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書名:幕末恋風記
章名:本編

話名:(慶応二年長月十二日?) 8章#幕府凋落


作:ひまうさ
公開日(更新日):2006.6.15 (2012.10.10)
状態:公開
ページ数:3 頁
文字数:9726 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 7 枚
デフォルト名:榛野/葉桜
1)
1#幕府凋落
2#夏夜の禊ぎ
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p.1

1#幕府凋落







 慶応二年、長月も十二日を過ぎ、その名の通り夏も盛りといった暑くて長い夜、新選組隊士二十余名は京の闇にそれぞれ潜んでいた。理由なくというわけでは当然無くて、これも任務の一環である。そうは言っても、渋々駆り出されている私には当然やる気がないわけで。

「ったく、高札なんかにケチつけて何が楽しいんだか」
 私は文句を遠慮無く口にしながら、手持ちの水筒を傾け、ぐびりと水を飲み込み、こぼれ落ちた水を手の甲で拭った。いかにも虫の居所が悪そうな私の側には、鈴花と原田ぐらいしかいない。

「だな。やるならやるで、堂々とやりゃあいいのによぉ」
 同じく機嫌悪そうに応えるのは、今回の作戦総指揮を任されている原田だ。一見どっしりと構えてはいるが、三日も夜の見張りなんてことをしている割に、収穫の無さを苛ついているのは一目瞭然。原田自身の素の強面も手伝い、どことなく近寄りがたい雰囲気を出している。

 何故こんな夏の暑い夜に私たちがこんなことをしているのかというと、話は葉月二九日まで遡る。

 禁門の変以降、京の三条大橋西詰には長く長州藩の罪状を記した制札が立てられていた。これには京都市民の動揺を防ぐという意味があったのだが、二年の風雨にさらされて、最近は立ち腐れの様相を呈していた。それに最初に悪戯されていたのが、葉月二九日というわけである。

 翌朝に事件を知った京都奉行所からの報告によると、その文面が墨で塗りつぶされてから加茂川の河原へ投げ捨てられていたことから悪意あるものと判断された。それだけですめばまだよかったのだが、長月二日に同じ制札を立てたところ、今度は翌二日後にも再び加茂川に投げ込まれてしまったのである。

 京都奉行所ではこれを重大事と見なし、京都守護職に就いていた会津藩に探索を依頼してきた。結果、土佐藩士に疑わしき有りとなったのである。会津藩士・諏訪常吉が土佐藩留守居役・荒尾騰作に問うたところ、こちらも疑わしき有りと答えられ、土佐藩士であっても仮借することはないという回答を得て、新選組に依頼がきたのである。

 会津藩から依頼が来たということは則ち、幕府からの依頼である。幕府の威信をかけて再び十日に制札は掲げられ、新選組として私たちは警護の任についているのだ。

「原田さん、堂々とは無理ですってば」
 鈴花が原田を嗜める。

「ばーか、堂々と幕府に文句つけりゃいいって言ってんだよ」
 どこまでを原田がきいているか知らないが、途中からの特に土佐藩との件に関しては、私は容保様から直接聞いてきたことであって、近藤や土方ぐらいしか知らない極秘事項とされている。話しぶりからすると、原田自身ははっきりと聞いていないが、なんとなく見当はついているといったところだろうか。私的な評価として、原田は粗野でがさつだが、馬鹿じゃない。彼は酒に酔うとあの山南までもが討論負けしてしまうほどの優等生になるのだから、相当なはずだ。

 私は二人の会話を聞きながら、水筒を傾け、最後の一滴を飲み干した。

「つうか、高札を墨で塗りつぶしたヤツなんか正座させて問い詰めてやりたくならねーか!? 墨を持参で高札叩き壊しに来るカッコなんざ、死ぬっほど最低じゃねーか!」
「そうですねえ」
「だな。こんなつっまんない仕事に隊士たちを拘束させてても、いいことないって。体はなまるし、気分だって滅入る」
 原田の言に鈴花と二人で同意しながら、私は袂から扇子を取り出す。それをばさりと開いて自分に風を送った後で、私がついでに鈴花にも風を分けてやると、彼女は大きな目を気持ちよさげにわずかに細めた。可愛いなぁ。

