1-北の春
(土方視点)
新潟港を抑えたことで旧幕府軍は盛り返したかに思われたが、しかしそれは一時的なものに過ぎなかった。そして、あくまで新政府軍に対する巻き返しを図ろうとする土方が佐幕色の濃い東北の大軍事同盟、奥羽列藩同盟を頼ろうとする。だが、しかし奥羽列藩同盟が名ばかりのものと察した土方は次のような言葉を発して諸藩の重鎮を恫喝した。
「私が指揮をとるならば誰であろうと軍令に従っていただく。軍令に背く者があれば藩の宿老方であろうと容赦なく斬り捨てることになるでしょう」
いかに大藩の家老であろうとも軍令に背けば斬り捨てると言うのである。結局、奥羽列藩同盟は新政府軍の兵が見えもしないうちに瓦解し、土方らは蝦夷、今で言う北海道へと渡った。
土方ら旧幕府軍は箱館の五稜郭、ついで松前城を落として蝦夷地を平定、そこに蝦夷地暫定政府を発足させた。土方の地位は、陸軍奉行並となり、実質、陸軍奉行とほぼ同等の地位についた。総裁として蝦夷地を取りまとめる榎本は、蝦夷地に将軍を迎え、徳川第二の地とする計画を練っていた。蝦夷共和国を立ち上げ、蝦夷地における徳川家再興を期す。土方は、それを大義として掲げ、最果ての地、蝦夷で奮戦していた。
北の遅い春を前に、一人の女が五稜郭へと姿を現した。純白の白装束に紅の袴を締め、腰まで届く長い髪を紅と白の組紐で緩く括り、透けるほどの薄い白の羽織を肩に引っかけて、帯刀している妙な女だ。
「葉桜といえばわかるわ」
面会を求めてきた女の名前を聞いて、土方は躊躇いなく会った。
部屋の窓から蒼天を眺めている女は何故か鼻歌でも歌い出しそうな様子で、俺が入ってきても振り返りもしない。だからこそ、それが本人だと確信できる。わずかに感じる不自然は、両手、両足、そして胸元から首にまでかけて丁寧に巻かれた包帯だ。これまで、どれだけの傷があろうとも隠そうとしなかった葉桜が、今、着物から除く肌を隠すように包帯を巻き付けていた。
「葉桜」
声をかけられても振り返りもしない。誰にも媚びを売らず、いつだって誰の命令も聞かない。だが、彼女は振り返らないまま、小さく謝った。
「遅れて、ごめんなさい」
それだけで、あとは待ってもなにもなくて。次に振り返った彼女は作り物の笑顔を浮かべていた。まるで、ちょっと出かけていただけだというようにこれまでのことをかいつまんで話す。その様子は明らかに本人が無理矢理に作っているのが見て取れて、ひどく痛々しい。
「本当は、二度と会わないと思ってた」
全てを話し終える頃にはその笑顔も少しずつ歪んでいた。
「ここに来なければいいなって、ただ願ってた。願うだけじゃどうにもならないってわかってるのに、ね」
くるりと背を向けた葉桜を、土方はそのまま抱きしめた。うつむかず、振り向きもしないまま、ゆるく紡がれる言葉は小さく震えている。
「戦いが続けば、それだけ多くの血が流れることだってわかっているのに、怖くて、最後の一歩が踏み出せな」
「もういい」
その口を片手でふさぐ。落ちてくる滴に手が濡れてゆくのを感じる。
「何も言うな」
言いたいことは沢山ある。だが、普段と変わらない様子を見られただけで、もう十分だ。
「直に近藤さんや総司、山南さんもここへ来る。だから、今の間に」
風が通りぬけた。するりと、腕の中にいた気配が窓を開いている。葉桜を迎えにきた黒い影は、よく見知った男だ。会津から葉桜とともに姿を消したという、斎藤の気配。
「今日は土方さんに会いに来ただけよ。今は代わりに斎藤を置いていきます」
不満そうな彼の手を引き、入れ替わりに彼女は窓から飛び降りた。同時に部屋への来訪を告げる音が響き渡る。そうして、かつての仲間たちに斎藤が葉桜の伝言を伝える。
「誰にも会いたくないのだそうだ」
何故と誰もが思うそれに、斎藤は何も答えない。知らされていないからだろうか。それとも、口止めをされているのか。どちらにしても聞き出すことは出来ないだろう。
しかし、ひとつの疑問が残る。誰にも会いたくないのだと言いながら、斎藤をそばに置き、土方に会いに来ている時点でそれは矛盾していないだろうか。
「また、来るんだな?」
深く斎藤が頷く。それで、納得するしかなかった。もともと誰の手にも余るような女性だったのだ。勝手をしているといっても今更だ。
「それで、お前はどうする」
「…俺がこちらにいることが彼女の願いです」
「そうか」
渋々ながらといった様子の斎藤を笑う。結局、誰も彼女についてゆけないまま、取り残されてゆく。置いていくのはいつだって、彼女の方なのだ。誰の望みも叶え、誰の命も聞かない。それが生来の資質なのかどうかはしらないが、土方にわかるのは今の葉桜のことだけだ。誰よりも一人になることを怖がっている小さな少女、それが土方にとっての葉桜だ。
大事な会議に出席するためにひとりひとりと部屋を出て行き、ひとりになってから土方は葉桜の見ていた空を見上げた。
「俺はまだ、頼りねぇか?」
言葉が、心が、届けばいいと願った。
(葉桜視点)
榎本らが立国を進めたは蝦夷共和国はイギリス、フランスから既に実質的な独立政権として認められてはいた。だが、だからといって戦況が好転するわけでもなく、彼らの眼前にある道のりは決して平坦ではなかった。新政府側がそのようなことを見過ごすはずもないのである。五稜郭に入ってから半年余り。雪解けの春とともに新政府軍は総攻撃を仕掛けてきた。既に榎本艦隊の旗艦開陽丸は海中に没しており、榎本軍が生命線である制海権まで新政府に奪われる中、新政府軍はついに上陸作戦を展開。松前口、木古内口、二股口に軍勢を三分して箱館へ進軍した。それらの迎撃にあたった部隊のうち、防衛に成功したのは土方率いる二股口の守備隊のみだった。
唯一、不敗で奮戦した土方隊だが、五稜郭からの要請もあり、二股口を撤退することとなった。そして、五稜郭での参謀本部には当たり前のように葉桜の姿があった。
「敵軍は五稜郭の目前まで迫ってきている。ここは戦況を立て直すためにも籠城しよう」
「そうですね。兵士たちをここ五稜郭に集め最後の抵抗を試みましょう」
籠城を提案する榎本と大鳥に反して、土方は即座に反対した。
「そんなことをしても無意味だ。援軍のあてもない籠城とは、ただいたずらに戦いを引き延ばすだけの愚策。そんなことをしても戦況が変わることなどありえない」
葉桜はそこにいるものの、何も発言せず、静かに考え込んでいるようだ。
「では、どうあっても我が方は戦いに負けると?」
「この期に及んでの籠城は兵の士気を下げるのみ! ならば兵の気力が残っている今こそ徹底抗戦の心意気をもって打って出るべし!」
「なるほど、筋は通っている。どの道を選ぼうと結果に大差がないのなら抗戦は武士の道理。きみを見ていると、私がいかに日和見な人間であったかを思いしらされるよ。私の不甲斐なさから、やや色あせてしまった大義ではあるが、蝦夷共和国を立国し徳川家再興の本懐を遂げるため、我々は新政府に対して徹底抗戦の覚悟で臨もう!」
「ありがとう、榎本さん」
話がまとまったかのように見えて、しかし、三人が三人とももうひとつの声を待っていた。痺れを切らした大鳥が口を開く。
「っ不満があるならさっさと発言しろ、葉桜」
「…不満なんてない」
「嘘をつくな」
ぺいっと容赦なく頭を叩かれ、不満の目を向ける。強いて言うならば、この人の昔と変わらないつっこみが不満だ。
「榎本さん、もしも開陽丸と同じような船があったら、制海権は取り戻せますか?」
話を振られた榎本は驚きつつも答えてくれる。
「難しいが、不可能ではないだろう」
「そう…」
「だがしかし、今の段階で船を手に入れることは難しいはずだ」
あきらかに無理だろうという空気にこちらも自信がなくなってゆく。でも、絶対に無理、と本当に言い切れるだろうか。しかし、そこでなんとかなると言い切れるほどの無謀はさすがに持ち合わせていない。何より、多くの命がかかっているのだから。
「…やっぱ、無理、かなぁ」
今や葉桜に協力してくれるような人物なんて、ほとんどない。しかも、大型戦艦を用意できるような権力者なんて。勝海舟、ぐらいしか。思いかけて、ふるふると頭を振る。
