夏も終りに近づいた庭の木々は、ゆっくりと冬の準備を始めていた。はらりと、まだ青い葉が一枚落ちる。
パタパタと廊下を走ってくる音がする。今日は随分と遠くから聞こえる。
「はーさん、はーさん」
と、いつものように彼女が呼ぶ。
「お風呂の準備が」
「できましたよ」
二重音声。分裂でもしたのかと、声のほうに目をやりかけて、そのまま座椅子から落ちそうになった。
「な、なにをしてんですか」
「お風呂の準備」
最近頻繁に訪れるようになった患者がいる。細身で糸目の男で、名を。
「えーっと」
「宇津木です」
そうそう。宇津木という男。世話好きなんだか知らないが、家に来るたびに家事をしていくという妙な人物だ。これがまた、割烹着が妙に似合うんだ。
「うっちゃんは、とーっても役にたつよ」
彼女がいうのだから、たしかに役に立っているのだろう。ともかく。
「そこに直りなさい。宇津木」
「はいはい、なんでしょう?」
私の前に正座をする男は、とても優しい風貌をしている。優しいからこそ、ここに来たのかもしれないが。
「患者が、家のことに手をだすんじゃありません」
「ですが、この家はあの子一人で掃除するには広すぎますし」
ひとり、ねぇ。どうやら、彼も彼女の正体には気がつかないらしい。それはそれで、一向に構わない。
「だからといって、どうして患者がうちのことに手を出すの」
「そうはいわれましても、私は健康体ですし」
肉体的に傷ついていうものが、ここに来るはずはない。だから、彼は
「はーさん、お湯冷めちゃうよ」
「あ、そうですよ。せっかく丁度よい温度にしたんですから」
「うんうん。はーさんの丁度いい温度って難しいからねぇ」
「珍しいですよね。37.5なんて、微妙な温度を好む方って」
「ぜーったい、それじゃなきゃイヤっていうから、いっつも大変でー」
余計なことを話している彼らを放っておいて、風呂に向かう。宇津木という男と話すのはそれからでもいいだろう。
「宇津木にお茶出して。何か話してて」
「はぁい」
彼女の穏やかな声を聞きながら、夕風呂へと向かった。
朱色の絵画に真っ黒な墨でも零したような空だ。つい、長湯してしまった。
居間では、和気藹々と楽しそうに宇津木と彼女が話をしていた。
「あ、はーさん」
「お茶淹れましょうか」
寛いでるし、なじんでるし。なにかムカついたので、そのまま足が出た。
「行儀悪いですよ、はーさん」
「は、ざ、く、ら、さんっ!」
まったくもって、病人らしからぬ男を本気で追い出してやろうかという考えがよぎった。でも、仕事なのだから、仕方がない。
「さて、はじめましょうか」
「はじめる?」
「もっともあなたの場合は、人を気遣いすぎて、本当の自分を忘れてしまったこところにあるようだけど。こんな元気で陽気な患者は久しぶりよ」
「あはは。ありがとうございます」
誉めてない。
「で、何に疲れたって?」
座椅子に座って、煙草を取り出し、火をつける。吸おうとしたところを取り上げられる。
「こういうものは、身体によくないですよ」
丁度部屋に入ってきた彼女がそれをとりあげ、奥にしまいに行ってしまった。なんて連係プレーだ。別になくても困るわけではないから、それほど気にはならないが。一応あとで、探しておこう。
彼女が行ってからも男は黙ったままだった。そのまま度くらい時間が過ぎたか。庭の獅子嚇しが澄んだ音色を響かせるのを、どこか遠い出来事のように聞いていた。
「葉桜さんは、いつからこの仕事を?」
「いつ、だったかな。覚えていないわ」
気がついたときにはここの主で、訪れる患者を待つだけの日々が始まっていた。それが、厭になることもない。ここでは、彼女という話し相手もいるし、患者も時によっては頻繁に訪れる。
「覚えていないんですか。私も、いつから、どうして、ここに来ているのか覚えていないんですよ」
患者は、たいてい無意識に玄関の前まで来ているから、それは別に不思議でもなんでもなかった。私にとっては。
「葉桜さんの声は、とても落ち着きますね」
ふいに、男はそんなことを言い出した。彼は庭のほうを見ているので、何を考えているのか私にはわからない。だが、その横顔がとても安らいでいることはわかる。安心しているのだ。このどこでも分からない場所にいるといことを。誰かに見つかることもない場所だと。
「何に、怯えているの」
「怯えてなど」
「じゃあ、怖れているの。誰かを信じ、自分を信じられる誰かが現れることを」
彼の身体がわずかに身じろぎする。
「信じることで裏切られでもした?」
ぎぎぎと錆びた音でもなりそうな風に、彼が顔を向けた。張り付いた偽物の笑顔だ。つまりは、肯定ということだ。
「信じるということは、常にリスクを負う。だけど、見るべきはその過程。でしょう?」
「そのとおりです。私も、そう思っていました」
「信じられなくなった?」
「いいえ」
