にわか雨で駆け込んだ壬生寺で私が頭を振ると、雫が本殿の縁を濡らした。こんなことならもう少し早めに団子屋を出るんだったなと、私は空を仰ぐ。いくら引き止められたとはいえ、つい他の客と話し込んでしまったにしてはあまりに時を過ごしすぎたようだ。
私は雨に滲む境内を柱に寄りかかって眺める。天も家茂様の逝去を悼んで泣いているのかと、沈んでゆく心のままに見上げる空に今朝の出来事を想った。
家茂様が亡くなって数日、私は原因不明の倦怠感に襲われていた。普段の快活な笑顔にも棘が混じり、近寄る者らにとかく恐怖を与えていたらしい。私自身にはまったくそのつもりはないのだが、体の怠さが機嫌の悪さを引き寄せていたのは間違いない。
「そんなにイライラされてちゃたまんないわ。葉桜ちゃん、あんた、散歩ついでに敬ちゃんのトコでも行ってきたら?」
私が一番安心する場所を知っている山崎の助言にしぶしぶうなずき、屯所を出たまではイイ。あとは適当に店を冷やかしながら歩いて、なんとか機嫌も回復してきたところでいつもの団子屋に入った。もとより、山崎の助言通りにするつもりなどなかったからだ。京の町中がひそひそと家茂様逝去の話で持ちきりで、団子屋でもその話に加わった後、私は悼む心を胸にようやく壬生寺まで差し掛かった。
そこで突然の雨。ここまでが晴天だっただけに、あまりに唐突すぎた。
「幕府は、どうなるのかな……」
その行く末に自分の命もかかっているけど、それ以上に私は幕府に身を預けている新選組が心配でならない。久々に胸元からあの紙を取り出す。雨に少し濡れているが、その文字は現のモノではないせいか、少しも滲んでいない。
次に起こるのは、「三条大橋制札事件」とある。しかし、ここ最近はあまり詳しいコトは書かれていない。書かれていないということは大して死人も出ないと云うことなのだろうが、もう少し詳しいことがわからないと私には対処のしようがない。もしかしたら、こういう些細なところに最悪な結末を回避する手がかりがあるかもしれないのに。
私も三条大橋という場所は知っているし、ここに幕府が高札を出すのも知っている。それが事件と云うことは、高札に何か手が加えられるとかそういうことなのだろうか。あそこには今は長州弾劾の高札がかけられているし、やるとすれば長州藩士かそれに賛同する者か。
考え込みながら、私は自然と口元に手がゆく。長州、で思い浮かべた瞬間、最後に見た桂の香りを想い出したのだ。
「……まさか、来てるワケない」
ここにあの時の桂が纏う香の薫りがあるなんてありえない。それに、長州を立て直すと云ったあの人が高札をどうにかするとは思えない。
「次に逢えたら、一緒に来ないか?」
あの時の桂の声が蘇り、私はありえないと思いながら、本殿の中を探る。両目を閉じて辺りの気配を探る。脳裏に一番近くまで寄られた時の、あの真剣な目で笑う桂の姿が浮かぶ。
桂の手を取ることは、私には出来ない。これから幕府が倒れるなら、それも運命だろう。だけど、桂の手を取ることだけはどうしても出来ない。
「そんな顔をしてはどんな男だって囚われる」
あの時の触れそうだった吐息、心に触れる囁きに、私は確かに心が揺らいだ。今もまた同じように、心が苦しくて、息が苦しくて、胸を押さえて、私はその場にしゃがみこむ。
「葉桜さん……?」
自分にかけられる声に、私は閉じていた目を開く。見慣れた隊士の姿、服部の姿に条件反射のようにわずかに微笑んでいた。
「ああ、服部さん? ……悪ィ」
何故服部がこの場にいるのかはわからない。でも、どうにも悪い時に見つかったようだ。
沈みゆく意識の端で、私は服部の慌てる空気に触れて、それが見られないことだけが残念だと思った。
私は気が付くと自分の横になっている部屋の隣で、山南と服部が話し込んでいる姿が見えた。壬生寺で倒れた後で、おそらく服部が運んでくれたのだろう。見慣れている元屯所の一室には以前よりもさらに書物や紙が増え、乱雑になっているように思う。
体を起こすのはそれほど苦ではなく、着替えさせられていないのを確認して、私は隣の部屋へ移動し、山南の隣に腰を下ろした。
「ご迷惑をおかけしました」
「もういいのかい?」
「もう少し眠っていてもいいんだよ?」
服部と山南の二人の優しい言葉に、私は笑顔を返す。