徹底抗戦の覚悟を決め、最後の戦略を定めて、会議は終わった。だけど、葉桜の中では何も終わっていない。誰もいなくなった部屋で地図をにらみながら考える。
最後の手段を使うとすれば、両軍の衝突する場所が良いだろう。目くらましと、その後で起こす奇跡の一つでもあれば。きっと戦いを戦う以外の方法で終わらせられる。そう、信じて。地図の一カ所に爪を立てて、見えない印をつけた。
「葉桜、ここにいたのか」
「あ…ああ、土方さん」
するりと表面を撫でて振り返る。痕はよほど目をこらさなければわからないだろう。
「私に」「おまえに」
同時に言ってしまって、互いに口をつぐむ。普段なら気にもならなかった、むしろ心地よいとさえ感じたその空気が今は居心地が悪い。隠し事のせいもあるだろう。
「…何か聞きたいことがあるって感じじゃありませんね」
戦いが最終局面を迎えているというのに、土方の表情はすごく穏やかだ。
「葉桜は気がついているんだな」
「んー?」
その姿に背を向けて、うんと両手を突き上げて体を伸ばす。何の話か、わかったから。
「だから何度も言ったよ? 概要だけならまかせてって」
「今の状況になることもわかっていたから、ずっと奔走してくれていたんだな」
「…結局は、何の力にもなれなかったけど、ね」
自分に出来たことと言えば、ほんの数人の死の運命を時流から反らすことだけだ。それだって、完璧じゃない。結局みんな
「そんなことはない。葉桜は充分働いてくれた。俺からもう一度礼を言わせてもらう」
だから、と続けられる言葉に振り返った。
「ごめんなさい、よく聞こえなかっ」
「葉桜は今すぐ箱館を脱け出せ。生きて、新たな幸せを見つけるんだ」
窓から吹き込んでくる風に耳を押さえられ、ゆっくりと土方に向き直る。
今更何を馬鹿なことを言い出すんだ。ここまで来ておいて、おとなしく葉桜が逃げると本気で考えているのだろうか。
「何か勘違いしているようだな、土方?」
窓から吹き込んでくる風に流され、暴れる髪を抑えて強く微笑む。でも、感情で押さえ込めない憤りが言葉に表れる。
「私は私の戦を戦っているから、ここにいる。もう、新選組だけの問題じゃないんだ」
「勘違いしているのはおまえのほうだ。この戦場におまえが…徳川の影巫女がいるということは、お前が斃れた時点で徳川再興の望みは永遠に絶たれるということじゃないのか?」
「それは、ない」
「何故言い切れる」
「そうならないように手を打ったから、私はここにいるんだ」
もっとも剣技以外の技が身につかない自分の残す術が、どこまでの効果を及ぼすのかはわからない。
「それに、私は自分の望む幸せが何であるかくらい分かっている。大切な人のいない世界なんて、私には生きる意味もない」
父様と出会う前も、父様が亡くなってから新選組と出会う前までの間のことも、思い出せなくはないがひどく遠い。一人でいる時間は強がっていなければすぐに壊れてしまいそうで、ただ必死だった。
土方の触れる手が濡れて、自分が泣いていることにやっと気がつく。気がついたけど哀しいという想いは全然なかったから、葉桜にとっては不自然で不思議なことでしかなかった。
「ふふ、変だな。土方が優しいなんて」
黙ったまま抱き寄せる土方の腕の中に収まると、温かさが伝わってくる。
「分かった。おまえに生き延びろと言ったのは、俺の間違いだった。だが、できれば逃げてほしかった」
「ふふっ、そもそもここにきて逃げるなんて卑怯なこと、できるわけないって」
触れているから土方はわかっているだろう。今すぐにでも逃げ出したい、葉桜の震えはもう隠しようもない。だけど、平静を装うのにはもうなれてしまって、触れてみなければそれに気がつかせない。
「最後にひとつだけ頼みがあるんだ、土方」
腕の中の葉桜の耳元に「なんだ?」と小さな応えが続く。
「朝まで…いや、震えが止まるまでで良いんだ。一人で、いたくない」
返答の代わりに葉桜の体が宙に浮く。土方の腕で抱え上げられた葉桜は自然とその首に両腕を回し、肩に顔を埋めた。以前と変わらない香の薫りを吸い込んでいると郷愁に胸が占められて、尚も熱いものを目から溢れ出て止まることを忘れてしまうようだ。
幸いなことに誰に見られることもなく、葉桜は土方の部屋へと運ばれた。部屋に残された地図の上に窓から吹き込んできた淡い雪虫がだけが一匹、それを見守るように見つめていて。扉が閉まる風に揺られて、地図の爪痕へ落ちて、小さな染みを作って消えた。
2-希う道
(土方視点)
布団に寝かせた葉桜は服を掴んだ手を離そうとせず、ぎゅっと握った手と同じく堅く両目を閉じて、ただ小さな子供のように震えていた。一言、大丈夫だと囁き、そっと髪を撫でる。直に聞こえてくる寝息にほっとして手を外そうと試みるが、やはり外れない。仕方がないので、そのまま葉桜の隣で横になった。一人用の狭い布団なので、自然と体が密着するのだが、それでも葉桜は尚も体をすり寄せてくるばかりで。子供だけれど、子供ではない均衡のとれていない女の髪を、土方はずっとなで続けた。
そうしているあいだにいつの間にか眠ってしまったらしい。気がつけば、腕の中に葉桜の姿はなく、部屋の中程に佇む白い気配に体を起こして向き合った。
彼女は弱々しく、微笑んでいた。だけど、もう震えてはいないように見える。今までとは違う、白装束に紅袴を履いた姿はいっそ神々しく見え、触れることさえ、許されない気がする。だが、それはさっきまで、腕の中で震えていたはずの、女だ。
「あなたは決して私を許しはしないだろうが、これが私の役目だ」
凛とした声が部屋に低く高く響き渡る。
「徳川の時代は長く、業は大きすぎた。私が受け止めきれなかったから、逃げ続けていたから、あなたたちにまで業を負わせてしまってすまなかった」
別人のようだが、しかし、これは確かに葉桜自身が隠していた姿だ。新選組では誰にも見せなかった、巫女本来の葉桜の姿は、闇に光を放つように、とても美しい。
「この戦は負けるだろう。だけど、哀しまないで欲しい。徳川の時代は終わっても世界は終わらない。ただ幕府の時代が終わるだけだ」
ほろりと葉桜の片眼から雫が零れる。それを見るまで、俺は完全に魅せられていたようだ。頬を伝い落ちるそれが床に落ちて消える。
「全ての業は、今度こそ私が引き受けるから。どうか、生き抜いてほしい。生きてさえいれば、拓ける未来もあるのだから」
本当の葉桜はただ死と別れの恐怖に震え続けているだけの、ただの小さな少女だ。どれだけ強がっても、触れればわかる、その脆さ。伸ばした腕で抱き込むと、葉桜の身体は恐ろしく冷たい。
「一人でなんて逝かせるか。お前一人がそんなもんを背負う必要なんか」
「私は、このためだけに生かされていたから」
「生かされて…?」
「母から聞いたんだけど、私は産まれて直ぐに一度死んでいるらしい。だが、すぐにこの身に神が降りて生かされたのだ、と。以来、本当の父には疎まれているんだ」
「!」
葉桜の胸にボゥと光が宿り、思わず体を離して魅入る。
「なんだ、これは…?」
身体の内から溢れてくるのだとでもいうように、その光はゆっくりと広がってゆく。蝕んでいるという感じではなく、ただ柔らかに、守るように包み込んでゆく。
「影巫女には二つの技がある。業を浄化する力と、業を受ける器の力、だ」
浄化というのはあの刀傷のことだと言っていたが、今見えるその身体には一筋の傷もない。最初から何もなかったかのように、真っ白な光に包まれている。触れて熱いわけでも冷たいわけでもない。だが、光のせいでそのまま消えてしまいそうだった。
「これがその器の力…か? 業を受けた器はどうなる」
彼女は何も言わず、ただ柔らかに微笑んだ。ただ、嬉しそうに。
「人の身でこれだけの業を受けるのは不可能だから、おそらく死ぬんじゃないかな」
何が、そんなに、嬉しいのか。人に死ぬなと、置いていくなと言っておいて。強く握りしめた手を、同じく握りかえされる。それは、諦めた者の力では、ない。
「だけど、私が想うのと同じように想ってくれる人がいるから、覚悟を決められた。死ぬかもしれないが、万に一つの可能性として転化するかもしれない。それに賭ける」
聞き覚えのない名前に、そっとささやくような解説。
「人の身で受けられなくとも、人でなくなれば受けられるだろう?」