うそだ。その笑顔が何よりもそういっている。
「信じることに疲れたんじゃないの?」
応えは、返ってこない。つまり、そうなのだと。思っているということだ。
「裏切りが本当に裏切りなのか。確かめてみたことは?」
「そんな方法があるでしょうか。私は、彼女のことを何一つ知らなかったのに」
「姿も、性格も?」
「姿は知っています。ですが、彼女の心を信じることに、」
それ以上続けられなくなって、彼はまた庭を見た。雀が遊びに来ている。いつもは五、六羽で来るのだが、今日は一羽だけらしい。
ちちち、と呼ぶと、私の手に止まった。
「飼っていらっしゃるんですか?」
「いいえ、野良よ。喧嘩でもしたの?」
雀は掌の上で、男と同じように首をかしげた。
「喧嘩など」
ばさばさと他の雀が降りてくる。掌の上にいた雀も飛び立ち、普段どおり彼らと一緒になった。
「喧嘩など、したことはありません。彼女は私にいつも何も言いませんから」
いつのまにか、恋愛相談になっている。そういうのは、専門分野じゃないんだがな。
「お茶」
「え?」
「いや、なくなったなと思って。そういえば、お茶菓子も出してなかったか。煎餅でも食べるか?」
彼の返答を聞かずに立ち、棚から缶を取り出す。開けてみると、今日はクッキーしか入っていない。
「クッキーでもいい?」
「いえ、お構いなくーー」
テーブルにクッキーを置いてから、また座椅子に座る。
「彼女が作ったクッキーは、特別甘いから。覚悟して食べたほうがいいわよ」
そういって、自分でも手を伸ばして口に放り込む。甘いと思って口に入れたのに、今日のはジンジャークッキーだった。
「甘く、ないですね」
「たまに、あるのよ。でも、これも旨いからいいんだけど。なんというか」
「裏切られた?」
「そう。そんな感じ」
くすりと、彼が笑った。硬い笑顔がやっと解けた。
「以前は、ちゃんと何の菓子を用意しておくか、ちゃんと言って置いたりしたの。でも、一度としてそのとおりにしてくれた例がなくてね。諦めて、好きなようにさせているわ。幸いお客様の評判も良いから」
もしかすると、今日のお客は甘いものが苦手なのかと思い当たったが、思い違いかもしれないので黙っておく。
「彼女もね、頑張ってくれていたんです。でも、私は彼女の失敗を許せなかった。何度も同じ失敗を繰り返す彼女を、許すことが出来なかったんです」
お茶でジンジャークッキーを飲み下す。
「私には理解できなかった。どうして彼女が同じ過ちを繰り返すのか。なぜそんなにすぐに忘れてしまうのか。そうして、いつか彼女を信じられなくなってしまったんです」
「葉桜さん、どうして人は過ちを繰り返すのでしょう。彼女のように何度も同じ過ちを繰り返す人は多いのですか。彼女を許せない私が間違っているのですか。繰り返し続ける彼女が間違っているのですか」
「もう私自身にはなにが本当なのかわからないのです」
彼には彼女を理解できなかった。感じ方の違いが、彼らをばらばらにした。もともと間にあったものがなんなのか、私は知らない。だけれど、きっと理解しようとすることは無理だったのだ。
人と人は別々の生き物で、考え方も感じ方も違う。それを理解しようとするのはたとえ言葉にしたとしても難しい。
かける言葉を私は持たない。ジンジャークッキーを砕いて欠片にし、庭に放ると数羽の小鳥が降りてきた。
「聞いてますか?」
不安そうな声を振り返らずに、口を開く。
「なぜ理解しようとするの? だって、他人でしょう?」
「え、だって、彼女は」
「どんなに好きでも、別々の人間よ。考え方、感じ方全てを理解するなんて、親であっても無理な話だわ」
「理解しようとしなくて良い。ただ、彼女と話をするだけでいい。行って来なさい」
「でも」
「全てを聞いて、受けいれるだけでいい。それだけで」
彼女は救われる。おそらく、誰よりも傷ついているんだ。彼女も。お互いにお互いの傷に気がつかず、ずっと来てしまったんだ。どこかで、彼女が話していれば、彼が受け入れていれば、何か少しは変わったかもしれない。もちろん、変わらないかもしれない。
静かになった部屋の中で、彼女が夕食を運んできた。
「帰ったんだ」
「ん。なんか恋愛相談だったみたい」
「みたいって…またいい加減に返したんじゃないでしょうね。はーさん」
「いい加減なんて。私はいつでも本気よ?」
「うそくさー」
両手を合わせて、箸をとってから、私はもう一度言った。
「お風呂沸かしておいて」
「また入るの?」
「いーじゃん、何回入ったって」
「別にかまわないけど、そのうち溶けるよ?」
「あははっ、溶けるわけないじゃんっ」
星の瞬く夜空を見上げる。今夜の空は、落ちてきそうな月を掲げ、ちかちかと星が歌う夜空だ。
彼は今頃彼女にあったのだろうか。願わくば、穏やかな関係に戻ってくれることを、この夜空に願おう。私に今出来るのは、これだけだから。