(才谷視点)
屯所内、木上から垂れた鮮やかな瑠璃色の布に手を伸ばそうとして、わしはそのまま固まった。見慣れた色の布から、てっきり葉桜さんの洗濯物でも飛んだのかと思ったが、それは勘違いだったらしい。
今日は春を心地よく感じられる良い天気だし、そりゃあ昼寝もしたくなるだろう。当然、葉桜さんは季節にかかわらず昼寝が好きだから、わしは彼女が部屋の前ででも眠っていると思って寄ったのだ。しかし、その姿がどこにも見当たらず、諦めて帰ろうと踵をかえせば、これだ。葉桜さんはいつもわしを驚かせてくれる。
「こがなげによお眠れるもんやか」
布ーーその垂れた袖口を引けば落ちてきて、危なそうだ。だが、幸いにも葉桜さんにしてはずいぶん下の枝に座って眠っている。普段なら人の気配が近寄るだけで気がついてしまう警戒心の強い葉桜さんは、今日は木の真下までわしが近づいても、まったく起きる気配もなく眠っている。
できることならその顔を覗きこんでみたいが、枝には二人分耐えられそうな太さがない。かといって、気持ちよさそうに眠っている葉桜さんを起こすには、忍びない。これはどうしたものか。
台になりそうな手近なものはあるだろうか、とわしは辺りを見回す。と、かさりと音を立てるのは、自分の腰に刺さっているだけの得物だ。ここ最近は抜いた記憶もないそれを使えば、一瞬でも葉桜さんの無防備な寝顔を見られることだろう。
わしはまず腰の物を外し、木に立てかけてみる。小太刀ではわずかに届かないが、大太刀ならば、おそらく彼女の顔辺りに届くだろう。ブーツを大太刀の柄にかけてみるが、どうやらこれで乗るのは難しい。だったらとブーツを脱ぎすて、勢いつけて飛び乗り。
「何してんだ、梅さん?」
いつの間にか起きて、にやにやとわしを笑う葉桜さんと目が合った。つまり、彼女はとっくにわしに気がついていて、その一部始終を見守っていたというわけだ。
これが縁側でのことならば大したことではない。問題は、わしが宙に浮いた状態であることで、驚いた瞬間に受け身の態勢をとるのが少しばかり遅れてしまったわけで。気づけば、わしは瑠璃色の暖かな布地に包まれ、軽い振動で地面に到着できていた。もちろん、かすり傷ひとつあろうはずもない。
瑠璃色の布地がわしから滑り落ちるように剥がれ、地面に両手をついて、荒い息を吐き出す。天の青さに一瞬見蕩れつつも、わしは慌てて瑠璃の布ーー葉桜さんに声をかけた。
「葉桜さんっ!?」
彼女は身体を丸めて、ひとり痛みを堪えているようだ。両目を閉じ、呼吸を止めて、唇を強く噛み締めて堪える葉桜さんの姿に、自分が受けるはずだった落下の衝撃を、彼女が一身に受けてしまったことが伺える。そういえば、葉桜さんという人は自分以上に周りの人を大切にする人なのだった。そのためならば、どんな怪我もいとわず、まっすぐに立ち向かうようなそんな人なのだ。
「どこが痛いなが? なんちゃーがやないなが?」
心配するわしに対して、葉桜さんも心配をかけまいと身体を起こす。そして笑顔を向けようとして、そのまま膝を抱えて踞る。
「このぐらいは、まぁ、大丈夫」
「ほがなことはないろーうっ」
「うわ、耳元で騒ぐな。他のやつが来ちゃうだろ」
心配するなと笑いかける葉桜さんの姿がとても愛しくて、そして、彼女にこんな無理をさせてしまったことが悔しい。わし自身も受け身はとれるつもりだったけれど、まさか彼女が自分をかばうとまでは予想できなかった。だから、より一層、反応が遅れてしまった。
わしは痛みを堪える葉桜さんを包み込むように抱き込み、一番痛いであろう背中に手をやろうとして、凍り付く。
「梅さん…?」
「…てきなんちゃーがやないがやない…」
青の濃い着物でもはっきりとわかるほどに滲んでいる青紫色のそれはおそらく、いや、間違いなく、話に聞いている葉桜さんの数多ある傷の跡のひとつが開いた証拠だろう。わしがそっと撫でると、葉桜さんは苦しげな呻き声を上げる。やはり、わしの想像に間違いなさそうだ。
「いかんをするき、傷口が開きちゅう」
「ああ、どーりで」
腕の中で呑気にくつくつと笑いを零す葉桜さんに、わしは珍しく怒りがわいてきた。こちらは本気で心配しているというのに。
「こんなのはいつものことだから、梅さんが気に病むコトじゃないよ」
葉桜さんはいつもこんなことをしているのか、とわしは腹立たしくて。乱雑に葉桜さんを抱き上げ、無言のままに彼女の部屋まで連れて行く。その間も、葉桜さんは痛みのせいでか、あまり話さなかった。
軽い身体を部屋の降ろすと、葉桜さんからは有難うと礼を言われる。葉桜さんはわしがなんで怒っているかもわかっていても、そんなことを言うのか。
「まさかあそこにいるコトが、梅さんに見つかるとは思わなかったなぁ」
いつもと変わらない口調を努める姿が愛しいことは認めるが、それでもその態度が腹立たしいことに変わりはない。何故葉桜さんは、わしのせいでいらぬ怪我をしたというのに、怒りもせず、頼ることもせず、そうやって耐えて笑っているのか。いられるのか。
「あんな無茶をしてまで人の隙をつこうなんて趣味が悪いって」