自らの属性を転じ、妖になること。それを「転化」と彼女は呼んだのだ。古来より妖の寿命は少なくとも人より十倍は長いと云われている。もっとも、本当かどうかはわからないが。
「葉桜、そんなことをしたら…」
「見届けると、決めたから」
寂しそうに笑う。初めて見るそれはとても女性らしくて、強さを知っていて尚、庇護欲を誘う。
「それに、たったひとつだけ叶えたいワガママがあるから」
なんだと問うと、内緒だとくすくすと笑いながら、はぐらかされる。状況が状況でなければ、恋人同士の会話のようだ。互いに想い合っていれば当然のことなのだろうけれど、一方通行ではそうならない。だが、錯覚してしまいそうなほどに葉桜は弱く優しいから。そっと守るように肩を抱いた。
「他の方法はもうないのか?」
こいつがそう簡単に結論を出したとは思えない。だが、わずかでも希望を願ってしまうことが愚かだとわかっていても、すがらずにはいられなかった。
「ない」
しかし、きっぱりと葉桜は言い切り、希望を打ち砕く。
「あったのかもしれないが、私の決断が遅すぎた。それに、他の方法は助けられなくなってしまうかもしれなかったから」
誰と言われなくともそれが誰を指しているのかがわかって、愕然とする。だとしたら、葉桜はもうずいぶんと前からこれを決意していたのだ。
「だからといって、どうしておまえが犠牲になる必要が…っ」
不意に、葉桜は声を荒げる俺の背中に両腕を回して、ぎゅっと抱きしめてきた。
「犠牲じゃないよ」
温かな声は本心からそう考えていると告げている。が、どう見たって、葉桜一人が犠牲になっているようにしか見えない。気がついていないのだろうか。
「私がそうしたいと思ってやるんだから、犠牲なんかじゃない」
言い聞かせるような囁きはわかっていてそうするのだと、反意を伝えてくる。まったく、前向きというにもほどがある。
「だから、哀しむことなんてなんにもない。私は死なないし、土方もみんなも死なない。みんな、幸せに生きる道があるんだから」
「…だが、その後はどうなる」
答えはただ抱きしめる腕を強くされただけだった。小さく伝わるその震えだけが、答えなのだろう。答えられないことが、答えだ。
「やってみないとわからないけど、少なくとも私は楽しい思い出があれば生きていけそう、かな」
嘘ばかりいう葉桜の髪をゆっくりと梳く。これがとても落ち着くのだと、不満そうに言っていたのはもうずいぶん前のことだ。
「置いていかれるのは慣れてるから」
本当に嘘ばかりで、強がりばかりだ。こんなにあからさまなのに、気がつかない方がどうかしている。いや、最初は本当に分かり難かったか。いつのまにか簡単に見抜けてしまう俺の方が、変わってしまったんだろう。
「葉桜、この戦が終わったら俺と一緒に暮らそう」
もしも葉桜の言うように生き残ったとしたら、きっとその後もいろいろとやることは多いだろう。だが、それも全て片付いてしまったあとはどうするのかも決まらない。近藤さんがあくまで徳川復権を目指すというのなら、それもいい。
問題は、そこに葉桜はいないだろうということだ。生きているとしても、彼女のことだ。人の争いには関わらない制約が、とでも言い出して逃げるに違いない。
「あはは、土方でもそんな冗談言うんだな~」
「冗談じゃない」
誤魔化そうとした葉桜にぴしゃりと返すと、胸の内でその身体が震えた。
「本気だったら、なおさら質が悪い。生き残っても私は人の中では暮らせないよ」
「人の来ない山奥で暮らせばいい。おまえが望むなら、他の奴らも一緒で構わない」
「…ちょっと待って。じゃあ、その前のって…?」
やはり、わかっていない。こういったことは無意識に避けているのだろうか。それとも、わざと触れないようにしているのか。嘆息する俺の腕の中で葉桜が驚いた顔で見上げてくる。無防備にもほどがあるというものだ。
「っ」
触れた唇は思ったよりも冷たくはなく、生きているのだという確かな証を伝えてくる。押し返そうとする力ごと抱き込んで、深く口付ける。
「ずっと俺のそばにいて欲しい」
たったその一言だけで、あっさりと嘘の笑顔が壊れた。
「~~~どうして、それを、言うのっ」
永遠はない、と葉桜は言う。だが、本当にそうだろうか。そうであったとしても、今この想いが嘘であるわけはないし、終わるとも考えられなかった。どんな女がいても、葉桜を想う以上に好きになれそうもない。これほど長く共にいても、信じられないという葉桜の方がおかしいとしか思えない。
「独りになるってわかってるのに、一緒にいられるほど、強く、いられないよ。どうせ独りにされるなら、最初から、独りのが…っ」
「無理だな」
誰よりも孤独を恐れているやつが一人でいられるわけがない。
「これでも他の奴よりは葉桜のことをわかっているつもりだ。ーーひとりが、怖いんだろう?」
「っ!」
「おまえが望むなら、ずっと共に生きる道を探しても良い。俺から、離れないでくれ」
どん、と強く胸を叩かれて、一瞬だけ息が詰まりそうになった。だが、腕はゆるめない。弛めたが最後、葉桜は消えてしまう予感がした。
「そんな簡単に言わないでよっ」
「簡単じゃないさ」
「私は…自分と同じ道を誰にも歩んでほしくない、よ」
ふるふると頭を振る葉桜を、もう一度腕の中に強く閉じこめる。
「同じ道を歩けるなんて自惚れちゃいねえさ。これまでどんな風に生きてきたのかなんて、俺はなにも知らねぇからな。だが叶うなら、俺は命ある限りおまえを一人にはしないと約束しよう」
「…そんなの、無理、だよ」
「やってみなくちゃわからねぇだろ」
「土方が、じゃない。私が、無理。もうそこまで自分が保てない」
葉桜は時々、不思議な言葉を使う。あえてわからぬように言っているのか、それとも自分で知らず口にしているだけなのか。聞かされる方は、ただ不安だけを受け取る。
「もう時々自分が自分でなくなるときが、ある」
普段なら、説明の一切をしない彼女がぽつりと震える声を漏らす。
「気がつけば血の海の中で狂ったように笑っていたり、でも起きたら夢みたいになんにもなかったり…。もうずいぶん前から夢と現の境がなくなってる。このままじゃ、私はいつか自分の手で、みんなを殺してしまうかもしれない」
だから、共にいることをやめたのだと。こうして腕の中で震えている様からはとても想像はできそうにない。葉桜がどれだけ人を慈しんでいるのかを知っているだけに、その不安はあまりに現実味がない。
だが、そんな夢を見るだけでおそらく心を病んでゆくのだろう。すこしずつ、すこしずつ蝕まれ、そのうち本当に狂ってしまうのかもしれない。その時に俺が出来ることと言ったら、きっとひとつしかない。
「そうなったら、俺が葉桜を殺してやるよ」
葉桜が誰かを手にかける前に、この手で殺してやるぐらいしかしてやれない。そう言うと、やっと葉桜は力を抜いた。
「そ、か」
だったらと呟いた葉桜が俺の手に何かを握らせる。それはなんの変哲もない一振りの抜き身の小刀だ。刃を自らに向け、囁く。
「だったら、今ここで私を殺して」
まっすぐに向けられる瞳を前に、そんな場合でもないのに綺麗だと考える。真っ直ぐで、だけれど不安に揺らいでいる瞳は、どんな宝石に優るとも劣らない。ただ純粋に守ってやりたくなる。
「誰かを殺してしまう前に、私が私でいられる間に、殺してよ」
泣きそうな顔で笑う彼女をただ抱きしめる。そうして、髪をゆっくりと梳いてやるとだんだんと嗚咽が響いてくる。
「心配しなくても、大丈夫だ」
「も…駄目、だもん…」
「大丈夫だ」
根拠のない慰めだと互いにわかっていた。だけど、言わずにはいられなかった。硝子細工のように脆い彼女の心が壊れないようにと、誰にともなく願う。
(どうか)
神仏なんてもんは信じちゃいねえ。だが、もしいるのなら。
(葉桜を、救ってやってくれ)
こんなにもこの国を慈しんで、ずっとそれだけのために生きてきた彼女なのだから、それぐらい助けてやったっていいじゃねえか。
胸の内に声を殺して泣きじゃくる葉桜を抱いたまま、俺は静かに目を閉じる。月が照らす雪から反射する光だけがその様を眺めていた。
3-決別
(葉桜視点)