「早ぇとこ、けりつけねーとな」
 扇子を取り上げようとした原田から、私が手を翻すと、こちらは不満そうな顔が返ってくる。

「葉桜、ひとりだけずりーぞ」
「ふふん、用意が良いと言って欲しいね」
 単に私が普段から扇子を持ち歩いているだけというのは、公然の秘密である。

「なあ、桜庭。おまえはさ、誰が高札を引っこ抜いてるんだと思うよ?」
「うーん、やっぱり長州の人ですかね?」
 私から扇子を取り上げることを早々に諦めた原田が鈴花に問いかける。鈴花の無難な回答を聞きながら、私は両腕を上に振り上げて固まった体の筋を伸ばした。そろそろ定時の報告が来る頃だろうか。

「まぁ、ありがちな答えだが、もっともありうる線だな。どれくらいの長州者が京に舞い戻ってるかは知らねーけどよ」
 幕府の弱体化に伴い、ここ数日来長州者と思われるのも増えている。だが、池田屋事件や禁門の変を気にしてか、誰も彼も動きを控えているようだ。足並みを揃えようとしているのかもしれないが、一応は桂さんのおかげなのだろうか。もしそうなら、次に何か起きたときは、相当に手強いことだろう。

「嫌な話だが、例え犯人を捕まえたからって安心できるもんでもねーだろうな」
「それは、言えてますね」
 今回犯人を捕まえたとしても、もう幕府に力がないのは明らかとなっている。私の役目柄感じ取れるものもあるが、そうでなくても京の町を歩いているだけで幕府の威信が下降していることはわかる。

 ふぅと私は暑さに喘ぐ吐息を吐き出す。

「俺はな、今回は少々意外なトコから犯人が出る気がしてならねぇんだ」
 不意に原田が口にした言葉に、私は耳を(そばだ)てた。

「意外なトコって?」
「まだ、はっきりと頭に浮かんじゃこねーけど、そんな気がしやがる」
「何か気になるコトでも?」
 鈴花の問いに、原田が首の後ろに右手をやる。

「言葉で言えるほど具体的なものじゃねぇよ。ただ、首の後ろがチリチリするっつーか…何かある時には、いつも首の後ろにチリチリくるのさ」
 ちらりと視線が来ているけれど、私は気にせず扇子で自らに風を送って交わした。

「俺の言うコトは信じられねーか?」
「いえ、私は信じますよ」
「へへ…ありがとよ」
 なんだか弱気な原田に向かって、私は僅かに口角を上げた。

「ま、イイ線いってんじゃない?」
 動物的な勘なのだろうが、原田のそれはなかなかに鋭い。無意識での算段があるのかもしれないが、素面の原田に聞いたところで良い回答はもらえないだろう。今度酔わせて聞いてみるのも手ではある。

「葉桜さんも原田さんと同意見なんですか?」
 不意に問いかけてくる鈴花に私が視線を向けると、真剣な目で見つめてくる二人分の顔にぶつかった。

「そうねぇ。…まあ、張ってる人数も多いし、私たちがやばくなるコトはないと思うよ。どのみち、用心はしとくにこしたことはないけどね」
「そうですね」
 答えながら、心配するなと私が鈴花に笑いかけてやったのは、少し彼女が緊張しているようだったからだ。

「おまえも何か気になったことがあったら、すぐに言えよ」
「はい」
 原田も鈴花の背中を軽く叩いて宥め、それから私の隣に立つ。ひらりと伸びてきた原田の手から扇子を交わし、私は彼に向かって、にやりと笑う。

