1-斜陽
慶応四年睦月三日。かねてより各方面で旧幕府軍対薩長連合軍の戦いが繰り広げられていた中、とうとうこの伏見にも砲弾が飛んできた。山崎の調査によると、新選組のいる伏見奉行所とは目の鼻の先、御香寺からの砲撃だということだ。
奉行所内に入ろうとする長州軍を井上らと共に防ぎ、土方の号令と共に打って出た。が、しかし。
「撃て撃てっ! 小銃隊援護しろーっ!」
相手の圧倒的な火力を前に、新選組は撤退を余儀なくされた。
翌日には淀城下の千両松まで撤退して塹壕に布陣。だが、薩長軍の新式銃の威力は絶大で、結局この日も何の反撃も出来ないまま終わってしまった。
「葉桜ちゃん。アンタ、大丈夫?」
「烝ちゃんこそ」
二人で寄り添いながら、刀を抱えて眠る夜を迎えるのはこれで二度目だ。口には出さないけれど、皆の疲労も限界に達していることだろう。夜が明けたら、きっと総攻撃をかけることになる。
「…もう揺らがないから…」
小さく呟く。聞こえていない方がいいから、でも、聞いてほしいとも思うから賭けてみた。
この戦いが始まる直前、予感と共に葉桜は一通の書状を受け取っていた。送り主は自分の対である表の巫女についていた女官からだ。内容は、表の巫女の死。そして、いよいよというべきだろう。大厄の時が迫っているということだった。つまり、それは同時に身を捧げて、全ての業を昇華せよという命なのだ。新選組のためにも、自分は一刻も早くやらなければならない。だけど、添えられた一枚の紙にはまったく別のことが書かれていた。
それは、役目から降りることが出来るというコトだ。役目から解放されれば、思うように生きられる。たとえ徳川の時代が終わろうとも、命費えることなく新たな時代を迎えることができるというものだ。だが、それでは大厄を誰が引き受けるというのだろうか。
「え、なに?」
「死んだら許さないって言ったの」
聞き返した山崎に乱暴に言い放つと、頭を優しく抱き寄せられる。
「それはアタシのセリフよ。絶対に死ぬんじゃないわよ、葉桜ちゃん」
「ん」
目を閉じる。夜の闇の中、戦闘は一時的に止まっているが、夜が明ければすぐにでもまた再開されることだろう。そして、また多くの者らが死んでゆくのだろう。両手を広げて、無念に散っていった彼らの魂を受け止めることが出来たら、導いてやれるかもしれないのに、こんなときでも自分は役に立たない。
「少し眠りなさい。明日も大変なんだから」
「うん…」
優しい親友の言葉に素直に従い、葉桜は眠りの淵から飛び降りた。
迷っている場合ではないのだけれど、今はまだどちらも選べない。大切な人たちと生きる未来も、大切な人たちが笑っていられる未来もどちらも手に入れたいから。
(何か、方法はないの?)
夢の中でも葉桜は深く考え続けた。
気配を殺す必要はない。ただ、そっと近づくだけで事は済むのだ。だから、普段通りにわずかな気配だけを当たりに散らせて、歩み寄った。そのまま声をかけるつもりは毛頭無い。
「永倉っ」
前触れ無く背後から抱きつくと、彼は一度ひゅっと喉を鳴らし、次には激しく咳き込んだ。
「な、葉桜!?」
「ふふふ、そんなに驚かれると嬉しくなっちゃうな~」
咳き込んでいるのが収まると、永倉は案の定憮然とした面持ちで葉桜を見る。何か言いたげな視線に自然と笑顔を零すと、表情が固くなる。その意味も全てわかっているから、一言だけ言わせてほしい。
「ごめん」
「…なんで謝んだよ」
「私、置いてかれるような気がして、少し焦ってたんだ」
気がついたのは斎藤の告白のおかげだった。皮肉にもずっと避け続けてきたそれで、やっと気がつけた。
体を離して、永倉に目を合わせて笑いかける。困惑している表情に、どこか安堵する。
「新選組はとても温かくて、居心地が良かったから。だから、変わらないものがないってことを忘れてたんだ」
「すべてのことには始まりがあって、終わりがあるってことを忘れたかった」
終わりがないと信じたかった。この時代の中でなお出会えた最高の仲間たちと、生き続けたかった。
「何も変わらなければ、続くと信じたかったんだ。だから…皆の気持ちから逃げてきた」
「…葉桜」
