私は晴れて一流大学に進学し、四月から女子大生になった。高校3年間もの間、同じ教師に担任されたために一部の違和感は拭えなかったが、同大学に友人たちも進学しているので少し安堵していた。
「あ~葉月珪の新しいポスタ~♪」
掲示板に貼られたポスターに女性が黄色い声をあげるのも日常茶飯事。私もあの掲示板を通るたびに幸福なため息をついてしまう。貼ってある理由も知っているし、撮影現場も見ていたから余計に。
もちろん、私の部屋にもある。
「や~かっこい~っ」
「うちの大学に入ったんだって~聞いた?」
そして、彼もこの大学に進学している。理由は家から近いというだけだったが、おかげで私も苦労した。
「聞いたけどぉ最近忙しいらし~じゃない? 学内で会えるかどうかも万分の一だよ…」
私もデート以外じゃ会わなくなった。うん。
彼女らの話に一人肯いていると、冷めて呆れきったあの声が聞こえてきた。
「何してるのよ、ハルカ」
振り返ると、有沢と守村が並んでいた。二人は学内で再会してからなんとなく付き合っている風だ。有沢は一応、否定するだろうが。
「おはよ、二人とも今来たの?」
「ええ。…正門で偶然会ったのよ」
視線をさまよわせながら、二人とも顔を赤らめている。いいな、こうゆうの。
「で、貴方の方は今日も例の彼とは一緒じゃないの?」
有沢の言葉は厭味な感はしないが、鋭いところをついてくる。
「うん、本当に今忙しいんだよね。メンズ雑誌の専属とったし」
もちろん、それは当然だと思うし、私も欠かさず買っている。でも、そのせいで喫茶店アルカードに隣接するスタジオでの撮影ということが減ってきたのは、淋しい。せっかく高校から続けてやっているのに。昔は何度も足を運んでくれた葉月も、ごく稀にしかこない。
「でも、電話はしてるんでしょう?」
不安そうな守村の問いにも、私には笑って返すことしかできなかった。
「ん~こっちからかけるとマネージャーさんに切られちゃうし、彼もまめにかけるほうじゃないから」
ここ1週間ぐらい声も聞いていない。
二人が驚いているので慌ててフォローをいれた。
「でも、メールはしてるよ。毎日」
そのフォローには、有沢の深~いため息が返ってきた。
「大変ね、貴方も」
でも、わかってて付き合っているのだ。彼がモデルをしているのはもうずっと前からだし、続けているのは彼の意思。私が止める権利はない。「珪クン」は私の彼氏だけど、「葉月珪」は私一人の彼でないのだから。
その日の午後は久々に3人とも午後が空いているので、母校訪問しようという話になった。懐かしいな、はばたき学園。
「氷室センセ、いるかな~?」
「いるわよ。たぶん、試験問題作ってるんじゃない?」
「今の時期って、そろそろ課外授業なんじゃないですか?」
「良く知ってるわね、守村君」
そんな話をしながら、正門を出てすぐだった。よくあるパターンで彼は現れた。
「カノジョ、俺とお茶せえへん?」
この声と関西弁は、ひとりしかいない。
「にぃやん!?」
赤いシャツで胡散臭いグラサンをかけた、ニィやんこと姫条である。彼はフリーターになって、社長になるために地道に頑張っているときいていた。彼と付き合っている友人の藤井から。でも、今はその藤井の姿がそばにない。彼女もフリーターで一緒に頑張っているはずだが。
「春霞ちゃん、また背ぇ縮んだ?」
「久々~っにぃやんも胴伸びた?」
「最近、歩きにくぅなってなぁ~…て、何言わすんじゃ!」
「あはは」
相変わらずだけど、卒業してから、背が伸びたみたいだ。高校3年間は全然伸びなかったという話だけど。
そういえば、この人と付き合う寸前までいったこともあったな。でも、私はやっぱり葉月を放っておけなくて、藤井に譲ってしまったけれど。
「自分、変わらんなぁ」
そうかなぁ、そうだと困るなぁ。成長しない自分は、怖い。葉月といるには常に成長しつづけなければいけないのが、つらい。
照れたような彼の笑いにつられて笑っていると、後ろから肩を掴まれ引き寄せられた。
てっきり有沢かと思った。ごめんという言葉が出る前に、香りがした。
「…探したぞ」
耳にささやく低音に、心臓を鷲掴みにされる。こんな声の人、世界中に一人しかいない。
「姫条、俺に喧嘩売ってるのか?」
葉月の登場に驚くでもなく、挑発する声が返される。
「ずいぶんゆっくりなご登場やな、春霞ちゃんの王子は」
私は葉月の影に隠されて、二人の様子は見えないが、かなり険悪な空気だけは伝わってきた。
(珪クン、いつ来たの。仕事は?)
