松本の医学所を出て以来、新選組隊士たちの簡単な治療は葉桜の対応となっていた。山崎ほどの器用さはないが、的確な応急処置は松本良順も一目置くほどである。当然、怪我の多い隊士たちの治療も葉桜の役目となっていた。
「土方さん、そのまま動かないでくださいね」
「ああ」
ここ最近、みんな激しい戦い続きで五体満足な人がいないくらいとなっている。もちろん、経験の少ない隊士ほどケガをしやすいのは事実だけど、古参の人だって厳しいのは同じだ。銃や大砲の進歩で、戦争が様変わりしてしまった。
それにしても、この頃の自分って本当に他人の応急処置が上手になった。必要に迫られて、だけど。最近は銃弾を受けた人たちの手当てもしてるから、そのうちこれを本業にできるかもって思うくらいだ。いや、するつもりは全然ないけどね。
今の葉桜を見たら、山崎は何というかな。そんなことを考えてきたら自然と笑みが浮かんできた。
「じゃ、結びますから」
「ああ、すまないな」
「いいえ、お安い御用です」
土方の治療を終え、軽くぽんと包帯の上から叩く。土方の怪我は大したものは少ないから、これぐらいで動揺などしないだろう。治療のために崩していた着物を正して、土方が向き直る。
「この後は新入りの隊士たちに講義をするんだが、おまえにもある程度分担してもらいたい。戦いの勝手も分からん新入りたちでも、何とか戦えるところにまで仕込まねば、どうにもならんからな。突貫育成なのはこの際仕方がない」
「そうですね。分かりました」
葉桜も今まで何度か戦闘についての講義をしたことがある。やっぱり実戦経験のない人たちをちゃんと戦わせるためには、口頭での講義も必要だ。局長の近藤が戦えず、しかも古参隊士がほとんどいなくなってしまった今、何とか戦いに耐えられる人員を育成するのが最重要課題だ。
こういうとき、道場主であった経験は少なからず役に立っているようで、複雑な気分になる。絶対に教えてやるつもりはないが、真面目に教えている今の自分の姿を郷里の者たちが見たら、きっと驚くことだろう。
「とりあえず、今は白兵戦よりも銃火器の取り扱いから仕込むのを優先した方がいいでしょう。その方が経験の少ない人を生かす最良の方法だと思います。剣に関しては、みんなまだまだ未熟なものですから」
「そうだな。剣や格闘を憶えさせるのには時間がかかる。それしかないだろうな…」
遠くを見やる土方はたぶん同じコトを考えている。だから、先じて続けた。
「本当は一から剣を教えられればいいんですが…。今は、少しずつ銃に触れさせて、ならしている段階です。実弾を撃たせて教えてあげたいけど」
どれだけの講義をしてもどれだけの鍛錬を積んでも、実戦経験には敵わない。だから、せめて実弾を撃たせたいけれど、それさえも現状では叶わない。
「それも満足にできなくて…とても歯がゆいです」
足りない、と思う。どれだけの鍛錬をしても彼らの経験は乏しく、これからの戦場を生き抜けるかどうかはもう運だとしか言えない。それが、哀しい。
自身の及ばぬ力を悔やんで膝の上の拳を握りしめる葉桜を、不意に土方が笑った。それは馬鹿にするようなものではなく、どこか柔らかい。
「歴戦の兵になったもんだな、おまえも」
対して、葉桜もいつものように笑い返す。
「ホント、こんなの私のガラじゃないですよ。指揮能力に関しちゃ、私はからっきしで。みんなに及びもつかない」
もともとが一人でやってきたようなものなのだ。協調性なんてものはほとんど持ち合わせていない上、頭を使うということに関してはとことん弱い葉桜である。仕切る能力なんて皆無に等しい。
「及びもつかなかった仲間のほとんどはもういない」
土方の言にわずかに顔を強ばらせる。たしかにその通りだ。苦手だ何だのと言っている状況じゃない。その葉桜の様子に気がついていないのか、土方は微笑んだまま続けた。
「何はともあれ戦いを生き延びたことが最大の経験だ。よくも男所帯の新選組で脱落せずについてきてくれた。それだけでも十分、賞賛に値する」
珍しい。土方が褒めるのなんて初めて聞いた。