空はよく晴れ渡り、これから戦があるなんて嘘みたいに綺麗な空だった。葉桜はずっと、この空が大嫌いだった。こんなに良い天気なのに、戦って散ってゆく者たちがいることがどうしても許せなかった。大切なものを奪ってゆくこの世界が大嫌いで、大切だと心から想える人たちと出会えたこの世界が愛しくて堪らない。
だから、願う。愛しい人がこの世界に望まれて、生き残ることが出来るように、と。願いを込めて、観客の誰もいない平原で片手に剣を、片手に鉄扇を持って、舞う。
世界の流れを身体中で感じながら、それをゆるりと変えてゆく。それが、本来の影巫女の力だ。人でなくなりかけているこのときになってやっと、わかった。最初からこれを出来ていれば、武器をなんて持つ必要はなかった。だけど、できなかったから自分は剣を取り、たくさんの人たちに出会えた。
後悔なんてひとつもなくて、ただ願いだけを胸に世界の流れをたゆたう。揺らぎを掴んで、流れをゆるりと変えてゆく。風を掴んでいるようで、そうじゃない。ただ、世界を感じて、流れを感じて、願いを滑り込ませる。
争いのない世界は望まない。そんなものはないとわかっているから。生きている限り、人々は争い続ける。それは悪いことだけじゃなく、良いものもある。必要な争いだって、ある。だから、望まない。
ただ、願う。大切な人たちが望んで生きられる、世界を。
世界の流れに抗うことは容易ではない。流れに翻弄されるように舞いながら、ゆるりゆるりと命を世界に零してゆく。そうして、それを代償に影巫女たちはこの世界を守ってきたのだ。業の流れを人の中に残さぬように、ゆるりとくゆらせる指先、髪の一筋までも世界の中において、変えてゆく。
この国の巫女だけに与えられた、神代からある特異な力。世界を変える、ただ一つの技。
良く晴れた雲一つない快晴の空の下で最後の舞を捧げる相手は、世界だ。全てが始まる前にと夜明け前から舞い始めて、もうどれほどの時が過ぎたかわからない。力が吸い取られてゆく感覚とは別に内から湧きいでる暗い力を前にどちらともとれない旋律が身体中を痺れさせている。
「…はぁ…はぁ…はぁ…」
がくりと一度舞を止めて、息を吐く。目の前には、自分と同じ姿のモノがいる。それが新選組で駆け回っていた頃の葉桜と同じ姿で刀を構えて、楽しそうに笑っている代わりに、今の葉桜の手元には鉄扇しかない。刀を持つ彼女の姿は透けて見えるから人間ではない。これは、葉桜が身の内から具現化した業だ。姿を持てるほどの強い力なんて、今までに対峙したことはないし、ここまで気力を吸い取られるようなこともなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
自分の荒い息遣いが煩い。無理矢理に呼吸を整えて、鉄扇を構える。得物は違えど、それはいつもの無限の構えだ。そして、相手も同じように構える。違いといえば、武器と葉桜本人よりも余裕があるということだ。
「逃げてもいいンだよ?」
それは葉桜の姿で楽しそうに言った。
「誰も責めなイし、第一こんなことやったって無意味だってわかってるじゃナい」
「うるさい」
影の分際で、意見してくる。業の取っている形は、葉桜自身の心だ。
「どうしたって時は移ろい流れてゆクし、人の中の業は消えナい。ソう、わかっているんでシょう?」
わかっているから、苛立つ。
地を蹴る葉桜とそう変わらずに飛んで、互いの武器が交わり、澄んだ高い音色を響かせる。
「妖となってまで残る価値なンて、この世界にないことぐラい」
「うるさいよ。世界の価値なんて、私が決めることじゃない」
「どんなに頑張ったッて、誰も残らなイよ。そんな世界に生きる意味はアる?」
一瞬だけ反応の遅れた葉桜は剣風に吹き飛ばされ、地に墜ちた。受け身を取り損ねて、疲れた身体が悲鳴を上げる。その葉桜に、それが言葉を繋げながら近づいてくる。
「世界はあなたの自由にでキる。その力をもっているじゃナい」
「力があるとかないとか、そうじゃないよ。世界は一人一人の願いで支えられているんだ」
鉄扇を支えに身体を起こし、立ち上がる。
「私個人がどうこうするようなものじゃないし、変えたいとも願ってない」
「ウソばっカり。こんな世界、壊れちゃえばいいと思っていたデしょ?」
自分の中から出てきたモノはよくしゃべる。ちょっとおしゃべりが過ぎるくらいだ。
「以前の私なら、そうかもしれない」
本当は全部わかっているくせに、否定的な自分を見せつけようとする。
「わかってるんだろう?」
苦しい息を殺して、笑いかける。それは、自分だから。
「今はこの命を賭けて、世界を護りたいと願っていることを」
不快そうにそれが眉を顰める。
「ウソばっかリ。私を倒せば自分も死ぬんダよ?」
「そんなのやって見なきゃわからない」
打ちかかってくる剣戟を身を揺らがせて避ける。自分の太刀筋ぐらい、簡単に読める。
「死ななくても待っているのはもう人の道じゃないンだよ?」
「覚悟の上よ」
避けきれないそれを刀で受ける。その一撃は軽そうに見えても、腕を軽く痺れさせるぐらいの威力はある。
「本当にウソばッかり。一人で生き続ける覚悟なんて持ってないノに」
「く…っ」
自分から出たモノだから技も力も互角だが、疲れている分だけこちらに不利だ。そうとわかっていて具現化したのだが、本当に勝てるのだろうか。
「…葉桜さんが、二人…!?」
動揺した声に思わず顔を向けていた。どうして、今ここに彼がいるのか。隙をついて墜ちてくる剣戟を交わしきれずに、肩に深く突き刺さる。それが口端を引き上げて、邪に笑う。
「世界を壊す覚悟をさせてアげる」
「っ! 逃げろ、総司!!」
身を離して、それが自分を踏み台にして、空を駆ける。間に合って欲しいと願いながら走り出そうとした身体が、しかし力を無くしてその場を転がった。
視界の先に見える沖田は逃げることなく、その場で刀を構える。抜いた様子はないが、普通の人間ではあれの剣を受けることはできないだろう。
「総司!!」
遠目に彼が微笑んだのが見えた。普通の剣であれはとらえられない。姿が透けているということからしてもいい証拠だ。わからないような馬鹿じゃないはずなのに、彼は逃げない。振り下ろされる剣の前で沖田が腰を落とし、かつてもっとも得意としていた三段突きを繰り出す。
刀はたしかにあれを突き抜け、斬り裂き、霧散する。普通では触れることなどないのに何故、と思っていると頭に軽く霞みがかかり、賢明に形を取り戻そうとしている様子が見て取れて、安堵した。やはり、自分でなければあれはどうにも出来ないようだ。そうでなくとも、他の誰にも彼女を殺させるわけにはいかない。
駆け寄ってきた沖田が葉桜をそっと抱き起こす。
「無茶は大概にしてくださいよ、葉桜さん」
大人びた声音になっているけど、それは確かに沖田だ。いったい、どれだけの成長を遂げれば、あれを倒せるほどに強くなれるというのか。剣の天才を通り越して、もうそれは剣聖といってもいい。
「本当に、傷はすべて消えてしまっているんですね。…僕のつけてしまった傷も消えてしまったんですね」
ため息が身体にかかる。大切そうに抱きしめる手は以前よりも柔らかく、温かい。
「あれがなんなのかわかりませんけど、もう一度なんて馬鹿な考えは捨ててください。葉桜さんにあれは倒せないでしょう?」
酷い言葉を吐きながら、頬をそっと撫でる手からも優しさが伝わってくる。
「間に合ったから良かったものを」
「…避けろ、馬鹿総司」
影の剣が落ちる前に沖田は葉桜を抱えて、一間を飛びずさった。
「あれはなんですか?」
「影だよ、私の」
身体を起こそうとするが、そこは沖田だ。容易にそうさせてくれない。
「無理しないでください。そんなに疲れ切っていては勝てませんよ」
「私は巫女だと言っただろう。剣で戦う巫女だ、と。あれは私が作ったモノだ。倒すことで、ひとつの役目が終わる」
「…それで、葉桜さんに倒せるんですか?」
呆れたような声に笑う。どう考えてもこの腕から抜け出せないような状態で勝てるわけがない。
「私じゃなきゃ倒せないんだ。総司が何をしたのかわからないが、昇華できるのは私だけだからな」
仕方ないなぁと、沖田は葉桜を腕から降ろし、腰を抱いて支える。
「ならば、共に」
「…頼む」
葉桜も沖田の肩に右腕をかけた。そうして、影のままのそれを迎え撃つ。
