幕末恋華>> 読切>> 灯籠流し - 1#-3#

書名:幕末恋華
章名:読切

話名:灯籠流し - 1#-3#


作:ひまうさ
公開日(更新日):2008.6.25
状態:公開
ページ数:9 頁
文字数:17757 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 12 枚
デフォルト名:華原/有栖
1)
1#笹船の行方(誰にも好かれたくない話)
1) 達海と辰巳
2#煙管
3#見えない世界

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p.1

1) 達海と辰巳



 時々どうしようもなく自分が嫌いになるときがある。そういうのは大抵最悪のタイミングでやってきて、最悪のタイミングで私の気持ちを否応なく連れ去るのだ。

 逃げるのが嫌いで、負けるのが嫌いで、弱さを見せるのが嫌いな私はいつの間にかそっちの世界に足をつっこんでいたに違いない。

「有栖、こっちこっち」
「あー?」
「ほらぁ、そんな顔しないで」
 見た目二十代後半の母が呼ぶのにしかたなく歩き出す。ダメージジーンズと重ね着した二枚のキャミソールの上から薄手のスウェットパーカーを羽織っただけの自分を追い越す人々はそれぞれに浴衣を着て、それぞれに灯籠を手にしていて、哀しそうな寂しそうな、楽しそうな顔をしている。

 今日はあの人がいなくなって、丁度十年目を迎える日だ。あれからずっと放っておいた長い髪が背中で波打つ。

「今年は間に合わないかと思ったわ」
「ふーん、さっさと行ってきたら」
「ね、良くできたと思わない?」
「今年は沈まないといいね」
 苦笑いをしながら歩いていく母の背中を見送り、道の端によってポケットから取り出した煙草に火を点ける。あの人は知らないことだ。知らなくていいことだ。

「おー未成年」
 口をつけたばかりの煙草を取り上げられ、相手を睨みつける。こいつは城野達海といって、近所の悪い兄貴分だ。私よりも六つぐらい年上と聞いたこともあるけど、昔からお小言が多い。

「こんなもん吸ってちゃ補導されるぞ」
 普通は吸うなとかやめろとかいうもんだろうに、こいつは言ったことがない。ただ、取り上げるだけだ。

「おふくろさんは?」
「行ったよ」
 どうせもう一本を点けても取り上げられるだけなので諦め、人の流れをじっと見つめる。

 一定方向へと流れる人達を見ているとなんだか川の流れを見ているような気分になることがある。それを見ているときにいつも思うのは疎外感。

「今年も笹舟か?」
「うん」
 私が小学校に上がったばかりの夏だった。溺れている人を助けようとして飛び込んだ父が死んだのは。天性のお人好しとはいえ、自分が泳げないことぐらい知っていた欲しかった。

 人の流れの中でさ迷う視線の前を大きな手が遮る。

「今日はまっすぐ帰れや、有栖」
「からまれなきゃいつもまっすぐ帰ってるよ」
「…いや、それはわかってんだけどな」
 歯切れの悪い言葉はいつものことだ、邪魔な手をはね除ける。

「達海兄ィがあの人守ってくれるんなら、私もほうっておけるんだけどね」
「それがマジなら苦労しねぇよ。今度はどことやりあったって?」
「知らない」
「知っとけ。中坊がコーコーセーなんか相手にしてんじゃねぇよ」
 喧嘩相手がどこだとか知った事じゃない。

「機嫌の悪い時に、私の目の前で喧嘩する奴が悪い」
「だいたい丸腰の一人相手に数人で得物使ってる奴なんざ、たたきのめしてやった方がいいに決まってんでしょうがっ」
 どうせ詳細は知っているだろうから、隠す必要なんてないだろう。

「またおまえはそーゆー」
 達海は何をやってるのか知らないけど顔が広い。裏の世界の人とかいろいろ聞くけど、昔から知っている有栖としては、単なる頼れる兄貴分だ。同じ歳ぐらいの妹がいたとかでいつも構ってくれる気の良い兄ちゃんだが、私は知っている。

「私のことより、彼女はどうしたのよ彼女は」
「ああ、さっき振られた」
「またぁ?」
「お前見かけたから声かけていいかって聞いたらな、なんか勝手に怒っていっちまった。あのパターンは駄目だな」
 人が良い、気前が良い、男らしいという点では完璧なんだが、どうにもこいつは女の子に対して間違っていると見える言動、行動が多すぎる。

「デートの最中にそりゃないよ、達海兄ィ」
「んなこといわれても妹分のお前が淋しそうにしてるのは放っておけねぇだろーが」
 ほら、こうやって余計な気を回すから。誤解される。でも、そんなことは言ってあげない。

「そらどーも。で、これで何回目?」
「数えてねぇ」
 達海のふかす紫煙が人の流れにかき消える。

「ね、達海兄ぃ。私がなってあげよっか」
「あぁ?」
「カノジョ」
 少しの間の後、前髪の辺りを抑えるようにぐしゃぐしゃと撫でられる。

「ははっ、いっちょ前に慰めてくれてんのか」
 もちろん冗談だ。この人は本当の兄のようで安心する。昔はよく父もこうやってくれた。前髪をくしゃっとやって、それからぐしゃぐしゃにして。乱暴だけど、強く優しさを感じるそれが私は好きだった。

 人混みから誰かが達海を呼ぶ。じゃあなと遠ざかる背中に一度だけ呼びかけた。自分でも何を望んでいたのかわからないで、いつものように片手をあげて彼が振り返った瞬間、頭に強い衝撃があった。

 何も考えられなくて、ただ暗くなっていく視界の中でひどく慌てて駆け寄ってくる達海の姿が滑稽だった。



p.2

 寒さに身を震わせ、目を覚ます。元々闇で目覚めた視界にはその場所が仄明るく見えた。板張りの部屋は広く、道場のような場所だとすぐにわかったのは、かつて自分が学んでいたからだろう。もっとも喧嘩をするようになって破門されてしまったのだが。