「もう十分休ませていただきました。それに、そろそろ屯所に戻らないと、烝ちゃんが心配するし」
私自身も倒れた原因の一つはわかっているし、なおさらここで山南に迷惑をかけるわけにはいかない。そう言うと、二人共が同じように困った顔をするので、私は声をあげて笑ってしまう。
「あはは、これはもう体質みたいなもんなんで、気にしないでください」
「体質?」
「ああ」
服部が顔を赤くしているということは、やっぱり誤解されているからだろう。
「お馬じゃないですよ」
私が訂正を入れると、服部は顔を赤らめたままで柔らかに微笑んだ。こうしてみると、山南と服部は似ている気がする。独特の柔らかな空気のせいだろうか。まあ、流石に山南の方がどっしりと構えている感があるのだが、服部もなかなか負けていない。
「徳川の世情が揺らいでいますから、仕方のないことです」
はっとしたような山南に対し、服部は知らない故に不可解だという表情をしている。
山南が知っていて、服部が知らないことといえば、私が徳川の影巫女であるということだろう。その役目故に、私はどれだけ世情に疎くても体に現れる影響から知らざるをえない。今回の将軍逝去の影響も当然ながら現れているわけであり、それが今日倒れたことにも一因するのだ。
「でも説明するのも面倒ですし、そういうことにしておきましょうかね。服部さんはまだしばらくここにいらっしゃるんですか?」
「俺は葉桜君が起きたら連れてくるように、山崎さんから言付かっているんだ」
ずいぶんと山崎も手回しがイイことだ。立ち上がりかけた私の袖を今度は山南が引いて、私は簡単にその大きな腕の中に落ちてしまった。山南の纏う懐かしい野山の香りに、私は一瞬留まりたい気持ちに駆られる。
「葉桜君は私が送っていくよ。済まないけど、服部君は先に戻っていてもらえるかな?」
山南の言葉に戸惑いながらも、服部はそのまま帰っていった。あまりにおとなしく去られ、私は山南の顔を見上げて、殊更に大きくため息を吐く。
「山南さん、我が侭も程々にしてくださいよ。私も仕事があるんですから」
私の言葉を遮るように、山南が言葉を重ねてくる。
「明里は郷里に返したよ」
やっぱりと眉が寄ったのが、私は自分でもわかった。道理で部屋の中が片付いていないと思ったら、何を勝手なことをしてくれているのだろう。
山南の言う明里というのは、私が身請けした女性だ。新選組の屯所が移転した後、山南の世話をみてくれるようにと頼んでおいた。なぜ明里だったのかというと、かつて山南が贔屓にしていた女性だからだ。明里のほうでも山南のことを気にかけていたので、私がいなくなってからも山南の世話をしてくれるように、あわよくば二人で祝言でもあげてもらおうと画策したのだが。
「何故です」
私が起き上がろうとすると、それを強く山南が押し留めて、私の肩を抱く腕に力を込めてきた。起き上がったら即座に私が離れてしまうと、帰ってしまうと見越してのことだろう。新選組と塾のこと、それと発明以外は私のことしかないんですかと問いかけたくなってしまうが、そんな愚を犯すつもりはない。
山南の私を押さえつけてくる力は、振りほどけない程じゃない。だけど、山南の腕にそれほど力が入らなくなってしまったのは自分のせいだ、という事実に負い目を感じて、私は抵抗らしい抵抗を出来ないでいた。
「将軍逝去の影響で、倒れたと言ったね」
「話を逸らさないでください」
「幕府の揺らぎはそのまま葉桜君に影響するということか」
これは答えないと簡単に話を終わらせてもくれないし、解放もしてくれないということか。私は仕方なく、面倒だけど答えることにする。
「徳川の影巫女には業を身代わりする使命が呪いとして共に受け継がれます。だから、今回のように将軍の逝去などは大きな出来事で、容易に精神が不安定になるんです」
「将軍の代替わりの時期にはよくあることです。今回みたいに倒れたのは初めてですけど、仕事に影響はありません」
私がなげやりに答えていると、頬に山南の大きな手が添えられる。見上げれば、山南は心配そうな顔で私を見つめている。
「心配しなくても、幕府が倒れない限り、死ぬようなことはありません」
「幕府が倒れたら?」
山南がそのことに気が付くとわかっていたのに、私は一瞬だけ動揺してしまったようだ。それさえも
