幕末恋風記>> 本編>> (慶応元年閏皐月) 7章#良順来訪

書名:幕末恋風記
章名:本編

話名:(慶応元年閏皐月) 7章#良順来訪


作:ひまうさ
公開日(更新日):2006.6.7 (2012.10.2)
状態:公開
ページ数:5 頁
文字数:27697 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 18 枚
デフォルト名:榛野/葉桜
1)
#良順来訪
1#良順来訪
2#診察
3#キズ
4#診察翌日(追加)(#八木邸往訪)
(本編の山南との約束。
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p.1

1#良順来訪







 暑くなく寒くもない陽気の中、屯所前で座り込んでいる私の前に大きな影が出来た。私は刀に手をやりつつ目を上げ、相手を認めて警戒を解いて、微笑む。それは私が待ち望んでいた相手だったからだ。だが、相手は驚きと不満を目に見えて露骨に示してきた。

「なんで葉桜がここにいる」
「なんでって、隊士だから?」
 丸坊主の男の呆れの混じった問いに、私がいつものように笑顔で返すと、上からぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。私が小さい頃からこの人と会うといつもこうされるのは変わらない。

「近藤さんから松本良順センセイが来るって聞いて待ってたんですよ、わざわざ」
 最後の一言を強めに口にして、私は立ち上がり、裾の汚れを軽く払った。門番なんて退屈な仕事だが、私自身はただ門の前にいればいいと言うのなら、楽な仕事だし寝てても出来るから大歓迎だ。しかし、何故かこの当番だけは回ってこない。どうやら裏で誰かが手を回しているようだけど、それが誰かということまで私は追求するつもりはない。面倒だ。

 いきましょうか、と先に立って中へ入ってゆく私の背に、良順の気遣う声がかかる。

「今更おまえが何してようが構わねえけどよ。葉桜、また無茶してんじゃねえだろうな?」
 私はその質問には答えずに、良順を振り返って笑う。

「積もる話は診察が終わってからにしましょうよー、良順センセイ。近藤さんもすっごい愉しみに待ってますし」
 話しながら私は歩く位置を少しだけずらして、離れた場所からここへ走ってくる近藤の前に道を開けた。良順はしかたねぇなと諦めを呟き、頭に手をやっている。

「覚悟してろよ、葉桜」
「はーい」
 私はわざとらしく乾いた笑い声を上げて返事をして、近藤が到着する前に屋内へと戻った。広い室内では松本良順を待ちわびている面々がざわざわとさざめいている。なんといっても音に聞く名医、松本良順自ら隊士たちを診察してくれるという期待と、あまり馴染みの少ない西洋医学的な診察がいったいどういったものなのかと不安でいっぱいのようだ。

 その中でも妙に落ち着いている古参の仲間に私が近づくと、振り返った原田がそのままごろんと寝ころんできた。危うく踏み潰すところだったが、なんとか回避。

「邪魔」
「あーそうかよ」
 私は少しばかり開いていた原田と永倉の間に胡座をかいて座り込んだ。藤堂と三人で座っていたようだが、永倉と藤堂が少しばかり移動してくれたから、それほど狭くはない。

 三人のそれぞれ手元や近くの畳に置かれている湯呑を見て、私は自分がしばらく外にいたから喉がカラカラであることに気がついた。

「オメー、何処行ってたんだ?」
 永倉の問いに私は一言、外、とだけ返し、手近な目の前においてある湯飲みの茶を飲み干す。中身はかなり温めの茶が半分ばかり残っていたようだ。

「あ、葉桜さんっ」
 慌てた様子の藤堂に私はただにっこりと笑って返す。どうやら、藤堂の茶だったみたいだけど、これじゃあ全然足りない。

「なあ、沖田が何処行ったか知らないか?」
 私が問いかけると、三人が一瞬驚いた表情を見せる。急になんだ。

「近藤さんといるんじゃねーの?」
「いなかったから来たんだよ」
「珍しいね、総司さんが葉桜さんの所にいかないなんて」
 ついこの間までべったりだったのに、と不思議そうな藤堂の言葉に首を傾げる。言われてみると、ここ数日その姿をみていない。稽古の誘いにも来ないし、大抵が「さっきまでいたんだけど」という回答しかもらっていない。

 こういうのって、もしかして。

「葉桜、オメー、総司に何したんだ?」
「まてこら。この場合、何かされるのは私の方だろ」
 私は反論しながら肘で永倉をつつき、思考を巡らせる。私自身には沖田に何かされた覚えもなければ、した覚えもない。なのに避けられる理由を問われれば、まさに思い当たる節がない。

「そういえば、この間の任務の時も……」
「バカ平助! それは黙ってろって」
 何か言おうとしているのを止めようとする永倉を放りだし、私は真っ直ぐに藤堂と目線を合わせた。どうやら何か知っているようだ。

「何かあったのか」
「う、うん……」
「話せ」
 なかなか話し出さない藤堂に向かって伸ばした私の腕が、太く強い腕に止められる。鍛え抜かれたそれを目の前に一瞬身体が強張るが、私は笑って誤魔化せただろうか。原田の視線が少しだけ痛い。

「なんでもねェ。そんなことより葉桜は今日来る松本良順ってやつのこと知ってるか?」
「ああ、知ってる」
 ざわめきが止まり、視線が集まるのがわかり、さすがの私も怯んでしまった。

「……なんだよ」
「近藤さんから聞いたのか?」
 そうだろうと言いたげな永倉に、私は躊躇いなく首を横に振った。隠してもどうせすぐにバレるんだし、それに隠す意味もないことだ。

「良順センセイとは昔から縁があるんだ。新選組に入ってからはしばらく疎遠にな」
「葉桜ちゃん!」
 言い訳がましい私の言葉を遮り、後ろへ身体を引き倒される。抵抗しなかったのは、引き倒した相手のまとう香りを知っていたからだ。案の定、私は逆さまに山崎の姿を見上げることになる。

「わ、烝ちゃん!?」
「良順ちゃんって、どんな人なの?」
 山崎の問いに、私は視線を彷徨わせ、眉根を寄せた。どんなと問われると困る。小さい頃からの縁もあるし、良順は父と同じぐらいに私に縁のある人だ。

「えーっと」
 だが、それで山崎は納得するだろうか。姿形は言っても仕方ないだろうし。蘭学医としてはかなりのものというが、実際のところはよく知らない。

「……見てきた方が早いよ。もう来てるから」
 多少悩んだものの、自分の柄じゃないなと、早々に私は諦めた。ここは自力で何とかしてもらおう。私の思考がわかっているのか、山崎は粘ることなく、行って来ると身を翻し、部屋を出て行った。それに続いて何人かが部屋を出て行く。私はゆっくりと身を起こし、また近くの湯飲みを手に取ろうとして先に原田に取り上げられた。

「それで、葉桜さんと松本先生ってどういう縁なんだい?」
 藤堂の問いに答えながら、私は頬を膨らませて、原田に不満を示す。

「父様の友達で、私の主治医だよ。原田、お茶ぐらいいーだろ」
 それでも無理矢理に奪おうとすると、お茶を持つ手を遠くに伸ばされてしまった。

「これは俺んだ。来たって知ってる割に会いに行かねーのな」
 無理をするつもりもないので、私は次に狙いを定めるために視線を移す。

「出迎えだけはしてきたから。うわ、永倉も心狭っ」
 予想していた永倉は、私の目の前で茶を飲み干してしまった。

「人のを狙うなよ。なんだ、外ってそういうことかよ」
 悔しがる私を笑う永倉は放っておいて、私は他にはと辺りを見回した。その過程で自然と廊下端で湯呑を傾ける大石と目があう。大石は私を口端だけ上げて笑っていて、それがどうにもあの時のことを思い出させられてしまった私は、ふいと顔を逸らした。今は、あいつに構っている場合じゃない。

「良順センセイには小さい頃からかなり世話になってるんだ。だから、先に顔ぐらい出しておかないと、後で見つかった時に小言をめいっぱいもらうんだよね」
 そりゃあ、私だって心配されているからお小言を言われるというのは理解している。だが、やはり聞いていて退屈なものは聞きたくないのだ。

「葉桜、おまえなァ」
「じゃあ、沖田知らないなら私はもう行くか」
 お茶ももらえないみたいだし、と私が立ち上がり、さっさと控えの間を後にしようとする背に声がかかる。

「あ、今日は松本先生の検診って近藤さんが」
 皆まで聞かずに、私は顔だけ顧みて、笑いながら返す。

「知ってるよ」
 それでも出て行こうとする私に、永倉が咎める声音をかけてくる。

「オメー、何処行く気だよ。まさか、すっぽかそうってんじゃ」
 妙な心配をする面々をもう一度振り返り、私はクスクスと笑いを零した。

 この部屋に隊士が一同に会している理由が診察のためだということは、もちろん私も承知している。この男所帯なのだから、本来なら女の私は別の部屋に待機するということを当然と思っていいはずだ。そう思わないのは、仲間として受けいられている証拠であるし、女として扱われていないからでもあると思う。

 そんな風に自分を受け入れてくれる場所を、私はこの新選組の他に知らない。

「そんな恐ろしいことするか、馬鹿。私のことより、永倉、おまえはその頭の布を取っておいた方がいいぞ。何日洗ってないんだーって、良順センセイに怒られるから」
 たぶん今頃近藤さんに屯所内を案内されている間、良順は唸っていることだろう。わかっていても私は今さら自分が屯所内を全部掃除する気はない。やっても、せいぜい身の回りと道場ぐらいだ。