「本当はずっと気がついていたんだ。だけど、それを受け止めてしまったら、全部終わってしまう気がした」
目を閉じた葉桜を強く大きな腕が包み込む。
「終わりになってしまったら、二度と会えない気がして、怖くて。だから、気がつかないフリをして逃げてたんだ」
大きな胸に顔を埋め、両腕を伸ばして、その広い背中にしがみつく。自分の背中を優しく撫でる手に助けられて、堪えていた涙が溢れてくる。
「私が愛した人たちは皆私を置いていくのに、どうして私だけが生き続けなければならない!?」
新選組は温かい場所だったけれど、それでも死と無関係ではいられなかった。最初から、ずっと。それでも、私はここにいたかった。だから、終わりを引き延ばし続けてきたんだ。
永倉から体を離して、その顔を見上げても、もうぼやけてどんな顔をしているのかわからない。それに、今の私が何を言う資格があるのかと、今更のように考える。言えることは、本当に少ないというのに。
「言いたいことは、それだけか?」
「え?」
「この際だ、全部吐いちまえよ」
「…永倉、怒ってないのか?」
私は酷いことを言ったのに。
「はっ、オメーに話せない事情があるなんてことは端っからわかってんだ。今更、あの程度で怒るかよ」
そんなんで嫌えりゃ苦労しねェよ、という照れの混じった呟きに自然と笑みがこぼれてきた。ああ、やっぱりイイ奴だな。
「ありがとう、永倉。おまえは最高の…仲間、だよ」
「おうよ。だから、遠慮無く言いたいこと言え」
「…何を」
「葉桜」
まっすぐに見つめてくる瞳が困る。優しくて、温かなその瞳に惹かれそうで、困る。
「一緒に、戦ってくれ」
「オメー、まぁだ誤魔化すつもりか?」
額が合わされ、口づけるほどに近い永倉の瞳にどくんと鼓動が跳ねた。
「そ、そうじゃない。そうじゃなくて、永倉もこれから突撃するつもりだろう? だから、今は一緒に戦ってくれるだけで」
「…危険なのは誰かってのか、言えねェんだったよな」
「スマン…った!」
軽い頭突きをくらい、離された永倉の明るい顔を見る。
「だから、謝んじゃねェっつってんだろーが」
「うぅ~っ」
「一緒に戦うだけでいいんだな?」
大きく頷くと、大きな手でぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。同じぐらいの身長だけど、力強くて頼りになる。
「今回ばかりは俺もオメーを守ってやる余裕なんてねェ。だけどよ、誰を助けるんでも構わねェけど、何よりもオメー自身が生き延びることを考えるんだぜ。命と引き替えになんて助けられたって、嬉しくも何ともねェんだからな」
「……」
「わ、か、っ、た、な?」
「いたたた、わかった、わかりましたっ」
頬を引っぱられて、無理矢理に頷かされてしまった。その手を離されてから、二人、笑顔で拳を合わせる。
「ふふ、この状況じゃ何言っても関係ないな」
「あん?」
「頼りにしてる。剣士としての意地をあいつらに見せてやろうじゃないか」
「ああ、そうだな。性能のいい銃を持ったくれェで自分が強くなったみてェな顔してるあいつらに一泡吹かせてやろうぜ!」
大砲の音が辺りに鳴り響く。それを合図に、二人で刀を振りかざして、飛び出した。
「新選組、突撃だぁーっ!」
「おぉぉぉぉぉっ!」
剣戟と銃弾の中、斬り込んでいく二つの人影に続き、次々と紅い華が散っていった。
2-山崎烝
どれだけの人を斬っただろう。どれだけの血を受けただろう。意外にも銃弾は当たることなく、葉桜たちは前衛で戦い続けていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…っ」
朝から戦い続けているというのに、敵はなかなか減らない。体力的にも限界が近い。蹌踉けた背中に、背中が当たる。
「ちっと休んだらどうだ、葉桜」
「ハッ、言ってろよ」
重い刀を横へ薙ぎ、斬りかかってこようとした敵を切り伏せる。このまま駆けて行きたいところだが、身体が思うように動かないのが現状だ。がくりと膝を落とし、剣を支えに荒い息を吐く。周囲にはまだ戦っている隊士たちもいるが、すでに冷たくなった者らも辺りに散らばっている。