「あーあ、私も酒屋で張ってるのが良かったなぁ」
「てめ…絶対飲む気だろ」
「あったりまえでしょー。この暑いのに仕事なんかやってられっか」
 私から扇子を奪うことを諦め、傍においておいた水筒を取り上げた原田が、逆さに振ってため息を吐く様子を笑う。さっきから飲みたくて仕方なかったのだろうが、迂闊に手を出せなかったという所だろう。やっと手に取ったら、既に中身は私の中に消えてしまっている。まあこれは、ちょっとした仕返しみたいなものだ。

「あー橋の下とかも涼しそうだよね」
「…水浴びしたらバレるぞ」
「やだなー、原田。そんなことするに決まってんじゃん。暑いんだから」
「てめ…っ」
「まあ、でなくても大石と同じ班で、私は構わなかったんだけどね」
 額に伸びてくる原田の手を、私は閉じた扇子で抑える。

 原田と同等の実力で、一番隊副長助勤をしている私が、原田と同じ班であることに疑問を感じたものは少なくない。それなのに、原田が無理矢理に私を同じ班に据えたのは、あの一件のせいだ。

「強がんじゃねーよ」
「強がっているようにみえるか?」
「ああ」
 上から私を抑えこむ原田の力に、私は押し返す力を僅かに逸らす。が、さすがに原田は倒れず留まった。

「大石さんと何かあったんですか、葉桜さん?」
 そんなことをして原田で遊んでいた私は、つい傍に鈴花がいるのを忘れていた。彼女の問いかけに対して、自分の背中に冷や汗が通り抜けるのを感じながら、私は笑顔で返答する。

「なにもあるわけないでしょー」
「本当ですか?」
「ホントだってば。何、鈴花ちゃん妬いてる?」
「違いますっ」
「やーだー、もうカワイー!」
「葉桜さんっ」
 私がそうやって、巫山戯て鈴花に抱きついたりしているのを、原田はまだどこか不満そうに眺めている。実際のところ、原田に言われた通りに、私の強がりではあるのだから、仕方がない。私自身も大石と同じ班でないということに安堵している反面がある。しかし、きちんを向き合いたい気持ちに嘘はない。それに、こんなに暇な時間を過ごすぐらいなら、多少の緊張感をもって奴と向き合うぐらいのがマシだろう。

 鈴花とじゃれている間に、隊士からの報告をきいた原田が、眉根を寄せる。

「…気になるな」
 報告内容そのものは、異常なしだと私の耳にも届いているが。

「原田?」
「原田さん?」
「ビンビン感じやがる。ようやくお出ましかぁ?」
 私は特に何も変わった空気は感じないのだが、原田特有の「野生の勘」という奴だろうか。

「何がですか?」
「おら、行くぜ! おまえらも来い!」
「ひゃっ!!」
「うわっ、引っ張るな!」
 鈴花は袖を、私は扇子を掴まれ、崩れかける体勢を二人慌てて立て直しながら、原田の後に続く。

「他のヤツらはここで待機してろ! 俺らがなかなか戻らねぇ時は橋の方へ駆けつけてくれっ!」
「原田さん、どうしたんですかっ!」
「見廻りからは異常なしって報告を受けちゃいるがな、俺の勘じゃもう犯人は近くまで来てやがるぜ」
「えっ、もう近くまで!?」
「ああ、よくねぇ気配をビンビンに感じやがる」
 原田を必死に追いかけていた鈴花が急に歩を緩め、私の隣で小さく呟いた。

「確か、さっきもそんなことを言ってたような気がするけど…野生の勘、恐るべし」
「鈴花ちゃん…」
 至極大真面目な鈴花だが、内容が内容だ。状況を一瞬だけ忘れて、私は笑いを零していた。