「おとなしく昇華されなさいよ」
「オォォォォォッ」
突き刺した鉄扇を飲み込まれ、即座に沖田が場を退く。剣のささったままのそれが苦悶の声をあげていく。声はだんだんと小さくなり、そうして、最後に身体の中心を大きく斬り裂かれた小さな小さな女の子が残る。常人では生きていないだろう怪我だが、そこから血が流れている様子はない。ただ金色の砂がサラサラと零れて消えてゆくだけだ。女の子は見ている方が辛くなるほどに、泣きじゃくっていた。
沖田に支えられながら近づいた葉桜が、空の手を差し出す。
「否、消えたくナい。私、まだ生きたいよゥ」
「だめ、ここから消えて。…わかるでしょう?」
「わかりたくなんかナいっ。どうシて? どうしてそうやっていつもいつもいツもッ!」
葉桜の腰に回された手が強く抱き直す。何かを感じているのだろう。沖田は、どこか呆然としていた。
「そこまでする必要なンて、どこにもないじゃナいッ」
「うん。でも、大切なの。同じ、でしょ?」
彼女はハッとしたように葉桜を見上げ、それから、もう一度涙を流してから、立ち上がった。彼女を通り抜けて、鉄扇が静かに地面に横たわっているのだけが見て取れる。
「……葉桜さん」
ようやく口を開いた沖田を無視して、彼女に笑いかける。彼女も哀しそうに笑った。光が彼女を包み込む。優しくて温かな白い光が包んでゆく。
「一人じゃなイヨ」
そっと触れようとする彼女の手は私に触れられない。代わりに透明な滴がひとつ、ぽたりと頬に落ちた。
「…うん」
光に包まれてゆく彼女を見届けて、そっと葉桜は目を閉じる。自分の中にあった確かなモノを今、自分で捨ててしまった。業は半分を彼女が持って行ってくれた。だから、あとは半分だけ残っている。
「…これって、どういうことですかッ?」
向き直った沖田が驚愕の表情で葉桜を見つめている。目は真っ直ぐに葉桜の瞳を見つめている。光が、眩しい。
「僕は、何をしてしまったんですか?」
悲壮に見える彼に笑いかけ、その頬に手を伸ばす。沖田の瞳に映る自分の瞳は、猫の目のように細く金色が混じっている。それが告げているのは既に目は人でなくなってしまったのだなということだ。
「巻き込む予定はなかったんだけどな」
「葉桜さんっ」
動揺している沖田と額を合わせ、目を閉じる。
「あれは、私」
「それは聞きました。それ以外に、何か、とんでもないことがあるんじゃありませんか!?」
落ち着いた声音で続ける。
「人であろうと足掻いていた、私、だ」
そうして、真実を語る。影巫女はどういう者がなるのか。どういう風に受け継がれてゆくのか。それは、幕府を支えた巫女たちの影の歴史だ。
すべてを聞き終えてから、沖田は後悔の混じる声で小さく呟いた。
「葉桜さんは馬鹿です」
わかっているから、ただ笑いだけが零れる。自分でもわかっている。約束を守るためだけにここまでする必要なんてない。生き続ける必要だって、どこにもない。
「たった一つだけ、叶えたい夢があるんだ」
「だからって、こんな」
そこまですることじゃないでしょう?と悲痛に呟いて、沖田は葉桜を強く抱きしめた。加減を覚えた腕の中は哀しいほどに温かい。幸い、そう感じられる心は残っていた。人を慈しむ心は無くさないでいられた。それだけでも、よしとするしかない。いつか狂ってしまったとしても、人を手にかけることだけはないようにしようとできるから。
「私はこの国が好きだよ。争いは絶えないけれど、護りたいと思えるぐらいに大切なんだ」
葉桜も強く抱き返す。が、疲労でいつもの半分も力は出ないから、沖田からすればただ寄りかかっただけに思えたかもしれない。
「あなたという人は、本当に、」
「呆れただろう? でも、これが私だよ。ワガママだから、どれも諦めたくないんだ」
自分を誤魔化している自覚はある。でも、そうでなければ、心が耐えられそうにない。今ここに誰もいなければ、声をあげて泣き出したいくらいだ。だけど、こうすることで心配などかけたくはないから、笑うしかない。
「本当に、馬鹿ですよね」
「しみじみ言うなよ」
「それに、意地っ張りですよね。だから、葉桜さんはひとりにできないんですよ」
「いや、別にひとりでも」
「僕の腕の中では泣けませんか?」
背中を軽く叩かれる。たった、それだけなのに。どうしてだろう。
「やめ、て…」
優しく続く旋律に心が揺らいで、弱くなる。耐えられなく、なる。
「今は他に誰もいません。我慢しなくてもいいんです」
「…だ、やめてぇ…っ」
溢れるものを堪えるように、沖田にしがみつく。しかし、尚優しく、沖田は葉桜の頭を自分の胸に押しつけた。
「一人にはしませんから」
今は一人にして欲しい。こんな風に泣いてしまったら、また人に寄りたくなってしまう。人であることを捨てた自分にそんな資格なんてないのに。
「葉桜さんを一人になんてさせませんよ。僕はあなたと共にいます」
そっと髪を撫でる手が、温かい。そんな人の優しさはいつだって自分を癒してくれて、そして、弱くする。
「やること、残ってるのに…」
「まだ間に合いますよ」
「てきとー、言わないで…」
「大丈夫です。二人なら、間に合うでしょう?」
人でなくなれば生きられるし、人でなくなれば強くなれると思った。弱い自分と決別できると思った。
「なんにも、わかってないくせにぃぃぃ…っ」
だけど、自分は自分のままだった。何一つ、変わっちゃいない。変わることはそんなに簡単じゃなかった。
「ええ、わからないです。でも、葉桜さんを一人にしちゃいけないことだけはわかります」
大切に包み込む腕はとても温かくて、何故か安心できてしまって。
「っ…」
「声を上げても大丈夫ですよ。誰もいないから」
「…っ…っく…」
「大丈夫。僕が守るから」
あなたを傷つける全てから守るから、と。囁きに身体が震えた。そんなことをさせてはいけないとわかっているのに、何も言えなくて。ただ、声を堪えるだけで精一杯だった。
切り離してしまった自分の半分。それだけが救いで、自分はずっとここで一人でいなければならない未来だけが待っていて、どれほどの季節を巡ってももう人と同じ時間は過ごせなくて。ただ、置いていかれるばかりになってしまう。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が巡って、また春が来て。今誰がいたとしても、遠い未来までともに生き続けることは出来ない事実は変わらない。
消えてしまった自分の半分。ただ一つの願いのために、すべての苦痛を受け入れたから残った自分。切り離してしまったのは自分自身だ。もう後には戻れない。
ずっと一緒にいた。意識しなんかしなくても、自分が普通の人として過ごすためには必要な部分だった。
「ずっと、一緒だったの」
言葉が勝手にあふれ出す。
「私の正気をずっと保ってくれた。彼女がいなければ、私はーー」
ずっと人として自分があれるようにと抑えてくれていたのに。
「私は…っ」
これから自分はどうなるのか。彼女が消えて、半分の業が消えて。だけどまだ半分は残っていて、自分もここにいて。
「僕がいます」
落ち着いた声音で囁かれる。
「葉桜さんがどうなっても、僕はここにいます」
それはなんという甘い囁きだろう。彼女のいなくなってしまった空白を埋めてくれるという、仮初めの約束だ。誰にも埋めることなど出来はしない。だけど、一部にはなれるよ、と。
髪を撫でる優しい手、包み込む温かさが自分を安心させてくれる。
「…私は、みんなを守りたい。世界なんて、この国中なんて言わない。せめて、新選組のみんなだけでも」
「それで充分です。ふふ、葉桜さんは優しすぎます」
葉桜が泣きやんだことに気づいて、沖田は身体を離した。泣き腫らした目の葉桜をクスリと笑う。
「カワイイです、葉桜さん」
やっと見られました、と沖田は葉桜の目元に口付けた。
「うぅぅ…っ」
「いつやるんですか? 場所は」
「…ここ」
「僕に出来ることってありますか?」
ふるふると首を振ると、もう一度ぎゅっと抱きしめられた。
「僕はあなたを愛しています、葉桜さん」
「…総司」
ただ、抱きしめ返すことしかできなかった。
諦めないと入ったけれど、人でなくなった自分が一体何で構成されているのか。これからやることで自分の身が持つのかどうか。誰にもわからない。