 部屋の隊士の何人かが慌てているのを尻目に、私はその場を後にした。もちろん、私が忠告した程度で永倉が動くはずもなく。ただ首を傾げる様子を目の端に捉えて、私は部屋を後にしながら、忍び笑った。



p.2

(沖田視点)



 がやがやと部屋中にいる患者を次々と診察してゆく松本先生の隣、山崎さんと同じように葉桜さんはひとりひとりの手当をしてゆく。普段なら文句も言ってやりもしない彼女のただならぬ様子に隊士たちは戸惑い、大人しくしている。

「はい、次」
「葉桜も診察しろ」
「やだ」
 黙々とただ治療をしてゆく様子が普段とは別人のようで、皆が戸惑いを隠せずに葉桜さんが治療するその様子をちらちらと盗み見る。葉桜さんは普段と同じ格好同じ言動なのだが、ここまでてきぱきと働く様はなかなか見ない。新選組の前身、壬生浪士組に入隊したときから、もう葉桜さんは葉桜さんだった。今までにここまで素直に人を言うことを聞いている葉桜さんを、僕も見たことがない。それが珍しいというのもあるが、こうしていると普通の女性のようだ。

 おかげでかつて惹かれた後に叩きのめされ、葉桜さんに恋など望めないと諦めていた平隊士たちの間にも再び小さな火が点ってしまった。だから、治療が済んだというのに、誰も彼も葉桜さんを見られる位置から動こうとしないのだろう。

「やべぇ、やっぱイイよ」
「いつもあんな風だったら」
「いつもじゃなくても」
「葉桜さんなら」
 ざわめきの中、葉桜さんは少しも怒鳴ることもなく次々と治療を終えてゆく。山崎さんも初めてにしては手際が良いと褒められてはいるが、葉桜さんのは実に手慣れたものだ。こんなこともできるなんて、僕は今まで知らなかった。いや、僕は葉桜さんのことを本当はそれほどよく知らないのかもしれない。今までの僕は、葉桜さんの強さばかりを追いかけていた気がする。

「ふむ、これで七割方終わったか」
 額に汗を滲ませた松本医師に、葉桜さんがそっと手拭いを当てる。その様子も甲斐甲斐しく見えて、ほんのりと匂い立つように見えてしまうのは何故だろうか。

「基本的に、みな体格はいいんだが、いかんせん、負傷者に病持ちが多すぎだ。負傷者はともかく病の原因は衛生、栄養、節制の不徹底だ」
 しおらしい葉桜さんに、松本先生がニヤリと笑いかけるけれど、彼女自身は知らぬ存ぜぬを通すつもりらしい。最後の台詞からすると、松本先生は葉桜さんの偏った食事や限度のない大酒飲みであることも知っているらしい。つまり、彼らはやはり見たとおりに初対面ではないということだろう。

「まっ、遊郭に行きてえ気持ちも分かるし、飲みまくりたい気持ちも分かるがな」
 あんまり若いヤツをお前につきあわすんじゃねぇぞ、と松本先生はまた葉桜さんに笑いかけるが、そんなコトしてませんと彼女はシラを切り通している。そういえば、彼女は永倉さんと同じように平隊士たちを遊郭に連れていったりするという噂を聞いたことがある。僕はまだ一度も連れていってもらったことなんてないな、とふと気づいた事実が少しだけ淋しい。

「それじゃあ、鈴花。次のヤツ呼んでくれ」
「はい。じゃあ次は、沖田さん」
 僕は桜庭さんに呼ばれて立ち、松本先生の前に行く。その僕に葉桜さんがまっすぐに真剣な瞳を向けてくる様子に、思わず意識して目線を合わせることを避けてしまった。あんな風に真っ直ぐに人を見るのが彼女の癖だと知っているけれど、ここ最近はまともに顔も合わせていなかっただけに気まずい。

「よろしく、お願いします」
 僕は葉桜さんを斬った日から、以前のように真っ直ぐに彼女を見ることが出来なくなっていた。夢には何度も葉桜さんが出てくるのに、彼女はいつも僕の手で斬られてゆく。そんな悪夢から、僕はこの数日抜け出せていない。松本先生はそういった病のことも知っているのだろうか、真剣な目で僕の身体に聴診器を当てる。

「おまえ、顔色があまりよくねぇが、具合でも悪くしてるんじゃねぇか?」
 葉桜さんの真剣に僕を見ているのを感じている視線が、痛くて辛い。

「いいえ、少し風邪を引いている程度です」
「痰が出たり、寝汗をかくか?」
「そうですね、そういうことが多いですね。疲れているのかもしれま……けほっ……こほ」
 僕が診察の途中で咳をすると、即座に葉桜さんが僕の隣に来て口元を拭う。

「すいません、葉桜さん」
 目線が合うと、葉桜さんはただ柔らかく微笑み、気にするなと囁く。以前と変わらないそれに嬉しさがこみ上げると同時に罪悪感が広がり、僕が即座に顔を背けるのとその姿が離れていくのはほぼ同じだった。葉桜さんと話をしたいけれど、今自分が何を言えばいいのか、僕には言葉が浮かんでこない。

「おまえ、沖田と言ったな。下の名前は何て言うんだ」
 やけに真剣な松本先生の様子を、僕は少しだけ訝しんだ。

「総司、です」
 葉桜さんが松本先生に何か耳打ちする。

「やはり、思った通りか……」
「……え?」
 診察が始まってから、葉桜さんは決して大声を出さない。静かに助手を務め続けている。

「総司、おまえ、長生きしたきゃ無理はすんじゃねぇぞ」
 思いも寄らない言葉に、僕は軽く瞬きした。

「長生き、ですか。あまり考えたことがないですね」
 急にガタガタと音がして、葉桜さんが薬箱をひっくり返していた。珍しいことだと僕は思ったけど、松本先生は気にせずに僕をじっと見ている。話を続けろということだろう。

「僕はただ剣を振るうことが楽しいんです。それを突き詰めることができたら」
 話しながら、思い出したのはまだ剣を習い始めて間もない頃のことだ。筋がいいと褒めてくれた近藤さんや、土方さんとの稽古と同じく、葉桜さんとした稽古も一緒に思い出した。葉桜さんとの稽古はここ最近じゃ一番楽しいものだったのに、しばらくしてもらっていない。僕が逃げているのだから、当然なのだろうけれど。

「できたら、何だ?」
 考えこんでしまった僕に、松本先生が先を促す。

「思い残すことは」
「良順センセイっ!」
 と、今日初めて葉桜さんが大声を上げた。僅かに見える焦りの影は、自分を斬った僕を怖がっているからなのかとも思ったが、それはたぶん無いだろう。でも、僅かに見える怯えは何に対してなのだろう。やはり、僕、なのだろうか。

「桶の水、組み替えてきます」
「ああ、早く戻って来いよ」
 松本先生がただ頷くのも見ずに、慌てた様子で出てゆく葉桜さんの後ろ姿を僕は目で追う。怯えているようにも見えるし、何かを恐れているようにも見える。いや、むしろ葉桜さんがいなくなってほっとしているのは僕の方かもしれない。今の僕は葉桜さんの視線の前にいるのが、酷く辛い。

「それで?」
「あ、はい。思い残すことはないと思います」
 葉桜さんの後ろ姿が見えなくなってから、僕が松本先生に視線を戻すと、松本先生は僕を見て快活に笑った。その笑い方が少し、葉桜さんに似ていると思った。

「おまえは、本当に馬鹿が付くほど剣が好きなんだな」
「はい、好きですね」
 剣を好きか嫌いかと問われれば、間違いなく僕は好きだ。剣を奮っているときは、どんな遊びよりも面白いと感じる。

「だがなぁ、医者の俺としちゃあ剣よりも生に執着してほしいもんだぜ」
 剣よりも執着するものがあるとすれば、今の僕はただ葉桜さんのことばかりが頭を過ぎる。自分が奏しているのに、葉桜さんに避けられているかもしれない、葉桜さんが僕を怖がっているのかもしれないと不安になる。いっそ松本先生に相談すれば、この想いはどうにか出来るだろうか。剣を持つ度に目の前に現れる葉桜さんの影は一体何なのか、松本先生ならば知っているだろうか。

「あの、先生。剣が振れなくなる病ってご存知ですか?」
 もしかしたら知っているかもしれないと僕が投げかけた質問に、松本先生から明確な答えは得られなかった。

「剣が振れなくなる病? そりゃ俺の専門外だ」
「どういうことですか?」
「答えはおまえ自身の心の内にある。俺が言えるのはそれぐらいだ」
「答えは、僕の心の内に」
 松本先生は、夢にも現にも現れる葉桜さんの影を僕の心が見せていると言っているのだろうか。

「まあ、ともかく、体をちゃんと大事にして、好きな剣をできるだけ長く楽しめるように生きろ、な?」
 松本先生は薬箱から小さな懐紙に包まれた包みを手に、桜庭さんを顧みて、指示を出す。

「鈴花、表の井戸でこの薬を総司に飲ませるよう、葉桜に」
 その言葉の途中で、松本先生の手元から薬の包みは抜き取られた。いつの間戻っていたのか、そこには葉桜さんが憮然とした面持ちで立っている。