「ははは、マズイなぁ。永倉、私ら、本隊と分断されてないか?」
「あぁ。本隊は無事だろうけど」
腕を掴まれ、立たされた永倉の肩を支えにする。
「一度、戻るか? オメーも限界みたいだしよ」
へばっているのは葉桜の方だけで、永倉はまだまだ余裕そうなのが、なんっか悔しい。体力ないのは自覚あったが、迷惑をかけるほどではなかったと思っていたのに。
「有難いけど、そうはさせてくれなさそうだな」
撃ち込まれてきた弾丸が頬を掠めていくのを冷静に眺め、一つ低く飛んで、敵をなぎ払った。ものの数秒もかからないで終わらせ、ひとつ息を吐いたトコで、永倉が駆けつけてくる。
「おい、無理すんなよっ」
「休んでるとまた狙われそうだな。退くぞ」
「あ、ああ」
銃弾の飛び交う中を駆けていく最中、ふと気がつけば手を握られて。ほとんど引っぱられるように走りながら、葉桜は片手で向かってくる相手を斬り捨てた。
「やりにくい…」
「いいから走れっ」
「わかってるっ」
永倉の手を振り払って、走る速度を上げてゆく。心の中がザワザワと落ち着かない。気持ちが苛ついているのは疲れて思うように触れない腕のせいか、それとも死にゆく仲間たちを救ってやれない無念さ故か。どちらにしても、何も出来ない後悔ばかりが先に立っているのは事実だ。
走る足音、息遣い、剣戟の音、小銃、大砲の音。戦場の音に混じる人々の無念の声が耳について、離れない。謝ったって、誰かが許してくれるワケじゃないけれど、ずっと誰かに謝りながら葉桜は走り続けていた。
「葉桜ちゃん!」
俯いた瞬間だった。突き飛ばされて、転がって、気がついたら少し離れた後方に誰かが倒れていた。この数日ですっかり見慣れてしまった濃い紫の戦装束と近くに落ちている薄紅色の幅広の布から、すぐに誰なのかわかった。
「…烝…?」
すぐにでも駆け寄りたいのに、身体が酷く重い。
「ウソ…っ」
ふらふらと近づいて、震える手をその顔に近づける。
「な、なんで…っ」
「ったく、ぼーっと走ってんじゃないわよ」
いつもの叱責よりも力がないのは、痛みに耐えているせいだろう。触れた肌から段々と熱量が失われてゆくのがわかって、強くその掌を握りしめる。
「トシちゃんから伝令。撤退よ」
「そうじゃなくって! 私を庇うこと無いって、烝なら知ってるでしょ? 怪我したところで、死ぬコトなんて絶対に無いんだからって」
「ええ、知ってるわ。死ぬことはなくても、死にたくなるほどの激痛があるってことも、ね」
痛みで話すことさえ苦しいはずなのに、山崎は心配させまいと葉桜に笑いかけてくる。
「もっとも、そんなこと考えてる余裕なんてなかったけど」
今更気がつくなんてね~と、軽く話している余裕なんてないはずなのに山崎は笑い、そして咳き込んだ。血を吐いてはいないから、肺に損傷はなさそうだ。だけど、それ以上に苦しそうな様子を見るのが辛い。
「バカね、なに泣いてるの」
「怪我なんて平気だ。烝や皆が苦しむくらいなら、私が傷ついた方がよっぽど良い…っ」
「…ホンット、バカね。庇った甲斐がないじゃない。こういうときは素直に、有難うって言うのよ」
苦しげに一息を吐き出す山崎の応急手当てをするために、懐に入れておいた白い幅広の布を取り出す。しかし、手当てのために差し出した手を取り、山崎が起き上がる。
「烝、無理しちゃ…っ」
制止をかけようとした葉桜は、次の瞬間その腕の中にいた。同じぐらいだと思っていたのに、すっぽりと自身を覆われて、近くに山崎の鼓動が聞こえてくる。
「怪我、ない?」
こんなこと今までだって何度もあったのに、どうして今こんなにドキドキするんだろう。戦場に三日もいるから、普段と違って汗の匂いが強く薫って、なんだかいつもの山崎じゃないみたいで。まるで、男、みたいで。
頷いた葉桜の耳元に安堵の吐息がかかり、不覚にもびくりと身体が揺らいでしまった。
「よかった~。アタシだって男だからさ、好きな子にはやっぱり怪我させたくないのよ」
「烝…?」
「急にこんなコト言ってごめんね。でも、これだけは覚えておいて。アタシが本気で守りたいと思う女の子はアンタだけよ」