 月明かりが小さな窓から差し込んでいて、寒さをさらに強調する。だけど、怖さも寒さも、どんな弱さも表に出すことは出来ない。ここがどこかもわからないのに、いやわかったとしても捕まったのならば逃げ出すだけだ。

 自分が服を着ていることを触れて確認し、ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。闇の中でその火は赤く光ったが、すぐに消えた。火を点けて煙を吐き出す前にかけられた水音を覚えている。

「ちっ」
 舌打ちしたがもう一度点ける気にはなれず、濡れた髪をかき上げながら、その方向を睨みつける。

「道場内で煙草は厳禁です」
「悪かったな」
 水をかけてきたのは同い年ぐらいの女だ。あまり悪そうには見えないが、構うのも面倒なので、かすかに空いている戸口と思える場所から外へ出た。見覚えのない場所だがあまり気にはならない。かすかに吹いてきた風に身震いする。夏だというのに冬のように寒い。水を被ったせいだろうか。

 相手でもいれば、少し身体を動かして温めるのだが、いかんせん先ほどの女だけじゃ手に余る。それなりの身のこなしをしていたが、正攻法の武道なんてとうに捨ててしまった。

「どなた?」
 母の声に振り返る。だが、それは別人だった。いくら母が年若く見えても自分と同じぐらいに見えることなどないだろう。

 彼女は答えない私をどう思ったのか、急に気がついたように騒ぎ出した。騒ぐ声は不思議と煩くなく感じるのは、母の声と似ているからだろうか。だけど、内容が頭に入ってこない。自分は寝ぼけているのかもしれない。

「とにかく、来てっ」
 腕を引く力は思ったよりも力強く、そのままぐいぐいと引っ張られて庭側へと連れてこられる。

「お父さんっ」
 彼女の呼ぶ声で老人が顔を出す。彼は一瞬目を丸くし、だがすぐに近づいてきた。

「お嬢さん、早く入んな。この時期、そんな格好じゃ風邪引く」
 そういえば水を被ったばかりだった。だが、この時期というのはどういう意味だろう。何にせよ、理由もわからず厄介になるわけにもいかない。

 踵を返し、無言で場を後にする。なんといっていいのかわからなかったからだ。

「お、おい、待ちなって」
 なんだろう。頭がひどく重い。風邪でも引いただろうか。

(さっきの、今で? 夏なのに?)
 肌を突き刺す冷たい空気に肌が泡立つ。こんなにも夏は寒かっただろうか。まるで冬のようだ。ぐらりと世界が揺れる気持ちの悪さに膝をつく。地震なのか、それとも揺れているのは自分自身だろうか。

「寒…」
 自分の声が遠く聞こえて、また暗転。ここに連れてこられる前に変な薬でもかがされたのだろうか。

「じーさんがいってたのはこいつか?」
「だと思うよ。ほら、みたこともない着物だし、水被ってるし」
 達海の声が聞こえたと思ったら、抱え上げられる。おせっかいが助けに来てくれたのだろうか。母は無事なのだろうか。

「このまま風呂に放り込めばいいのか?」
「う、うん」
 触れる場所が温かい。肉親以外で唯一、信頼できる人。

「…達海、兄ぃ…」
 大きな揺れの中でそのまま有栖は深く眠った。



p.3

 水の音がする。

「え、辰巳さん? まさか、一晩中ここにいたんですか?」
「しかたねぇだろ、これを離すわけにもいかねぇし」
「、へぇ~っ、辰巳さんって意外と優しいんですね」
「意外は余計だ」
 達海と母の話し声にしては、少し妙な会話だ。ゆっくりと目を開ける。

「、達海兄ぃ?」
 返答はなかったので、声の方を見る。体格や雰囲気は似ているが、よく見れば別人だ。どうして間違えたのだろうか。恥ずかしさで顔を背ける。

「目が覚めたなら、手ぇ離してくれねぇか」
 言われてぎゅっと何かを握りしめていることに気がついた。それを離すと、ほっとしたように彼が息を吐く。

「誰と間違えてくれたか知らねぇけど、良い迷惑だぜ」
「そんなこといって、案外彼女が可愛かったからなんじゃないですか?」
「まあ顔悪くはねぇが、ガキは趣味じゃねぇ」
 伸びてくる手をじっとみつめる。こんなにも雰囲気が似ているのに彼ではないのか。

「達海兄ぃ?」
「あぁ? 夕べもそう言ってたが、そりゃ何の冗談だ?」
 違う、彼はこんな目で私を見ない。そんな他人を見るような目で、見られたことは一度もない。

 起き上がり、立ちくらみを起こしたままそのまま外へ出る。どうやら勝手に白い着物に着替えさせられていたようだけど、どうでもいい。どうでもいいけれど、嫌な予感がする。

 夕べは母と一緒に灯籠流しに出ていた。父の十回忌、笹舟を流しに行った母を見送っていたら達海が来て、彼と別れてから何が起きたのだったか。意識を失ったのでどこかへ連れてこられたのかと思ったが、どうやら違うらしい。

「まだ起きちゃ駄目よ。あなた、夕べは肺炎起こして大変だったんだからっ」
 支えてくれる人は母の声で必死に言う。この人は誰だ。私は、何故、ここにいるんだ。

「あなたたちは、誰? ここはどこ?」
 庭一面に降り積もる白い雪。夏の日本にこんなものが降る土地などない。

「ここは京で、島原の外れにある花柳館って道場だ」
 後ろからの返答が頭の上を通り過ぎてゆく。

「あんたの隣にいるのがおこうつってこの道場の先代の娘で、俺は辰巳」
 父が死んで、ただ暴れ回っていたワケじゃなかった。母に心配をかけないために成績はいつも高く保っていたから、歴史に疎いことはない。京や島原といわれて、それが何かわからないことはない。

「あんたの名前は?」
 少なくともここが自分の住んでいた場所とはまったく無関係の場所と言うことだけがわかった。私は父だけでなく、母までも失ってしまったのだということも、信頼できる唯一の人もなくしてしまったのだということも。

