眠っていると、いつもより騒がしいパタパタが聞こえる。無論、彼女が走り回っている音だ。
今日は大掃除をするといって、朝から彼女は走り回っている。当然、私にやる気などあるわけがない。いつもの場所で座椅子に座ってうたた寝している私は、そのうち邪魔にされることだろう。
その前に涼しい玄関にでも行きますか。
「はーさんっ」
「あーはいはい。わかってまーす」
言われる前に動く。こっちのほうがやっぱりいいわよね。あの子の機嫌も。
玄関に素足を降ろすと、石畳がひんやりと冷たさを伝えてきてくれる。玄関は日陰でもあるので、縁側にいるよりも涼しいし、風通しはいいし、思わず眠くなってしまう。
でも、ここはお客様が唯一通る場所だから、長居はできない。
(ま、たまには)
両目を閉じて、視覚以外の感覚で感じる夏を楽しむ。蝉の声に交じって聞こえるのは、葉擦れの囁き、風の音。真夏の陽光に照らされた木々が放つ、緑の芳香が匂いたつ。肌をやわかく風が撫でていくのも、空間のすべてが眠りを誘う。
ちりーん。
呼び鈴代りのベルの音までもが、誘いの音に聞こえる。
「葉桜、こんなところで」
揺さぶる手の熱さと、聞き慣れた声音で目を覚ました。
目の前には浴衣に羽織り姿の男が立って、心配そうに私を見ている。風貌はどこか凡庸としているのに、眼光の奥が鋭く見つめている。
「あ、せんせぇ」
「俺を出迎えてくれるつもりで?」
髪を櫛とおらせる大きな手が一房を掴み、口づける。気障ったらしい動作に我に返る。
「んなわけないでしょ」
彼をじろりと睨みつけると手を離し、勝手に隣に座り込んだ。聞かれた所でこちらの答えも決まっているし、彼もやはり同じように座るのだから何が変わるというわけでもないのだけれど、それでも一言聞いてみるぐらいはしてほしいものである。
「今日はどんな用事で?」
いかにも面倒そうに訊ねると、意外だと表情で返してきた。失礼な。
「用事がなくちゃきちゃいけないのかい?」
まったく、極端な人だ。
「別に、いいですけどね」
彼女の手を借りて立ち上がる。彼の後ろを通り抜け、居間へと向かう。彼が立ち上がるような気配はないので、立ち止まって振り返った。
どきり、とした。彼はとても穏やかな目で私を見つめていたから。包み込むほどに、甘い瞳をしていたから。
「なにしてんですか、せんせ」
動揺を押し隠して、ぶっきらぼうに声をかけ、早足で戻る。彼の笑い声が背中を押していた。
居間の座椅子に座って、いくらも経たないうちに彼もやってくる。そして、普段は客が座る場所に座って、またにっこりとほほえんだ。
「気色悪い…」
ますます笑顔になったので、彼を見るのをやめて庭に視線を移す。いつも通りの夏の庭が、私を出迎える。
と、突然首を無理矢理に向かせられた。
「いたっ、な、急に何ですか」
彼は至って真面目に言う。
「変わらないねぇ」
「はぁ?」
脈絡もなく、そんなことを言われても困る。首も痛い。
「なんでもいいですから、離してください」
無理矢理に向けさせられた至近距離には彼の顔があって、みたことのないような優しい目をしている。よく見ると長い睫毛はかすかに震えていた。優しくみえるのに、どこか怯えている風である。
失礼な。なぜに、何に、何故に、どうして、私になんて、そんな価値もないのに。
「ねぇ、葉桜」
「先に手を離してください」
私の言葉を無視して、彼は続ける。
「ここにいたいかい?」
意味が、わからない。ここにいたいかって、ここって、この家よね。敢えて、居たいかどうかを口にする必要があるのか。
「だったら、なんだっていうんですか」
強い口調で返すと、ようやく顔を解放された。首が痛い。捕まれていた顎が痛い。
「別に。それならそれでいいんだ」
わけがわからない。いつもと違いすぎて調子が狂う。普段だったら、もっとデタラメな人で、ふざけてばっかりなのに、こうして本当に先生みたいな反応をされるのは困る。
どうして、私が困らなきゃならないのよ。
「あのね、私は誰かに了解を得ないとここにいられないわけ?」
彼は何も答えず、いつもの意地悪な笑みを浮かべる。なにがそうさせたのか、何に安堵したのかわからないけれど、これだけはわかる。彼は、安心、したんだ。
「いつまでだっているわよ。ここが私の居場所だもの」
貴方のために居る訳じゃない。私のために居るわけでもない。他の誰かのために居る訳じゃない。
ここが私の居場所だからいるだけだ。当たり前のことだ。
「センセの用事はそれでおしまい?」
話を聞くこと。それは私の日常で、答えはその次いでだ。
「いいや、もうひとつ」
そういって、彼は私の正面に回って。ーー押し倒した。
「葉桜を口説きに」
「馬鹿!」
鳩尾を思いっきり蹴り上げると、蹌踉けながら退いてくれた。まったく。いつもどおりに戻ってよかった。
戻ってきた彼女は赤い目で、微笑んでいた。
*
夏の匂いのする庭を前に縁側に座ったまま、ぼんやりと眺めていた。そこのある庭と言わず、通り抜ける犬や猫に限らず、空を飛ぶ鳥に限らず。ただ、世界がすべてそこに止められたような庭だ。
汗が落ちる。耳の後ろを通り抜け、背中を通ろうとして、服に吸い込まれる。汗を吸い込んだ服は、私の背中にしがみつく。
「はーさん、はーさんっ」
パタパタと、小さな足音がかけてくる。それを振り向かなくても、誰なのかわかる。
変わらない日常が戻ってくる。
なんか、タイトル通りに「それでおしまい?」とか訊かれそうで恐ろしい話になったような。
これで、また「冷たい手」にループしていく感じです。
葉桜さんいなくなっちゃうと、このシリーズ書けなくなるのが寂しいので、こんな終わりになりました。
つか、シリーズで書くなら「モノカキさんに30のお題」から抜け出さないとね。うん。
(2005.10.11)