「言われなくたって行きますよ。おいで、沖田」
 葉桜さんが僕の手を引き、縁側から庭へと降りる。戸惑う僕をいつもそうやって引っ張って。でも、僕は葉桜さんを傷つけてしまっていて。

 井戸の前で葉桜さんが桶を引っ張り上げる。空を映したその水に彼女の姿が揺らいでいるのが、僕にはどこか哀しそうに見えた。

「沖田、これ、口に含んでから水で流し込んで」
 僕が薬を飲む間、片時も葉桜さんはその視線を外さなかった。葉桜さんが僕を観察する視線に緊張して、うまく薬が飲めない。口の中に苦さが広がり、渋面する僕に続けて葉桜さんが水を差し出してきた。僕は二杯目を一気に飲み干す。

 以前ならもっと自分を、自分だけを見て欲しいと願っていたのに、僕には叶っている今が辛い。葉桜さんの視線が何を語るのか、今の僕には探ることも出来ない。

「ありがとうございます」
「沖田、体調よくなかったのか」
「ちょっと風邪が長引いているだけだから、大したことはありません。僕なら大丈夫ですよ。心配はいりませんから」
 直視できないでいる僕の頬に、葉桜さんの冷たい手が添えられ、片腕をしっかりと掴まれた。揺らぐ目線を固定され、否応なく葉桜さんの澄んだ瞳を見ることになる。

「本当だな?」
「本当ですよ。第一、僕には葉桜さんに嘘をつくような理由もありませんし」
 葉桜さんは僕の目を探るように覗いていたが、しばらくして、頷いて離れていった。その手をとっさに引き止めそうになって、僕は葉桜さんに触れる寸前で留まる。今の僕に、葉桜さんを斬ってしまった僕に、葉桜さんに触れる資格なんてあるだろうか。

「沖田?」
「ありがとうございます。頑張って、ください」
 次に触れてしまえば、きっと僕は今度こそ葉桜さんを壊してしまう。そんな気がした。あの日まで葉桜さんがいなくなってしまうことなど僕は考えたこともなかったのに、今は自分の剣が彼女を傷つけ、いつか殺してしまうような気がして。

 ただ、怖い。

「ああ、有難う」
 日の光の下で温かく微笑む葉桜さんを、僕の手が傷つけてしまいそうで。僕が何と返すことも出来ずに、動けずにいる間に葉桜さんは元の手伝いへと戻っていってしまったようだ。

 葉桜さんがいなくなった後の井戸の端に、僕は座り込む。

 以前の僕なら容易に葉桜さんに抱きついたりできたのに、今はもう酷く葉桜さんの存在が遠い。葉桜さんの近くに自分がいるということが怖い。同じように剣を振るっているはずなのに、透明なまでの葉桜さんの清さが怖い。血塗られている自分の手で触れてしまえば、葉桜さんを穢してしまいそうで、触れることさえ出来ない。なのに、いつでも葉桜さんは僕のそばにいてくれようとしている。僕が避けているにも関わらず、今日だって僕を探してくれていたのだと、平助が教えてくれた。

 そんな葉桜さんを、僕はこれ以上傷つけたくない。僕の剣で、僕の手で、傷つけたくないんだ。

 あの葉桜さんが現れる夢は、今まで何も考えずにただ剣を振ってきた僕に対する報いなのだろうか。二度と剣を振れず、二度と葉桜さんに触れられなくなるという罰なのだろうか。

「総司」
 葉桜さんに呼ばれた気がして僕が顔をあげると、目の前いっぱいに青空とひつじ雲が広がる。辺りに葉桜さんの気配はない。

「……葉桜さん」
 剣を触れなくなることなど考えたくもないけれど、同じぐらい葉桜さんと真っ直ぐに向き合えない「今」が辛い。以前と同じように葉桜さんと笑っていたい。どうしたら、あの頃のように戻れるのだろうか。

 考えても出ない問題に悩む僕は、目の前をゆっくりと流れてゆく羊雲をただ見つめ続けていた。



p.3

2#診察







 沖田に薬を飲ませて戻ってきた私が部屋を見回すと、診察を待っている隊士も残り僅かのようだ。山崎が小さく息を吐いた頃、庭を横切る人影を見つけて私は細く笑う。ずいぶん来るのが遅いと思ったら、あの人は私が言わなくても私の意図することが分かるらしい。

「ふぅ、だいぶ人も少なくなってきたわねぇ」
「そうですね。そろそろ終わりかな?」
 私が立って廊下に出ると、例の人と、彼の後ろを歩いていた人物が私に気づいて立ち止まった。ここまできて逃がすつもりもないので、私は二人に手を上げて声をかける。

「梅さん、山南さん。こっちですよ」
 前を歩いている才谷が大きく手を振るので、私も手を振り返した。山南は眩しそうに目を細めている。

「おう、葉桜さん! 今日もまっこと……」
「梅さん、山南さんも話は後にして、とにかくこっちに来てください。あ、その辺りから上がってきてくださいね。それで、したお」
 話している最中、私は後ろからがしっと口を押さえられた。私にこんなことをする人物は、新選組内でも山崎ぐらいだ。

「あはは、詳しいことは来てからアタシが説明するわぁ」
 そのままずりずりと私は室内に引きずり込まれながら、二人に手を振る。二人共苦笑しているようだ。部屋の中では、良順と鈴花が呆れた笑いを零している。

「ちょっと、葉桜ちゃん、あんなところで何大声で言おうとしてんのよ」
「何って、ついでに診察を」
「梅ちゃんだけならともかく、敬ちゃんまでいるのよ? 葉桜ちゃんはもうちょっと乙女の恥じらいってもんを持ちなさいよ」
「恥じらい……?」
「あーもう、アタシ、二人に説明してくるわ」
 山崎が着物を翻して駆けていった後で良順に向き直ると、相手の方からわかっていると先に頷かれてしまった。

「新選組のヤツらじゃねーのか」
「ひとりは違うけど、ひとりは元新選組だ」
 ほぅ、と興味ありげな良順の視線に私は苦笑する。山南さんに関して、私は良順に言っておかなければならないことがあるので、ぎゅっと両手を握りしめた。目線は真っ直ぐ、願いを込めて良順を見る。

「その元新選組総長の山南さんをよく診て欲しい。肩の具合とか、ね。それで、早く治るとしても……少なくともあと五年は動かないと言って欲しいんだ」
 私の言葉に、良順の眉間に皺が寄る。そばにいる鈴花は訝しげな顔をしているが、今ここで詳しい説明をすることは出来ない。

「俺は医者だ。そういう嘘はいえねぇよ」
「言ってよ。私は山南さんには生きて欲しいんだ。そのためには何が何でも新選組に戻られちゃあ困る」
 もしも剣を使えるなら、きっと山南さんは戻ってきてしまう。山南さんの思想のために、深い縁のために、きっと新選組に戻ってしまう。それでは、私が気持ちを押し殺して、傷つけた意味がないのだ。

 でも、この松本良順という男は私のことをよく知っている。だからこそ、私はそれを口にする。

「山南さんの剣の道を潰したのは、私だ」
 過去にこういうことがなかったわけじゃない。あの時も良順は私の頼み通りにはしてくれなかった。そうと分かっていても、私は良順に頭を下げて頼む。今の私にできることはそれだけだからだ。

「……葉桜」
 頭を上げない私をしばらく眺めた後、良順は深いため息を吐いた。

「どっちだ、その山南ってのは」
 意図を汲んでくれるかどうかはわからない。でも、少なくとも悪いようにはしないと、考慮してくれるであろう良順の反応に、私は笑顔で「騒がしくない方」と答えた。

 しばらくして診察に現れた山南の姿に、私は一瞬だけ見惚れた。

 新選組を除隊したとはいえ、山南の鍛え抜かれ引き締まった筋肉は衰えた様子を見せない。ただ肩に痛々しい傷痕が残るだけで、その他は新選組の現役幹部である永倉や原田と比べても見劣りしないだろう。

 その山南の診察を真剣に私は見つめている。明らかに今までの診察の時とはまったく違う様相と気づいても、その意味が分かるものなどいないだろう。

「こりゃあ難しいことしたな、葉桜。五年でも動くかどうか怪しいぞ」
「……嘘……」
「いくらおまえの頼みでも、俺は嘘は言わねぇよ。そいつは葉桜だってよく知ってるだろ」
 呆然とした私に、良順は苦虫をかみつぶしたような顔をして答える。良順が医者として嘘をつかないと知っていても、それでも私は聞き返さずにはいられなかった。

「……でもっ……いつかは、動く、よね?」
 思わず喉がつまり、良順を縋るように見つめる瞳が潤んでしまう。こんなやりとりは以前もあったけれど、あの時も良順は同じように答えた。

「難しいな、本人次第だ」
 過去を思い出した私の心が曇り、陰りとなる。それは、その言葉は間違いなくあの時と同じで、その後もよく知っている。

「どう、して……どうしていつも良ちゃんはそういうこと言うんだよっ。それって、つまりダメってコトじゃねーか! 父様の時だって、結局っ」
 拳を握りしめ、あの時と同じく激高する私に山南が手を伸ばしてきて、すぐに留めたのが視界に入った。でも、感情が高ぶってしまった私はただ良順を睨みつけることしか出来なくて、山南の考えまでは気が回らなかった。

