空は薄青、白い薄雲が棚引き、庭の木がゆっくりと息を吹き返してくる。芽吹いたばかりの新たな息吹は、まだ少し寒い空気に身を固くして、幾重にも包まれた衣に覆われている。それを遠目に眺めつつ、私はため息を吐いた。私のすぐ脇には書類の山がつまれてあり、先程から頭を抱えているからだ。
「島田さんー……」
「あれ、近藤さんに言われたんだけど、違ったかな?」
私は目の前でオロオロと戸惑っている巨漢から、差し出された報告書を厭々受け取り、見もせずにそのへんの山に重ねる。
「違わないけどさぁ」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
島田が去った後で、私はまた一人息を吐く。横目で見るその書類は全部、本来土方の仕事だ。それが何故私の目の前にあって、しかも自分は筆なんて握っているのか。ぐぐっと力を入れても、拝借している土方の筆は折れない。
主人不在の土方の部屋で、私は仰向けに倒れる。不在ながらもやっぱりこの部屋は土方の部屋だとわかるのは、この香の匂いのせいだ。私もそれほど詳しいわけではないが、土方らしい胸のスッとするような気持ちの良い香を使っている。いっぱいに吸いこむと普段なら気持ちも切り替えられて、私もしゃっきり出来るのだけど。この状況でそんな気分になれるわけもなく。
「なぁんで、こんなときに限って誰も来ないかなぁ」
私だって、もともとここに沖田や近藤以外が用もなく来るワケがないと知っているが、何もいなくなってから私に部屋にある書類を片付けておけなんて用事を言いつけなくてもいいじゃないか。たしかに、土方らが出立する時に私は起きることもせず、朝からぐったり眠り込んでいたのは認める。だけど、私はしばらく隊務には出なくて良いって言うし、昼間強制的に沖田に眠らされるから躰の時間が狂っちゃってるし、朝に気が付かないに決まってるではないか。私に寝坊するなって言うなら、いいかげん隊務に戻らせてほしい。
「て、文句いう相手も居ないワケよ、藤堂」
「何してんの、葉桜さん」
丁度部屋にきた藤堂に愚痴をこぼすとあきれ顔で言われてしまったので、私も仕方なく起き上がる。
「土方に報告書? だったらその辺に重ねて置いて」
だが、受け取る気力もないので、私はその辺と書類のある辺りを指す。
「これ全部やるの? 大変だね、葉桜さん」
「そう思うなら手伝っていけ」
「……俺、これから巡察なんだ」
ごめんねと申し訳なさそうに言い残し、机に突っ伏す私から藤堂の気配が離れていった。
巡察なら仕方ないけど、とそのままの体勢で、私は目を閉じる。次に来た奴に全部やらせて、私はそれまで少し眠ろうと決めて。
土方の香は私にとって意外と便利で、ここで寝ると寝覚めも良さそうな気がする。悪夢とは無縁そうな、気がする。涼しい薫りの中に僅かに混じる、甘い気配に背筋がぞくぞくする。それは嫌な感じではなく、とても心地良い感覚だ。遠い昔、芹沢と一緒に話をしたりしていたときみたいな感覚に似ている。
「なあ、いつまでいられるんだ?」
芹沢は最初は父様の道場に来た、道場破りとして会ったから、私は大嫌いだった。だけど、話してみると意外と面白くて、しかも自分の知らないことを一杯知っていて、次はどんな話をしてくれるのかが毎日楽しみで仕方がなかったのは今でも覚えている。芹沢との稽古も楽しいけど、知らない話を聞くのが一番楽しくて、私は稽古の後にせがんではいろんな話をしてもらった。
「なんだ、葉桜は俺にいてほしいのか?」
変な奴だな、とぐりぐり頭を撫でられるのが私は気持ちよかった。
「ああ、もっといろんな話を聞かせてくれ。あんたの話はとても面白い」