「華原、有栖」
 心が小さく消えてゆく。両親も、信頼できる人もいないこの世界で自分が生きる意味などあるのだろうか。その意味を見いだせなかった。守るべき者もなく、生きる目的もなければ自分はーー。



p.4

 借り物とは言え道着を着るのは久しぶりだった。自然と心が引き締まる気がするのは気のせいだろうか。相手をしてくれるのはこの道場の先代という老人で、老人とは思えない動きをする身軽な人だ。

 回復してからおこうさんの手伝いをし、人のいないときに道場で身体を動かすようにした。自分の中で怖がる何かを振り払うように稽古に打ち込み続けた。

 だけど、昼間におこうさんの手伝いがないときはいつも裏庭の井戸で煙草を吸った。

 青空に紫煙が燻る。止める人はもういないし、なかなか減りの遅かった煙草はあと三本しかない。

「…おかあさんも、達海兄ぃも無事かなぁ…」
 会話をするうちに少しずつわかったのはまず自分の居る場所が過去の日本であることで、なにかをきっかけとして自分はこの花柳館に移動してしまったということだ。

 不思議なことにここは過去だというのに、母と同じ声をした娘や、達海と同じ姿形の男までいる。

「煙草吸ってる女ってのは珍しいな。あんた、芸者でもやってたのか?」
 取り上げられたことがあの日と重なる。達海も同じようにこうやって、人の煙草を取り上げた。

「あんたのいう達海ってのはどんな男だ?」
 あの日からまともにこの男と会話をしたことはない。それどころか、まともに口をきいているのはおこうぐらいだ。達海と同じ顔で、同じ声で話しかけないで欲しい。

「おい、華原」
 踵を返し、炊事場へと向かう。

「達海ってのはおまえの兄貴か?」
 誰もいない炊事場で調理器具を探し、食材を探す。その後ろを煩いぐらいにまとわりついてくる男を一瞬見る。

「達海兄ぃはあんたじゃない」
 夕食を作るのは、簡単なものならば任されるようになった。それというのも孝行して家事手伝いをしていたおかげだ。包丁を取ろうとした腕を取られ、睨みつける。

「そろそろ慣れてくれてもいいんじゃねぇの?」
「……」
「有栖って呼んでいいか?」
 振りほどこうにも振りほどけない。

「駄目」
 こちらを見る辰巳は意地悪く笑った。

「やっとこっちを向いたな。そいつはそういう風にあんたを呼んでたのか?」
 思い返せば何度でも思い返せる。両親以外で信頼できたのは彼だけだったのだから。

「そいつは有栖の兄貴だったのか?」
 殴り飛ばそうにも押さえつけられた腕は動きそうにない。

「近所に住んでただけで、血のつながりはないわ。手を離して。名前も呼ばないで」
 少しの真顔になった後でもう一度彼が呼んだ。二度目を許すつもりはないので空いている手の方で顔を殴りつける。

「普通女が拳で殴るかっ?」
 腕も解放されたので、体勢をまっすぐに相手へ向ける。

「利き手じゃないんでうまく殴れなかった。次はちゃんと仕留めてやるよ」
 本当は殴るよりも蹴る方が得意だ。女の力じゃ、本当には男に敵わない。殴られたというのに辰巳は楽しそうに口端をつり上げて笑った。

「良い度胸だな」
「大人しく助けを待っていられるほど気は長くないんでね」
 繰り出した拳を避けられたと思った瞬間、体を移動し、足蹴りを繰り出す。それはうまく彼に当たってくれたが。

「いい蹴りだ」
「…そらどーも」
 びくともしやがらない。やはり不意打ちでなければ勝てない相手らしい。そんな男の相手をするのはお断りだ。構えを解いて、男と真っ直ぐに向き合う。

「なんだ、もう終わりか?」
「勝ち目のない戦いを続ける意味はないよ」
 達海と同じ顔で同じ声で楽しそうな男を強く睨みつける。

「何故私に構うの? あなたにとっては無関係の人間でしょう。そして、あなたはそういう人間に感心がないはずよ。なのに何故私を気にかけるの?」
「有栖」
「達海兄ぃと同じ顔で同じ声で呼ばないで」
 だけど、彼は何度も呼ぶ。私は両目を強く閉じて、心からそれを拒絶した。

「俺も辰巳なんだぜ」
 ふいに近くで声がしたので目を開けば、間近に同じ顔があって。

「な、有栖。遊びにいかねぇ?」
 こんなに非常識なところまでそっくりだから、困るんだ。似ているだけだと思っているのに、細かな行動が似すぎていて困る。

 調理器具の中から殴り良さそうな柄杓を手にし、すかさず殴り倒したところで、他に人が現れてくれた。あの日、水をかけてくれた志月倫という女の子だ。

「辰巳さん、庵さんが呼んでます」
「邪魔すんじゃねぇよ、倫」
「仕事です」
 小さく舌打ちした後で、彼は漸く姿を消してくれた。

「辰巳さんに何もされてませんか? あ、これから下ごしらえですね。お手伝いします」
 気遣ってくれるのは少し気恥ずかしくて、でも御礼も言えないほど白状ではない。

「ありがとう、志月さん」
 少し驚いたように私を見て、それから彼女もどういたしましてと笑ってくれた。訂正、少しじゃなくて、すごく恥ずかしかった。彼女の目は真っ直ぐすぎて、まるで昔の自分を見ているようだったから。

「あなたなら名前で呼んでも構わないのに」
 他の誰が呼んでも、彼にだけは呼ばれたくない。彼と似すぎるほどに似ている辰巳にだけは。

 だが、翌日以降は煩いほどに名前を呼ばれ、つきまとわれることになることを今の有栖は知らない。



p.5

2) 煙管



「庵さん」
 窓辺に肘をついて寄りかかりながら声をかけると、たっぷりの間をおいて、彼はにらみ付けてきた。

「煙草かして」
「なに?」
「いつも咥えてるの、煙草でしょ。切らしちゃってさ」
 教科書や資料集なんかでしかみたことはないが、それが煙草だとわかるので、差し出されたモノを受け取る。口をつけ、軽く吸い込み、口から話して息を吐き出す。