 原田の勘が当たっているかどうかはともかくとして、何があってもなくても、少なくともただじっと待っているよりはマシだろう。

 私が原田を追いかけ、彼の隣に並ぶと、鈴花が少し後をついてくる。三条大橋なんてすぐそこに見えているし、大した距離じゃない。進行方向へ視線を向けていると、程なく物語の一場面のように、空にぽっかりと浮かんだ月下の三条大橋の姿が私達の前に、白く浮き上がって見えてきた。私たちの姿の影も宵の頃というのに京の町に連なって揺れている。それだけ明るい月夜に遮るもののない三条大橋の上には、数人の人影がよく見えた。

「おい、あれを見ろ」
「ああ、いるな」
「あっ」
 原田と私は、足を止め、互いに顔を寄せて囁き合う。鈴花も原田の隣に並ぶ。

「今、ヤツらの手前を抜けてったのは、うちの橋本だな。橋の西の部隊へ知らせに行ったか」
「浅野は?」
「あいつはなにしてやがんだ? 橋の東側へ異常を知らせる役目だろうがっ」
 月明かりでよく見えるとはいえ、遠目では現場がどういう状態なのかまではわからない。

「浅野さんが橋の東へ行くには怪しい人たちとすれ違わなきゃならないですよね」
「まさかあいつ…! 尻込みしてんじゃねーだろうな!?」
「ま、まさか」
 ここ最近、新選組には大した事件といったことは起こっていなかったとはいえ、浅野はそれで鈍るような腕ではなかったはずだ。以前は副長助勤までつとめたというのに、今さら怖じ気づいたとでもいうのだろうか。

「とにかく俺たちは、もう少し距離を詰めてあいつらの行動を監視するぜ」
「ああ、そうしよう」
「はい」
 私達は三人で出来るだけ影を選んで、三条大橋近くまで移動した。ようやく橋の上の声が聞こえてきた頃、それは風に乗って聞こえてきた。

「誰もいないな?」
「ああ、そろそろやるか」
「んじゃ、とっとと引き抜くか」
 とても軽い口調で言われることに、私は一抹の哀しさが胸に過ぎる。これが、今の幕府の姿。こうして高札を抜かれてしまうことにさえ、威信をかけて対処しなければならないほど弱体化しているということはわかっていた。

 理解はしているが、私が納得するには早すぎるだろう。暑いとはいえ剣の腕が鈍るような怠さは無いし、風に乗って流れてくるかすかな匂いは橋桁の相手が酔っていることを私たちに告げる。

「おい、おまえらぁ!! おまえらが高札ぶっ壊したバカ野郎どもかよ!」
 飛び出した原田の後に続き、私も剣の柄に手を当てて構える。

「おまえら何者だ?」
「それはこっちの台詞です」
「あ~ん?」
 酔っている上で気の大きい相手の挑発に、むっとしている鈴花を小突いて、私は注意を促す。酒に酔っているからこそ、余計に注意しなければならないことがある。それは相手の腰に差している剣だ。通常使われているものよりもそれは長く、振り回せばそれなりに威力も増す。

「俺は新選組の原田左之助だ! おまえらっ、何のためにわざわざ高札をぶっこ抜きやがる!」
 原田の名乗りに、橋桁の者どもが騒然となる。

「ヤバイ! みんな逃げろ!」
 一斉に逃げを図る彼らの進路を塞いで、私たちは立ちはだかった。

「逃がすかよ!!」
「くっ、新選組めが!」
 向かってくる一人が長刀を引き抜き、振り回すの原田は難なく避ける。

「おまえらみてぇな酔っぱらい、目をつぶってても勝てるってぇの!」
 さすが槍使いというだけあるのか。長い得物での戦いに慣れた原田が、交わし様に相手へ一撃を加えると、ドシュッという鈍い音と共に一人が倒れた。

「あのー、おとなしく捕縛される気はないですか?」
 隣で鈴花が暢気なことを言っているのに笑いを零しつつ、私は別の酔いどれの剣を受ける。

「ふざけたことをいうな!」
「もぉっ! せっかく人が親切で言ってあげてるのにぃっ!」
 決して弱くはない鈴花も難なく相手の剣を受けて、不満そうに刀を奮う。わずかに見え隠れしている不安はやはり人数差だ。相手は八人で、こちらは三人だけ。相手もまあまあの使い手らしく、鈴花には苦戦するだろう。