「私も…だよ」
言葉としてはひどい嗚咽混じりで、ちゃんと届いたのかどうかもわからない。
世界の全てが愛しくて。切り離してしまった彼女の言うようにそこまでの価値がないのだとしても、自分にとってはこの世界に生きているすべてが今愛しい。だから、どうなったとしても、たとえ一時的な気休めにしかならないのだとしても。
何もしない後悔だけは抱えたくなかった。
自暴自棄になっているわけじゃない。ただただこの世界に生きている人たちが好きで好きでしかたなくて、新選組の皆が愛しくて、愛しくて仕方がないだけだ。
見上げる空はただ青く、雲はひとつも見えなかった。ただ、包み込んでくれる温かさだけが自分にとっての真実だった。
4-昇華
空は青く澄んでいて、雲一つない。初夏の澄んだ空気も相まって、これ以上の条件はないと思えた。そして、少しの時間を経て、彼らがそこにいる。葉桜には振り返る勇気もなかったが、それでも気配はしっかりと伝わってくる。
髪を高く一つに結い上げて、白と赤の組紐でしっかりと結ぶ。どうせ終わってしまうなら、最後はこっちのほうが良いと思った。皆が見慣れた、私が見慣れた姿の私。まあ、着物が白かったり、袴が朱かったりもするが、その辺は少しぐらいの巫女らしさは必要だろうってことで。
「函館はまだ無事?」
「落ちたという報せはないよ」
答えたのは山南で、久しぶりにあった彼は以前とまったく変わっていなかった。葉桜にはとても甘い。
腰に差していた大小は沖田に預けた。もう葉桜には必要のないものだ。妖に変わりつつある今、武器は危険すぎる。誰を傷つけてしまうのかわからないものだ。
「…違和感が」
小さく呟く近藤を笑う。
「そうですね。格好もですけど、刀を差していないなんて、父様に引き取られて以来です」
「…抱きしめても」
「あはは、後でならいくらでも」
そう返すと、え、と沖田が騒ぐ。
「ずるいです、近藤さんばっかり!!」
「いや、総司も、全部終わってからね」
「……」
「はいはい。言いたいことはあとでじっくり聞くから、斎藤」
笑いながら、パンと柏手をひとつ打つ。そうして、一歩を踏み出す。風が、自分を包むのを感じる。優しい、優しい、世界を渡る風だ。思えば、いつだって、これも自分とともにあった。そして、きっと、教えてくれていたんだろう。そこに世界を変える流れがあることを。
今、戦場では永倉が、原田が、土方らが戦ってくれている。ここにいる面々だって戦力になるのに土方はあえて戦場には出さないようにしてくれた。葉桜が、泣くことのないようにと。それから、葉桜を信じてくれたから、ここに皆はいる。
いてくれること。それが力になるとわかっていて、そうしてくれたのだろうか。葉桜の力の源は、人の願いだ。その想いの強さを増幅し、叶えることができる。葉桜は祈ることで願いが叶うワケじゃない。ただ祈るよりも簡単に叶えられる方法を知っているだけだ。
もうひとつと柏手を打つ。それだけで、全てが澄んでゆく。世界を、ただ澄み渡らせてゆく。
「白拍子も良かったけど、巫女姿もなかなか、」
「静かにしてください、近藤さん」
静かじゃない外野はいるけど、緊張をほぐそうとしている心遣いにくすりと笑いが零れる。
「笑われているようだよ、近藤君」
「え、そんな、葉桜君~っ」
なんだ、天然ですか。笑い声をあげる代わりに柏手を打つ。風は途切れない。守るように優しく包んでくれる。
柏手をまたひとつ、またひとつ、とただそれだけを続ける。皆は儀式を見たことがないからわからないだろうけれど、こういう儀式はない。今の葉桜に必要がないだけだ。柏手にはただそれだけで魔を祓う力がある。そして、葉桜がやっているのは今まさにそれだ。
「あれ…?」
総司が訝しむ声が聞こえる。あちらでも見えるほどになってきたのだろう。葉桜の身体から零れ落ち、光を放って霧散してゆく影があることに。
「…髪…」
斎藤のつぶやきは少し驚きを含んでいた。ゆくゆくは起こるだろうという予想は出来ていた。風にゆれて視界に入った自分の髪はゆっくりと色が抜けて、既に灰色に近い。それでもそこから落ちてゆく輝きは消えてゆかない。この身に宿している業はまだまだある。それを私は柏手だけで少しずつ純化させ、世界へと風が運んでゆく。戦う人の心に、願う人の心にすこしずつ金の光が舞い落ちて、それらはきっと人の力となるだろう。
「っ、葉桜君!!」
山南の声を柏手で遮る。風がきっと自分と彼らの間を隔ててくれるだろう。それが、葉桜の願いだから。
「姿が、」
「揺らいで、」
「そんな…っ」
柏手の音は最初と全く変わらない。どころかさらに澄み渡っていくぐらいだ。ただし、目に見える自分の姿はもうすっかり色を無くしていた。ひとつ柏手を打つ度にいくつもの光が舞い落ちて、ひとつ柏手を打つ度に自分自身も純化されてゆく。昇華のように天へ上るのではなく、世界へ広がる力へと変わってゆく。
もうひとつの、可能性だった。生き残るのとは別の可能性。死ぬのではなく、消えてゆく。
後悔はないこともない。だけど、世界に溶ければ見れるんじゃないかという安心があった。このまま姿を保って生きるよりも、それはとても楽な道だ。多くの運命を変えた自分がそんな楽な道を選ぶ資格なんて、ないけれど。
柏手を打つ。世界が澄み渡り、鬨の声が聞こえた。次いで、世界がくるりと回転し、地面に仰向けに倒れ込む。草の上に寝転がるのは気持ちが良い。
ゆっくりと姿が形を取り戻してゆくのもわかるが、同時にそうすることで疲れてゆくのも自覚した。姿を保つためにはやはりかなりの労力がいる身体となったらしい。だが、それでいい。
下生えを蹴って駆けてくる音に姿を想って、笑い声をあげる。
「は、はは、はははははっ」
すっかり人ではなくなった今の自分は、遠くまで見通せる。千里眼、といっただろうか。どうしてかこちら側に大きな船がある。寄越したのは勝海舟。そして、制海権はこちらの手に渡った。戦いは一時中断するしかない。これから新政府側では蝦夷共和国をどうするか打ち合わせることになるんだろう。だけど、こちらに船が戻ったことはきっと大きい。だから、もう大丈夫。
「あー…疲れた」
抱き上げてくれたのはやっぱり近藤さんだった。
「ああ、よかった。消えてないね? 吃驚した~。驚かさないでよ、葉桜君」
遠目に見えた。無事を祈っていたつねさんの姿、そして、お嬢さんの姿。この人とはもうお別れだ。
「まさか、消えませんよ~」
目を閉じて、戦場にいる者たちの無事も確認する。ああ、急いで向かってきているみたいだ。まだいたほうがいいのかな。いてもいいんだな。
「終わったのか」
斎藤の短い問いかけに深く頷く。
「新政府軍はもう容易に手を出してはこられないよ。ここは徳川の巫女が守る国だからね」
手を握ってくるまだ不安そうな山南に笑いかける。
「これでやっと約束を果たせました~。長い旅だったなぁ~」
本当に、長い旅だった。過去も関わり、未来を変える大仕事だった。
「仕事明けですから、やっぱりおいしいお酒で宴会したいですね~」
駆けてくる足音に目を閉じる。隙間を縫って頬を撫でる風が心地よい。眠ってしまったら、姿を保っていられるか自信もないし、気がつかれるわけにはいかないだろう。
ゆっくりと身体を起こし、近藤の腕から離れようとしたら思いっきり抱きしめられた。本当に、本当に気をつけないと。いつその腕を身体がすり抜けてしまうかわからない。細心の注意で、抱きしめ返す。
「あー、はいはい。たしかにいくらでも抱きしめていいといいましたけどね」
ずっと昔にしたように子供をあやす要領で背中を叩くと、はぁとため息を吐かれた。
「それはないよ、葉桜君~」
「ははは、まあ、そろそろみんな来ますよ」
「構わないよ。それより、少し痩せた?」
ぐいと身体を引かれて、総司の胸に背中から倒れ込む。
「構ってください、近藤さん。次は僕の番です」
「こういうときは年長者に譲るもんじゃないかい、総司」
「近藤さんにはツネさんがいるでしょう?」
バチバチと二人が火花を散らしている間にこっそりと腕を抜けて、ごろりと草の上に寝転がる。ああ、草と地面の感触が心地よい。力がゆっくりと回復してゆくのがわかる。
「妖…人ではなくなったと聞いたから、心配だよ」
