古い家には、旧いものが付く。その家はずいぶん昔に建てられ、そして使われなくなった年も建築年と同じだと聞く。
「幽霊屋敷って、いわれているらしいのよ」
「それはそれは…」
「面白そうでしょ?」
私の仕える方はそう言って、いつものように穏やかな顔で微笑んだ。
お気に入りの真白いワンピースに、つばの広い真っ白な帽子、そこから柔らかな樹色の髪がのぞき、ふわりと揺れる。ワンピースからのぞく、肌は陽に透き通って光を放つ。
彼女は屋敷に向き直ると、今度はさらに軽い足取りで歩き出す。少し進んで、私が付いてこないことに気が付くと、立ち止まる。
「零里ー! 早く来なさいよっ」
「…はいはい」
小さな主人、アルト様の荷物を持って、歩き出す。ここに来たのは私と彼女の二人だけだからだ。事前に長年管理をしてくれている人もいたが、鍵だけ預けてさっさと自宅へ戻ってしまった。あれではまるで何かあるとでも言っているようなものではないか。おかげで、奇特な姫君は屋敷に滞在することを決定してしまった。
「作られたのは一九五七年。当時にしては珍しくない西洋風の建物ですが、作ったのは分家の方々です。別荘として建てられたのですが、翌年からはまったく使用されておりません。作られた方々は滞在中にここで一家心中を遂げております」
「ふーん」
聞いているのかいないのか、アルト様は楽しそうに相槌を打っている。
「調べていくと、こちらはさらに旧家のお屋敷があったそうで、それを取り壊して建築されています。その旧家というのは…」
「あ、誰かいるっ!」
主人が指した指の先はまっすぐに屋敷に向かっている。誰も住んでいるはずのない屋敷に人影があるはずがない。
「誰もいないって、ちゃんといるじゃない。おーい!」
鍵を開けて、屋敷に入ってゆく主人を追いかける。
「アルト様ーっ」
廊下のずっと奥から声がする。声を追いかけて、二階、三階と登り、声は奥の部屋から聞こえる。誰かと、話している声だ。
「アルト様!」
大きく開け放ったドアの向こうには、窓辺に向かっている少女と、空に透ける少年がいた。窓を向いていた少女が振り返る。
「彼は私の執事で、零里というの。かっこいいでしょ?」
少女がそう言うと、窓辺の少年はむっとした顔をして、口を尖らせる。
「僕のほうがかっこいいだろ?」
「いいえ、零里の方がカッコいいわ」
そんなことを言われても、どうしたらいいのかわからなくて、私は立ち尽くしてしまう。そんな僕を敵意を持って見つめ、走ってくると挑戦的に笑う。
「じゃあ、アルトの目がおかしいんだよ。絶対、僕のがカッコいいし、アルトと僕ならベストカップルになれると思うよ」
「そーね。百年たっても同じことを言えたら、考えてあげる」
古い洋館と少年の幽霊、そして、アルトという光は、奇妙な錯覚を与える。
古風というほどには古くなく、新しいというほどではない。いうなれば、
「レトロ」
涼やかな声が思考を遮った。
「よね。ここ」
「怖い?」
不安そうな少年に、少女は可憐に微笑んだ。
「いいえ、理想的」
少女がいうところの理想的という意味は、つまり、ここに住むことを決定したということである。
屋敷には幽霊がいた。空に透ける身体、届かない熱量、そして何より。騒々しい冷気。
「こんなに賑やかな夜は久しぶりね、零里」
どたどたと子供の駆け回る音を聞いたと思えば、どこからかピアノの音が聞こえてきて、キリキリと螺子を巻く音や、料理をする音まで聞こえてくる。それを、目の前の男はため息を持って、聞いていた。
「笑い事じゃありませんよ。きちんと休まれないと、お身体に障ります」
大して丈夫ではない体を気遣ってくれる零里には悪いけれど、部屋を一歩でたら未知の空間が広がっているだろうという興奮と好奇心は抑えられそうにない。
「ちょっとだけ、ね?」
「いけません」
「どうせ寝られやしないんだから、アルト、僕らと紅茶でもどうだい?」
零里の後ろに、ふっと彼が現れる。名前は知らない。この屋敷に住んでいる幽霊だ。
「いいわね、それ」
「アルト様!」