(後で)
後でじゃないよ、もう!
「そう、俺が春霞の王子なんだから、ヒトの姫に手を出さないでくれるか」
その台詞に私のほうが顔を赤らめてしまう。
「自分ら、まぁだ文化祭の演劇の続きやってんのか」
あぁっ!そんな挑発したら、マズイって! 珪クンは見かけによらず、喧嘩買っちゃう人なんだから。
「延長線、だって?」
思ったとおり、葉月は棘のある言葉を吐き出そうとしている。
「葉月君、姫条君」
意外な所からストップがかけられた。
「私たち、これから用事があるの」
ありがとう、志穂サマ!!
「行って良いかしら?」
二人ともお互いを牽制しながら、行けばという空気だ。しかし、葉月の手はしっかり私を掴んでいる。
じゃぁね、と、有沢は踵を返した。
…て置いてくの?ねぇ!!? うそでしょ。志穂さんってば、今更Wデートの時の仕返しじゃあるまいし。守村が垂オ訳なさそうに会釈して、有沢を追いかけていった。かわい~な~、咲弥君。
そして、このままは非常にまずい。ただでさえ、この二人は目立つのだから。
「ね、ねぇ! 喫茶店にでもはいらない?」
私の提案に姫条が時計を見て、残念そうに首を振った。
「悪いなぁ、これからバイトやったわ!」
よ…よかったぁ。
安堵する私に彼は右目でウィンクして続けた。
「カレシがかまってくれなくて、淋しかったら、いつでも電話せぇよ。昔みたいに」
「ちょ…っ!」
とんでもない爆弾を残して、姫条は去った。あの赤いバイクで。
「昔みたいに…?」
こわいよ~っ
「な…奈津実に頼まれて、その…」
「そう」
うぅぅっ、うたがってるよ~っ 折角1週間ぶりに会えたのに。うらむよ、ニィやん。
「それより、仕事は?」
「抜けてきた」
「え?」
「だから、すぐ戻る。ごめん」
しょんぼりとするので、それ以上どうしてとか追求できなくなってしまう。最も本人が自覚なしにやっているだけに、たちが悪いのかもしれない。私は嬉しいからいいけど。
「そんな…。無理してこなくてもいいのに」
来てくれて嬉しいのに、言葉は天邪鬼だ。
「無理してるのは、春霞のほうだろ」
「してないよ」
「してる」
「してない!」
売り言葉に買い言葉。彼の性格は知っていても、つい出てしまう。むくれてそっぽ向くと、途方にくれる声がした。
「最近、電話かけてこないし、かけても春霞は留守だし、おかげで撮影は進まないし…」
後の二つはともかく。
「私が珪クンにかけると、いつもマネージャーさんが出るわよ」
「いつも?」
いつもは、いつもだ。
「毎日、かけてるって言ってるの」
つい語気が荒くなってしまう。こんな私、最高に最低な顔になってるに違いない。折角久しぶりに逢えたのに。
「折角久しぶりに逢ったのに、どうしてこんな話になるんだよ」
あ、同じこと考えてる。そんなちょっとが嬉しくて、心が少し柔らかくなった。
「仕事、戻りなよ。珪クンが抜けたら、撮影にならないでしょ」
彼は物足りなそうな哀しそうな目で何かを訴えていた。私にできることは…まだそんなに多くない。
「今夜」
「?」
両手を広げて、葉月の前に突き出した。
「10時に電話して。…まってるから」
私の行動に面食らっていたようだが、彼は快く肯いた。
「かけるよ」
「だから、早く仕事に戻りなさい」
フッと含み笑いが聞こえた。
「マネージャー、みたいだ」
そのマネージャーに私が怒られる。
「そうよ。珪クン専属のマネージャーなの。…だから、無理しないで…」
頭を引き寄せられて、彼の広い胸に顔を押し付けられた。
「…してないよ」
「…うそばっかり」
「…電話、するから」
私は何も答えなかった。
時報が部屋に虚しく響き渡り、そのまま5分が経過した。
「…今日も、か」
諦めるのはまだ早いのかもしれない。でも、今までの経験からして、彼がかけてくる確率は皆無だ。もう、待つのにも慣れてきていた。こんなことは今日だけじゃなかったから。
でも=。あんな約束するんじゃなかった。約束しなければいつも通りだったのに、自分でボーダーを引いてしまった。
バカみたいだ、私。これ以上、期待なんてしちゃいけなかったんだ。珪クンが自ら私を迎えに来てくれた。それだけで満足していれば、こんな気持ちなんて知ることもなかった。
葉月珪は、決して私だけの王子様じゃなかった。それを忘れちゃいけない。
「…もう、寝よう」
いつものように、私はノロノロとパジャマを手に取った。全部、いつものことなんだから。気にしても仕方ない。彼は人気モデルなんだから。そう、わかっているはずなのに。今日も涙が溢れてくる。
「…なんか、もう…」
最近、涙腺が格段に緩くなっているので、枕元にはタオルが常備してある。それを取って、顔をうずめるのさえ日課になってしまっている。
うずめたところで、携帯がなった。
まさか???