耳元で囁かれる声は普段よりも低く、出会ってから初めて、男だと意識させた。怪我をしているはずなのに、もがく隙も与えないほど強く抱きしめられる。
「無事でよかった」
本当に安心したという囁きを前にして、どうしてこの腕をふりほどけるだろうか。困っている葉桜の助けは、まったく別の所から来た。
「場所と状況を考えろ、山崎っ」
引き剥がされた山崎が小さく呻き声を上げる。
「原田。烝は怪我しているんだから、乱暴にするなっ」
「いいからさっさと戻ろうぜ」
「…何拗ねてるんだ、永倉?」
葉桜が山崎を助け起こそうとする前に、斎藤が軽々と山崎を担ぎ上げた。いや、だから怪我人だって。
走り出す仲間たちの背中を眺め、呆れたようなくすぐったいような仄かな温かさが胸の中に広がる。ついさっき、最初で最後の大親友だと思っていた者に告白されてしまったというのに、胸の内からこみあげてくる幸福感が笑いを誘う。
自分が大切にする人たちに異性と好かれることは、ずっと怖いと感じていた。無くすことを恐れ続けてきた。だけど、なにかの楔が抜け落ちたように、それもなくなった。
「さっさと来い!」
怒鳴りつける声に引かれるように地を蹴り、葉桜も走り出す。
大切な人たちが自分を一番にしてしまうことがずっと怖かった。恋をすることが、誰かを本気で愛してしまうことが、ずっと怖かった。葉桜が大切にする人たちは皆、先にいなくなってきたから。
でも、そのせいで大切なコトをずっと封じ込めてきたことに気がついたんだ。自分が愛した人たちは何の後悔もせずに精一杯に生きていたということを。そして、皆一様に葉桜の幸せを願ってくれていたということを。
「本当に大切なたった一人、か」
辿り着いた本隊を前に小さく呟く。聞きとがめるものは誰もいなかったけれど、葉桜は一人静かに頷いた。自分を好きだと言ってくれる者たちのことを、もう少しだけ、よく考えてみようと。
3-海軍の船
新選組は捨て身の突撃により戦闘を白兵戦へと持ち込むことに成功した。白兵戦となれば新選組の独壇場。隊士たちの獅子奮迅の活躍により多くの敵を撃退した。しかし、一方でその強引な突破戦法の結果、多数の隊士が、傷つき、倒れ、そして死んでいった。井上源三郎ら幹部隊士を始めとした十数名の尊い犠牲者を出したのだった。
また、時期を同じくして嘉彰親王が征夷大将軍に補せられ、錦の御旗を賜ったことも旧幕府軍にとって大きな障害となった。錦旗に弓引く者は朝敵。そうした新政府軍側の喧伝により、旧幕府軍側から続々と裏切り、離脱が相次いだ。
「為す術もないってか。ま、無理もないよな」
山崎は弾の当たり所が悪かったらしく、まだ床についている。日に二度三度と訪れてはみるが、とてもこれからの激戦に耐えられそうにもなく、本人もそのことはわかっているようだ。
そうこうしているうちに慶喜公は容保様らを引き連れて、先に江戸へ下り、幕府軍の諸兵は大坂へ取り残されてしまった。もちろん、新選組も例に漏れず。
その後、八軒屋に布陣した新選組は淀川水運の要衝をおさえ、混乱する大坂市中の治安対策を行った。その間にも土方は、江戸行きの手段を得るために、海軍副総裁、榎本武揚と交渉する機会をもった。
「わざわざお会いくださり、感謝します。榎本さん」
「いえ、私もあなたには会ってみたいと思っていたのですよ。泣く子も黙る新選組の評判はよく耳にしていたからね」
初老と思われるその洋装の男性は、不思議そうに土方の隣に控えている葉桜を見た。土方の部下らしいとは言い難いが、礼儀正しく座している姿は堂に入っている。
「ところで、そちらの方は?」
実は土方に無理を言って連れてきてもらった葉桜である。この先、幕府の海軍と新選組は密接に関わってゆくことになる。ということは、これから先何度も会うヒトでもあるし、もしかすると新選組を助ける手立ての一つと出来るかもしれない。だったら、早くに会っておいた方がいいと思ったのだ。
ただそれだけなので、何をどこまで話そうとかは特に考えていた訳じゃない。それに土方ほどの人なら人を連れていても不思議ではないだろうと考えたのだ。しかし、それは浅はかだったらしい。