「葉桜」
 山南に代わり、良順の薬臭い手が私の髪を撫でる。それさえも過去とまったく同じだ。

「生きただろ。もって一年だった命が三年も延びた。あいつは、頑張ったよ」
「でも……っ」
「本人次第だって俺が言ってんだ」
 わかるだろう、と言われて、私はゆっくりと山南を顧みた。

「だからよ、あんたも諦めんじゃねぇぜ」
 良順に語りかけられた山南は、深く頷いてくれた。全てのことに過去が重なり、私はまた泣きそうだった目を瞬かせた。堪えたはずの涙は、ぽとりと畳に一粒が落ちてしまう。それをわかっているくせに、良順は私に言う。

「ほら、いつまでも泣いていねぇで、治療だ。葉桜に任せるぞ」
 私は顔を上げて涙を拭き、真っ直ぐに山南を見つめた。普段はへらへらと笑顔でごまかしているけれど、それをなくした真剣な眼差しで、箱から数個の薬と大きめの包帯を取り、山南の側に近寄る。それからは一言も話さず、慣れた手つきで包帯を巻き付けてゆく。今日まで私は誰の治療もしたことがなかっただけに、初めてみる山南も驚いているようだった。

「久しぶりだね」
 山南に声をかけられ、私は一瞬手を止めかけたが、もくもくと作業を続ける。私が答えを返したのは、その治療が終わってからだ。

 山南の着替えを手伝い、きちんと着付け終えてから、直していた襟に手をかけたまま山南を見上げる。

「良ちゃん……良順センセイは嘘を言いません、だから……」
 喉がつまり、また私は声が詰まってしまって俯いた。続けられない句はまだ口の中に留まっているが、言わなきゃと心が焦るだけで一向に出てこない。気持ちが沈んでいるから、心が焦ると二の句が続かないのだ。このままでは悪循環だ、と私がもう一度山南を見上げると、前のように柔らかで心がほっと暖かくなる笑顔を向けてくれている。

「葉桜君のお父上は病で?」
 先ほどの良順との会話でわかったのだろう。山南の言葉に父様のことを思い出したが、私は今度は真っ直ぐに返すことができた。

「父様は、労咳、でした」
 私の思い出の中で父様はいつも笑っていて、私が笑っていなかったら無理やりにでも笑わせるような人だった。一緒にいるだけで嬉しくて楽しくて、私は本当の父親よりも父親みたいに慕っていた。

「いつも、笑っている人でした。強くて、優しくて、情に厚くて、一緒にいるだけで幸せだった」
 封じ込めていた記憶を開けば、いつでも笑って剣を構えている父様の姿がある。でなければ、縁側で笑っている姿、布団で寝ながら笑っている姿。死に顔も、とても満足そうに、笑って逝った。

「いつまでも生きていてほしかった。側にいて欲しかった」
 それが仕方のないことだとしても、私は父様と生き続けられる未来を願わずにはいられなかった。少なくとも成長して何かを返すことができるまでは、生きていて欲しかった。あの頃の私はずっともらうばかりで、父様になにもしてあげられなかった。今だったら、きっと返せるモノもあったと考えずにはいられない。

 思い出すことで溢れてくる涙が頬を伝う。開いていられない瞳を閉じると、顔を山南の胸に押し付けられ、肩をそっと抱き寄せられた。変わらない香の匂いと鼓動の音に安堵する反面、先程の良順の言葉に恐怖する。もしも、山南の腕が治らなかったら、私はどうしたら彼に償うことができるだろう。この身を捧げても、それだけでは足りないに違いない。でも、私にはそれさえもできない。

 不安に慄く私を安心させるように、新選組にいた頃のように、山南が私の髪を梳く。

「剣が振れなくなったからといって死ぬワケじゃない。それに、私自身も剣を諦めるつもりはないよ」
「……っ」
「本人次第と松本先生も葉桜君も言ってくれた。それだけで十分だ」
 山南の優しい言葉に、私はさらに涙が溢れて止まらなかった。

「……っ……山南、さん……っ」
 声を押し殺して泣き続ける私を、山南は壊さないように抱きしめる腕に力を込めてくる。

 私を恨んでいいのに、山南はそうしてくれない。ただ側にあることを願われても何も出来ない私を、詰りもしない。責めてくれたほうが楽なのに、そうしてくれない山南は優しすぎて、残酷だ。

 私は両腕を山南の背中に伸ばして、強くしがみついた。同じように私を抱きしめ返してくれる山南の優しさに甘えて、声を押し殺して、私は泣き続けて。

「……葉桜君……」
 掠れる山南の声に、力をゆるめて、涙に濡れた顔を上げる。ぼやけた視界いっぱいに広がっているのは山南の真剣な顔で、目元を軽く吸い上げられて、私はびくりと目を閉じた。

「っ」
「私のことを気にかけてくれるなら、気兼ねせずに八木邸まで足を運んでくれたほうが嬉しいよ」
 私が苛んでいることを知っていて、そんな風に山南に言われたら、私に返せる言葉はひとつしかない。

「……はい、」
 確約した言葉ではないことが不満なのか、山南は畳み掛けてきた。

「じゃあ、今日は一緒に帰るとしようか」
「えっ?」
「近藤君か土方君に許可を貰えば、葉桜君は外泊もできるはずだろう?」
 それは、まずい。だって、山南のところには世話をしてくれている明里がいるのだ。彼女は山南が好きで、もともと山南の御贔屓だった遊女だ。いくら私でも、そこまで野暮ではない。

「え、ええと、今日は良ちゃ……良順センセイがいるので……」
「松本先生と何か関係が?」
「あー……その、良順センセイは私の主治医でして、そのぉ、二、三年ぐらい診察受けてないから、長引くと思うんですよね……」
 もちろん、ぱぱっと終わってしまうかもしれないが、長引く要因はかなり多い。ただでさえ小言が待っているのだ。

「しかも、新選組にいることを黙ってただけに、積もる小言……じゃない、話が多くて、その……」
 山南は短く息を吐いた。それに私はびくりと肩を震わせる。

「じゃあ、明日は」
「見廻りが……」
「その次は?」
「平隊士に稽古をつける約束をしてて……」
 次々と言い逃れる私に対する山南の空気は、徐々に剣を増してくる。

「えー、ち、近いうちにっ」
「明日の夜、葉桜君を迎えに来るよ」
「え、あ、明後日の昼に伺いますから、山南さんがご足労いただかなくても……っ」
「葉桜君?」
 有無を言わせない山南に私は小さくなって、顔を逸らした。

「あ、の、明日の見廻りの後で伺いますからっ」
「約束だよ」
「は、はは、はいぃぃっ?」
 額に口付けられて、私は思わず山南から飛び退いていた。え、と、誰だ、硬派な山南さんにこんなこと教えたのは。才谷か永倉か、他にも余計なことを教える輩が多そうだ。

 私を見る山南の甘やかな視線に耐え切れなくて、私がオロオロとしていると、ぐいと腕を引かれて、また山南の腕に包まれる。

「や、山南さん……っ」
 耳元に吐息がかかり、私は一気に力が抜けてしまった。大石にやられたときは平気だったのに、今はまったく力が入らない。気が張っていたせいもあるのかもしれないが、これは私がそれだけ気を許しているということだろうか。

 耳を齧られる感触に、小さく出てしまいそうな声を堪える。

「ちょ……っ」
 首筋に口付けられて、ざわざわと体中の感覚が研ぎ澄まされてゆくのを感じる。でも、対照的に力は抜けてしまって、抵抗らしい抵抗もできない。

「っん、なに……っ」
「約束の徴を、ね」
 わからないほど、私は疎いわけではないだけに、目を見開いた。ついで、私の顔どころか体中が熱くなってくる。

「こんなことしなくても、行きますってばっ」
「ーー来なかったら、私は葉桜君にもっと酷いことをしてしまうかもしれないな」
「わ、わかりましたっ!」
 本当に、山南さんにこんなことを教えたのは誰だ。才谷か永倉かわからないが、あとで絶対殴ってやる。

 そんな決意を私が固めていると、頬に山南さんの手が伸びてきて、目線を合わせられた。

「冗談だから、そんな顔をしないでくれ」
「……冗談……?」
「少しやりすぎてしまったようだね」
 苦笑している山南だが、目は真剣そのもので、冗談という言葉が信じられる気がしない。

 再び引き寄せられて、私は山南の胸に寄りかかる。

「もし、葉桜君が私の怪我に負い目を感じているというのなら、もう少し私のところに足を運んでほしい。私はもう新選組を除隊した身だけれども、志は変わらずに共にあるつもりだよ」
「山南さん」
 また泣きそうになる私の目元を、墨の匂いのする山南の指が拭ってゆく。

「だからね、いつでも休憩においで」
 山南の優しい言葉に私が頷く前に、襖を隔てた向こうから快活な笑い声が聞こえてきた。

「梅さんっ、人に着物を投げないでくださいっ!」
「はっはっはっ」
「誰が全部脱げと言った!」
「気にしちゃ負けぜよ、はっはっはっ」
 才谷の起こす騒がしい声に泣いていたのも忘れて私は吹き出し、山南から離れた。

 危うく頷いてしまいそうだったけれど、やはり私はあまり山南のいる場所に足を運ぶべきではないだろう。逃げかもしれないが、山南には明里と幸せになってほしいから、私がそれを邪魔するべきではない。