 普段の吸っているものはかなりライトなので、少しきついが問題はなさそうだ。

「…いつから吸ってるんだ?」
 初めて煙草を吸ったのは父が亡くなって荒れていた私が達海と出会うほんの一月前だ。つるんでいた年上の友人から教わった。だが、そんなことを話す必要はないだろう。

「忘れた」
 もう一口つけてから、それを返す。ふぅっと口をすぼめて煙を吐き出すと、細く昇って、すぐに消えた。

「好きなのか?」
「別に」
 好きとか嫌いとか、そういうんじゃない。ただ、何かを紛らわせてくれる気がするだけだ。常習性があるというが、別になくても今のところ禁断症状が出ることもない。ただ、口寂しいだけだ。

 唇を指でなぞると渇いてかさついていた。水をもらってこようかとも考えたが、妙に無気力で何かをしようという気が起きない。

 窓から吹き込んでくる風の心地よさに目を閉じる。

「あまり帰りたくないように見えるのは何故かな」
 唐突だった。あまりに突然すぎて、心臓がどきどきしている。

 帰りたくないわけじゃない。母がどうしているのか心配だ。ただ、あの場所にいても母を守る以外の意味などなく、世界に差して興味もなく、いまここにいると何もすることがなくて手持ちぶさたなだけだ。

 だが、それをこの男に言ったところでどうにかなるものだろうか。

「気のせいだろ」
 詮索されるのは好きじゃないので、その場を立ち去ろうと腰を上げる。町に出れば何か気晴らしが寄ってきてくれるかもしれない。

「出かけるのか」
「ただの、散歩だ」
 その後に何か言っていたようだけど、気にせずに部屋を後にした。

 花柳館を出て、風の流れるまま気の向くままに足を向けていたら、自然と人通りをさけていた。長い長い長い塀が続く道を彷徨うように歩く。

 とん、とすれ違う浪人と肩が触れた。声をかけられ、振り返る。気晴らしが来たな、と自然と口が笑む。

「何がおかしい」
「別に。得物持ったぐらいで粋がってる馬鹿な奴らだなぁって思ってただけさ」
 とたんに抜かれる日本刀の切っ先をまっすぐに見つめる。

「私がこの世で一番嫌いなものはな、お前らみたな力に恃む馬鹿共だっ」
 言いながら走り出し、剣戟を避けながら腰を落としてその懐に潜り込む。

「っ!?」
 驚愕している相手を投げて、そのまま体重を乗せるように肘をみぞおちに叩きこむ。

 こういう道に優れていると言われたのはいつだったか。護身術として習っていた技は父の死後、実戦経験を積んで格段に昇華されていった。今では大抵の大人でも叩きのめすほどの実力を持っている。

「もう終いか?」
 立ち上がってみたが相手は完全に落ちていて、目を覚ます気配もない。これではあまり気晴らしにならない。

「もう少し散歩するか」
「ま、待って!」
 物陰から少年が一人飛び出してくる。

「庵さんに言われて警護してる俺らの身にもなってよっ」
 同じ場所から悠々と出てきた男に眉を顰め、そのまま元来た道を進んですれ違う。

「…余計なことを…」
 怒らせるために言った。だけど、彼は何の反応も示さなかった。



p.6

 夕食後、庵に呼ばれて部屋へ行くと辰巳と二人が待っていた。

 庵が何か細長い箱を差し出す。促されるので開けてみると、中には煙管が入っていた。それと添えられているのは煙草の葉。眉を顰め、つっかえす。

「何でこんな真似をする」
「気に入らないか?」
「ああ、気に入らないねっ」
 強く睨みつけると、二人が意外そうな顔をした。ふつうはここで機嫌が悪くなると思うのだが、二人の反応はよくわからない。

「私はまったくの余所者だ。そこまでしてもらう理由もない」
「くくく、理由がなくちゃ駄目なのか?」
 苦笑しながらの辰巳を睨みつける。

「衣食住を用意してもらった。それ以上の施しを受けるつもりはない」
「しかし、用意した衣を身につけているところはみたことがないが」
「あんな動きにくいモノを着ていられるか」
 おこうから一時的に着付けられることはあっても、すぐに元の服へと戻る。だから、おこう以外がその姿を見ることはない。

「心配するのは勝手だがな、私は何も返せない」
 おこうの手伝いぐらいは出来るが、おいそれと町中を出歩くわけにも行かないので、彼らの仕事を手伝うことも出来ない。武術以外のたいした取り柄もないのに、何かが出来るわけもない。

「庵さんの言うとおり、私はあまり強く帰りたいとは願ってない。だけど、あの人を、おかあさんを一人にしておくわけにはいかないんだ。達海兄ぃがそばにいてくれるだろうけど、それじゃ駄目なんだ」
 脳裏に声が響く。あれは道場へ迎えに来てくれた父と夕暮れの道を歩いていたときだ。

「おとうさんっ、きょうね、きょうね、しはんだいにかったんだよっ」
「へぇ? 有栖は強いなぁ」
「でもね、てかげんしてくれたみたいなの。くやしいからね、もっともっとつよくなって、ぜったいにじつりょくでかってやるんだっ」
「はははっ、威勢がいいのはいいけど、無茶は駄目だよ」
「そのためにれんしゅするもんっ」
「その調子でお母さんも守ってくれよ」
「うんっ」
 幼い子供との約束。父は、私の誇りだった。