「お初にお目にかかります、榎本様。私は新選組一番隊組長代理を努めております、葉桜と申します」
彼は少し驚いた後で本当に楽しそうな笑いを零した。
「ははは、失礼しました。貴方があの葉桜殿でしたか」
「?」
「新選組の姫神殿、こちらこそお目にかかれて光栄です」
「姫…え!?」
「貴方のお噂も聞き及んでおりました。まさか、貴方まで来ていただけるとは」
いろいろなことを囁かれていることぐらい知っていたけど、まさかこんな風に歓迎されるとは思ってもいなかった。しかし、今は状況が状況だ。こんなところで自分の噂を問いただすわけにも行かない。
「それで、榎本様。海軍の船に同乗させていただく件は…?」
彼は二つ返事で引き受けてくれた。これで、今回の用事は終わったも同然である。
「慶喜公が急遽江戸へ戻られたことは私も驚きましたが、我々が江戸幕府を救おうという気概に何ら変化はありません」
「ええ」
「本音を言えば、私個人としてもあなたには恩を売っておきたいのですよ」
柔らかな笑顔の奥の瞳は鋭い。優しいけれど、ただ者ではない気配に、葉桜も笑顔を向けた。
「ふふふ、あなたたち新選組ほど心強い味方はいませんからね」
「ふっ、正直なお方だ」
それからひとしきり軽めの談笑をしてから、土方と帰路についた。
行く道もだが、今日の土方は深く沈んでいるようだ。いや、今日に限らず、大坂へ戻ってからずっとだ。私が芸姑ならば、楽や踊りで気晴らしでもさせてあげるんだけど、あいにくとそういうのは持ち合わせがない。
追い越して、くるりと振り返って笑顔を向ける。
「海軍の船に同乗させてもらえて良かったですね、土方さん。皆で江戸に迎えるなんて、嬉しい! 近藤さんと総司も、それに烝ちゃんや他の重傷者も一緒に江戸へ行けますねっ」
「そんなに、嬉しいか?」
「はい。もちろん、状況を考えたら喜んだらいけないと思います。でも、」
無理矢理にはしゃいでいる葉桜を苦笑と共に、たった一言で土方は止めた。留まる葉桜の肩に手を置き、自然と隣を歩かせる手並みはとても手慣れている。
「今は誰もいない。気を遣って話す必要はないぜ」
「…土方、さん…」
「呼び捨てて構わん。普段はそうしてんだろ?」
「う…バレてたの…?」
肩に回された重い腕以上に、その存在を重く受け止める。いや、土方の全てを受け止めることはできないだろう。新選組で土方と過ごす時間は多いけれど、それでも何をどれだけ考えているのか葉桜には途方もつかない。鬼の副長と呼ばれているけれど、叱責できるほどに隊士たちを見ている者など、葉桜は他に知らない。
「それじゃ言うけど、土方」
「なんだ」
「土方こそ、私に気を遣うことないよ。私はもう大丈夫だ」
「別に。気を遣っているワケじゃない」
「そうかな~? だって、いつもより優しいなんて変だよ」
「…そうか?」
「そうだよ。だって、いつもは…」
泣きたいときに泣かせてくれるのが、土方だ。そういうときほど不必要なほどに優しくて、それで葉桜はいつも泣かされている気がする。いいや、確実に泣かされている。何故かこの人にはそういうときの自分が分かるらしい。
「いつもは…何だ?」
上から降ってくる声音に、普段の力はない。だけれども、弱っている声音に葉桜は弱い。
「今回のことは、土方のせいじゃないよ。あれは近藤さんでも避けられない」
無理矢理に話題を変える。さっきの話を続けるのは、葉桜自身が辛い。おそらく眉間の皺を増やしているであろう男の顔を見上げずに、するりとその腕から抜け出して、葉桜は前を歩いた。
「哀しいけど、もう剣で戦う時代は終わりなんだと思う。それが明確に分かれてしまったのが、今回の戦だ。だけど、だからといってこれを繰り返すワケじゃない。信長だって、銃で時代を切り開いたけど、刀の時代は終わらなかった。重要なのは武器とか、それだけじゃないと思う。最終的に戦を制するのはーー情報、だ」
ついてこない影を振り返る。細い猫目の月明かりではその表情もわからないけれど、言わんとしていることが伝わると良い。
「烝ちゃんの怪我ではもう監察方を続けられない。だから、これからは私が新選組の目となる」