ゆっくりと近づいてきた山南がそっと額の髪を避けた。
「消えませんよ。…そんな風に逃げるつもりなら、ここにいません」
はぁと息を吐き出す。
「そう、だね。君はそういう人だったね」
ゆっくりと目を閉じる。そうして、世界を感じる。
「…姿を保つのは大変なのかな」
目を開けたら、空を遮って私をのぞき込む山南の瞳は泣きそうだった。
「ナイショですよ」
意識しなければ、姿が薄れるのを止められない。消えていきそうな自分の手を見つめ、しっかりと姿を意識し、記憶の通りに現出させた手で山南に触れる。
「もう一年ぐらいは消えずにいますから」
戸惑いながらも葉桜に触れ、山南はその身体を抱きしめ、苦しげな息を吐いた。
「無理をしているのは私たちのためなのかな」
葉桜も山南の首に両腕を伸ばして抱きしめ返す。
「いいえ、私がまだやりたいことがあるからです」
「やりたいこと?」
「…お花見」
「……」
「そのためにも一年は保たせますよ」
呆れかえったため息を聞いて、葉桜はまた笑った。
もう一度目を閉じる。そして、開く。見なくても、近づいてくる気配があることぐらいわかった。
「山南さん、手を離してもらえませんか」
こそりと耳元で囁く。が、抱きしめる腕はまったく揺るがなくて。しかたなく、そのまま葉桜は近づいてきた二人に笑いかけた。
「二人ともひどい顔してるよ~?」
からかいを交えたそれに対して、二人は複雑そうな顔を見合わせた後で、永倉の方が乱暴に葉桜の頭を撫でた。無言で、がしがしと撫でられて、でもそれだけで優しさが伝わってきて泣きたくなった。
「お前、いったいどうなってんだよ。戻ったら、きっちり説明してもらうかんな」
「ははは、私は今回手を出してないぞ、原田~?」
「土方さんらにもいろいろ聞いているし、全部吐いてもらうまでは寝かさねーからな」
「あはははは」
泣き顔を見られないように、しっかりと山南の肩に顔を埋める。頭を撫でていた手が不意に止まり、囁かれる。
「冗談じゃねェから、覚悟しておけよ」
笑い声をあげておくことしかできない。説明なんて、何度も出来ない。何度も、皆に無言で責められる辛さというのもわかってほしいものだ。
現に、今だって、苦しい。消えるわけにはいかないけど、胸が苦しくて、痛い。その背中を山南があやすように叩いた。
「葉桜君は今とても疲れているから、説明ならここにいた私たちで充分事足りるよ」
眠っておいで、と囁かれる。だけど、眠ってしまったら姿を保っていられるのかどうか。
「ふふふ、大丈夫ですよ。山南さんは私の仕事明けの楽しみを阻止するつもりのようですが、そうはいきませんよ」
とんとんとその肩を軽く叩く。この人は優しいから、葉桜の決意を止めない。おとなしく弛められた腕から抜け出し、しっかりと自分の足で立つ。
「実は、土方の部屋にとっておきの酒ってやつを隠してあるのだよ」
「…おまえ、それは…」
「みんなはまだまだやること残ってるだろうけど、一杯だけつきあってよね」
くるりと全員に背を向けて軽い足取りで帰路を踏む。返答を聞くつもりはない。一杯ぐらいで彼らが酔わないことぐらい知っているし、もしかするとこれが酒を酌み交わせる最後の機会かもしれない。
歩きながら、ふと掴みあげた髪は白銀で、そこからさらさらと金の砂が流れ落ちていく音が聞こえる気がする。風にながれて、どこまでもどこまでも遠く運ばれて。いつか人の中で良い実を結んでくれると良い。そうすれば、きっと消えてしまったとしても悔いはない。
鼻歌を謡いながら歩く葉桜の半歩後ろに寄り添うように斎藤が続く。その目には、僅かに葉桜の身体から金の粉がこぼれ落ちて消えてゆくのが見えた。そして、本当にかすかに揺れている輪郭も。
ゆらゆらと背中をゆれる白銀の髪からもさらさらと零れる光を見つめながら、誰もが別れの時を覚悟した。
5-一緒にいたい
正直、本当にもう最後なんだとわかっていたけど、涙は出てこなかった。自分は泣くことも出来なくなったのかと思うと少しだけ哀しくて、可笑しかった。
「あははははははっ」
心の底から笑っているのに、全然楽しくない。望んでこうなったのに、望むとおりになったのに、全然嬉しくない。どうしてかなんて、自分が一番よくわかっていた。みんなで心ゆくまで飲んで騒いで、全員を酔いつぶれさせた頃にはもう翌朝になっていた。
「ふふふ、みんな付き合いいいよね~」
部屋の中で思い思いの姿で眠っている面々を肴に、窓辺で瓶を傾けて、酒を煽る。どれだけ飲んでも酔えない。どれだけ騒いでも、楽しくない。こんなはずじゃなかったいやこれで良かったんだと心中の葛藤も絶えない。
望んでいたのは、最初から彼らの生きる道だけで、ただそれだけが彼女の願いだった。いつから、そこに自分が在ることを望んでしまったんだろう。いつから、生きる道を探そうとしてしまったんだろう。こうなることはもう出会う前から定まっていたはずなのに。
朝焼けに照らされる自分の手も身体もだんだんと薄れてゆくのを感じる。意識しているせいか、手元も身体を通り抜ける酒もこぼれ落ちてしまうことはないけれど、その時は近いのだろうとわかる。
両目を閉じる。ただそれだけで、自分の身体が世界に溶けこんでしまうとわかる。
「助けて欲しいんです」
そう言ったのは見ず知らずどころか、不思議な格好の女の子だった。それが、全ての始まりだった。
新選組に入ったことを少しも後悔していない。短い人生の中で彼らと出会えたのは最大の幸運だったと今でも信じている。悪い出会いなんて、葉桜にはひとつもなかった。敵でも味方でもどちらでも、どんな人間でも大好きだった。できれば、ずっと楽しい毎日が続いて欲しいと思うほどに、大好きで大切だった。
ほぅと心の内に小さな光が灯るのを感じる。温かい、とそれを感じられた胸をそっと押さえる。
「これで、満足?」
胸の内に問いかける。答えを返せるのは自分だけしかいない。
「ンなわけないよね~」
満足じゃないから、こうして存在している。そうでなければ、苦労して姿を保つ意味などない。苦笑を零し、窓辺を離れて、部屋を出る。彼らが起き出す前に、やることをやらなければ。
そうして、廊下を少し進んで立ち止まる。壁を切り取るように作られた大きな窓から広がる青空を見上げて、そっと微笑む。そろそろここも夏が来る。そうして、秋が来て、冬が来て、また春が来るまで。それまでは、ここにいようと覚悟を決めた。
次の春が来るまでは共にいようと、決めたから。だから。
「もうちょっとだけ、待っててね」
空に放つ言葉は静かに消えて、残滓を確認せずに、葉桜は再びを廊下を急いだ。角を曲がり、階段に差し掛かったところで足を止める。
「葉桜」
その自分を呼ぶ声を聞いて、動けなくなる。彼は、いや、誰も彼も皆酔いつぶれさせたはずなのに、何故ここに彼がいるのか。多少の混乱を起こしている葉桜を彼ーー土方は包み込むように背後から抱きしめた。
「どこへ行くんだ?」
ただ答えれば良かっただけなのに、口を開いても言葉にならない。ただ胸が苦しくて、何も言えなくなってしまった。包み込む土方の香を吸い込むだけで、いつだって安心できた。だけど、今はひどく心が乱れる。本当のことをいうだけなのに、苦しくて苦しくて、胸が痛い。
「ここにいろ。どこへも行くな」
切なく囁く声が心に突き刺さる。自分はこんな風に言ってもらえるような人間じゃない。ただ通り過ぎてゆくだけの、ただそれだけの存在でなければならないのに。特に、ヒトであることを捨ててしまった今は。
「はっ、今更どこへ行くって?」
思ってもいない嗤う声が自分から出て行くのを不思議に思う。土方も不思議に思っているのがわかる。だけど、嗤う声は止まらない。
「どこかへ行けたとしても、今更土方や近藤さんの許しが必要か? 私は誰の命にも従わないし、これまで通りやりたいようにやるだけだよ」
嗤う。嗤う。嗤う。こんなことを言いたいんじゃないのに、抗えない。ただ一言で済むのにその一言が言えない。
「葉桜、」
「それに私が何をしようが、土方には何の関わりもないじゃないか。私は私のやることを誰にも邪魔させない。私は私が望むようにしかしない。だから、」
言ってしまいそうな言葉を土方の手が塞ぐ。
「そこまでにしておけ」