「葉桜君」
「山南さんこそ、私なんか構ってないで、さっさと明里さんと一緒になってくださいよ」
「っ」
「そうしたら、遊びに寄ってもいいかな」
 山南が伸ばしてくる手をすり抜けて、私は隣の部屋の襖に手をかけた。

 私が襖を開く前に、山南が後ろからそれを押し留めてくる。こうして山南の香りに触れていると、時々自分の役目を忘れそうにもなるから、私はやはりこれ以上山南に近づくべきではない。

「葉桜君」
「続きは明日にしましょうよ」
 私が振り返らずに囁くように言うと、しばらくはじっとしていた山南が根負けした。離れていく気配を寂しく思いながら、私は作り笑顔で振り返る。

「明日は、葉桜君の好きな酒でも用意しておくよ」
「期待してますー」
 今度は襖を開くことを止められはしなかった。騒がしい隣室に、私は努めて大きな声をかける。

「はははっ、才谷は健康で何よりだなっ」
「おう、聞こえちゅうか、葉桜さん」
 才谷は私と山南を交互に見て、なにか言いたげな顔をしていたが、私はいつもの笑顔でそれを制した。隣で何があったかとか、つっこまれてはまた山南にごねられてしまうし、今度は誤魔化しきれる気がしない。

「こいつはたしかに体調良好、健康そのものだな」
「ほりゃあよかった。それにしたち、楽しい診察じゃった。西洋医学とはたいしたものじゃ」
 私は彼らの輪に何でもない風にするりと入り込みつつ、才谷の着付けに手を貸してゆく。

「医学じゃなくてもなんでも異国のモノは好きなんだろ、梅さんは」
「はっはっはっ、そのとおりやか。葉桜さんはよおわかっちゅうが」
 立ち上がった才谷が、私に抱きつこうとしてきたが、私は難なく避けた。才谷も本気ではないから、敢えて無理を通そうとはしない。

「つれん人じゃ。ほいじゃ、また遊びに来るき。次もまた楽しいことがあるとええがのう」
「ああ、また来いよ。もちろん、山南さんも」
 片目を閉じて私が笑うと、才谷が心得たように山南を引っ張っていった。

 騒がしい者たちもいなくなり、診察をしていた部屋には良順と私、鈴花、それから山崎だけが残る。

「さてと、良順センセイ?」
「おう、そろそろ男衆もいなくなったしな。残ったおまえたちの診察を始めようか」
「はぁいっ」
 元気な返事をしたのは、山崎だ。格好が格好だけに分かっていても松本自身忘れていた問題に唸りをあげる。なんといっても、先程妙な悲鳴をあげられたばかりだ。

「っと、まだ男が残ってたな。山崎、まずはおまえからだ」
「いやぁん、乙女の裸を見るなんてぇ」
「いいから早くしやがれ」
「で、でもぉーっ」
 渋る山崎の隣に立ち、私はその腕を取る。

「烝ちゃんー? 今日は観念してもらうわよ」
「あ、え、葉桜、ちゃん……?」
「いーじゃない、別に私は見たことあるし」
「え!?」
 鈴花が驚いた声をあげる。だが、同じ場所で生活しているのだから驚くほどのことでもない。私は山崎とは以前から風呂で鉢合わせもするし、着せ替えごっこもさせられてる。寝る前の女装を解いている山崎の姿も知っているのだから、男だとか女だとかは今更だ。

 頬を赤らめる山崎に私が微笑むと、その山崎はちらりと鈴花を見る。ああ、とそれで私は山崎が脱ぎたがらない理由に納得した。

 山崎の女装を解いた姿を知っているのは、新選組の中でも私の他に近藤と土方ぐらいしか知らないはずだ。そのうえ、鈴花は可愛い可愛い女の子。

「鈴花ちゃん、悪いけど後ろ向いててくれる?」
「どうしてですか……?」
「烝ちゃんが恥ずかしいって」
 そもそも今さら恥ずかしがるというのもアレだが、親友の意図を汲んでのお願いに素直に鈴花は頷いた。それに無理に山崎の男姿を見ても、何か特別なことがあるわけじゃない。

「ねぇ、葉桜ちゃんー」
「脱がせてあげようか?」
「……もぅ、わかったわよぉ」
 こうして渋る山崎の診察も滞りなく終わり、鈴花の診察も終わり、最後に私の番となったのだが。

「鈴花、この辺で薬屋あるか」
「え?」
「この薬買ってきてくれ。ああ、山崎もだ」
「ええーっ、アタシもぉ?」
「おまえなら薬も詳しいだろ」
 急に鈴花と山崎に用を言いつけて追い払おうとする良順の心遣いに、私は苦笑する。気を使ってくれている良順の相変わらずの優しさには悪いけど、今回はこの二人にもちゃんと見ておいて貰った方がいいと思っているから、私は小さな笑いと共にそれを辞退した。

「ふふっ、良順センセイ、気にしなくていいよ。鈴花ちゃんも烝ちゃんもここにいて?」
「え、でも薬」
「良順センセイが本気で言ってるわけないでしょ。もう私の診察しか残っていないんだから、薬なんて後で調達出来るし」
 そもそも私は薬が必要な怪我なんて残していないし。

「葉桜、いいのか?」
「別に烝ちゃんには見られてるしねー。鈴花ちゃんもこの間、ね」
 額に手を当て深く息を吐く良順をクスクスと笑いながら、私は袴を脱ぎ、ひとつひとつの紐を解く。最後の一枚まで脱ぎいでしまった私に山崎も鈴花も険しい顔を隠しもしない。

「葉桜ちゃん」
「ん? 烝ちゃんは見慣れてるでしょ?」
「……そこまでは見慣れてないわよ」
 ふいと顔を背ける山崎の耳は赤い。鈴花もほんのりと顔が赤くなっているようだ。

 二人の様子を見ながら、私は堂々と良順の前に立つ。光の下でみると余計に私の傷の多さは目立つことだろう。大小様々な傷痕は古いモノも新しいモノも入り交じっている。見慣れているはずの良順は、私に向きを指示しながらも眉間の皺を増やしていった。

「ひーふーみー……増えすぎだ、バカ」
「あれから随分経ってるしねぇ」
「親父さんが泣いてるぞ」
「あはは、いーんだよ。いつか父様に貰ってもらう約束だからねっ」
 気心しれたこの会話は、父様が生きているときから、私と良順の間で繰り返されてきたものだ。

「背中のもすげーが、この腹はなんだ?」
「背中はちょっと子供を助けようとして、ヘマしちゃった」
「ヘマって言うか」
「無謀ですよね……」
 何か余計なことを言い出しそうな二人を遮り、もうひとつを続ける。

「脇腹のは山南さんの剣を奪った代償だよ」
 さらりと言ったものの、内心は怒られることにドキドキと動機が煩いぐらいに鳴っているだ。それを隠して笑う笑う私の頬を、良順が思いっきり引っ張った。

「あんま難しいこと考えんな、葉桜。おまえは親父そっくりなんだからよ」
 考えるより先に体が動いてしまっているということぐらい知っていると言われ、私の笑顔からほろりと一粒の雫がこぼれ落ちてしまった。慣れたようにそれを良順が拭い、私もされるがままになる。

「どれも的確に処置してあるな。傷以外で具合の悪いところはねぇか?」
「ないよ」
 さっきからの忌憚ないやりとりに見ていた山崎と鈴花が首を傾げる。

「ねぇ、葉桜ちゃんと良順ちゃんってどういう関係?」
「や、山崎さんっ」
「なによーぉ、鈴花ちゃんだって知りたいでしょー?」
 二人がもめているのを私がクスクス笑っている間に診察も終わり、良順自らの傷の手当ても終わった。私は鈴花と山崎の手を借りて元の通りに平服を着こむ。

「良順センセイはもともと父の親友なんだよ。その縁で小さい頃から診てもらってるし、医術も手解きされてる」
 頷いている良順に山崎がどうりで手馴れてるわけね、と不満そうに呟く。山崎は多少のことでは私が自分で手当していることを知っているけれど、今日のように他人の手当までしているのをみるのは初めてだっただろう。だから、少し不思議に思ったに違いない。

「手解きというか、葉桜が自分の傷を応急手当てぐらいできるように仕込んだだけだ。こいつ昔っから不器用でな」
「だいぶマシにはなったよ?」
「……まぁ、マシにはなったな」
「だろー?」
 嬉しそうに私が微笑むのを、懐かしむように遠い目で良順が見ている。

「なに、鈴花ちゃん?」
「え、い、いいえ、葉桜さんって、そんなに不器用でしたっけ」
 誤魔化すような鈴花の言葉を私は軽く笑った。

「不器用だよー。生傷なんて毎日だし」
「そりゃお前が藪をつっきるからだ」
「その方が面白かったんだもん」
「だもん、じゃねぇよ、バカ」
 昔のノリで落とされそうな拳骨を、私は既の所で交わした。

「藪を突っ切るって、なにしてんの、葉桜ちゃん」
「……かくれんぼ?」
「違うだろ」
 そんな風に三人でやり取りしていたが、鈴花はまだなにか腑に落ちない顔をしている。