芹沢は片方の口の端だけを上げて笑い、それから決まって私を膝の上に乗せ、遠くを見るように話してくれた。
「今日は……そうだな。葉桜、天狗をみたことがあるか?」
「天狗の話なら知ってるぞ。父様が話してくれた」
両手の握り拳を鼻の前に繋げてみせる。
「悪さして、神様に鼻を引っ張られたせいで鼻が伸び、痛さで顔が真っ赤になったんだろ?」
知ってるぞと私がひらべったい胸を張ると、芹沢には小馬鹿にしたように鼻で笑われる。
「はっ、お前、そりゃウソだ」
「うそなものか。父様が私にウソをつくわけないだろう」
あの頃も今も私には父様が世界の全てだったから、父様から聞いた話を嘘だと言われて、さすがに渋面した。だが、芹沢は私を無視して話をすすめる。
「いいか、天狗ってのはな……」
「こら、私の話も聞けーっ」
夢の淵にいた私は覆いかぶさる影に、とっさに剣を抜く。直ぐ目の前、一寸もない間合いで私をのぞき込んでいた男は、それを見て口元だけ楽しそうに笑う。大石の目はかすかに狂気が見え隠れする気がして、私は好きではない。
「お前は書類整理とは無縁だな、大石」
「残念、葉桜さんって意外と警戒心強いんだね」
「当たり前だろう。お前みたいなのが多いからな」
大石の小さく笑う様子に、私はため息を吐く。いくら寝ぼけていたとはいえ、剣を向けるのは私もやり過ぎだ。鞘に収め、ふっと息を吐く。どうせ大石も土方に報告書を出しに来たのだろうが、手伝ってくれるはずもないのだから、さっさと追い返してしまうに限る。
「報告書ならそこにおいて」
ドンドン溜まっていく面倒を見るのも嫌なので、奥にある枕を取りに行くため、私は大石に背を向けた。あとで書類の山が見つかったところで、現在私を怒るような人物はいない。近藤にだって、私は文句なんて言わせない。なんといっても私にこの仕事を押し付けたのは、近藤なのだ。土方がいない間の仕事を私にやらせるように、土方と話していたらしいと山崎から聞いている。
私が枕を持って戻ると、大石はまだ部屋にいる。
「なんだ、相談事なら近藤さんにいってくれよ。そこまでやる気はないんだからな」
大石が入隊以来、土方に度々相談事をしているのは知っている。内容までは興味のないので知らないが、私はなんとなく大石に手を貸す気になれない。
「葉桜さん、あんた、俺のこと嫌いでしょ」
これも相談事に入るのだろうか。気にはなるが、そんなことに私が答える義理はない。だけど、嘘をつく理由もごまかす理由もない。
「ああ、大石は血の臭いがするからな。お前といると落ち着かない」
「ふ~ん」
近寄ってくる気配に私が全身で抑えた殺気を放っても、大石はクスクスと笑いながら足を止めない。
「俺は葉桜さんみたいなの好きだけどね」
歓迎したくない言葉に振り返った瞬間、私は大石に腕を掴まれ、口を吸われていた。そのまま壁に押しつけられ、もう片方の腕も押さえられ、あっという間に身動きを封じられる。足も押さえられ、抵抗できない私の歯列にその舌がなぞられる。
展開が早すぎて追いつかない私は、必死で頭を巡らせる。大石の好みに合うような行動をとっていたつもりはないし、どこをどうして男女みたいな自分が好かれることになったのかもわからない。それともこいつは武田と同じような思考の持ち主なのかと思ったが、それとも違う気がする。
とにかくこのままはとても危険ということだけが、私にもよくわかる。
大石の唇に噛み付くと、流石に口が離れてくれた。
「……っ」
「なんのつもりだ、大石」
私の咎める声にも大石は動揺しない。血の滲む唇を拭う大石を私がどけようとするも、肩を押さえる腕は弛まず、そのまま食い込んでくる。
「そーゆーの、誘ってんの?」
「な」
「すごいそそられる」