「…本気か…?」
「ふふ、これでも裏の顔は広いよ。頼りにしておいて」
最後まで関わるための道を、葉桜は手に入れた。
葉桜個人としては山崎や近藤、沖田や土方の乗る富士山艦に乗りたかったのだが、鳥羽伏見の戦いでの重傷者は多く、軽傷であることもあって、葉桜は永倉、原田、斎藤らと共に先立って九日に順動艦で江戸へと向かうコトになった。
「ふぁ~あ、まったく海ってのはどんだけ進んだか分かりゃしねェ」
甲板で大口を開けて欠伸をしている永倉の隣にちょこんとしゃがみ込む。その手にはちゃっかりと徳利を持っている辺りが葉桜だ。海軍に譲ってもらったと言ってみたが、まったく信用はされず、呆れたように深いため息をつかれてしまった。
「だからよ、オメーは」
何が言いたいのかはわかるけど、こういうトコを変える気なんて全くない。
「ははっ、まあ好きにさせてくれよ。こんなのんびりした時間は久しぶりなんだから」
ずっと一人で戦っている気になって、一人で全部抱え込んで、一人で全部解決しようとしていた。そんなこと無理なのに、私は一人しかいないし、半人前でしかないのに。
欄干に手をかけて身を乗り出す。船に切られた波が白い飛沫を上げて、また海へと帰ってゆく。その飛沫がまた小さな波を作り、そうしてどんどん広がって、文様をつくってゆく。
「しかし、海はやっぱり好きだ。見てて飽きないし、こうして水面を見ているだけでも案外楽しいもんだ」
後ろから首に腕をかけられて、引き倒されそうになる。
「やめろって。そのまま落ちんじゃねェかと心配になっちまう」
「あははっ、落ちないって」
やんわりと腕に手をかけると、簡単に外してくれた。その隣に今度は足を投げ出して座り込む。未だ戦装束のままだが、葉桜は誰よりも軽装だ。山崎のいない分の監察方も引き受けていたから。
「それよりよォ、江戸に着いたらオメー、どうすんだ? もしも、」
聞き辛そうな永倉に笑いかける。
「バーカ」
「!?」
「無用な心配をするな。私は最後まで新選組と共に在るつもりだからさ」
身体を揺らし、永倉の腕に身体を軽く預ける。
「それに、今除隊なんてしたら討ち死にした井上に合わせる顔もない」
井上の話を聞いたときはただただ信じられなくて、涙も出てこなかった。今だって、まだどこかで目の前を通り過ぎるんじゃないかと思ってしまう。
「この状況なら残ってるヤツだっていつ戦死してもおかしかねェ。次は俺かもしれねェし、おまえかもしれねェ…」
肩から回された腕は震えてはいない。けれど、伝わってくる不安を和らげるために、そっと太い腕を抱え込み、顔を埋める。
「永倉だって、覚悟はできてるだろ?」
「…葉桜」
「心配しなくとも、すべてが終わるまで私は死ねないから。少なくとも、私の心配をする必要はないぞ」
「だけど、オメーは…」
くるりと振り返ると、戸惑っている永倉の深い瞳を見据える。こうしてこの人の目を見るのはもしかすると初めてかもしれない。新選組のみんなに共通することだけれど、曇りある者はひとりもいない。
とても、綺麗な瞳だ。
「私に覚悟をさせたのは、お前らだぞ? 責任を取れ」
「責任?」
見開かれる瞳をゆるく微笑んで受け止める。
「私が普通の女なら間違いなく、永倉に惹かれていた。いや、永倉だけじゃない。新選組の皆の強くて優しい心根に間違いなく私は惹かれてきた」
「だからこそ、選んでしまったときに終わってしまうコトが怖かった。…ううん、終わりを見るのが、また一人になってしまうことが怖かった」
「大切なたった一人を選んでしまったら、約束を守れないかもしれない。大切なたった一人を選んでしまったら、私自身が狭間で動けなくなるかもしれない。それが怖かった。動けなくなって、何も守れなくて、一人になってしまうことが、怖かった」
「私は、護る者、でなければならない。この時代をあなたたちが乗り越えるために」
自分は決して強い人間じゃないと想う。だけど、弱いから、無くしたくないと足掻くから、ここにいる。
頬に触れてくる永倉の大きな手に目を閉じて、猫のようにすり寄る。頼りにしているから、こうして触れられる。