目の前が風のように過ぎてゆく。身体が軽くなって、羽が生えているみたいだ。慌てた様子でガウンを抱えて走ってくるのは、優秀な私の執事だ。でも、彼が追いつく前に、きっと辿り着いてしまう。
バタンと音がして、食堂の扉が開いた。そこでは、食器が踊っている。
「アルト様、これを」
「ありがとう」
彼はそれに動揺することなく、私にガウンを着せる。肌寒かった体がほのかに温まる。彼の温もりではないけれど、彼の優しさでもあるのだと思う。
言葉にしなければ伝わらないこともあるけれど、言葉にしなくても雄弁に、彼は行動で語ってくれる。よく考えれば、私を大切に思ってくれているのが伝わってくる。以心伝心とはちがうけれど、とても優しい想いを受けて、私は温かくなれる。
「ご挨拶は必要かしら?」
「そうですね」
「あ、必要ないよ。僕がちゃんと言っておいたから」
目の前に少年の幽霊が回りこんでくる。
「なんて?」
「可愛くて綺麗なお嬢さんと、いけすかない執事が来たって」
「まぁ。まだ、怒ってるの?」
「怒ってなんかいないよ! ただ、あんまりアルトが誉めるからさ…」
すねて顔を背ける彼の頭の辺りに手を伸ばす。感触はないけれど、頭を撫でてみたくなった。
「なにしてんの?」
「君は可愛いね」
露骨に嫌な顔をして、彼は先に奥へと行ってしまう。
「怒ったの?」
「怒るに決まってるじゃないかっ。どこの世界に可愛いって言われて喜ぶ男がいると思ってんの?」
その後をゆっくりと追いかける。彼以外の気配は見つからないのだけれど、空の洋服が紅茶のカップを傾けていて、しかもこぼれていないところを見ると、いるのだろう。
わずかに零里が構えているのに気が付く。そういえば、少年は実体を持っていないが、この洋服のほうは実体があるから、紅茶を飲めるわけだ。
「アキラ、あんまり怒ってると食事に逃げられるぞ?」
加えてそんなことを楽しげに言い出すものだから、即座に零里が私をかばって立つ。
「食事じゃねぇよ。お客様だ」
「こんなに可愛くても、好みじゃないのか」
「好みとかいう問題じゃないって、分かっていってんだろうな?」
零里の大きな背中から、顔をのぞかせ、彼らを盗み見る。
「食事って?」
風が吹いて、カーテンが翻る。部屋に月の光が差し込んでくる。月の光に照らされている彼らには、やはり影がない。影はないが、少年の透けていた身体の向こうが見えなくなる。会話の端々を強調するように、少年の口元に、牙が見え隠れし始める。
「…アルト様」
「大丈夫よ、零里」
彼に言って、私は彼らとまっすぐに向き合う。
「貴方たち、幽霊じゃないの?」
緊張しながらも、どこかで大丈夫だと安心できていたのは、きっとそばに零里がいるからだ。
二人は、顔を見合わせてから私を見て、にっと笑った。そこには確かに鋭利な牙と呼べるものがある。
「一言もそんなこと言ってないよ。こいつは透明人間で、僕は吸血鬼さ」
そういって一気に距離を詰めて、つかみかかってくる。それをどこか遠くで見ている私がいる。現実のようだけれど、夜だからかわからないが、現実味がない。夢をみているようだ。
「…怖くないのか?」
「怖いわよ」
「強がるなよ」
どうしたものか、本当に怖くない。零里も一瞬警戒を見せたものの、今は何もいわない。私の首元に牙が迫っていても、言わない。とても冷たい目を見た気がして、少しだけ哀しくなった。
「強がっているように見えて?」
一時の静寂の後、彼は笑いながら私から離れた。張り詰めていた空気も柔らかくなる。
「お茶会にしようか。僕らの今後のことを話し合いながらさ」
零里が引いてくれた椅子に座り、彼らと向かい合う。目の前にはカップが踊りながらよってきて、紅茶を注いでくれる。ありがとうと言って、カップを手にとる。程よい甘さが香ってくる。
聞いていたよりもずっと暖かい夜。吸血鬼と透明人間と、
「零里、貴方も席につきなさい」
「はい、アルト様」
そして零里との穏やかなお茶会。
こんな日が来ることを、本当は知っていたのかもしれないし、やっぱり知らなかったのかもしれない。でも、この出会いはきっと必然だった。偶然なんて、世界にそう多くはないのだから。