久しぶりの期待に、手も声も震えていた。
「…はい」
「お?早いなぁ!もしかして待っててくれたん?」
なんだ、ニィやんか。気が抜けたと同じに、残念なような気もした。期待しすぎる私にはイイ薬かもしれない。
「どうしたの?こんな時間に」
「なんや、急に春霞ちゃんの声が聞きとうなってなぁ」
声、ききたいな。珪クンの声。甘くしびれる、独特の低音。姫条と話しているのに、こんな時葉月ならどう言うかな、とか考えてる自分。これじゃ姫条に失礼だ。
「しっかし、久々やと緊張するわー」
そうかな。全然いつも通りにしか聞こえないよ。私は、いつもどおりに話せてるのかな。気づかれないといいなと思いながら、どこかで気づいて欲しいと願っている。矛盾してる。
「なっちんは元気?」
なんとなく、藤井の話を持ち出したのは、やっぱり昼間の不自然さからだった。付き合っているからといって、四六時中隣にいるとは限らないかもしれない。でも、藤井ならやるかもしれない。恋をしたら、誰だって行動に予測なんてつかない。
受話器のむこう側が、不自然に静まった。
「ニィやん?」
「あ~その~…自分ら別れたんだわ」
え?
歯切れの悪そうでどこかスッキリとした言葉が返ってくるとは思わなかった。というか予想外すぎて、次の言葉が出てこない。
「あんたのせいやないで。俺がただ勝手に、その…忘れられんから。それで、あいつ怒りよって…振られたわ」
淡々とつづられる台詞に、私は声もなかった。
「まぁ長い人生、そーゆーんも有りや」
振られたという割に、本当にあっけらかんとしている。
「ど…して?」
姫条にとっては「いつものこと」で片付けられる日常で、私がどうこういうことではないのだろう。でも、彼の性格と知っていても、私には訊かずにいられなかった。
「なんで、ニィやんはいつも簡単に付き合ったり別れたりできるの?」
今ごろ、藤井は後悔しているんだろう。もしかして、泣いているかもしれない。二人の現在が、自分に重なってしまう。葉月と別れたら…別れるなんて、耐えられるのかな。きっと毎日泣いて泣いて泣きつづけて、溶けて消えてしまいそうだ。
私の気持ちが電話越しに届いてしまったのか、むこう側から心配そうな声がかけられた。
「なんか、あったか?葉月か?」
あっさり見透かされたココロに、涙がひとつ。
「泣いてたんか?」
優しい声音に、またひとつ。
「あんま泣くと…なぐさめるで?」
姫条らしい言葉で、やっと笑みがこぼれた。
「ふふっ…なにそれ。変な脅し」
でも、今はそれに少しだけ助けられた気もする。
「なぁ」
電話しながら、泣き笑いのようになってしまっている私に、もちかけてきた。
「明日、会えへん?」
姫条にしてはストレートで、シンプルな言葉を選んできたのはどうしてだろう。そして、どうして私は肯いてしまったんだろう。
電話を切っても、久々にちょっとだけ晴れた気分で床につけそうだ。時計はもう10時半をまわっているが、葉月から電話は来ない。
「忙しい、から」
もう一度、自分で呟いて、涙がこぼれないことを確かめた。うん。まだ、大丈夫。まだ大丈夫。私は耐えられる。