「私は我が侭だから、みんなが生きててくれなきゃ答えを出せないんだ。だから、」
「これからの新選組の運命、行く末はすべて私が引き受ける」
そう言ったときの永倉はとても厳しい顔をしていたから、また笑ったら馬鹿野郎と優しく怒られてしまった。
船の欄干から陸を眺めていると、時々才谷のことを思い出す。今、どうしているだろうか。ちゃんとした食事が取れているのだろうか。ひどい扱いを受けているということはないだろうけど、彼の心は無事だろうか。夢を、失っていないだろうか。そんな余計な心配ばかりをしてしまう。
(元気だと、いいな)
今は祈り願うことしかできない。祈りを受け持っていた半身がいない今、どこにもそれを願う場所はない。
夢を、見る。知るはずのない半身の最期とその感情。彼女は目を背けてしまったから。会ったことは本当に数回しかない。彼女はまだ代替わりから日も浅かったから、葉桜を「姉様」と呼んで慕ってくれていた。彼女は最期に自分を呼んでいたのだろうか。助けを求めていたのか。そんなこともわからない自分が生き残っていることが正しいかどうか、わからない。
「葉桜、おまえ酔ったのか?」
「ははは、私が船酔い?」
かけられた声に振り返ると、心底心配そうな顔をしている原田が立っていた。
「しないしない。ただ眺めていただけだよ」
振り返って、欄干に背中を預け、カラカラと笑いを返す。
「船酔いってのはそこにいるようなのを言うんだろ。ないない、絶対無い」
葉桜が指しているのは、壁により掛かって、死んだようになっている隊士の数人である。
「中禅寺湖でよく父様と釣りしてたから」
「おまえ、釣りもやんのか」
「釣りぐらい出来ないと旅なんて出来ないっしょ」
首だけを巡らせて、波間に視線を落とす。白く泡立ちながらもゆらゆらと揺らぐ波間は深い青ばかりだ。少量の水だけなら透明なのに、これだけの量になると青になるということ自体が不思議だ。集まると色が変わるのか。誰かが空が映っているから青いのだと言っていたけれど、その青はどうしたって空の青よりも深い藍だ。
「あれ? 言ってなかったっけ。昔から父様に連れられて出掛けているうちにすっかり趣味になったんだ」
一年いれば良い方で、今日はこの宿、明日は野宿、次にはという具合に留まることを意識的に避けていた。どこへいっても父様の面影ばかりで、影を見つける度に追いかけて、落胆して。いないとわかっていてもつい探してしまっていた。
新選組に留まることが出来たのは、ここだけは父様との想い出のない土地だったからだ。でなければ、鈴花のことがあってもとうに除隊していただろう。
「烝とも梅さんともそれで出会ったんだ。もっとも、梅さんとはほとんど話もしなかったんだけどな。あんなに面白いヤツなら、もっと最初からちゃんと話をすればよかったなー」
才谷とも石川とももっと話をしたかった。まだまだ話したいことは沢山あったのに言葉も時間も制限を受けていて、いまや再会できる望みも薄い。
乾いた笑いを立てる葉桜の顔に乱暴に手拭いが押しつけられる。
「っ! なんだよ、原田」
抗議の声を上げようとしたが、声はでてこなかった。こちらを見る原田の瞳は、ひどく哀しげだ。
「梅さんは生きてる。そう言ったのは、おまえだろ。すべてが終われば、絶対会える。だから…んな顔すんじゃねえよ」
それ以上は何も言わなかったけれど、原田のその優しさに素直に葉桜は応えることにした。気持ちはしっかりと伝わってきたから。自分より少し高い顔を見上げて、微笑む。
「ん。そ、だね。会えるよね」
「あ、ああ」
「絶対また会えるよね?」
原田は顔を朱に染めたまま、上から押さえつけるようにがしがしと頭を撫でた。乱暴だけれど、どこか優しさの滲むその動作にまた葉桜は笑い声をあげた。
「やっぱさ、葉桜は笑顔が一番だな」
嬉しそうな声に顔をあげる。そんなことを言われるとは思っていなかったのと、まさか原田に言われるとはという意外性故だ。
「原田、もしかして私を励ましに来てくれたのか?」
「そっ、そんなワケねーだろ。あっ! 新八が俺を呼んでる!」
「それを言うなら、呼んでる、じゃなくて、用がある、だろ。永倉なら、」