「ふふっ、どうして自分がここにいるのか疑問に思ってる?」
 私の問いかけに、鈴花はわかりやすく顔を強張らせた。

「普通の女であれば、私たちの傷はただの醜いものでしかないかもしれない。だけど、鈴花ちゃん、覚えておいて」
「私たちの傷はね、それだけ命を懸けて生き抜いてきた証でなんだ。自分の力で道を切り開いてきた証なんだから、ひとつも恥じる傷なんてないんだよ」
 はっとしたような顔の鈴花の瞳が僅かに潤む。その頭を私は優しく撫でてやった。

 最近、鈴花が少しずつだけれど自分の傷を気にしてきているのに気が付いていた。だから、私は言ってあげたかった。私たちは自分が選んだ道を恥じるようなことは何もしていない。ただ信念のためにこの新選組に入り、多くの戦いを生き抜いてきたのだから。

 この傷を誰に非難される謂われもないのだ。

「それでも気になるなら、私よりは少ないと誇っていい。私に比べたら、鈴花ちゃんの体は全然綺麗だよ」
 最後にぽんと鈴花の頭に手を置き、私は部屋を出て大きく伸びをした。これで今のところの心配だったことの全てを解消出来たし、気分的にさっぱりしたなぁと笑いが溢れてくる。その私の背に三人三様の声がかけられた。

「葉桜ちゃんはもうちょっと別のことに恥じらいを持つべきよ」
「傷を苦に思わねぇ強さは立派だが、もう少し減らす努力をしろ」
 山崎、良順の心配の声は、鈴花の叫ぶような声にかき消された。

「葉桜さんは綺麗です!」
 彼らの心遣いが嬉しくて、私は顔だけ振り返り、笑顔に照れくささを隠して礼を言った。

「有難う」
 女だとか男だとか関係ない。私や鈴花が生きる世界は常に死と隣り合っていて、普通の物よりもずっと近くに死がある。それから逃れるために足掻いて足掻いてできた傷は、決して自分だけのためじゃない。誰かを守るために強くなった証なのだから、恥じることなどひとつもないのだ。

 それでも、いつかは鈴花も恋をするのだろう。その時に心ない言葉をかけるような者にだけは、鈴花を任せたくないな、と私は思っていた。



p.4

3#キズ







 夕闇に細く長く影が伸びている。私は良順の影を踏んづけるが、近藤らと話し込んでいる良順は気が付かないようだ。

「今日は楽しかったぜ。またちょくちょく寄らせてもらうことにしよう」
「ぜひともお願いしますよ」
 本当に嬉しそうな近藤に、私もまた嬉しくなる。

「今日は良順ちゃんに西洋医学の手ほどきも受けちゃったし充実した一日だったわぁ」
 満足そうな山崎に良順が返す。

「おまえ、結構有望だぜ。ここの隊士じゃなかったら俺の弟子にして連れ帰っちまうとこだ」
「アタシってば新選組の医師って感じぃーっ?」
 実際、初めての山崎の方がかなり手際が良かったのは確かだ。私が何日も何日もかかって習得した治療技術を半日もしないうちにこなしてしまった。もともと器用な方とは思っていたけど、やはり仕事がら薬草に詳しいというのも手伝っているのだろうか。

 どちらにしても、不器用な私には羨ましい話だ。

「おい、葉桜、と鈴花」
「なんだ?」
「ちょいと聞いてみようかと思ったんだが……その……男の隊士に変なことされたりしてねぇか?」
 変なことと言われて、思わず私は首筋を手で隠していた。約束の徴だと山南がつけた痕が熱を持った気がするが、これが変なことに入るかというと微妙なところだ。第一、私はそれを嫌だと思わなかったのだから。

 そういえば、山南のそれで忘れていたが、大石の件もある。それを知っているということはないだろうが、心配している良順に見透かされたかと思って私はどきりとした。でも、そういえばこうやって探りをいれてくるのは良順の診察の方法の一つだと思い出す。昔からこの人にはよく隠し事をするから警戒されているのだろう。

「みんないい人たちですから。ぜーんぜんありません」
「ここのはみんなイイ奴ばかりだよ」
 鈴花に習って、私も笑顔で応える。良順は強く葉桜の肩を二、三度叩いて「そうか」と笑った。罪悪感は少しあるけど、多忙な良順に無闇に私の心配をさせる必要は無いだろう。

 良順が近藤に向き直り、別れの挨拶を述べている間に、私は屯所の門へ向かう。

「近藤くん、あんたのことは前から気に入っていたが、ここを訪れてますます気に入ったよ。この松本良順、いつ何時であろうと有事の際には必ずあんたたちの力となることを約束しよう」
「ありがとうございますっ!!」
 屯所の門を良順と二人で潜り抜ける。良順を見送るということは近藤や土方に先に言付けてあるし、私達が旧知と知った今は二人とも快く送り出してくれた。ただ鈴花だけが少し不安そうにしていた。

「近藤さん、まだ手を振ってますよ」
 角を曲がったところで先を歩いていた良順が立ち止まり、私を振り返る。その真剣な目に少し怯む。

「もう一度聞くが、男の隊士に迫られたりしてねぇんだな?」
「……しつこいよ。良ちゃん」
 うんざりと返す私に、良順は自分の首筋を軽くつついて示してくる。

「じゃあ、そりゃあなんだ?」
「ーー虫に食われたんだよ」
 ふいを顔を背けると、虫か、と言った後で良順は小さく笑った。

「まあ、同意なしにお前に何かできるやつなんかはなかなかいねぇかもしれねぇが、前のこともある。油断すんじゃねぇぞ」
「ほんっとうにしつこいよ、良ちゃん」
 ずっと昔、一度だけ葉桜も襲われかけたことがある。それを良順は心配しているのだというのはわかる。だけど、今の私はあの頃とは違う。

 私の肩に軽く手を置いて良順が微笑むその視線の先は、私の真後ろだ。だが、そこに誰かがいるような気配は無い。ただ温かさと安心だけがある。

「お前の親父にあんまり心配をかけてやるなよ」
「父様はもういないよ」
「いるさ、葉桜をいつだって見守ってるぜ」
「……そういう冗談はやめてよ」
「はっ、まだ幽霊が怖いのか?」
「怖くないよっ」
「はははっ!」
「怖くないんだっていってるだろっ」
 良順はいつも言う。直ぐ近くに父様がいるのだと、私を見守っているのだと、言う。何も出来ないことを歯がゆく思っているのだとも、いつもいつも私を心配しているのだとも。徳川の巫女でありながら、私は幽霊を信じない。存在しているのかもしれない。だが、既に死んだ存在は、後薄れゆくばかりでそれほどの力があるとは到底思えないのだ。死んだ人間よりも、私は生きている人間の方がよっぽど怖い。

「でも、本当に父様がいてくれるならさ」
 信じていなくても、時々縋りたくなるときはある。でも、やはりいないものに縋っても何もならないのは確かだ。

「娘を信用しろって言っておいてよ」
 笑う私の頭を良順はくるりと撫でて引き寄せた。

「何してもいいが、ーー死ぬなよ、葉桜」
 私は良順の言葉に、何も答えられなかった。最近、自分の役目を自覚しなおしてからは特に感じていることがある。今のこの動乱はもちろん徳川の業であるだろうし、自分はそれを受けるための器だ。だが、日増しに大きくなっていくこれを、私は受け止めきれる自信はない。今までにこんな風に思うコトなんてなかったけれど、ただ漠然と自分の死を感じるようになっていた。

 表の巫女は同じように感じているかどうかは知らないし、連絡もとっていない。新選組の行く末を見届けられるのかどうか、それまで自分が生きているのかどうかも、私にはわからない。わかるのは、おそらく全てを見届けるまで、自分の役目は終わらないだろうと言うことだ。

「葉桜と総司は似ているな」
 返事を返さない私を小さく笑う音が響いてきて、私は顔をあげて良順を見た。

「おまえら、もうちょっと生に執着してくれ。生きてなきゃ、大切なモノは何も守れないぞ」
「わかってるよ」
 ふて腐れたように呟く私をもう一度抱きしめ、良順はその体を離した。

「じゃあ、またな」
「うん、良ちゃんも」
 私は良順の姿が見えなくなってからも、彼の消えた先をしばらく見続けていた。

 日本に名だたる名医松本良順は近藤への言葉通り、これ以降新選組の強力な支援者となった。この先、松本の新選組に対する愛情は終生変わることがなかったという。

 私は一度目を閉じ、次に目を開けてすぐに踵を返して、屯所である西本願寺へと引き返した。自分の足元から伸びる長い影を踏みつつ、歩く。屯所の門を潜って直ぐ、自分の部屋へと真っ直ぐに向かったのは、できるだけ誰にも会いたくなかったからだ。昼間の山南のこともどう回避したものか考えなくてはならないだろう。いっそのこと、誰か連れて行こうか。

 考えながら部屋へと真っ直ぐに向かう私の視界に、縁側で寛ぐ近藤の姿が見えて、私は足を止めていた。夕闇で表情まではわからないけれど、近藤はこちらを見ている気がする。何か用でもあるのだろうか。

(今日はもう仕事したくないなぁ)
 私は一度俯き、笑顔を作って近藤に近づいた。

「近藤さん、こんなところで何をしているんですか?」
 私は近藤の前まで来てそう尋ねた。何をしているのかと私が尋ねたのは、近藤が空手だからだ。酒の一つでも飲んでいれば、月見酒と洒落こめただろうが、今はそういうつもりでいるワケではなさそうだ。近藤の瞳は何かを問いたげにしている。