大石が何言っているのか、私には理解できない。理由とかあるなら訊こうかと思っていたけど、このままでは私の身が危険だ。早く、早く、早く逃げなきゃと気が焦るのに、大石の手は緩む気配もない。
再び近づいてくる大石から、必死に私は顔を背ける。とにかく大石の気をそらすような話をしなければ。
「馬鹿言うな、冗談はやめろっ」
「この状況で冗談だと思う?」
「思わないけど、でも、そういうコトがしたいなら、島原に行けばいいだろうがっ」
「……俺は葉桜さんとヤりたいんだけど?」
耳の下から首筋をぺろりと舐められる不快に、私は背筋が凍り付いた。
「大石っ!」
「甘い、血の匂い……」
大石の囁きに、私はぞくりと全身が総毛立つ。私が強く腕を突っ張ろって離そうとしても、大石には力で抑え込まれてどうにも出来ない。いつもなら身につけた柔術で対抗できるのに、大石にうまく押さえ込まれて力を発揮出来ない。
このまま誰も来なかったら、私は大石に抑え込まれたまま身体を好きに弄ばれてしますのか。考えるだけで身体が震え、私の目尻に雫が溢れる。こんな奴に好き勝手されるぐらいなら、いっそ舌をかみ切って死んでしまいたい。
「なにやってんだ、大石」
大石を強く咎める声に、私を押さえつける肩の手が緩む。大石の姿が離れるのを、私は壁に寄りかかったまま眺める。何故と不思議に思っていると、その向こうには厳しい顔をした原田が見えた。
「別に、何でもないですよ。じゃ、またね、葉桜さん」
原田の脇を通り抜ける大石の姿が見えなくなり、その気配が遠く離れるのを確認してから、私はそのまま座り込む。揺らぐ視界に目を閉じると、私の頬を冷たい雫が通り抜けていった。
怖かった。力だけでは男に敵わないことぐらいわかっていたつもりだけれど、ここまで本気で抵抗できないのは初めてで、このままただの女とされてしまったら、私は二度と立ち直れなかったかもしれない。役目も忘れ、この身を投げてしまったか知れない。
「おい、大丈夫かよ」
「……助かったよ、原田」
あのまま誰も来なかったらと思うと怖くなって、私は自分の震える肩を抱きしめる。ここでは近藤を始め、皆が優しくて、久しく感じていなかった恐怖に私は捕らわれた。気を張り詰めている限り、あんな隙は見せない自信はある。だけど、土方の部屋は主もいないのに居心地が良すぎて、つい気を抜いてしまっていた。だから、大石なんかに好きにされる。
「らしくねーな、葉桜。まだ怪我治ってねーのかよ」
目の前でしゃがみこむ気配が原田だとしても、私の震えが止まらない。だけど、今誰もいなくなったら、何があっても対処できない。
私が伸ばした手で原田の首に掛かっている鎖を掴むと、じゃらりという金属音が静かな空間に響いた。無機質なその音に安堵する自分がいる。
「うぉ!?」
「少し、いてくれ」
私はしっかりと引いているのにかちゃかちゃとなる手が、間を置いて原田に押さえられる。
「なんだ、葉桜、震えてんのか」
そこから動くでなく、座り込む原田の気配がする。
「仕方ねーな」
原田は何をするでもなく、ただいてくれるらしい。私が掴んだ手を外さず、ただそこにいてくれるだけということがとても有り難くて。震えが止まるまでいてくれた原田に、しばらく時を置いて礼を言おうと私は顔をあげる。
薄暗い中で、何かを考えこんでいる風な原田の横顔は珍しく真面目で、見慣れているはずのそれにやけに動揺している自分に私は気がつく。原田はただの友達なのに、何故自分が動揺するのか、私にもわからない。
「悪いな、原田。お前も土方に報告かなんかなのに、付き合わせちまって」
鎖から手を外すと、原田は私を見ずにただ軽く頭を撫でる。
「おまえも女だったんだな」
「……殴られたいか?」
