両腕を頭の後ろに、体は自分より少し大きいぐらいの木の幹に預けて、私は目を閉じる。幹の反対側からは原田の遠慮ない鼾が聞こえてくる。普段なら煩いと思う其れが心地よいと思うあたり、私も少し参っているのかもしれない。耳を澄ませば私にも隊士たちの屯所へ帰れる喜びの声が聞こえ、息を吸い込めば泥や埃とともに濃厚な緑の気配と、疲れ切った男たちの汗の臭いが鼻につき、目を開ければ。
「……何をしている、梅さん」
目の前の男に言い様、私が足を高く蹴り上げると、才谷は軽く吹っ飛ばされそうになりつつも私の足を押さえる。才谷も段々と私の行動に慣れてきたらしい。
「何をするがなが。わしはただ再会の挨拶をしようとしちゅうばあやか」
「挨拶で顔を近づける必要がどこにあるのか、二十字以上四十字以内で答えなさい」
私がとっとと離せといったら、才谷はいきなり抱きしめてきた。
「こがなげに出会うらぁて、わしらは運命で結ばれちゅうで」
「馬鹿言ってると、蹴り殺すよ」
「異国じゃーこうして抱き合って挨拶するそうやか」
私は、またかと言った感じで歎息し、才谷に同じく両腕を伸ばして抱き返してやる。
「こう?」
「そうやか。ほき両頬に、きす、するがやか」
自分の耳に妙な感触を感じ、私はぞわざわと全身が総毛立った。その原因はわかってる。才谷が私の首筋に口を這わせたからだ。私は遠慮もなく、才谷の着物をつかんで引きはがそうとしたが、強い力で逃げられない。しまった、油断していたが、才谷という男はそういう男だった。
「そこは頬じゃない! それにここは日本っ。今すぐ離せっ!」
「ん~、葉桜さんはしょうえいかざがするがで」
「梅さんっ」
私が拳を下から突き上げようとするのと、私たち以外の殺気があたりに充満したのはほぼ同時だった。ゆっくりと私から離れた才谷が残念そうに呟く。
「ただの挨拶に、ほがーに怒らのうてもいいがやないがでか」
「そうですか? 僕には葉桜さんが厭がっているように見えたんですけど」
新選組から、とりわけ私は近藤や土方から見えない位置で座っていたのもあるが、今沖田がいるのは幹の反対側だから見ることはできない。ただ沖田と顔を合わせているであろう才谷は真剣そのものの眼をしながら、笑っている。
「沖田ー、この人に怒っても疲れるだけだよ」
自分の両肩にかかったままの両手をぐぐぐっと持ち上げて才谷をどけ、立ち上がった私は袴の埃を払う。その間に沖田がすぐそばまで近づいてくる。殺気は押さえられているけれど、それでも微量に溢れているそれに私は小さく歎息した。
私が沖田に手を差し出すと強く引かれるのを、足を強く踏みしめて耐える。そういつもいつも倒れてたまるか。
「何か私に用が?」
双方へ問いかける私の肩を才谷が掴み、私を体ごと引き寄せようとする。
「用がないがやったら、はよぅいなくなっとおせ。わしはこれから葉桜さんに大事な話があるがでから」
「貴方こそ、早くいなくなったほうがいいんじゃありませんか?」
沖田に掴まれたままの腕が痛いし、才谷に掴まれた肩も痛いし、正直休みたい私としては二人ともどこかに行ってほしい。
「二人とも」
しかし、二人ともが激論中で、私の言葉などまったく聞いちゃいない。話しているうちにわずかに弛んでいる二人の手を抜け出し、私は喧噪に背を向けて、別の木陰に移動する。
今日も青空澄み渡る気持ちのよい天気で、時折吹いてくる風に背中で揺れる髪が跳ねているのがよくわかる。通り過ぎ様、何人かが私に声をかけようと手を伸ばし、空気を掴む手を握りしめ、諦めるのに気づきながら、私は狸寝入りを決め込む。
新選組にいる私は異端だ。ここにいる誰よりも信念の基盤が脆く、進むべき道も定まらない。伝えられる歴史を踏襲するように道を行き、このまますべてをままに行わせてしまうのか。揺らぎ続ける心を支える体は未だ弱く、誰一人として救えない。