「もちろん、葉桜君を待っていたんだよー」
 私は近藤の隣で草履を脱いで、両手でそれを叩いて、土を払った。

「仕事ですか? 容保様のこと? それとも、山南さんについて? 良ちゃ……良順センセイのことですか?」
 心当たりをひと通り上げてみれば、近藤は困った様子で首を振る。どれでもないということに、私はほっと安堵の息を吐いて、近藤と一人分の間を空けて、腰を下ろした。

「葉桜君」
 真剣な顔で私を見てくる近藤に、私は首を傾げる。近藤はそんな視線を向けたまま、縁側に置かれた私の手の上に自分の手を重ねてきた。反射的に、私は体を硬直させてしまった。

 山南の時はなんともなかったのに、今はあの時の大石を思い出してしまった。近藤がそんなことをしないとわかっているはずなのに、だ。

 近藤は悲しそうに眦を下げる。

「ここには随分と不逞な輩がいるようだね」
「なにがです」
 土方もだが、近藤も何故こんな少しのことで気がつくのだろう。あれから随分経っているし、あの時だって気がついていなかったのに。

「入隊方法、もうちょっと考え直した方がいいねー」
「近藤さん?」
「葉桜君を襲うような隊士は誰だい?」
 一瞬鋭くなった近藤の視線から逃れようとした私を、すかさず近藤は抱き寄せた。触れた箇所が熱を持ち始めるが、身動ぎする私を近藤は更に強く抱きしめる。

「襲われてませんっ」
「ふぅん」
「そりゃ、ちょっと油断して接吻されましたけど、それ以上は何もされてませんっ」
 抱き寄せた際に、首筋に赤い痕を見つけた近藤が、そっと撫でる。

「これは?」
「そ、む、虫に噛まれたんですっ」
 良順と同じ答えを返すが、近藤は納得していないようだ。首筋に付けられた時のことを思い出し、自然と赤くなる顔を隠すことも出来ない私を、あからさまに訝しんでいる。

「……山南さんです」
「え?」
 よほど予想外だったのか、近藤は目を瞬かせている。

「今日、油断してやられたんですよ。明日の午後に顔を出す約束として」
 誰に教わったのか、硬派な山南がここまでするなんて、私だって予想外だ。あんなふうに迫られて、嫌なわけではないが、平静など保てない。

「葉桜君と山南さんはそういう関係だっけ?」
「違いますっ!」
「それはいいとして」
 両手をしっかりと握られて、また近藤が私を真っ直ぐに見てくる。正直、隠し事がある身としては、かなりやりにくい。

「油断して、接吻したのは別の相手だよね。それは誰だい?」
 びくりと私が身を振るわせるが、開放してくれる様子はない。

 あの時のことは、あまり思い出したくもないのに。あんな風に力で敵わないことをされると、悔しさで体にも力が入ってしまう。こんな顔を見られたくないから、せめて俯く。

「葉桜君を襲った不逞な隊士は誰だい?」
 私はふるふると首を振って、答えを拒絶した。

「これは私の問題です」
 そう言っても引く様子のない近藤に、私は苛々と焦燥をぶつけてしまう。

「誰?」
「近藤さんには関係ないコトでしょうっ?」
 悲鳴のように叫んでしまった私の声は、わずかに涙の色を含んでいた。今は夕餉中なので辺りに人影はほとんどない。そうでなくとも、近藤のいるこの場所には、あまり人は来ないのだ。それに気がついた私は、無理矢理に近藤の手を外そうとした。

「関係ある」
 真っ直ぐに見つめてくる近藤の視線は、必死に抵抗する私をどう捉えているのだろうか。

「トシの部屋の前にあった罠と襲われたことは関係あるんだろ。眠っている間も警戒を解けないでいては疲れもとれない。そんな調子では隊務に支障が出るんじゃないかい?」
 あの日のことを連想させる言葉に、私は身を震わせる。

 警戒は、確かにずっとしていた。でも、同時に私は待っていた気がする。襲われることじゃなく、大石とはちゃんと話をしなければならないからだ。そうすれば、回避できる事態だってあるだろう。

「そういうわけだから、葉桜君」
「い、や、で、すっ」
 私がぐぐぐっと渾身の力を込めても、流石にしっかりと掴まれた近藤の手は、私の腕から外れない。

「俺に」
「教えませんっ」
 互いに引く気のない攻防は、近藤が少し引く力を緩めることで、あっさりと片がついた。近藤の胸に引き寄せられた私は、甘い近藤の香りに包まれて、目眩がした。

 怖くはない。けれど、どうしてこんなにもこの人は父様に似ているのだろう。泣きたくなってしまうじゃないか。

 そんな私の心情に気づくはずのない近藤は、私の耳元にそっと口を寄せて囁いた。

「今日はご苦労様」
 近藤の柔らかな声音に、私も驚いて、動きを止める。今日私がしたことといえば、良順の出迎えと見送り、それから診察の手伝いぐらいだ。どれも、近藤に労われるほどのことでもない。

「あれは仕事じゃありません。良順先生には恩もあるから」
「うん、有難う」
「だから、近藤さんに礼を言われることでもないんですってば」
「うん」
 柔らかな声音のまま、近藤が私の髪を梳く。心地よさに思わず目を細めると、何故か私の眦から雫がこぼれ落ちた。泣いた覚えもないだけに、私自身が驚いた。

 私の目元を拭う近藤の手は慣れていて、優しさが溢れている。それだけ女性慣れしていると事実に気が付き、私は眉根を寄せる。それを軽く笑って、近藤は私の頭を自分の膝に寝かせた。俗にいう膝枕だ。

「じゃあもう聞かないから、しばらくこうしていてくれないかな」
「何故ですか?」
「俺がそうしたいから」
 私はしばらく近藤を見上げていたが、その真意まではわからなかった。ただ髪を梳く手が心地よくて、だんだんと重くなる瞼に逆らわずに、深い眠りへと誘われていった。

 私が眠っていたのがどれぐらいかはわからないけれど、目を覚ました私の前に真っ先に飛び込んできたのは近藤の寝顔で。小さく笑って鼻をつつくと、近藤が目を覚まして。

 照れくさそうに笑う顔は、不思議と少年の幼さを覗かせていた。



p.5

4#診察翌日







 良順が新選組屯所を訪れた翌日、私は鈴花に半ば引きづられるようにして、八木邸に足を踏み入れていた。どうやら、鈴花は山崎と山南の両方から頼まれたらしかったのだ。

「葉桜さんが気にすることはないんですよ」
「うーん、でもさーぁ……」
 八木邸入口に一歩入ったところで完全に足を止めてしまった私を必死に鈴花が説得してくれるが、今からでも帰りたい気持ちで私はいっぱいだった。ただ、ここに入った時点で既に山南には気づかれているだろうから、ここで逃げると後々拙くなるから動かないだけで。

「葉桜さんっ、いいかげんに観念してくださいっ」
「……はぁぁぁ……っ」
「葉桜さんっ!」
 私がため息で返事をすると、鈴花に鋭く怒られてしまった。

「鈴花ちゃん、あんまり怒ると可愛い顔が台無しよー?」
「っ」
 更に眦を釣り上げた鈴花が帰るまで、そう時間はかからなかった。彼女が去った後で私は八木邸の門によりかかり、目を閉じて、深く息を吐きだす。

「……いい加減、出てきたらどうよ、烝ちゃん」
「あら、バレてたの?」
 私が目を開くと、そこにはいつもどおりの綺羅びやかな女姿の山崎が立っていた。

「流石に仕事明けだからね、気配にも敏感になるよ」
「ふーん?」
「……山崎が覗いてるなら、私は今直ぐに帰る」
「えーっ」
 やっぱり覗く気だったのか、と私は短く息を吐き、今度は奥に向かって声を張り上げた。

「山南さん、そういうわけなんで、壬生寺でお待ちしてます」
 私はそのまま踵を返し、元屯所を後にした。

 歩きなれた裏道を通って、壬生寺の裏手から入り、本殿の縁に腰を下ろす。懐から取り出した舞扇を手にし、何度か開閉を繰り返していると、ほどなく境内に山南が姿を表した。息を切らしている様子はないが、なんとなく焦りが見えて、私は小さく笑う。

「覗かれるのは趣味じゃないんで」
「だが、ここのほうが人の目が多いだろう?」
 山南の問に、私はただ曖昧に笑って返した。神社というのは、私にとっては家と同じなのだといても、おそらく常人にはよくわからないだろうから、説明するつもりはない。

 私が山南を手招きすると、彼は訝しげながらも私に近づいてくる。その足が私の前に来た瞬間、私は山南の手をとって、引き寄せた。山南は思いも寄らない私からの行動に戸惑っていたが、多少たたらを踏んだものの、私の両脇に手をついて、危うく押し潰すのは堪えてくれたようだ。

「葉桜君っ、何を……っ」
 抗議しようとする山南の肩口に顔を埋めて、私は深く息を吐きだす。

「……少しだけ、このままで……」
 触れているとより深く感じる山南の香りは変わらずに野山の香りだ。そこに混じる古い書物の香りも、汗の香りも、全てが私の郷愁を思い起こさせる。ーー帰りたい、と願いたくなる。

