耳元を通り過ぎる風と音が止むまで、私は動けなかった。さすがに、背筋を冷たいものが通り抜けた。
「な、こ、っ!?」
言葉にならない声を、誰かが通訳しようとする。
「なんて素敵な仕掛けなのかしら、なんて。お褒めに預かり恐悦至極に存じます」
そんなこと一言も言ってない。
通り過ぎたのが何なのかはわからない。ただ、あの音はなにか鋭く尖ったものが勢いをつけて横切ったように思うだけだ。この暗闇では、確認のしようがない。
「れ、零里!」
「はい、アルト様。何でしょうか?」
声をかけると、先ほどと同じ調子で答えてくるのは、ここまで私を連れてきた張本人だ。闇に溶け込み、姿は見えない。
「とりあえず、戻るわよ」
さっきのは真っ直ぐに私の首元を狙ってきた。あと一ミリでもずれていたら、私の喉は掻き切られていたに違いないのだ。そんな危険な場所を進めるほど、私は愚かでも無鉄砲でもない。
踵を返した私を笑うように、入り口の扉が重い音を立てて閉まった。なんて、定番なことを。
「これでは戻れませんね。ということは、先に進むしかないということですね」
わかりきったことをわざわざ口に出すのは、わざと私を怒らせようという魂胆なのだろうか。それなら、受けてたってやろうじゃないの。
「アルト様、参りましょうか?」
伸ばした腕の先でシャランと鈴の音が鳴り、存在を示す。私の伸ばすその手をとり、零里はエスコートをする。踏み出した足が隣に来るのを待って、彼もまた歩き出す。
「零里、私達は今日は遊園地に何しに来たのだったかしら?」
「視察と、伺っております」
「では何故こんな場所に閉じ込められているのかしら?」
彼は何も答えない。それはわかっているので、私が続けるしかない。
「考えられる可能性は二つね」
「と、申しますと?」
ごつごつとした岩場を先に立ち、私の手を引く零里は昔と少しも変わっていない。いつも私だけを見ていてくれる、零里。
「第一の可能性は、故障」
ここはまだ開園前の遊園地で、私は父の命令により、視察に来ていた。多少の不具合はあっても仕方ないとも思う。が、ここはもう数週間後には公開されるのだ。あってはならない事態ではある。
「第二の可能性は、何ですか?」
先を促され、言うのをためらう。無いことではないのだけど、彼にはどうも言い難い。
「商売敵の妨害、ってありそうじゃない?」
バランスを崩しかけた私をさっと抱きとめ、再び立たせてくれる。近づき過ぎないように、離れすぎないように気を遣ってくれるのはいいのだけれど。
「例えば、開発中の遊園地で人が死んだりすると、悪い評判も立つしね」
彼は何も答えずに先を進む。
「人の寄り付かない遊園地じゃ、利益どころか開発費さえも取れない。うちのグループでは微々たるものだけれど、確かに痛手も大きいわ。それを狙っているのかも」
零里の手が離れても驚かなかったのは、わかっていたからだ。信じていたけれど、信じたくなかった。
口に何かが当てられる。その前に、涙と一緒に言葉を残す。
「…貴方が何者であっても、私は信じてるわ。零里…」
そのまま、深遠へと意識は沈んでいった。
夢と現実の狭間に、私は降り立つ。何もいない、誰もいない。ただ闇だけがある。
深遠の淵には、零里だけが立っている。伸ばす手は、届かない。私たちの間には大きな谷があったからだ。飛び越せば届くかもしれないが、怖くて足が竦んでしまう。
待って…と言おうとすると、声が出ないことに気が付く。それとも、私の耳に届いていないだけなのだろうか。
(零里、待って!)
彼が振り返る。泣きそうな目で、私を見つめる。その口が動いて、何か言っている。
(何…? 私だけは、助ける…? どーゆーこと?)
考えている間に、彼の姿が闇の呑まれてゆく。足が、手が、身体が。髪の一筋さえも消えるのを、ただ見ているしかできなかった。
(零里ーーー!!!)
走っても谷は越えられなくて、どんどん離されてゆく。
闇の中なのに、彼女は光のようだった。昔から、私の光だった。その名のとおりの真白さで、常に私を導いてくれる。だから、最後の最後で私は彼女を裏切ることはできないんだ。
抱きかかえ、歩を進める。その後を付いてくる数が少しずつ増えてゆく。
「やったな、零里」
「長かったなぁ」
「これで叔父さんも浮かばれるだろうさ」
口々にかけられる声は騒音でしかなくて、彼女の静かな吐息だけに意識が集中する。
白い肌に真白いワンピースはよく映えていて、首元に細い金の鎖がかかっている。耳には新緑の宝石がおさまり、そこだけが赤く腫れている。先日、無理やり自分でつけたものだから悪化したのだろう。消毒も不十分だというのに、こっそりとピアスをつけた。その理由はわからない。昔から、よくわからない行動をするのだ。この少女は。
ただわかっているのは、全部誰かのためにしているということだけだ。自分のためにすることといったら勉強だけで、それも大して興味があるわけでもないので良くも悪くもない。誰かが絡んだときだけ、その力を発揮する。人助けが趣味なのではないかと思うぐらいに優しくて、危うい強さを秘めている気がする。
「この子、本当に殺すの?」
楽しそうに言われて、思わず睨み返していた。殺すなんて、誰がするものか。アルト様は、私の光だ。
「大事な人質だ。そう簡単に殺すわけないだろう?」
「そ、だよ、ね。でも、終わったら、殺す、でしょ?」
終わる? 終わりなど、ない。
自室とした鏡の迷宮には、誰も入ってこない。数箇所を折れて、置いておいたベッドに彼女を横たえる。ギシリと、ベッドが音を立てるが、彼女は目覚めない。常ならば、鉄拳のひとつでも飛んでくるところだ。
「すぐに、終わらせますから。それまでご辛抱ください。アルト様」
表情もなく眠っている彼女の額に、口づける。それは私の、この方の信頼だけは、絶対に裏切らないという約束の印。
伸ばした手の先に、彼はいつもいる。優しく微笑んで、私を待っている。
いつも手を差し伸べてくれたから、今度は私が手を引いてあげる。貴方を救う闇から、きっと助け出してみせるから。だから、待っていて。
【遊園地】遊覧・娯楽のために諸種の乗り物や設備を設けた施設。
(三省堂提供『大辞林 第二版』より)
続く…? 完結じゃない…? まぁいいか<よくない。