付き合い始めてから何度も唱えてきたオマジナイ。それを解けるのは世界中でただ一人――。
「ねえちゃん、葉月から」
ノックなしに開けられたドアよりも、その台詞に驚いてしまった。せっかく、涙、止まってたのに。
気がつくと、奪い取るように受話器を手にしていた。
「おそい」
「撮影、長引いた」
本物の、珪クンだ。そんなことが妙に嬉しくて。弱音が出そうになった。
「…もう、かけてこないかなって…」
「今から、逢えないか?」
二つ返事で、私は玄関を飛び出していた。場所は家からそれほど離れていない公園。時計近くのライトから少し離れて、背の高くて、白い人影があった。間違えようのないシルエット。撮影の衣装でもらった、新品の白いスプリングコートを羽織っている。
「大丈夫だったのか?」
「つ、尽が、近くまで…」
「近くにいるのか?」
「ちょっと、カノジョのトコ、行って…」
頭から着ていたコートをかけられ、抱き寄せられた。
「近くったって、薄着すぎる」
「急に言うから…っ」
「しっ」
コートに包まれているせいなのか、抱きしめられているせいなのか。葉月に包まれている安心が、私に身体の力を抜けさせた。葉月は身じろぎひとつしない。そういえば、こんなシチュエイションが高校の頃にもあった。あれは森林公園に二人で行ったとき、ファンに見つかりそうになって。草むらに押し倒されて…。
やだ、思い出したら恥ずかしくなってきた。
「も~ムカツク~」
「なんで公園ってカップル多いのよ」
え?
「あたしも優しい彼が欲しーい」
公園の横をOLらしきお姉様方が通りすぎていった。
「…いったか?」
「け…珪…クン?」
少し身じろぎしてみたが、腕は少しも緩められる気配もなく。
「ファンかと、思った?」
彼は少し、と困った顔で笑った。そんな顔をされては、電話が遅かったこともずっと逢えなかったことも全部、全部許してしまう。
「大変だね」
心底思ったことを口に出してしまうと、彼は眉根を寄せた。
「だからって、手放す気、ないから」
別れる気ではなく、手放す気。そんな些細なことが嬉しいなんて彼は気づかない。それを至近距離で真面目にささやかれては、赤く火照る顔を隠す場所もない。と、ひとつだけ方法があった。顔を彼の肩に埋めるという方法が。
「春霞?」
意外そうな声だったが、すぐに髪を優しく撫でられた。彼の細い指が梳いてくれていると思うだけで、余計に心臓が動悸を早める。なんか、私ばっかりドキドキしてるのはズルい。
「今日は、どうしたの?」
言いながら、彼の腕からそっと抜け出そうと顔を上げた。
「春霞に、逢いたかったから」
顔を上げると葉月の顔がどアップで、私はなんて綺麗な男だろうとまたドキドキしてしまって。その間に優しいキスが降りてきた。私を芯までとろけさせる甘いキスをして、二人でベンチに座った。
「明日も、仕事?」
「うん…でも、明日は迎えに行く」
なんで?
「心配だから、早めに終わらせる」
なにが心配なの?
「…悪い虫」
え?
「笑うなよ」
…ごめん。だってーー。
「あいつ…春霞のこと、諦めてないよ」
あいつ?