 だが、その心配も今近づいてくる応援でかなり解消される。

「新井班、到着!! ただちに加勢します!!」
「大石の班はまだかよっ!?」
「まだです!」
「ああん!? あいつら何してやがる!」
 応答の声を剣を交えながら聞いたが、大石のところに知らせるのはたしか浅野だったはずだ。まさか、まだ知らせがついていないのか。

「原田さんっ! 葉桜さんっ! 大石さんたちはアテにしないで私たちだけで戦いましょう!」
「ああっ! おまえもしっかりすんだぜ!」
「はいっ!!」
 向かってくる相手の剣を受け止め、私は強くはじき飛ばす。

「大丈夫、勝てるよ」
「はいっ」
 私の声援に対し、鈴花からは気持ち良いぐらい威勢のよい返事が返ってきた。

 少し遅れて大石たちが合流した後は、流石にその圧倒的な人数差からあっけなく片がついた。だが、数人に逃げられ、数人が死に、残ったのはたったの一人だけ。事が事だけに、今回の訊問には近藤があたったということだ。



p.2

2#夏夜の禊ぎ







 原田らで捕らえた男を訊問した結果、やはりあの場にいたのは土佐藩士らしい。酒に酔った勢いに任せてやろうという話になったんだというから、なんとも情けないことである。何が情けないって、今の幕府が、である。

 そして、事が事であるだけに、仮借はゆるされているものの京都奉行所の方へ判断を任せることにしたようだ。

 その一件が片付いて、七日ほど経った慶応二年九月十九日。つまり今夜、局長の近藤と副長の土方と参謀の伊東、それと隠密方の吉村が土佐藩留守居役に招かれての酒宴が行われている、らしい。私は自ら進んで、留守を預かった。

「…葉桜さん?」
「沖田も水浴びに来たのか?」
 そして、隊士たちが警備で出払っている中、私は屯所で静かな夜を過ごしていた。静かだが暑くて仕方がないので、井戸で水を浴びていたら沖田が来たというところだ。一応、他の隊士に見られてはいけないと近藤から言われているが、沖田だし。

「水浴びって…っ」
 驚いている沖田に私が笑って返すと、いきなり手拭いを胸元に押しつけられた。

「な、なんて格好をしてるんですかっ」
 例によってまた寝るときの白装束なだけだが今日は隊士たちも出払っているし、屯所内に人が少ない。こういうときでなければ、外で水浴びなんてやれない。てか、風呂場で水浴びしてもそれほど涼しくないんだってば。

 夏の寝苦しい夜は、夜風に当たりながらの水浴びが、心地よいのなのだから。

「そんな格好で屯所内を歩き回らないでくださいっ、さあ早く部屋へ戻って!」
「何? そそられる?」
「馬鹿なこと言ってないで、早く行ってくださいっ」
 沖田とは久しぶりにあったような気もするのに、さっさと追い返そうとしているのが何か気に食わない。そこまで嫌われてるとは思っていないし、そういう感じでもない。私は沖田から離れるフリで一間離れてから、一足飛びに彼の前へ移動し、その顔を覗きこんだ。

「沖田、いったい何をそんなに焦る?」
 私と沖田の身長差は、僅差で沖田のが高い。前髪に触れる距離で私が囁くと、沖田は面白いように一歩退く。その顔を下から見上げて私が笑うと、沖田には瞬時に顔を背けられた。拗ねたのか、それともからかいすぎで嫌われたか。曇月の心もとない光だけでは、沖田の顔色は判別できない。

