夕暮れで朱く染まる町を、私は殊更にゆっくりと歩く。空も家も人も、全てが朱く色づく時を、この町では逢魔が時と呼んで恐れたともいう。だから、誰彼、という誰何の音を持って、黄昏、と当てるのだ。太陽が一日の最後に投げかける光が細く長く伸びる様を見ていると、魔と逢うというのも頷ける。
ざわざわと落ち着かない心を落ち着かせるように、私はゆっくりと町を歩く。注意して歩かなければならないのは魔よりもむしろ私の方で、騒ぎ出そうとする淀んだ己の血を堪えるように、私は壬生寺へと足を急がせていた。
自分の血が欲しているのはどちらかというと負の感情で、私は抑えるための術をすでに心得ている。
ようやく辿り着いた人気のない境内で、私は徐ろに剣を抜き放ち、正眼に構えた。両目を閉じて、心を、世界へと溶けこませてゆく。ひとつに神経を集中することで、騒ぐ心は落ち着き、乱れる心を抑え制御することができる。そのための、場所であり、剣だ。
私は周囲で動いた空気に合わせ、剣を揺らす。
「うぉあっ」
耳慣れた声と尻餅をついた音で、それが誰なのか気が付いたが、私は目は開けない。
「危ないぞ、永倉」
「危ねェのはオメーだよ、葉桜! ったく、なんてェ気を放ってやがるっ」
永倉の気配に合わせ、私はその腕を避けるのではなく、剣を揮う。風が、薙ぐ。
「ちぃっ!」
世界に交わっている今の私には、どんな攻撃も意味を為さない。剣を掲げ、ゆっくりと振り下ろすと、それだけで私を中心に、風が巻き起こった。
「葉桜さんっ!」
そして、収まる風の中で、私はゆっくりと両目を開けつつ、剣を鞘へと収めた。
遠くに鈴花が仁王立ちして両手を強く握りしめており、私のすぐ目の前には永倉が倒れている。その肩を抑える手の間から、血がしたたり落ちるのを見て、私は永倉の前に膝をついた。
「よぉ、永倉」
なんでもない様子で私は取り出した手拭いを引き裂き、永倉の肩を止血する。傷そのものは浅く、剣を振るのに支障はないだろう。鈴花は遠目に力を落として、へにゃりと座り込んでいた。
「なんで二人がここにいるんだ? そろそろ夕餉の時間だぞ」
「あんな気ィ放っていけるかよ」
「お人好し」
「っ!」
手当を終えた傷口を軽く叩いて私が立ち上がると、永倉はその場所を押さえて呻いていた。
「誰もいないと思ったのに、こんなところで鈴花ちゃんと何してたんだ?」
ふいと視線を反らす永倉の、怪我をしていない方の手を引いて立ち上がらせ、私は顔を寄せて囁く。
「遊びってんなら許さないよ」
「ちっ、違ェよっ」
明らかに焦りの混じる永倉の返答を、私は笑った。私がどれだけ鈴花を大切にしているかを知っていて、気軽に手を出せるような男など新選組にはいない。
「お、オメーこそ」
「ん?」
「さっきのはなんだ? 今までみたこともねェ剣だぜ」
私は返答に窮し、永倉に背を向けて、鈴花へと向かいあう。さっきの剣を見られたせいだろう。鈴花はやはり、私に怯えているように見えた。
「あれは剣なんかじゃないよ」
「剣でなくて、なんだってんだよ」
「あれは、私の飼っている獣さ」
他に私はなんと云えば良かっただろう。正面から私を見つめる不安そうな鈴花に近づき、笑いかけただけなのに、私は泣きそうだった。
「時々酷く騒いで、何もかも壊してしまいたくなるんだ」
差し出した私の手を取り、立ち上がった鈴花をそのまま柔らかに抱き留め、その髪に口を寄せる。
「愛しいのに、壊してしまいたくなるんだ」
鈴花から伝わってくる動揺を笑い、私は彼女を手放して、永倉の方へと送った。
「
二人に背を向けた私は、くいと袖をひかれ。彼らが私を呼ぶ声を聞く。
「わけわかんねェこと言ってねェで、帰んぞ」
「帰りましょう、葉桜さん」
私は振り返らずに、掴まれた袖を振り払い、社殿へと歩き出した。
「葉桜さんっ」
騒ぎ出そうとする血を抑え、私は社殿の中で、今度は剣でなく扇子を構える。先ほどよりは静かに穏やかに、剣に見立てた扇子を揮う。世界に身をゆだねて、ただ揮う剣の先には誰もいない。これは稽古ではないのだ。境内にあった鈴花の気配が消え、永倉の気配だけが残る。心配性な男だなと思ったが、いつものような笑みは浮かんで来なかった。
疲れてへとへとになるまで扇子を揮い、月が中天にかかる頃、後ろから私を抱きかかえる者に体を預ける。
「そろそろ帰るぜ」
「…っ」
「もう充分だろ」
言い返す気力も振り払う体力もない私を、永倉は軽々と抱き上げる。開いた目の前には永倉の無精ひげがあって、心配そうな彼を私は笑った。