 目を閉じると共に思い出をしまい、もう一度目を開く。

「私が守るって、約束したんだ」
 目の前にいなければ、同じ世界にいなければ守れない。それを焦ることがないのは近くに心強い味方がいるとわかっているからだ。

「焦ってもすぐに帰れる訳じゃない。だから、素直に世話になってるが、そんなものをもらう理由なんかないはずだ」
 これで話は終わりだとばかりに立ち上がり、部屋を出る。そのまま花柳館へと戻り、裏庭の井戸まで来てから足を止めた。

 ズキズキと頭痛がする。ここに来てから、帰りたいと強く想うほどにそれは強くなるので、あまり考えないようにしていた。向こうには達海がいるから大丈夫だ、と何度も言い聞かせた。

 灯籠流しで達海と別れてからの記憶はあやふやで、なぜあんな場所で目を覚ましたのかもわからない。だけど、直前の感じたことのない痛みを考えると、ひとつの可能性を考える。それは、元の世界で自分がすでに死んでいるのかもしれないということだ。だったら今ここにいる自分はなんなのか。

「くっだらねぇ」
 思わず口をついていた自分がさらに馬鹿馬鹿しく思えて、井戸を軽く蹴りつけていた。

 元の場所のことを考えるとズキズキと頭痛がする。だからなんだというのだ。

「くっそっ、うるっせぇよっ。わかったよ、やめりゃぁいいんだろ。あのときのことなんか思いださなくったっていいんだよ。ただ…おかあさんが悲しまなけりゃ、なんだっていいんだ」
 父の葬式でみた母の背中は、いつもよりもさらに小さく見えた。だけど、私はあの人の泣き顔をみたことがないんだ。

「…おかあさん…」
 どうか、娘のことを気に病まないで。どうか、幸せに。

 頭に何かが載せられて、ほんの少し影が出来る。

「意地はらねぇで受けとりゃいいのによ」
 それはさっき断った細長い箱だ。中身は同じだろう。

 少し迷った後で井戸の端に寄りかかって箱を開け、中から取りだした煙管に葉煙草を詰めて、ライターで火を点けた。

 口をつけ、離し、煙を吐き出す。細く、空へと昇ってゆく煙を眺める。

「…が好きなのか?」
「ん?」
 煙管を手にしたまま振り返る。こちらをみていた辰巳は何故か視線を外していた。前にもこんなことがあった気がする。

「っとに無意識か? 計算してんじゃねぇのかよ」
 何を言っているのかわからないので無視を決め込み、もう一度煙管を口にする。口から離したとたんに手首を捕まれる。そのまま少し屈んだ辰巳はそのまま煙管に口をつけ、煙を吐き出した。

「まっずー…」
「だったら、吸うな」
「なんでこんなもん吸うんだ?」
 話す必要のないことだ。だが、手は押さえられたままで、離してくれる様子はない。無言に睨みつけても効果はないようだ。しかたなく息を吐く。

「なんでもいいだろ」
 だけど、口から出てきたのは誤魔化すような言葉で。それで誤魔化されてくれるような相手でもないとわかっているのに、私ってやつは。

「いつから吸ってんだ?」
「さあな」
「なんで吸ってんだ?」
 繰り返される問いに苛つく。

「いい加減に離せ、辰巳」
「殴らないか?」
「殴られたいなら、そのまま離すな」
「でもお前、こっちが利き手だろ?」
「そうだ」
 彼が言葉を続ける前に、空いた腕を辰巳の鳩尾に叩きこんだ。手を離された反動でか、ゆるんだ指からくるりと回転して飛び上がる煙管が落ちる。

「っぐ…!?」
「利き手じゃない方が御しきれないから、加減できないんだ」
 汲んでおいた桶からその水をかけて、消火する。火事などおこすわけにはいかない。

 倒れたままの男の襟元を掴みあげて、顔をつきあわせる。

「力でねじ伏せられても、私は私にしか従わない。私が私である限り、私は私にしか従わないし、誰の命令も施しもうけないよ」
 手を離し立ち去った有栖は舌打ちだけを聞いた。

「あいつ、本当に女か? っつ、思いっきり殴りやがって」
 見上げる青空に何を見たのか、辰巳は苦しげな呼吸のままに小さく笑った。

「はっ、でも、まあちっとやる気出たな」
 野良というのなら似たようなモノだ。あいつを手懐けたらどんな顔を見せるのだろうか。倫と同じか年下ぐらいの未成熟なガキがどう女に変わるのか。見るのは退屈しなさそうだ。

 くつくつと笑う辰巳をただ流れる雲だけが見下ろしていた。



p.7

3) 見えない世界



 宵闇に紫煙がゆらゆらと立ち上る。闇夜に映える煙の筋を見ながら、何かを考えている訳じゃなかった。何かをしていれば気は紛れるが、何もすることがないときはこうして一人で煙管に火を点けた。

 子供には高価なモノだとわかる。でも、もらったモノをしまっておくつもりはない。煙草は口実だったが、人と離れるにはちょうど良かった。

 室内では、特に慈照やおこう、咲彦、倫の前では吸わないように気にしたのは意識の片隅に、やはり有害と思っている自分がいるからだ。

「有栖」
 近づいてくる人影に背を向ける。なんでいつもこいつが寄ってくるのかわからない。だけど、辰巳はそんな反応を気にせずに隣に座る。

「果物好きだっつってたよな」
 ほら、と差し出されたのは小玉の林檎がひとつ。

「ありがと」
 素直に受け取り、煙草の火を消す。柄杓から水を汲み、一口飲んで口をすすぐ。

「いいのか、消しちまって」
「邪魔だから。また、焦がしても困るし」
「また、?」
 問い返されて気がつく。ここで、焦がしたりしたことはない。あれは、達海の家で、だ。

