今年から、私はまた新たな1年生の担任となった。
「静かに!私は本年度の君たちの担任となった氷室零一だ」
こうしてまたいつもの1年間が始まる。もう幾月もの歳月を過ごした教室が、新鮮な息吹を吹き込まれて息づく。教室に一歩踏み入れた瞬間に広がる静寂は、交響曲を演奏する前の静けさに似ている。完成された演奏を私は指揮棒ではなく、教師として演奏し始める。この私の完璧な演奏の前に、完成されないものなどないと彼らはすぐに思い知るはずだ。
例年どおりに始めたHRなのに、気がつくと眼鏡の奥で何かを探している自分がいた。――足りない。決定的に何かが欠けている。
「先生!恋人はいますか?」
毎年のようにこういう質問をする輩はいる。いつもは顔を険しくしているところだが、それで気がついた。そうだ、いるわけがない。彼女はここにいるはずもない。
「たった今、そういうふざけた質問をしないようにといったはずだ」
口元が自然にほころんでくる。
東雲 春霞は、もう卒業したのだからいるわけがない。
夕日の眩しさと、柔らかな空気が私を呼んだ気がした。オレンジの光に音楽室全体が飲み込まれ、ひとつの風景のように私は納まっていた。染まるピアノの向こうに私服の女性の姿と、部の女子生徒の姿が見えた。女性が着ているのは黒のサブリナパンツに桃色のチュニック。
「…から。…ね?」
「あ…っ! あの、それじゃ、さよーならっ」
逃げるように駆けていく足音は、吹奏楽部の生徒のものだ。うたた寝をしているうちに、部活も終わる時間になっていたらしい。
「あはっ、バイバーイ♪」
廊下の向こうに半身を出して、見送ったのは誰だろう。
「…何を、話していた?」
声に驚いたのか、春霞は手に持っていた何かを机に置いて振りかえった。
「もう起きちゃったんですね、せんせぇ」
「…何故、ここにいる」
寝起きだから頭がはたらかないのではない。幻覚でもなんでもなく、どうして彼女がここにいるのかと疑問が残った。
春霞は悪戯に微笑んで私を惑わせる存在だ。どんな強い酒よりも、強く私を酔わせる。
「もちろん、せんせぇに会いに来たんです♪…って、そんな怒らないでください。あの…、冗談ですから」
喜ぶより、先に顔をしかめていたらしい。
「カワイー後輩に会いに来たんですよ。今年もかなり入ったみたいですね。やっぱり、せんせぇの効果ですよね。ちょっと…恐いけど…アレだし」
考える仕草をしつつ、独り頷いている。つまり、母校訪問に来たついでに、自分の所属した部活に顔を出したというところか。
「アレとはなんだ?」
聞き返すと、驚いた顔が困ったように笑んだ。
「いいたくない、です」
何度聞き返しても、春霞は答えない。
「自覚、ないんですね」
そのように深くため息をつかれても困るのだが。
「…二人ともどうしてこう…アレなんでしょうね」
「だから、アレとはなんだ」
そして、もう一人とは一体誰のことだ?
質問には全く答える気がないとでもいうように、春霞はピアノに向かった。
「東雲」
「ねぇ、せんせぇ。1曲ひいてください」
「…弾けば、答えるか?」
その解を得られぬまま、私はピアノを開いた。椅子を持ってきて、春霞も隣に座る。
「なんの曲だ?」
「何でもいいです」
夕日が世界に投げかける一日の僅かな光は、かすかに春霞を照らし出す。なんてキレイなんだと見とれかけた視線を外して、衝動に駆られる心を留めた。
「そうだな…」
今、この時ならば弾けるかもしれない。そうして弾き始めた曲はいつものクラシックではなく、何時も父が弾いていたジャズだ。技術だけしか持っていない私に、この曲を父以上に弾きこなすことはできなかった。
「…聞いたことある。なんだっけ…」
「Say You Love Me」
「…でも、クラシックじゃない…」
意味に気がついて、春霞が小さく声をあげた。
「…母が」
「え?」
「好きな曲で、いつも父が弾いていた」
こんな話は言い訳でしかない。でも、知っていて欲しいと思った。父の演奏は完璧とまではいえなかった。だが、それ以上の演奏を私はできない。教師として、完全な自信はある。だが、彼女に対しては正直、なんの自信も持てない。
「ステキな御両親ですね」
うっとりと返ってくる答えに、それだけで満足してしまった。春霞の前で私はどんな表情をしているのだろう。
「ねぇ、せんせぇ?」
「なんだ?」
「一緒に帰りませんか?」
「問題ない。君の家は…」
「せんせぇの帰路にありますものね」
先を取って、春霞は柔らかく微笑んだ。その微笑だけが私の心を溶かすこと、君は知っているのか?
黄昏時の音楽室に住む魔が、刺したのだと思う。
「せーんせっ」
驚かそうと突然開いたドアの向こうに、二つの影が見えた。氷室零一と、もうひとつ。
「…っ!」
影は氷室から急いで離れた。
「あ、春霞先輩…」
うろたえる声。
「何、してたの?」
「いえ、その…寝て、いらっしゃるので…」
夕陽よりも赤い彼女の顔から、何をしようとしていたのかはわかった。
「…起こして、くれようとしたのよね?」
「はっはい!」
机の上に置いた鞄を引っつかみ、横をすり抜けて出ていこうとする女子高生を引き止めた。
「ねぇ、普段はあんなに怖いのに、どうして寝ているとあんなに無防備なのかしらね」
少女は顔を引きつらせたまま、ムリに笑顔を作ろうと振り向いた。
「でも、零一さんは私のだから、ね?」
泣きそうな顔で走り去る少女に、私は機嫌良く手を振って見送った。――絶対、誰にも渡さない。
氷室先生大好きですっっっ♪
というわけで、卒業後約1ヶ月後のお話。
主人公ちょっとライバルに厳しいです。
補習中に眠ってしまう先生と、ピアノを弾く先生がイイ!
…あれ?でも確か…
先生に名前を呼んでもらおうとして書いてたんじゃなかったか、自分?
…え、えーっと。先生が語りなんで、その中で呼ばせてみました(爆)
でも、恥ずかしいので呼ぶときはまだ苗字で。心の中だけで呼んでいるという感じで。
鈍い二人というのは、もちろん葉月と先生です。
二人とも好かれてると思ってないんじゃないかなぁ~。
鈍さにかけちゃ、主人公も人のこと言えないと思いますけど。
(2002/08/04)