「別に焦っているワケじゃありません」
「ほー?」
 あまり苛めても可哀相だし、この辺にしておくか、と私は手拭いをこれ見よがしに自分のささやかな胸に押しつけて、にやりと笑った。しかし、何かを言う前に、予想外に私の手は沖田の力強い手に掴まれ、押さえつけられた。変わらない強い力に安堵する反面、今度は私が焦る番のようだ。

「葉桜さんはもっと女性としての自覚を持ってください」
「自覚?」
 相手は沖田だ落ち着けと、私は笑顔の裏で必死に自分に言い聞かせる。

「今、自分がどんな格好をしているかをよく考えてください」
 沖田の言葉に、私は改めて自分の格好を見た。先程まで水浴びをしていたせいで着物が多少濡れてはいるが、夜風で少しばかり乾いて、丁度涼しい。

「涼しいよ」
 その答えを、私は沖田に首を傾げながら返す。

「そうじゃなくてっ」
「…変な沖田。手を離しなさいな」
 私がもう一度下から沖田の顔を見上げると、直ぐさま手を離された。安堵する反面、私はそれを少しだけ寂しく思う。先ほど目を合わせた時にわかったのだが、まだ沖田は私を斬った時と同じ迷子の目をしていた。

 いつまで、私は待てばいいだろうか。そろそろ、一緒に遊びたいのに。互いに残さえた時間は、少ないのに。

 沖田が私から離れる一瞬、その襟首を捕まえ、私は自分の目の前へ引き寄せた。吐息がかかるほどに近づいて、囁く。

「おやすみ、総司」
 以前何度も請われたように、その名を囁くと、沖田は目を見開く。驚いた表情が返ってくることに満足し、私は今度こそ本当に自室へと足を向けた。

「おやすみなさい、葉桜、さん」
 背中に戸惑う声が当たり、私は振り返らずに手を上げて応えた。



p.3

(沖田視点)



 僕は葉桜さんの姿が消えた方向を、しばらくの間眺めていた。いや、その方向を見ていても、僕の目には何も映っていなかったかもしれない。何時までも目の前に消えない幻覚で、今も頭がグラグラする。

 自分の剣に倒れた葉桜さんの姿と、吐息がかかるほどに近くで囁く葉桜さんの姿が交錯する。

「葉桜さん、貴方という人は」
 額を抑えて頭を振り、幻覚を振り払う。だけど、辺りに漂う葉桜さんの残り香が先程の情景をより鮮明にする。

 ここに来たのは、寝苦しい夜にただ一杯の冷たい水を求めてのことだった。水音で先客を感じ取り、非番の隊士が同じように来ただけかと思ったら。そこにいたのは寝衣姿の葉桜さんで。彼女は汲み上げた井戸水を頭から躊躇いもなく被り、頭を振って水を振り払っていた。目を閉じて、本当に気持ちよさそうな姿に僕は呆気にとられてしまって、つい声をかけてしまった。

「お休み、総司」
 ここ最近は仕事以外では疎遠になっていたせいも相まって、今のは強烈すぎる印象を焼き付けていった。

 水に濡れた白装束は普段以上の女性らしい身体つきを主張し、降ろした長い黒髪も水に濡れて月光を艶やかに受け止めていた。人というにはあまりにも現実離れした透明な空気で、こうしてみると彼女が幕府を守る巫女という話にも頷ける。だが、それ以上に無防備過ぎる姿に、僕の理性はあっさりと降参してしまいそうだった。

 僕には葉桜さんに触れる資格などないというのに。

 井戸から水を汲み上げようとして、急に咳がこみ上げてきて、僕は井戸を背にして、座り込む。

「…けほっ…こほっ…」
 井戸の淵で屈んでやり過ごしてから、空を見上げると雲間から現れた月が西へ傾いていた。

 近藤さんたちは今頃、宴酣といったところだろうか。別に呼ばれないことをどうこう考える気もないけれど、こうして二人共が屯所に残っていたから、逢ってしまった。どうせなら今夜は葉桜さんに逢いたくなかった。ここにいなければ、逢うこともなかったのに。