「なんでもない」
 誤魔化すように乱暴に服で拭いた林檎をそのまま囓る。果汁が溢れ、吹き出した。味は酸味はあるが、わずかに甘味が勝っている。

「なあ、なんで煙草」
「なんども聞くな。いい加減うっとうしい」
 シャリシャリと食べ続ける様子をじっと見られていることに気がつき、半分ほどで食べるのを止める。

「なんだ?」
「おまえ、なんであいつらの前では吸わねぇの?」
 そんなこと決まっている。

「医者にあれこれ言われるのが面倒ってのもあるけど、一番は迷惑をかけたくないから、だな」
 不思議そうな男を軽く笑う。

「この時代じゃあまり知られてないけどな、煙草ってのは吸ってる奴より周りの方が害を受けるんだ。私のせいで病気になられても困るしね」
 そんなモノを吸っている本人にも良くないのは百も承知。だけど、これを吸っているときは穏やかでいられるような気がする。

「おまえは?」
「噂じゃ背が伸びなくなるとか不妊になると言われてるけど、まあせいぜい早死に程度?」
「…マジか?」
「さぁね。ま、別に身長なんか気にしないし、子供なんていらないし、長生きにも興味ないし、別にいいさ」
 未来なんて考えたこともない。父がいなくても巡る世界に絶望したのはもう十年も前で、あの時から私の時間は全部止まったままだ。

「意味のある時間なんてどこにもない。生きる意味なんてしらない。私は、今どうするかぐらいしか考えられない」
 腕を引いて、辰巳の手に半分の林檎を渡す。

「食べたいなら最初からいいなさいよ。食べかけだけど、半分あげる」
「い、いらねぇよ」
「食べかけじゃ嫌?」
 座っても体格の大きな男を見上げると、少しの間をおいて、その顔が赤くなり、だがすぐに厳しく眉を顰めた。

「有栖、これ以上成長したくねぇのか?」
「これ以上も何も、私の時間はとっくに止まってるもの。あの時から、ずっと変わらない」
 知らず、奥歯をかみしめ、うつむいてしまう。

「私がいてもいなくても、世界は何も変わらない。意味のない場所で生きる意味なんて、ないもの」
 身体を離し、離れようとした腕が引き寄せられる。

「意味がない? おまえにとって生きる意味はねぇのかよ」
「ないよ。辰巳もでしょ」
 びくりと震えるのが伝わってくる。だけど、わかっていた。達海とは違う部分があるとすればそこだ。いつもどこか通じる部分があった。気づきたくなかった。

「達海兄ぃが好きだった。だけど、それと辰巳は違う。私は、傷を舐め合うようなのはごめんだ」
 腕を振り払って駆け出す。方向も定めるままに飛び出して、どうするかも何も決めてなかった。



p.8

 数日経って、町も寝静まった頃、私は辰巳に呼び出された。暗い道場内で一人で待っているとあの夜のようで、苛ついても煙草を吸うわけにはいかない。

「ちっ」
 舌打ちして、ぐるぐると動き回る。そっと包み込まれるように、後ろから抱きしめられるまで私はそれに気がつかなかった。

「傷の舐め合い? 上等じゃねぇの。代わりでも何でもいい。有栖、俺の女になれ」
 馬鹿なことを言っている男の腕を外そうともがく。

「今は確かに俺たちは死んでる。でもな、有栖がそのままでいいわけねぇ。死んでるのは俺だけで充分だ」
「馬鹿なこと言ってないで、離せっ」
「有栖は前に、自分を従わせることが出来るのは自分だけだって。俺も同じだ。俺を従わせられるのは俺だけしかいない」
「辰巳っ」
「力づくなんてしねぇ。有栖から必ず俺様が欲しいと言わせてみせる」
 顎を持ち上げて上向かせられ、唇が重なる。逃げだそうにも拘束は解ける気配もない。乱暴に口内を蹂躙され、力が抜ける。

「な…んの、つもりだ…っ」
「忘れるなよ、火を点けたのはてめぇだ」
「…わた、し…?」
「煙草も、やめろ。口寂しいなら俺にしとけ」
 無茶苦茶だ。

「一人で強がった振りなんかしても無駄だ。俺様と同じ場所に立ち止まったままなんて許さねぇ」
 何かを言うまもなく深く口づけられ、何も言えない、考えられない。

「てめぇにそんなのは似合わねぇ。絶対に生きて歩かせてやる」
 生きる? そんなの言われるまでもなく、生きている。後を追うことも出来なかった。

「余計な、こと、しないで…っ」
 世界は十年前に死んだのだ。生きている世界と明確に分かたれて、私は目の前の世界をまっすぐに見ることも出来なくなった。

 伝い落ちる涙をぬぐう温かさを無理矢理に振り払う。

「世界は…世界は死んだんだ! お父さんを連れて行って、全部壊れてしまった! そんな場所でいきてどうなる!?」
「でも、ここはおまえの父親が死んだ世界じゃない」
「違わない。私の、私の世界は…おとうさんがすべてだった。お父さんがいれば何もいらなかった。誰が死んでも構わない。生きていて欲しかった…っ」
 生きていて欲しかった。いなければ前が見えなくなるぐらいに大好きで、大切だった。

 歪む視界に映る冷静な辰巳を強く睨みつける。

「辰巳なんか嫌い! 大嫌いっ!」
「…あのなぁ」
「お父さんのいない世界なんて、全部壊れちゃえばいいんだっ!」
 そのまま花柳館を飛び出した。走って走って途中で腕をつかまれ、転びそうになる。

「そんなに急いでどこに行くぜよ、有栖さん」
 その声で気がついた。でも、それも素早くふりほどく。

「ほっとけよっ! 私に構うなっ」
「追われとるんか?」
 再び腕をつかまれ、引かれたのに対し、今度は力に逆らわずに向かって、その腹を強く殴りつける。

「あんたも、辰巳も、他の奴らも! なんで、なんでそんなに優しくするんだよっ! こんな、死んだ世界で生きてる私なんか構ったってしかたないだろ!?」
 歪んだ視界には何も見えない。

「私は…私は!」
 ひとりでなんて、生きられない。

「何があったかしらんが、まあ落ち着くぜよ」
 他の誰を頼る気もないし、頼られたくもない。だって、世界はあの日から止まってしまったのだから。父との約束さえなければ、とっくに死んでいた。