「そ…そんなにほめられたら照れちゃいますよ。私がもっともっと効率よく教えられる人材だったら、もっと役に立てましたし。人数が少ないからこそ、余計にそう考えます」
「おまえは精一杯、いや、それ以上に働いてくれている。おまえがそばにいてくれたからこそ、俺は誇りを失わずに戦っていけるのかもしれない」
土方にしては珍しいことの連続だ。
「何言ってるんです。土方さんはいつも誇り高く戦っているじゃないですか。私がいようがいまいが獅子奮迅の戦いぶりですよ」
もしも自分が今この時の新選組にいなかったとしても、きっとこの人は変わらないだろう。決して逃げない人だと思うから、だからこそ葉桜は心配なのだ。決して逃げない人だから、きっとこの時代の終わりに進んで巻き込まれてゆくだろう。
「俺にだって逃げ出したくなるような瞬間は存在するさ。伏見での戦い以降は、四面楚歌の戦い続きだからな。多分、これからもっと、状況は悪くなっていくだろう」
「俺は自分で剣を振ることも少なくなっちまって、今はもうただの指揮官のようなもんだ。俺がひとつ指示を間違えれば、部隊がたちまち全滅の危機に陥ることだってある。毎日が緊張の連続だ」
それでも、逃げることをしないから。だから、今まで隊士たちがついてきたのだ。ついてこれたのだ。
「だけどな、葉桜。俺は決して恥じることのない戦いを続けていくつもりだ。そして、」
まっすぐに見つめられる視線で、確信する。言わないでと願ってももうダメだろう。だから、まっすぐにそれを受け止める。
「誰にも恥じない自分であるためには、決して恥じるべき姿を見せたくない相手がいなくてはならない。俺は、誰よりも己が惚れた女に無様な姿を見せたくはないのさ」
自惚れではないのだろう。最初から、この人はずっと葉桜の隠す弱さを見抜いてきたのだから。
「だから俺はおまえがそばにいる限り、無様な姿を見せたくない一心で強い心を持ち続けることができる。おまえがそばにいる限り、な。男とはそういうものだ」
心地よい波に飲み込まれる。それは、自分の欲しかったものなのかどうか、わからない。ただ一緒に居るんじゃなくて、必要としてくれる。こんな、こんな言葉を土方にかけてもらえるなんて、思ってもみなかった。
「大の男にこれだけの覚悟をさせられるんだ。おまえってやつは本当にたいした女さ」
包み込まれる空気が歓喜の歌を歌っている。
「土方…」
引き寄せられるままに体を預け、両目を閉じる。土方が、こんなに近くにいる。さっき塗った薬の匂いが分かるくらい。今までもこうされたことはあったけれど、今はすごく近くに感じる。とても、心が触れ合っているのを感じる心地よさ。他の誰ともそれは違っていて、落ち着く反面でとても落ち着かない。そんな不安定な心地よさだ。
触れられたくない、だけど気がついて欲しい。そんな自分の弱さを包み込んでくれる土方に惹かれるのは必然のような気もしてくる。
「葉桜、もうしばらく俺のそばにいてくれ」
だからこそ、一緒にいてはいけない。このままともにいてもすべてを隠し通す自信がないし、何よりも進んで巻き込まれてしまうと容易に想像できてしまうことが怖い。巻き込まれた先にあるのは確実な死だからだ。
「俺の命運が果てるまででもいい。俺のそばにいてくれ」
土方の名前も、あの紙にはまだ残っている。最後まで、彼の名前は消えない。逃げない人だから、幕府がこのまま滅んでしまっても、きっと死ぬまで戦い続けることだろう。だから、まだ自分には居る理由があると心を偽る。
「私は、土方のそばにいるよ。どこにも行くはずないじゃないか」
彼の運命を変えるまでは自分の道は新選組と…土方とともにある。微笑んだ葉桜の頭を引き寄せ、土方は軽く触れた。小さく聞こえた有難うの声は、わずかに震えていた。
逃げない人、諦めない人は強い人って感じですよね。
私はいつもどこかで理由をつけて諦めてきた人なので、羨ましいです。
いつも逃げている人は逃げ癖がついちゃうらしいですよ。
私は諦める癖がついているとよく言われます。
これを読んでいるあなたはどうですか?
逃げ癖。諦め癖。ついていませんか?
(2007/1/22 11:48:15)