「姫条」
不謹慎かもだけど、うれしかった。妬いてくれるんだ。
「だから、笑うなって」
笑いをかみ殺す私の頭を腕で巻き込んで、彼のひざに倒された。
「楽しんでるだろ」
そんなことないよ。ものすごく、嬉しいだけ。葉月を妬かせられるのが、私だけだということが嬉しいだけ。
「なぁ」
笑いつづける私を幸せそうに眺めて、彼は観念したように続けた。
「次のオフで、どこか行こうか」
「ほんと?」
飛びつくように答えて、しまったと気がついたときには彼は笑顔の渦にいた。
「どこがいい?」
「…森林公園」
てっきり喜んでくれると思ったのに、卵zに反して、彼は笑顔のまま固まった。
「珪、クン?」
なんでもない、とかわされてしまった。
森林公園は彼の格好の昼寝場所だったはずだ。よく撮影にも使うからというよりは、あの場の空気が葉月には心地良い流れなのだ。その証拠に、始めてのデートで即効で寝られてしまった。仕事で疲れているのかとそのときは思ったけど、あとから単に彼が昼寝好きなだけということに気がついた。
そのお気に入りの場所なのに、どうしたのだろう。葉月は高校のときよりも格段にポーカーフェイスになって、私でも容易に読めない。
今にも鼻歌を歌い出しそうな勢いだ、と姫条が呟いた。
「ずいぶん、元気やな。自分」
昨夜を思い出して、照れながらも嬉しそうに私が頷くと、対照的に彼は深いため息をついた。
「なんや、もう仲直りしたんか。…つまらん」
「つまらんとはなによ」
「チャンスやと思うたのに」
「なんの?」
心底不思議そうに見返すと、彼は意味のない言葉を連ねて顔を赤くした。
「ねぇ、ニィやん」
「なんや?」
「なっちんと別れたのっていつ?」
笑顔で次の言葉を待った。これがききたくて会うことにしたんだ。私のはいつもの不安だったけど、藤井のは不安が現実になって、しかも売り言葉に買い言葉みたいにゆっちゃったんだろうし。今ごろ――。
「アイツは関係あらへん!俺が…ただ…」
いつになく強い否定に驚いていると、彼は我に返って謝ってきた。
「…すまん」
「言うべき相手、間違えてるよ」
それは藤井にいうべき言葉のはず。
「違うな。もう俺たちダメなんや」
どうして、そうやって言い切るの。
「俺があんたを忘れられん限り、どんな女も続かん」
目が、真剣だった。顔は笑っているのに。
「でも、私には珪クンがいる」
「冷たいカレシがな」
「冷たくないよ」
「毎晩泣いとるくせに、ようゆうわ」
「そんな、こと…」
「わかるわ。あの頃より、自分、笑わんようになったやろ。それもこれも全部――」
「やめて!」
なんでこの人はこう鋭いところを突いてくるのだろう。それ以上聞きたくなくて、私は両手で耳を塞いだ。
「そこのヤツのせいや」
彼の指差す植えこみ越しの隣のテーブルには、ごく自然に葉月がいた。いままでで一番不機嫌な顔で。
「…珪クン…いつから」
「最初っからおったで」
わかってて、あんなことをいったの。
「仕事が、早めに終わった。偶然、おまえが来たんだ」
静かに紡がれる低音がいつにない不安をかきたてる。最悪の鉢合わせ。頭の中で不安がグルグルとまわっている私を尻目に、姫条が続けた。
「この際だから、ゆうとくわ。これ以上、こいつを泣かせるようなら横から掻っ攫うからな」
葉月が私たちのテーブルに近づいてくる。
「あんたがどう思おうが、関係ない」
「なんやと?」
「あんたに俺たちのことは、関係ない」
強くはっきりとした口調。強い拒絶。でも、しっかりと葉月は私を引き寄せた。
「あぁ俺にもあんたは関係あらへん。…けどな、誰が好きな女泣いてるの、ほっとけるんや」
姫条の切れ長な瞳がすっと細くなった。
「まぁあんたはほっとけるんやろな。人気沸騰中のモデル様やからなぁ。でもな、ひとつだけゆうてお…」
軽く息を吐き出すだけの小さな笑い声が聞こえた。
「行くぞ、春霞」
「まてや、まだ話は終わってへんで!!」
姫条を無視して、葉月は私を外へと連れ出した。
「あんたがそんなんやとなぁ…!…のか!?」
店の外は初夏の清々しい風が吹いているのに、何も感じられない。握られた手が痛かったけど何も言えなくて、私は必死に歩を合わせた。
どこにいくんだろう。
疑問に思いながらも、過ぎ行く景色から場所はひとつだった。何度も歩いた学園への道程。懐かしい校舎。そして、時の止まった小さな教会は、扉が開いていた。