誰にも見えない木陰で、私は一人、膝を抱えて蹲る。今はとにかく一人でいたい。大概そんなことを考えているときに限って、邪魔が入るものだ。
ずしりとくる重量感に、かすかな怒りがこみ上げてくる。でも、殴ったぐらいで才谷がどけるわけがない。
「話ってなんだよ、梅さん?」
今ならきいてやるぞ、と私が才谷に笑いかけると大人しくどいてくれる。
「そう邪険にしのうてもいいがやないがでか。わしはただ葉桜さんと世間話がしたかったばあやか」
才谷からは寂しそうな笑顔を返され、私は仕方なく隣を示してやる。隣に座った才谷に立てた膝の上に乗せた顔だけ向けると、木漏れ日の下で揺れた葉が差し込み、私はわずかに目を細めた。そっと私の髪に触れる才谷の手がゆっくりと撫で下ろされる。気持ちのよい感触に、私の目蓋まで重くなってくる。
「もしも」
才谷の隣は居心地が良すぎて。
「もしも守るべきものと守りたいものをどちらかひとつしか選べなかったら、梅さんならどうする?」
つい、口が滑った。人に聞くことでもないだろうに、私は何を口走っているのか。言ってしまった後で、私は激しく後悔する。立てた膝に顔を埋めて、私は片手を振って才谷の答えを止めさせる。
「悪い、変なこと聞いた。忘れて」
どうしたってこれは自分で答えを出さなきゃいけない問題なのに、私は何を聞いているんだか。それに以前の私なら絶対に迷わなかった問題だ。どうしたって、両方なんとかしてやると息巻いていたのに、私は何を弱気になっているんだろう。ここ最近、あの紙に振り回されすぎているってことが如実にわかる。
「葉桜さんはじってやか。めっそう思い詰めないでおせ」
才谷の手は温かく、撫でるたびに私の中の余計な何かを落としていくように思える。この人の言葉はどうしてこうも私の中に響いてくるのだろう。
「強うて可愛い葉桜さんのような女は好きやけど、ほがな顔をされるとわしはどうしたらいいかわからなくなるがで」
まるで、父様の腕の中にいるみたいだ。
「わしは人のことが言えるわけがやないがでが、ただ悔いの残らんようにするががえいろう。その結果がどいっぱいになをなくすかもしれんきね、けんど、どちらも手に残るかもわかりやーせん。したいようにするがが一番にかぁーらん」
私の、したいこと、か。ここまでしたいようにしてきたつもりだったけど、私のしたいことは少しずつ「約束」に埋もれてきたのかもしれない。でも、まだ間に合わせることができるのだから、ここでくよくよと悩んでいる場合じゃない。
「梅さん、ありがとう」
いつもの柔らかな才谷の笑顔に支えられてるな、と少しだけ葉桜は実感したのだった。
「御礼なら言葉より、ここに、きす、でもしてくれたほうが嬉しいやか」
「調子に乗るな」
立ち上がり様、頬を指す才谷の頭を軽く叩いて、私は伸びをする。
見上げる空の青さと広がる緑を強く吸い込むともやもやしていた気分が晴れてゆくのがわかり。もう一度隊士たちの帰還の喜びの声を吸い込むと、今度こそ私の気分も明るくなってきた。
「さぁて、帰りますか!」
優しい才谷の視線を背中に感じながら、私は仲間たちの元へと足を向けた。向かい風が柔らかに私を追い抜き、さわさわとなる葉擦れの音が応援してくれているように感じて、私の口元にはいつしか笑みが浮かんでいた。
暗くなってきたので路線を修正しました。
梅さんや近藤さんは出てくるだけで華やかになる気がします。
て、私の気のせいですね(笑)
(2006/05/10)
梅さんの台詞を微細修正。
(06/06/21 10:59)
リンク変更
(2007/07/11)
改訂
(2010/03/06)
~次回までの経過コメント
永倉
「おいおい、老中から賞状が下されたぜ」
「これまでの俺たちの働きを評価してくれるんだとさ」
「泣いて喜ぶほどじゃねェけど、気分はいいよな」