「そんじゃ、また後でな!」
「あっ、原田! そっちじゃないって!!」
あっという間に駆け去ってしまった原田の方向に呼び止めそこねた片手と顔を向けたまま、呆然と立ちつくす。その背後に永倉が立つ。
「なんなんだ、一体?」
「左之のヤツどこ行ったんだ? あんなに慌ててよォ」
「ああ、なんかおまえに呼ばれてるらしいよ」
「あん? 別に呼んでねェぞ」
「だよなぁ。なにをあんなに慌ててたんだろ?」
本気で首を傾げている葉桜を横目に、永倉は呆れた息を吐き出した。
久々の陸地を強く踏みしめる。海の上も良いけれど、やはり自分は陸に立っている方が良い。両腕を広げて大きく深呼吸すると、海の風も山の風も潮の香りも土の香りも、すべてが自分の世界の一部だと実感できる。これが自分の守るべき、いるべき世界なのだ、と。
「葉桜ちゃん」
呼ばれた気がして振り返る。だけど、そこには誰もいない。富士山艦に山崎は乗っていなかった。
土方から託された手紙には謝罪の言葉と御礼が書いてあって、それから葉桜の意思を汲み取るというような意味合いのことが書かれてあった。つまり、山南と共に京に留まり、生きてゆくということだ。
始めに読んだときは嬉しさと寂しさで、気持ちが詰まる想いを感じた。最高の親友はこちらが言の葉にしなくとも、しっかりと気持ちを読み取ってくれる。だけど、たしかに望んでいたことだけれども、もう少しだけ共にいたかった。残り少なくとも、北へ行くまでは一緒にいて欲しかった。
「私、まだ答えを出せていないんだ」
近づいてくる足音に声を落とす。小さな呟きは波に消され、溢れてきた涙は潮風に攫われてしまった。顔は伏せず、遠くて見えない海と空の境界線を眺める。少しでも顔を下げてしまえば、涙が溢れてきそうだ。
「烝が来なかったことに安心してる。でも、それでも少しだけ淋しいよ」
生きていてくれるだけで良いと思っていた。親友が戦死するなんて冗談じゃないって、考えていた。だけど、いざ生かしてしまえば、それだけじゃ治まらなくなるなんて思わなかった。
「怖いよ。これから先、ひとりで先へ進むってコトが」
もう慣れたはずだったのに、先を見ることが怖い。こんなことを想うのは父様が亡くなって以来だ。
「逃げたいけど、逃げちゃいけない。自分で選んだ道を投げ出してしまったら、絶対後悔する。だから、前に進まなきゃ」
背後から包み込むように抱かれる。大きくて温かな手をかけて、ほんの少しだけ気持ちを預けた。
「だけど、少し。一度だけ泣いたら、元気な私に戻るから。前に進める私に戻るから。だから、今だけ泣いてもいい?」
答えのないそれを肯定と受け取り、葉桜は腕に顔を埋めた。声も立てずに溢れた雫は全部、その袖に吸い込まれていった。斎藤は何も言わずに、ずっと抱きしめてくれた。
1-斜陽
日付とか展開と史実の辻褄が合わない気もしますが、ご容赦ください。
(2006/11/8 09:02:30)
2-山崎烝
本編ですけど、もうちょっとだけ続きます。
書きたいものが書ききりませんでした。
江戸に行くまでに書きたい人たちが多すぎる!
あと1話で終わる予定ですけど、場合によってはさらに2話となるやもしれません…。
(2006/11/8 02:54:20)
3-海軍の船
この章は楽しく書くのが難しいですね…。
山崎も参戦、土方は口には絶対出さないですが…、永倉は斎藤と同じくお預け。
個別の恋愛EDは考えていないんですが、あったほうがいいですか?
あ、本編はもうちょっと続きます。
個人的に船上での斎藤と原田の話も書きたいので。
(2006/11/8 11:26:11)
4-海軍の船
大人しく置いていかれる人じゃないですよ、山崎は。
そんなわけでこれから少しずつ生きてる人たちに活躍をして欲しいなぁ、なんて。
次回から別れのカウントダウンです。
むー、もうちょっとヒロインが元気になってくれないと困るかもー。
(2006/11/15 10:33:29)
~次回までの経過コメント
原田
「あ~あ…長旅で疲れたぜ」
「んで、今日からしばらくはここで寝泊りするワケね…」
「はぁ~…結局、江戸に舞い戻って来ちまったな…」