 逢いたいけれど、逢いたくなかった。逢えるのは嬉しいけれど、逢う度に苦しさが増してゆく。葉桜さんの言動のひとつひとつが愛おしくてならなくなる。それ以上に、この手に残る感触が、触れてはいけないのだと警告する。自分のように血濡れた手で触れられるような人ではないのだと。

 側に立つ気配に顔を上げると、月を背にして傍に原田さんが立っていた。

「こんばんわ、原田さん」
「何してんだ、総司」
 僕の口から乾いた笑いが溢れると、原田さんは頭を掻いて井戸の水を汲み上げる。

「何あったかしらねーけどよ、もう寝たほうがいいぜ?」
 気遣ってくれるのはありがたいけれど、もう今夜はあの葉桜さんの姿が焼き付いて眠れそうにない。

 ああ、そういえば、さっきからいつもの葉桜さんの幻影が鳴りを潜めているようだ。その代わりに、水に濡れた妖艶な葉桜さんが僕に柔らかく微笑んでいる。

「ふふふっ」
 逢いたくなかったけれど、とても逢いたかった。姿を想い出すだけで、苦しさと共に嬉しさがこみあげてくる。

「原田さん、さっきまでここで葉桜さんが水浴びしていたんですよ」
「あぁ? マジかよ」
 あいつは本当に女の自覚がねーな、と原田さんが呟いているのにも笑いが溢れる。やはり皆、葉桜さんに対して、思うことは同じらしい。

「僕、葉桜さんが好きです。原田さんもですか?」
 隣で盛大に水を吹き出す原田さんの姿を見てから、僕も自室へと足をむける。

「な、急に何いってやがるっ」
「あははっ、何怒ってるんですか、原田さん」
「あいつは仲間だ仲間っ」
「ええ、そうですね」
 葉桜さんはとても心強い仲間で、とても愛しい仲間。それは、きっともうここに来たときからそうなるようになっていた。もしかすると、葉桜さんと出会うために、これまで生きてきたのかもしれない。そうも思えてくる。

「おやすみなさい、原田さん」
 聞こえていない様子の原田さんを残し、僕は部屋へと戻った。心楽しい気持ちで横になったのに、目を閉じるとやはり自分の斬ってしまった葉桜さんの姿が脳裏によみがえってきて、気持ちが暗くなる。

 原田さんに向かって口にして改めて思ったけれど、僕の葉桜さんへの想いは近藤さんたちへ向けていたものとは別だった。だからこそ、僕はこんなにも彼女を斬ってしまった自分に悔いている。

 それでも、葉桜さんと出会うために今までの僕が生きてきたとしても、それはもしかして彼女をこの手にかけるためだとしたら。

 僕は昏い気持ちを押し込めるように、深く布団に潜り込んだ。



あとがき

1#幕府凋落


なんだか長くなったので、分けます。
(2006/06/14 15:36)


と思ったけど、つまらないのでやめました。
代わりにおまけを書きました。
近藤たちが土佐藩に酒宴に招かれている、その頃屯所ではーー。みたいな。
(2006/06/15 11:17)


リンク変更
(2007/08/10)


改訂。
(2012/10/10)


2#夏夜の禊ぎ


沖田がいなくなった後も絶対原田は井戸で苦悩しています。
テーマは「ヒロインは仲間か?」
仲間だけど、仲間なんだけど!
みたいに悩んで、結局ダチに収まるような気がします(ぇ。


ゲーム中、この章の沖田イベントを起こしていても何か違和感があるんですよね。
で、違和感はかたちにしてみました。
あのイベントから次のイベントまで約一年十ヶ月も沖田は悩んでいるんですよ。
あれは妙じゃないですか?
ヒロイン、沖田を放置したままそれはないでしょ!みたいな。
つか、一章分も間を空けるな。
(2006/06/21)


沖田のモノローグの人称を修正
(2006/07/06 15:11)


改訂
(2012/10/10)