本心じゃねぇことぐらいわかってると。当たっているけど、だけど、どうしてこの人はそれがわかるんだ。
強められる腕の強さにふとした恐怖を感じる。それは寄りかかることの安心を知っているから、だからこそこれから先の孤独の恐怖を思い知ってしまう気がして。その温かさが怖くて、その腕から逃れようともがいた。だけど、今までなら簡単に弛めてくれた腕は強く抱きしめるままで、どうやってもその腕から逃れることは出来なかった。
「離せっ」
ぎゅうう、と息が詰まりそうなほどに抱きしめられて、尚も抵抗しようと試みる。それを見透かしてか、ふっと耳に息がかかった。意志に反して、力が抜ける。その隙をついて、抱き直され、目の前には土方の顔があった。
「な…っ、に…っ」
「約束しただろう? 俺は葉桜と共にいる。一人になんてさせるか」
「勝手…」
「お互い様だろ」
胸に顔をぎゅっと押しつけさせて、髪を撫でながら言ってくれる言葉は、今の葉桜にとってひどく甘すぎる誘いだ。残されるとわかっていて、必ず自分よりも先に朽ちてゆくと知っていて、一緒にいられるほど自分は強くない。
「それに、葉桜はひとつだけ勘違いをしてるぜ」
「?」
「何故俺たちが葉桜をいつかひとりにするとわかっていて辛くなると考えねぇんだ?」
言われて、それを考えたこともなかったことに気がついた。それはそうだ。いつだって、自分が辛いのが嫌だから、無意識に逃げ続けてきた。一番大切な人を作らないのは、もう二度と自分が傷つきたくないからだ。だから、ずっと一人で通り過ぎていくだけの道を歩き続けてきた。
「何故それでもその短い間でも共にいたいという気持ちがわからねぇんだ」
誰かと一緒に歩き続ける道なんかわからない。以前にも考えてはみたけれど、想像も付かなかった。どう考えても、誰かと一緒にいる自分を想像できなかったのだ。
「短い間でも幸せな想い出があればいいといったのは葉桜じゃねぇか。残すとわかっていても、その短い時の間だけでも一緒にいたいって心がどうしてわからねぇ」
土方の言葉を鍵とするように、不意に想いがゆっくりと内側から溢れてくる。危険だ、駄目だと、思い出すなといくら思ってもどうにもならない想いが、ずっとずっと封じ込めてきた想いが、身体中に広がってゆくのを感じる。それは、父様が死んだ時に封印してしまった想いだ。二度とあんな想いをしたくないからと、必死に自分で自分に術をかけた。一度も成功したことのないそれを、必死でかけて。そうして、忘れた。すべてを、忘れた。思い出せば、想いが止まらなくなるから。もう一度同じ想いをしたくなかったから。
ぎゅっと土方の胸ぐらを掴む。視界が歪んで、土方の顔がぼやける。
「わからないわけ、ないでしょ!? 父様が死ぬとわかっていても最期まで一緒にいた私をなめないでよねっ」
手をそっと取られて握られる。
「じゃあ、いいな?」
「なにもよくないわよっ、どうしてっ、どうして思い出させるの!? 思い出したくなんかなかったのにっ、ずっと、あんな想いを忘れていたかったのにっっ」
思い出してしまっても、あの頃のように、ただの子供のように純粋に少しでも一緒にいたいと思ってしまったら、後に待っているのはきっとあの時以上の悲しみだ。死んだ方がマシだと思ってしまう悲しみだ。それでも、臆病な自分は命を絶つことも出来なくて、結局逃げるしかなくて。
「どうして、そうやって私に構うのっ? どうして放っておいてくれないのっ」
叫んでいる葉桜をただ土方はそっと抱きしめる。泣きじゃくる葉桜を包み込む優しさだけで、もうそれだけで涙が止められなかった。あのとき、流せなかった涙が次々と溢れてくる。それを土方はただ黙って抱きしめて、背中を、髪を撫でてくれた。
「ずっと、ずっと一緒にいたいに決まってるじゃないっ。離れたいわけがないわ。
忘れたままの方が良かった。幸せな想い出だけを覚えていたかった。だけど、思い出してしまえば、その別れの辛さを何度も味わって、何度も身を切り刻まれるよりも辛い想いにすべてが支配される。一人で生きる虚無と孤独と寂しさに、自分を壊してしまいたくなる。
「また一人で残されるのは嫌よっ。これ以上一人でいるぐらいなら、消えてしまう方がっ」
ぐっと顔を胸に押しつけられて、息も出来ないほど強く抱きしめられて、言葉を封じられる。
「これ以上、何も言うんじゃねぇ」
「~~~っ」
「俺の我儘ってのはよくわかってる。けど、頼む。これからも一緒にいてくれねぇか」
否定を許さないとでも言うように全てが自由にならない。上手い具合に絡め取られて、何も出来ない。呼吸も満足にできない状態で入ってくる甘い囁きに飽和した頭がすべてを忘れさせようとする。世界の全てを、一つに変えてしまう。
「~~~~~っっっ」
手を伸ばして、土方の背中を強く叩き、苦しさを伝える。ようやく緩んだ腕の中で、涙目になりながらにらみつけたが、効いている様子はない。
「っ息が出来なくて死ぬかと思ったわ! 土方は私を殺す気!?」
言った瞬間にはもう口付けられていて、今度は別な方法で言葉を封じられてしまう。それも、かなり最悪だ。わかってはいたけど、話に聞いたこともあるし、最近だってそういうことはあった。だけど、こんな、何もかもの考え事を真っ白に塗り替えてしまうほどの威力はなかった。気持ちよすぎて、意識が飛んでしまいそうになるのにそう時間はかからず。
ようやく解放されたときにはもう何も答えが出せる状態でも、一人で立ち上がれる状態でもなく。
「~~~ば、馬鹿っ! なんてこと、してくれんのよ」
「フ、参ったか」
「くっ…! だ、誰がっっ」
強がる葉桜に対して、土方はもう一度深く口付けた。途中で見開いた瞳の向こうには土方の端正すぎる顔があって、でもそれ以上にその向こうに見える窓の外の青空が眩しくて、泣きそうになった。
1-北の春
書きかけ途中ですいません
そんでいろいろとオリジナル要素が多くて、すいません
この辺りはせつめーが多くて、ゲームやっててもちょっと飽(殴
この章はもうちょっと続きます
が、頭の中が他ゲームで埋まっているので続きが書き上げられません
今月中にはなんとかまとまる予定なので、そっとしておいてください
(2007/03/21)
2-希う道
不思議が続きます。
てか私の話はいつもこうか?
この続きも書いたんですが、あまりにダメダメだったんでボツにしました。
明るく〆られるように!がんばりますんで、もちょっとお付き合いください。
(2007/03/28 09:01:46)
3-決別
前の方がちょっと悲しい終わり方だったんで、助けてみたらとんでもないことに。
この辺はもう3度目の書き直しですよ!
んで、伸びてしまって申し訳ないです。
どんだけこの話を長くするつもりなんだ、自分。
てか沖田の役割を伏線張っておきながら、すーっかり忘れるところでした。
しかし忘れられていた割にちゃっかりさんだ、沖田。
…この章、ずいぶんと長くなったなぁ(しみじみと。
(2007/04/04)
4-昇華
趣味に走って、本当にごめんなさい!
続きは久々に分岐とかしてみようかなとか。
考えたり考えなかったり、しないこともないこともない(どっちだ。
てわけで、おまたせして申し訳ないのですが、その辺の分岐はうまいことゲームでもっていきたいなーと。
ここではそれ以外。つまり、誰も選ばないエンドで続きをお楽しみください。
…楽しめるのかどうかはそれぞれですが。
書く方は最後なのでめいっぱい楽しんでおきます。
しっかし、本当に長い話ですねー。
下手すると文庫本一冊分ぐらいにはなったりして。
(2007-04-11)
5-一緒にいたい
先週は更新できなくてすいません。なのに、こんな更新…
いや、そういや、土方の章なのに絡みが少ないかも?とか思って
ちょっと付け足そうとしたら暴走しました(爆
仕事に追われながら、ちょっとずつ書きためてた割にまともに仕上がったかもですがいかがでしょうか
とりあえず、書き直すか否かはともかくこの章はここまでです
次がまとめの最終章。長い間お付き合いくださいましてありがとうございます
もうちょっとが1ヶ月以上も伸びていますがよろしくお付き合いください
(2007/04/25 09:32:28)