「姫条が言ってたの、本当か」
ひどく傷ついた様子だった。
「守ると約束したのに、俺、春霞を泣かせてばかりだ」
葉月は全然、怒っていなかった。
「あれから、どれくらい泣かせた?…アイツに言われてもしかたないな」
その力ない微笑が優しくて、優しすぎて予感させる。だから。――その先を言わないで。
「このままだと、春霞はずっと泣きつづけるのか?」
ーーもう、泣かないから。
「ほら、また泣いてる」
私の意思とは関係なく流れ落ちる涙を、葉月は指で掬い取った。
「俺、ほんとに泣かせてばかりだ」
ちがう。これは葉月の続ける言葉がコワイから。――お願い、言わないで。
「俺たち、ここから始まったな」
子供の頃、高校での再会、卒業式の…。あの時から、私には魔法がかけられている。葉月がかけてくれた、お姫様の魔法が。
「また、ここから始めようか」
静かに笑顔で紡がれてしまった言葉の前に、私はただ目をつぶっていることしかできなかった。魔法が解けて、私はただのオンナノコに戻ってしまう。そう思うと、また涙が溢れてくる。
「…春霞」
顔が柔らかい布にあたり、肩の胸が苦しくなる。顔を上に向けられても、涙で視界がぼやける。魔法を解かないで。このまま時間をとめていて。信じられるのは、抱きしめていてくれる今と、春雨みたいな優しいキス、「泣くな」とささやく貴方の声だけだから。それ以上は何も望まないから。
「俺、これからも春霞を泣かせるだろうな」
ーーそれでも、離さないで。掴んでくれたその手を。
「そんな顔で泣くな」
「だって…」
「俺は、もう春霞を手放す気はないんだ」
驚いて顧みる私を、葉月はもう一度抱きしめた。
「だから、泣きたいときは、すぐに言え。どこにいても、飛んでいくから」
これからモデルとしてどんどん忙しくなるのに、そんなできない約束を。
「絶対に、約束するから」
優しく私の髪を梳く手が心地よい安心を呼び込む。今度は嬉しくて涙が止まらなくなった私を、葉月は泣きつかれるまでずっと抱いていてくれた。
ステンドグラスに差し込む光があたって、私は目を覚ました。それを見ていると考えてしまう。おとぎ話のお姫様と王子様は本当に幸せになれたのかな、と。
「にゃー」
足元に猫が一匹、擦り寄ってきた。葉月はいないけれど。
「…すいません、それで…」
細く開いた入り口から光と共に、彼の声が聞こえてくる。
「…はい、ええ…」
口調からすると、マネージャーさんかな。
「にゃー」
でも、なんでこの一匹だけがここにいるんだろう。考えて、ひとつの結論にたどりつく。
「…ハルカ?」
「なぁ~ぅ」
返事、された。あの時の子猫だ。
「でかくなったな~、ハルカ」
「なぁ~ぅ」
自分の名前って、ちょっと複雑。
「…そんなに私に似てるかな?」
ハルカはゴロゴロとのどを鳴らした。マイペースでドジでトロくて…。て、マイペースは葉月のほうが明らかに上だ。
「…似てる、な」
戻ってきた葉月が隣に座ると、ハルカはすぐに飛びついた。なんだか、うらやましい。
「ははっ、なんて顔してんだ」
笑いながら、また抱き寄せてくれた。本当にまだ、一緒にいていいんだ。それがすごく嬉しくて、さっきの言葉の本当の意味なんて考えもしなかった。
「春霞」
「ん?」
「なぁ~ぅ」
猫まで一緒に返事したので、葉月は吹き出した。
「自分でつけたんでしょ」
笑いながら、彼は続けた。
「明日も明後日も明々後日も…ずっと、一緒にいような」
「うん!」
今度は幸せなキスをして、私たちは笑いあった。
「なぁ、春霞」
「うん?」
「ずっと隣で笑っていてくれよ」
「約束、ね」
「でも泣きたいときは呼べよ?」
「……」
「なんで、黙る」
彼がモデルをやめると言い出したと聞いたのは、もう少し時間が経ってからだった。
ラブラブ目指してたのに…なんで。主人公、泣き虫です。
なんだか、哀しいカップルになってしまいました…。
もっと二人ともシアワセにしてあげたいんだけど、姫条が気になる…。
別に姫条×奈津実が気に入らないわけじゃないです。
むしろ好きですけど…姫条、シアワセになれるのかな(遠い目)。
あぁしかも、自分で書いてて続きそう。(続ける?ーーリクエスト次第。)
(2002/07/26)