拾いものは彼女の一種の癖なのかもしれない。玄関ホールにずぶ濡れで立っている彼女を見て、正直呆れた。そんな私や周囲の心配を他所に、彼女は腕の中のものに小さく語りかけている。かすかに聞こえるささやきは今までも何度となく耳にしてきた言葉たちだ。曰く、もう大丈夫だ、と。
侍従長が常になく慌ただしげに自分の脇を駆け抜け、彼女にバスタオルを巻き付ける。
「早くお風呂に入って、暖まりましょう」
侍従長の言葉の後で、伺うように彼女はこちらを見上げている。どうやら、自分が何か言うのを待っているらしい。
「先に、着替えてください。話はその後です」
「うん」
満面の笑顔で出て行った後、一人玄関ホールに残された私は片手を額にやって、大きくため息をついた。
不安そうに揺れる大きな瞳、冷えて白くなった体に、常より赤い頬や唇。髪から滴る水滴がきらきらと光、彼女を彩る。私の主人は、ただの十五にも満たない少女なのだと思い知らされる。服から透けた白い下着を思い出し、体が熱を持つ。
(いやいや、俺はロリコンじゃない)
彼女は恩人、そして雇い主だ。それ以上でもそれ以下でもなく、自分たちの関係が変化することはない。
「あの、零里さん…?」
「執務室でお待ちしていると、アルト様に伝えてください」
通りがかった使用人に言い置いて、書類を取りに戻る。早足に歩いて、静かに自室に入り、ドアを閉める。
(パタン)
ドアの閉まる音がやけに響くと思いながら、そのまま深く息をついた。
正直、彼女が戻ったときに心配よりもその姿に心を奪われた。普段見慣れた卒のない主の姿は影を潜め、ただの十五の少女に見えた。たったそれだけのことなのに、ひどく動揺している自分を押し隠すのに必死だった。
ドアを控えめにノックする音で、自分を取り戻し、声をかける。
「はい」
大丈夫。うわずっていない。
「あたしよ。開けて、零里」
風呂に入ってきたにしては早すぎる時間だ。それに、ここは彼女のくるような場所でもない。
「早くして!」
鋭い声に思わずドアを開けていた。彼女の強い意志は、一種の魔法のような効果があるのかもしれない。
開けると同時に転がり込んできた彼女は、即座にドアの反対側に移動した。続いて、複数の足音が近づいてくる。彼女を見ると、まだ濡れたままだ。どうやら、使用人たちを振り切ってきたらしい。すまなそうな顔で唇に人差し指をたてて、黙っていてくれと言う。
しょうのない人だ。
「零里さん、お嬢様を見ませんでしたか?」
一度部屋を出て、侍従長に説明をする。「少しだけ時間をください」という説得に、彼女はタオルを差し出した。
部屋に戻り、扉を閉める。くしゅんっ、と可愛らしいクシャミが聞こえた。
「ありがとーレイリ」
「どうなさったんですか?」
彼女をタオルで巻き、自分の上着をかけて反対の部屋の奥にあるベッドに座らせる。彼女は口をとがらせて、言う。
「だって、この子と一緒じゃだめって言うんだもの」
腕の中にいるそれを見せる。それはまだ産まれたばかりのような鳥、だった。鳥、なのだろうか。心なしか、ダチョウに似ている気がするのは気のせいか。
「ちー」
「これ、なんです?」
「可愛いでしょ」
無邪気に微笑む顔を正面から見てしまい、慌てて目を背けた。なんて顔で笑うんだ、この人は。それに、無防備にもほどがある。
部下の内心を知らない彼女は、楽しそうに子ダチョウに話しかけている。
「ちーは私のこと好きー?」
「ちー」
「一緒にお風呂入ろうねー」
「ちー」
バタバタと煩いし、羽は飛び散るし。
まぁ、それでも。彼女が笑っているならそれでいいと思った。
見ようによっては、同じ状況と言えなくもない。ただし、今度は濡れているのは俺の方で、彼女は楽しそうに俺をシーツでくるんで抱きしめている。
「アルト」
「寒い?寒い?」
「いいえ」
とても楽しそうなのは何故だろう。濡れたまま戻ってきてしまった俺を見て、彼女は迷うことなくシーツをとって俺をくるみ、ベッドに座らせる。
「なんだ、つまんないの」
いったい何を言っているのだろう。
「寒かったら、一緒に寝ようと思ったのに」
「なっ…!?」
何を言い出すんだ、この人は。
「うん、まぁ、いいか。寒くなくても」
「は?」
「敬語もなしよ。今は」
「あ、あぁ」
よしよしと満足げに頷き、次にとった行動に本気で慌てた。俺をベッドに引き倒したのだ。柔らかな彼女の体に自分が重なる。彼女の暖かな体温が冷たい体に熱を移す。
「あ、アルト様!」
「敬語はなし」
彼女の淡い移り香が思考に絡みつく。爽やかな、初夏の香り。初夏の晴天の日の緑の香りだ。彼女が一番好きな場所の香りだ。
自らの小さな胸に抱き寄せて、よしよしと頭を撫でる。無意識にこんなことをしているのか、それとも故意に行っているのか。判断に苦しむ。
「あったかい?」
「ええまぁ」
とまどいがそのまま言葉の端に表れる。それを察していないのか、彼女はゆっくりと頭を撫でている。今にも歌を歌い出しそうなぐらい、機嫌がいい。本当に、いったいどうしたというのだろう。
風も吹かない鏡の迷宮の中で、ふたり静かに寄り添うと、彼女の暖かさがよりよくわかる。それが自分にふさわしくないのだということも。とまどいながらも、彼女の手の心地よさに負けて、振り払うこともできない。このままではいけないというのに、頭でわかっていても、動こうという気が起きない。だからといって、彼女をこれ以上どうこうする気はない。
彼女の光は強すぎて、闇に棲む自分にはとても強すぎる。強すぎる光に近づきすぎるのは、かえって毒となるだろう。光は光に、闇は闇に棲むべきなのだ。それはきっと世界の始まりから決まっていることなのだ。
「アルト」
でも、まぁ。
「なぁに?」
常のままの柔らかな彼女の声は、疲れた体に染みこんで、暖かく包み込む。だから、今は少しだけ、このままでも。
腕の中で聞こえる寝息に、小さく微笑む。迷い疲れた、ただの少年のような彼を見るのはいつ以来だろう。
いつまでもこうしていられたらいいのに、と叶いようもない願いを願う。願いは途方もなくて、誰も叶えてくれない。わかっているから、せめて私ができることをしてあげる。みんなが幸せにはなれないかもしれない。でも、みんなが少しだけ幸せになれるように。
迷子をお家に帰すため、私は彼のポケットから電話をとった。