「…私は、生きたくないんだ。おとうさんがいなくちゃ、おとうさんじゃなきゃ、駄目だった。全部駄目で、何も、何も出来なくなる。何も見えなくなるっ」
 抱きしめようとする腕に抗う。だけど、この人は辰巳以上に力が強くて、無理矢理に抱きしめられて、息が詰まりそうになる。

「落ち着くぜよ、有栖さん」
「…あの日から、目の前がずっと、暗くて、怖くて…」
 ずっと、ずっと泣きたかった。でも、母が気丈に笑ってくれるのに、どうして自分が泣けるだろう。

「なんちゃーがやない」
「どっちへすすんだらいいのかわからないんだ…! どうしたらいいのか、ずっと、世界が暗くて、何も、何も見えない!!」
「だから、落ち着けというに」
「これ以上何も…見たくない…っ」
 言葉通り、そのまま私は意識を失った。遠くで呼ぶ声に逆らい、走って走ってずっと走り続けた。



p.9

 目を開けても周囲が暗いから、まだ夜だと思った。

「おお、目を覚ましたか」
「具合はどうかしら、有栖?」
 心配そうな慈照とおこうの声に小さく笑ってかえす。

「ご迷惑をおかけして」
「なあに気にするな」
「…ずいぶん暗いみたいですけど、どうして灯りつけないんですか?」
 口に出したら、二人の動揺が伝わってきた。あれ? なにかおかしいと感じて起き上がる。夜の闇には慣れているつもりだが、目はなかなか慣れない。

 いや、と気がつく。外からは日向の匂いがするし、かすかに人々のざわめきも聞こえる。道場で夜中に鍛錬を行うことだってないはずだ。

「慈照さん、もしかして…今は昼間?」
「ここに来てからずっと気を張っていて疲れとるんだろう、もう少し休んだ方がいい」
 そっと肩を押し、横たえようとする腕を掴む。が、そのまま布団に戻されてしまった。これだけの時間、闇の中にいれば自然と慣れるものだが、そうではないのだと理解し、目を閉じた。

「そう、ですね。疲れているのかも、しれません。色々、あったから…」
「そ、そうよ。ここにきてから、ずっと張り詰めていたからね。あ、何か食べる?」
「ありがとう、おこうさん。でも、少し眠りたいから、一人にしてもらえますか」
 二人が出て行った後でぼんやりと考える。

 見たくないと願ったから、そうなってしまったのだろうか。

「馬鹿だなぁ、私」
 見たくなくても見続けなくちゃいけないのに、とうとう逃げ出してしまった。どうせなら、帰してくれれば良かったのに。

 ゆっくりと起き上がり抱えた膝に顔を埋める。まさか、気持ちだけで本当に世界が闇になるとは思いも寄らなかったが、これで良かったのかもしれない。

 毎日誰かが来たけれど、眠ったふりをしてやり過ごした。誰とも話をしたくなくて、起きてもただぼんやりと闇を眺めるほかなく。見えなければ何もできなかった。何も食べたくなくて、何も飲みたくなくて。

「あれから何も口にしないの。このままじゃ身体の方が参ってしまうわ」
 誰かに相談するおこうの心配もわかってはいたが、何度口に入れようとしても吐き戻してしまう。とうとう身体まで生きることを拒絶し始めたらしいと、誰もいない部屋で笑うしかなかった。

 生きる意味などわからなかった。ずっと暗闇を歩いているのだと思っていたのに、いざ本当の暗闇を目の前にして、こんなにも怖くなるとは思わなかった。

 あたりが静まりかえっているのを探り、そっと起き上がる。手探りで部屋を出て、記憶を頼りにその場所まで一歩ずつ近寄った。途中何度か躓いたけれど、行き慣れた場所へは何時間もかかってたどり着いた気がする。

 井戸の桶を引く紐を探し、残る体力で水をくみ上げ、両手で掬って口へ入れる。何日かぶりに口にする水は体中に綺麗な流れを染みこませてゆくようだ。そのまま何度も顔を洗い、井戸に寄りかかって座ったまま空を見上げていた。

「有栖!」
 遠くからかけられる声の方へ顔を向ける。見えるわけもないけれど、心配そうに辰巳が駆け寄ってきている気がした。

「勝手に抜け出して、なにやってんだっ」
 怒鳴りつける声でどんな顔をしているのかわかる。ここにきたばかりのころなら、即座に達海の顔が思い浮かんでいたのに、いつのまにかこの男とすり替わってしまっていたらしい。そんなことで笑えた。

「なに笑って…とにかく、部屋に戻るぞ」
 ふわりと体が宙に浮く。その体に両腕を伸ばして、しがみつく。

「我が侭ばっかり言ってたからかな。本当に、なっちゃった」
「あぁ?」
「本当の闇がこんなに怖いと思わなかった」
 知らされていなかったのだろう。足が止まり、辰巳から動揺が伝わってくる。

「…どういうことだ?」
 声のくる方へ顔を向け、誤魔化すように笑う。

「目が、見えなくなっちゃったみたい」
 間が長かったので、目を閉じる。開けてても閉じても変わらないのだけど。

「馬鹿なこと言ってたから、罰が当たったのかもね」
 どんな顔をしているのかは自分じゃよくわからない。だけど、強められる腕の感覚が、聞こえてくる奥歯をかみしめる音が、彼の憤りを教えてくれた。無関係なのにこんな風に怒ってくれる人がいるってことに感謝しないといけないってことをいつのまにか忘れていた。

「辰巳は、馬鹿だね」
「っ」
 落ち着けば、世界が見えてくる。闇の中でもわかる。自分がどうするべきか、どこへ行くべきか。

 辰巳の両肩を支えにその背を通り越して、地上に着地する。足に感じる地面の感触。行くべき方向は、定まる。そこへいけば、目も見えるようになるし、帰れる気がする。だけど。