 山南の手が恐る恐る私の背中に回り、それから強く抱きしめられる。

「葉桜君、きみは私をなんとも思っていないかもしれないけれど」
「……なんとも思っていないなら、ここまでの無茶なんでできませんよ……」
 山南の言葉を穏やかな声音で遮ると、それ以上山南は続けなかった。代わりにため息が降ってくる。

「一人になってから、空いた時間はよく葉桜君のことを思い出してしまうんだ。元気にしているか、無理はしていないか、一人でまた泣いているんじゃないか、と」
 私はそれをクスクスと笑って交わす。

「私はそんなに泣き虫じゃありませんよ」
「そうかな」
「そうですよー、子供じゃないんですから」
 私が山南の肩口からゆっくりと顔をあげると、穏やかな山南の視線とぶつかった。釣られるように、私も穏やかに笑っていた。

「お久しぶりです、山南さん」
「……ああ、久し振りだね」
 昨日も会ったけれど、あれは互いに話す時間は長く取れなかった。だからこそ、山南が強く再会を望んだのだろう。山崎や鈴花に頼んでまでというのは、これまでにはないことだ。

「折角なのでおみやげを持ってきたんですよー、それからお茶も」
「……まるで、最初からあの家に上がる気がなかったように準備がいいね」
「はははっ、否定はしません」
 懐から饅頭を二つ取り出し、私はひとつを山南に手渡す。それから、山南が座る間に水筒を取り出し、二人の間に置く。湯呑なんて持ってきているわけがない。

 巡察帰りに買った饅頭だったが、懐に入れておいたおかげで、まだそれほど冷めてはいないようだ。包みを開いて、私は饅頭にかぶりつく。これは知人の女性オススメの栗まんじゅうで、確かに控えめな甘さが私のような甘味が苦手なものでも程良い。

 戸惑うように私が食べる様子を見ていた山南だが、程なく口をつけたようだ。それを横目に見ながら、私は晴天の空を見上げる。雲が細くたなびく、良い日だ。

 二人で声もなく空を見ながら、まんじゅうを食べて、それでも山南は何も言わなくて。先に食べ終わった私が歩き出して直ぐ、山南も私の後をついてきた。

 二人で壬生寺の周囲の竹林の中に入り、ザクザクと歩く。二人だけの足音は不思議と心地良い。

「葉桜君」
「なんですかー」
 声をかけられて、私は立ち止まり、振り返る。困った様子の山南はなにか言いたげだ。もっとも、話があるから呼んだのだろうし、おそらくの内容にも私は予想がついている。

 たぶん、山南にとっては夢の、私にとっては引越の最後の日のことだ。

「ちゃんと休みはとっているかい?」
「はい」
「ちゃんと眠っているかい?」
「はい」
「……食事は」
「食べてますよー。でも、山南さんが聞きたいのはそういうことじゃあないんでしょう?」
 にやりと笑って、私はなかなか近づいてこない山南に歩み寄り、その眼の前に立った。普通の女性よりは背の高い私でも見上げなければならない山南の顔は、戸惑いをそのまま写している。

「わかるのかい?」
「たぶん」
 私は小さく笑みを零し、隣をすり抜けて、壬生寺へと戻り始めた。山南も大人しくついてくる音が聞こえる。

「塾の方はどうですか? 評判いいですから、人手が足りないようなら言ってくださいね」
「葉桜君が来てくれるのかい?」
「ははっ、忙しいので、他の奴を遣わせます。こき使ってやってください」
「……葉桜君が来てくれる方が」
「残念ながら」
 境内が見えてきた辺りで、私は立ち止まり、山南を振り返った。山南も一定の距離を保って立ち止まる。それでも、二人共自分の間合いであるのは変わらない。

「本当に忙しいんですよ」
 今度は笑わずに告げると、山南は目を見張った。ざざざ、と風の流れで木の葉がさざめく。私はそれに合わせて目を閉じ、それから思わず苦笑が溢れた。

 山南が、忙しい、なんて言葉一つで納得してくれるワケがないとわかっているのに、この期に及んで私はごまかそうとしているらしい。

「……沖田が、悩んでいるんです。それに、伊東さんたちも」
 真っ直ぐに山南の目を見ていることができなくて、私は視線を地面に落とした。

 出会いがあるように、またいつかは別れが来ると私は知っている。だから、今更泣いたりなどしない。

「……知っているということが、こんなにも辛いなんて、想像できなかった」
 時の先を知ることが出来れば、物事のすべてがうまくいくのだと信じていた。知らないから、うまく行くときと行かない時があるのだ、と。

「葉桜……」
「知っていても、私には何も変えられなかった。下村……芹沢の死も、沖田の病も、世の行く末も、ただ見守ることしか出来ない」
「っ」
「唯一、変えることができたのは、山南さん、あなただけなんです」
 私が苦しい顔を隠さずに顔を上げると、山南もつらそうだ。

「私にとって、山南さん、あなたがいることがなによりの希望で、それ以上なんて望むのは贅沢すぎますよ」
「っ、そんなことは……っ」
 否定しようとした山南は言葉を止める。それ以上を続けられないようだと悟って、私はまた小さく笑んで、壬生寺の本殿の前まで戻った。

 一度強く目を閉じ、それから深く深く息を吐きだした後で、目を開く。弱音を吐く時間は、終わりだ。

 近づいてきた山南の足音を振り返り、私はいつもの笑顔を向けた。

「じゃあ、近いうちに手伝いを寄越すので、こき使ってやってください」
「葉桜君」
 何度もためらっていた山南の腕が私に近づき、ふわりと抱きしめた。落ち着く山南の香りを吸い込みながら、私は目を閉じる。

「山南さん、今日はありがとうございました」
 直ぐに山南から身を離し、私は軽く後方へと一歩の距離をとった。たぶん、ここに来た時よりは少しだけ穏やかな心地で私は笑えたはずだ。でも、山南は辛そうに私を見ている。

 そんな顔をさせるために、私は山南を生かしたわけじゃない。この人には子供たちと笑い合う未来が似合っていると思ったから、生きていて欲しいと思ったのだ。

 自分でも何故この人にここまでしてしまうのかはわからない。でも、生きていて欲しいと願っている私の気持ちに嘘はない。山南の願うように、隣に自分がいることが叶わないとしても。

「月に一度は私も顔を出しますから、そんな顔をしないでください」
 ーー私には、願うことさえ過ぎた想いだ。

 自分が幕府を支える立場にあり、そして決して逃れられない枷になっていることを私はよく知っている。そして、逃れることを私自身望んでいない。この身はすべて、守るために使うのだと誓ったことを決して私は忘れるわけにはいかないのだ。

 山南は少し逡巡を瞳に映したものの、ひとつのため息の後で、柔らかに微笑んだ。

「では、葉桜君のために上等の酒を用意しておくよ」
 こちらの意図を正確に読み取ってくれたどうかはわからない。けれど、山南の好意に甘えて笑う私を、父様は許してくれるだろうか。

「あははっ、そんなものより新しいカラクリを用意しておいてくださる方がよっぽど楽しみですよー」
「そうかい? じゃあ、張り切って作るとしよう」
 一時でもこの人の隣にある安寧を、許してくれるだろうか。

「ぜひお願いします」
 今はまだ平和に微睡む私を、どうか許してください。



あとがき

1#良順来訪


沖田話になってしまった。
(2006/06/07)


沖田視点のモノローグに人称修正するついでに、改訂
(2006/07/06 14:48)


改訂
(2012/07/09)


2#診察


長いかもと思ったけど、ここ最近の本編は必ず3話かかってますね。
謀っているワケじゃないんですけど、ゲームに則しようとすると長くなる~。
まだ7章なのにもう50話まで来てしまいました…。
(2006/06/07)


梅さんの台詞を微細修正。
(2006/06/21 11:15)


改訂
人称を大幅に修正、っていうか、山南さん視点が混じってごちゃごちゃになってたところを修正したら、なんか大幅に会話が追加されたんですけど、気のせいということで(え
(2012/07/10)


3#キズ


良順先生で終わらせても良かったんですけど、何か中途半端だったのと近藤さんで書きたい病が始まったので、近藤さん。
しばらく沖田で書くのは辛いし、次の章はどうしようか。


リクエストがなければイベントはほとんどすっとばしです。
起こして欲しいイベントはお早めにメールや拍手等でリクエストしてください。
何か100話を超えそうで怖いですが、なんとか「会話」→「本編」→「会話」→「本編」の順で更新したいです。
1章は少なくとも7話以上になりそうですが、なんだか最初の方も書き直したい気分に。
でも、そうするとここまでの章番号も変わっちゃうし、「xx.5」話見たいな話がこっそり増えるかも。
ま、無理せず更新したいと思います。
(2006/06/07)


近藤のモノローグの人称を修正
(2006/07/06 14:54)


改訂。
近藤さんのモノローグをヒロイン視点に書き直しました。
(2012/07/10)


4#診察翌日(追加)


本編で追加してしまった山南との約束の後日談です。
書こうか書くまいか迷ったけど、伏線はこれ以上残すべきじゃないですよね?
(2012/10/02)


~次回までの経過コメント
近藤
「俺と伊藤先生は長州の動向を探るために大目付永井様の長州訊問使に随行する」
「俺にもしものことがあれば、新選組はトシに、天然理心流は総司に託したい」
「じゃあ…行ってくるぜ」
鈴花
「近藤さんのさっきの言葉…何だか遺言みたい」
「無事に帰って来られるといいけど…」