「ははっ、そうじゃねーよ。ただよ、さっきのあれを見るまで女とか考えたことなかったから」
悪いなと笑ってくれる原田の姿に、私も安堵する。こうであってほしいと思うようにしてくれるから、原田は安心できる。だけど、この安心が広がっていたせいで大石なんかに、私は気を許していたのかもしれない。
「あんまり考え込むなって」
「原田って……意外と良い奴だったんだなぁ」
「意外ってなんだよ」
私が有り難う、と原田に抱きついてやると、馬鹿やめろ、と弾きかえされた。うん、こうでなきゃいけない。
笑いながら向けた私の背に、原田の小さな声が聞こえたけど、私は聞こえないふりをした。文机に向かい、筆をとって、私は今度こそ書類に向かい直る。いい加減、やらなきゃ増えるばっかりだということはわかりきっている。
私がそうして書類に目を通しているところに、原田の愚痴が届いてきて笑ってしまった。
「土方さん、どうせなら俺も連れてってくれりゃあ、いいのによー……」
「あはは、槍使い少ないもんなぁ」
「ああ、葉桜もなかなかの腕だけどよ、やっぱ足りねー」
原田だけではなく、他の誰もこんな風に普通がいい。私は何も変わらないのがいいのに、大石はそれを壊そうとしている。でも、大石を懐柔できれば、きっと伊藤さんと藤堂、そして何より才谷を救える。そのためにも、結局私は自分から大石に近づき、理解する必要がある。
「原田……」
「なんだよ、葉桜?」
「大石って何考えてんだろーな」
黙り込んでしまった原田が真剣な目で自分を見つめる気配がわかり、私は小さく笑いをこぼす。
「あれでも新選組の隊士だからな。理解しなきゃ、安心して背中預けられないだろ」
私はどんな理由であれ、大石だってなにかの信念をもっているはずだと考えている。それがわかればきっと、分かり合えればきっと、私にだって大石を止めることが出来るはずだ。
原田が私の後ろで深く深くため息を吐いたのがわかった。
「おまえってそういう奴だよなぁ」
「ああ、そうだよ」
さっき大石に襲われかけたばかりなのに、自分でもよく進んで関わろうと何て思えるのか、私にもわからない。だけど、大切なものを守るためなら、何だってできるという私の信念に嘘はない。
「別に構わねーけどよ、さっきみたいなことがあったらどうする気だ」
「そうそうはあんな隙はみせやしないさ。それに、何かあったら助けてくれるだろう?」
別に原田に多大な期待をしているわけではない。余計な期待をすることこそが隙を産むと、私だってずっと昔に身に染みている。それは少なくとも女として私をどうこうしたという話にはならなかったけど、引き換えにいくつかの命を失ったことは否定出来ない。
助けられたはずの命を、私自身の甘さが原因で失ったことは間違いないのだ。
「前提か?」
「いや、保険だよ」
私が振り返ってにかりと笑うと、原田の不審がる表情がにやりと変わる。
「へっ、まぁあんま無茶してくれるなよ。みんな、葉桜を心配してんだからな」
私は身体を戻し、文机の書類と向き合う。
直後、筆につけた墨が一滴、机上に落ちて染みを作る。
私だって自分が周囲に心配されていることぐらい知っている。だからこそ、逃げていたらいけないし、これからずっと仕事をしていくのに大石から逃げていては仕事にならない。ひいては、新選組のためにならない。だったら、私は大石だって懐柔してやるまでだ。
私はその辺に落ちている懐紙で染みを拭い取る。机には、木目に染みこんだ墨だけが残った。
公開
(2006/05/24)
改訂
(2010/06/07)
~次回までの経過コメント
才谷
「昨日の祇園での火事ではおんしら新選組の面々が活躍しちょったと聞いたぜよ」
「舞妓や太夫の手をとって誘導したんやお?」
「かぁ~っ、大した役得ちや」