「……幕府が倒れたら、葉桜君は……」
「知りませんよ、そんなこと。死ぬかもしれないし、呪いが解けるのかもしれない」
「そんなっ」
「何しろまだ徳川は一度も倒れたことがないんでね。誰にもわかりませんし、聞いたこともありません」
山南の真っ直ぐな視線を、私は真っ直ぐに見返して微笑む。これだけ続いた徳川の世が今さら倒れるとは、あの場所では誰も考えていなかった。私が育てられたのはそういう場所だったのだ。ただ一心に徳川を信じ、護り仕えてきた場所だった。
「私のことよりも問題は新選組です。彼らは徳川に深く寄りすぎている。もしも徳川が倒れることになったら道連れにしてしまう恐れがあります。彼らを助ける方法は何かありませんかね?」
私の額に山南の額がこつんと当てられ、思わず心臓が飛び跳ねる。同時に、とても近くにある山南の苦悩の顔に、罪悪感が浮かんで、私はそっと手を添えていた。
「葉桜君、きみはどうしてそこまで新選組のことを」
山南にしては、愚かしい問いだ。私は目を閉じて答える。
「山南さんが、土方さんが、近藤さんが、みんなが新選組を大切に想うのとおんなじですよ。私も新選組が大好きなんです。たとえ今の幕府が倒れることになっても、皆に生きてほしい。ただそれだけです」
思い浮かぶ皆の笑顔に、私は自然と口許が緩む。彼らに生きて欲しいという願いは、私にとって誠だ。自分が徳川の巫女だからこそ、それができると私は信じている。
「だから、山南さんもちゃんとこれからも生きてくださいね。私がいなくても」
触れていた山南の熱が離れ、肩を押さえる力がなくなったことに気が付いて、私は目を開けて山南を見上げた。泣きそうな顔で微笑む山南から、私はどんなふうに見えているのだろうか。それが笑顔だったらいいなと、私は意識して笑う。
「葉桜君はいつもそればかりだ」
「だって、言っておかないと山南さんは消えてしまいそうですから」
自分で行動した結果、山南がここにいるのに、私は未だにこうして山南が生きている姿を信じられないと感じている。無くなってしまうはずだった山南の温もりも香りも変わらずここにあるという現実が、私にとってはまだ遠いのだ。
「ねえ、山南さん。私がしていることはそれほど無理なコトじゃありません。私はただ自分ができることをしているだけなんです」
私は新旧の刀傷を体中に持っていて、それでも徳川が終わるまで、代替わりまでこの命が果てないことを知っている。どれだけ酷い怪我をしても、私が死ぬことは、逃げることは許されない。だったら、その分まで誰かのために生きようと、父様の愛したこの世界のために生きようとしているだけなのだ。
「新選組を、皆を助ける力がある。それがわかっているのに何もしないでいたら絶対に私は後悔します。私は私のために新選組を救いたいだけなんです」
視線をまだ雨の降る庭に向けると、ずっと私が見続けてきた八木邸の庭は今も綺麗に掃除されていて、ここにいた頃となんら変わりはない。このまま変わらないで欲しいと、私は願っている。
「ただ、我が侭なだけなんですよ」
微笑んだ私を、山南はそっと抱きしめた。
「で、我が侭ついでに答えてください。どうして明里ちゃんを返したんですか」
「葉桜君の望むような私の幸せは、葉桜君以外に考えられないからだよ」
山南が最近我が侭を抑えなくなったのは、私の影響だろうか。嬉しい気持ちと困った気持ちの両方に挟まれながら、私は山南の大きな背中に腕を伸ばし、子供にするように抱きしめ返した。
あーどうしようかと思ったけど、山南さん書いちゃった…。
服部さんにしようかと思ったんですが、あまりにファンタジー色が濃くなりすぎたんで止めました。
服部さんバージョンだと、葉桜さんの中の人が出てきます(誰。
(2006/06/09 16:51)
「裏巫女」→「影巫女」に変更。
(2007/1/7 16:06:31)
リンク変更
(2007/08/10)
改訂
(2012/07/17)
~次回までの経過コメント
大石
「三条河原で幕府の掲げた長州弾劾の高札が何者かに引き抜かれてるらしいですよ」
「どうします、近藤さん。何なら俺が行って不審者を片っ端から斬ってきましょうか?」
近藤
「そうだなぁ…。まぁ、そろそろ準備だけはしておいた方がいいだろうな」