それを言われてしまうと、わしには何も言うことができない。だが、葉桜さんに無茶といわれるいわれはない。わしとて、確かに受け身はとれたのだし、葉桜さんだってそれに気づいていたはず。だが、問題はそういうことではないのだろう。葉桜さんは相手がどんな手練であろうと、守るべき相手が危険だと思ったら、自ら飛び込み、盾となる人なのだから。何故あの時のわしが、そんな大切なことを忘れていたのか、悔やまれる。
「まぁ、起こしてくれて助かった、かな」
葉桜さんは笑っているのに、その手がきゅっと彼女自身を抱きしめるのが見えた。よく見れば、かすかに葉桜さんの剣蛸だらけの手が震えている。彼女が震えるほどに恐怖を残す夢というのは珍しいが、あの葉桜さんでも怖いものがあったのかと、わしはわずかに安心した。彼女は本当に強くて、怖いものなど何もないように見えていたから。
「何度も見たい夢じゃないし、な」
わしの視線に気がついた葉桜さんが手を伸ばす。
「有難う、梅さん」
本当にどうして、葉桜さんはこうなのか。わしは彼女から伸ばされた腕を掴み、胸の内に乱暴に引き寄せる。
「その夢の中身を教えてくれやーせんか」
「…聞いて楽しいもんじゃない」
そう言って、聞かないでくれと笑って交わそうとするのは、彼女の常套手段だ。わしが掴んだ手はもう震えていないけれど、彼女の瞳の奥はまだ不安に揺らめいていている。
「ほきも、わしは葉桜さんのすべてが知りたいやか」
「聞かない方がいいって」
「教えとおせ」
困った風でいる葉桜さんを、わしは強く抱きしめる。まるで、小さな子供のようなその身体は、普段の印象よりも極端に小さくて、弱くて。そして、やっぱり強いのだ。
「梅さん、船持ってるよね」
顔も上げずに相変わらず笑いを含ませた声で、葉桜さんがわしの背中に手を伸ばして、優しく抱きしめ返してくる。
「私、海にはまだ出たことがないんだ」
彼女はそこまでで言葉を止めてしまったが、それがどういう意味なのか、わしには分かった。ここでは話せないから、海へ連れ出してくれ、とそういうことだろう。わしはもう一度力を込めて葉桜さんを抱きしめ、名残惜しくもあるが離れる。
「また遊びに来るき。時間を空けておいとおせ」
だけど、やはり葉桜さんは簡単にはわしに捕まってくれないようで、こちらに向かってニヤリとした笑顔を向けてくる。
「そんなこと言わずに、攫ってみるってのはどうだ?」
本気なのか冗談なのか。だが、確かに最近の彼女はとても忙しいらしく、丸一日の休みなどはとっていないと聞く。よくて昼まで、下手をすると半刻も休んでいないらしい。非番の日は薬草を採り、煎じて山南塾の沖田くんの元へ届けるか、そうでなければ、平隊士たちに稽古をつけたり、沖田くんの仕事のほとんども代理していると。いつ休んでいるのかというと、本当に朝のこの数刻だけで。考えてみれば、今日もよくわしは彼女に逢えたものだ。
「あははっ、なんて顔してんだよ。冗談だって!」
葉桜さんはすぐに、わしに向かって弾けるような笑顔を向けてくれた。だが、その瞳の奥は。
「じゃ、私は仕事前に稽古でもしてくるから。またな」
わしは追いかけようとしたが、その前にさっさと葉桜さんは屯所の廊下の角を曲がって消えてしまった。しばらく彼女が消えた方を見つめていたが、戻ってくる様子もない。わしは諦めて踵を返し、今度こそ新選組の屯所を後にした。
大股に歩き、待ち合わせ場所へと急いだのは、彼女の願いが脳裏にこびり付いて離れなかったからだ。
「攫ってみるってのはどうだ?」
冗談だと葉桜さんは笑っていたけれど、わしはどうにも違うふうにしか見えなかった。あの瞳の奥にはどうしたって、連れて行ってと泣いている小さな女の子がいたからだ。
「才谷さん、遅いじゃないか」
待ち合わせ場所で立ち尽くす石川の肩を掴み、わしは彼の文句を素通りして、真顔で頼み込んだ。
「石川、後生じゃ」
それだけで、彼にはなにか通じたらしいのは、付き合いの深さ故だろうか。
「…なんだよ、また葉桜さん?」
呆れた様子の石川に、わしは頭を下げる。
「初めてのお願いやき、叶えてやりたいんじゃ」
最初で、そして最後の願いかもしれない、愛しい女の願い。それは、きっとあの一言に込められていた。
きっと攫ってやるから、覚悟しておき、葉桜さん。わしが葉桜さんをその見えない運命から、攫ってやるから。
今回はこれ以上無理でした、すみません。
遥3やりすぎて時間がなくなったというより、心奪われてあまりにつまらなく出来上がってしまうんで出直してきます。
その代わり、梅さんイベントは気合入れなおして、ラブ度上げていきます!(大丈夫か?
私的テーマ「ヒロインを攫え」
この話はヒロインが梅さんの正体を知っているだけに、ひとつだけどうしてもやらなきゃいけないことがあってですね。
いやまぁ梅さんが「まさか…」とか考えているとかそれだけなんですけど。
そんなわけで、珍しく予告。
沖田さんが屯所に帰ってきます。
てか、帰ってこないと本編がピンチ。
(2006/7/26 08:52:33)
改訂
(2013/08/30)