で土方さんと山崎に怒られるんですよ!
そこまで書くと長すぎるので止めました。
さて、いつヒロインを戻すかなぁ(いや、かなり早く戻しますけどね。
(2006/9/29 11:14:05)
~次回までの経過コメント
井上
「大阪へ下った近藤さんや総司くんたちは大丈夫だろうか…」
「まさか近藤さんが撃たれるとは…」
「………」