「お人好し」
「へっ、言える立場かァ?」
「…でも、有難う」
本心を伝え、そっと目を閉じると、私の頬を一筋の滴が滑り落ちていった。
動揺している永倉の様子が、触れる胸先から伝わってきて。彼の優しさが、触れる箇所から流れ込んできて。疲れきった私の体と心を、心地良く包み込む。夜の静けさから守られる温かさに身を委ね、私は意識もすっかり手放したのだった。
(永倉視点)
葉桜が社殿へと閉じこもった後、俺は桜庭を一人屯所へと帰らせてから、何時間も社殿の外で待った。さっき襲われたばかりの桜庭は心配だが、屯所に戻れば信頼出来る仲間も多い。油断もすっかり消えた桜庭をどうこうしようってのは、相当に難しいだろう。
それよりも今の俺には、葉桜のが心配だ。
社殿中から聞こえてくる音は風のようだが、よく聞けばそれは剣を揮う音にも似ていたから、入ることは出来なかった。葉桜がここへ来たのも誰もいないと踏んでのことで。そして、閉じこもったのは誰にも見られたくないということだろう。だから、俺はすぐに入るのを躊躇った。
葉桜に斬られ、止血された肩をさすり、俺は夜空を見ながら時を待つ。珍しく雪雲も晴れて、今日は良い夕陽を放って、太陽が消えた。同じように扉の向こうへと消えた女を、俺は想う。
普段は呆れるほどの楽天家なクセに、時折酷く不安定になる。月一じゃないあたり、月のモノとは違うのだろう。だが、たまに来るそれに葉桜はひどく揺らぐ。山南さんや山崎辺りは世情が関係しているだとか言っていた。
正直、俺は葉桜の役目がなんなのかよくわからねェ。だけど、人間ってのはそう簡単に世界に左右されるようなもんじゃねェ。その、ハズだ。
はぁと吐き出す俺の息が白くなる。そういえば、葉桜はあまり厚着をしない。いくら稽古をしているとはいえ、もうしばらくすれば寒くなるだろう。今夜も随分冷えてきたし、中の音も乱れが生じてきた。
「葉桜、入るぜ」
俺が社殿を開けると、薄闇の中で風が舞っていた。扇子を剣に見立てているのか、葉桜のその姿は完成されていて、一部の隙もない。彼女が疲れてさえいなければ、誰にもそこに入り込むことは出来ないだろう。
「葉桜」
俺が名を呼んでも声は届かず、葉桜は何の反応も示さず踊り続ける。俺はその姿に吸い込まれるように近寄り、後ろから葉桜を抱き留めた。一瞬の後、葉桜ががくりと力を落とす。
「そろそろ帰るぜ。もう充分だ」
限界なんてとっくに超えていたらしい葉桜は、俺が抱き上げても全く抵抗しなかった。ただ身体中で息をし、ひどく激しく胸を上下させる。葉桜の息遣いが首に当たり、俺は柄にもなく動揺する。
「お人好し」
「へっ、言える立場かぁ?」
さっきと同じ葉桜の軽口に、俺も今度は軽口で返した。だが、葉桜がそっと囁いた有難うの一言は効いた。直に聞こえる穏やかな寝息に、俺は詰めていた息を吐き出す。
これが無自覚だから、葉桜は質が悪い。
「オメー、わかっててやってんじゃねェだろうな?」
もちろん葉桜がわかっているわけがない。恋愛事に関しちゃ、こいつは相当の朴念仁だ。あからさまな好意でも、葉桜には口に出さなきゃ伝わらない。だが、逃げようとするこいつにそれを伝えること、そいつが一番難しい。
まだ痛む腕を堪えて、俺は眠っている葉桜の額へと口付ける。
「お人好しは葉桜のほうだぜ。俺らに心配させないようにってのが余計な世話だってんだ」
おそらく、葉桜がここで剣を振るっていた理由はそれが正解だろう。仲間に心配をかけないようにと細心の注意を払い、普段から葉桜は笑顔を絶やさない。時折それが崩れるのは、無理をしているからに他ならない。
「獣なら、俺だって飼ってるぜ」
葉桜の獣といった剣はかなり強かったが、男なら誰でも飼っている獣だ。
だが、安堵して眠っている寝顔を見ていると、からかうのも気が引けて。結局俺はそのまま部屋へと葉桜を連れ帰り、自分の布団へ寝かせて、俺は隣に寝転がった。
「あー俺って良いヤツ」
眠っている葉桜の髪を一房掴み、俺は口付ける。
「こんなにイイ男は他にいねぇぞ、葉桜」
眠り続け、気が付く気配もない様子を小さく笑い、俺も目を閉じた。夜はまだ長く、夜明けまではさらに遠い。自分の隣で眠る葉桜の夢が穏やかであることを願いながら、俺も静かな夜に身を委ねた。
調子が出てきた
つか、秋のつもりで書いてて焦った
前に挟んでいる話ですでに冬じゃねぃですか
あっぶない、危ない
(2007/08/22)
改訂
(2012/10/24)