「ねえ、辰巳。どうしよう」
「今度はなんだ?」
「…私、なんのために帰ったらいい?」
 母はどんな顔をしていたか、父はどんな人だったか、向こうの達海はどんな人だったのか。薄ぼんやり黒い霧に阻まれて、向こう側が見えない。

「闇の向こうに私の世界がある気がするんだ。でも、帰りたくないと思ってしまってる。私、」
 一艘の笹舟がついと私を追い越してゆく。

「私は…どこへ行きたかったんだろう」
 その笹舟も消えて、あたりはまた闇だけになった。誰かに肩を押さえられる。

「おい、有栖?」
 声は少し上から聞こえるので顔を上げる。

「おまえ、やっぱりまだ疲れてんだよ」
 ぶっきらぼうだけど、見えないからか優しさが際だって聞こえてくる。ああ、彼はこんな声をしていたのかと妙に感慨深く感じる。

「好き、だな」
「っ?」
「辰巳の声って木の葉の囁きに似てて、落ち着く。ね、もっと何か話して」
「なっ」
 動揺してるのがなんだかおもしろい。相変わらず辺りは闇の中だけど、ほんのりと暖かな灯がともるような感覚がある。

「寝ぼけてんじゃねーか!? 熱でもあるのかっ?」
「熱は下がってると思うんだけど」
 自分の手を額に当てようとしたら、先に大きな手が額と瞼の上を覆い隠した。

「む。冷たすぎやしねぇか?」
「それはさっき顔を洗ったりしたからかも」
「そういや、井戸にいたな」
 間。

「ひとつ確認するが、いつから見えねぇんだ?」
「倒れた後、かも」
「あの夜からか。どうやって井戸まで行ったんだ?」
「手探りと記憶と運」
 また、しばらく間があって、強く頭を叩かれた。いや、これは頭突きか。

「うぐっ」
「なにやってんだてめぇはっ!」
 急に振動が大きくなり、投げ出すように柔らかな布団に落とされる。何かを言うまもなく、掛け布団引き上げられてしまう。

「らくちん」
「馬鹿か」
 この人の声だけ聞いていると安心して、お腹が空いてくる。

「…今なら、何か食べられるかも」
「わかった、もってくる」
 駆け出そうとする辰巳を引き留めようかと思ったが、考えている間に足音は遠くなってしまった。前はうるさいぐらいに感じていたのに、その騒々しさに自分は安心しているのだろうか。

 ほどなくして、複数の足音が戻ってくるのに気がつき、体を起こす。

「有栖っ」
 心配そうな声に深々と頭を下げた。

「ご心配をおかけしました」
「目はどう?」
 ふるふると首を振る私を抱え込むのはおこうだとすぐにわかった。台所の匂いがする。

「そう。あ、食べやすいようにおにぎり持ってくるから」
「ありがとう、おこう」
 彼女がいなくなった後で、きょろきょろと辺りを見回す。そうか、みてもわからないんだ。

「有栖さん、体調はどうかね?」
「今は落ち着いています」
「食欲も出てきたようだし、このまま養生すれば直によくなるだろう。それから目のことだが、精神的なものだと思う」
「…私もそう思います」
 目蓋をおろし、もう一度開ける。光は、もうここにいる限り甦らないかもしれない。

「ご迷惑とは思いますが、もうしばらくの間こちらにおかせていただけないでしょうか」
 だが、こうして闇の中にいるからこそ帰る道が見える。その道をたどればきっと母や達海のいるところへ帰ることが出来るだろう。

「しばらくって…どういうことですか? 帰る方法がわかったんですか?」
 倫の問いかけに小さく笑う。帰りたいのか帰りたくないのか、自分でもよくわからない。でも、待っている人があるのはわかった。どうして急にこれほど見えるようになったのか、心当たりはある。

 それから、何故母がつけねらわれていたのかも。

「帰るわけにはいかなくなったから、次の行き先が決まるまでいさせて欲しいんです」
 怪訝そうな空気は当然だろう。今まで何も言わないでおいたのだから、不思議に思ってもしかたない。

「まだ力は弱いけれど、」
 母はこのために狙われていたのだと、だからこそ父は家族を連れて逃げ回っていたのだと、自分に武術を習わせたのだと。自分がいなくなることさえも予想していたのかもしれない。

「どうにか有効に使えるようにしなければならないようです」
 辺りは変わらず闇の中。ならば、代わりの目を探せばいい。もともと闇にいたようなものなのだ。

「慈照さん、あなたの腕を見込んでお願いがあります。私に稽古をつけていただけないでしょうか」
「その身体でか?」
「無茶だよっ。だって、何も見えないし、もともと有栖は気配を読むのも下手じゃないか」
 そんなことはわかっている。

「無茶でも何でもそうしなければいけないんです」
 だって、これからは何もかも一人でやっていかなければいけない。帰ればきっと今度は私が狙われる。そして、ここに居続ければあるいはいつか誰かに怪我をさせることになるかもしれない。

(そんなことだけは絶対にさせない)
 決意を強くもち、知らず力のはいる拳をそっと上から抑えられる。

「そう、気を張るな」
「慈照先生」
「なにをするにせよ、まずは体力をつけなきゃならん。すべてはそれからじゃ」
 何も聞かないという心遣いが胸に沁みて、自然と頬を熱いものが流れ落ちた。

「…あり…がとう、ございます…っ」
 隠すように深く深く頭を下げる以上の礼の仕方を、有栖は知らなかった。



あとがき

ドリームで書こうと思って書き出したはずのひねくれた女の子の話
でも、オリジナルで現実的に続けてみるのもたまにはいいかも?
(ドリームはドリームで書いてみるけど)


1) 達海と辰巳
(2008/04/27)


公開(2008/06/25)


2) 煙管
一対多の戦闘が得意そうな気がしてきた。
(2008/05/16)


公開
(2008/06/25)


3) 見えない世界
なんというか、アレです
どうしても書いてみたいシーンがありまして
まあ、それはそのうち
(2008/05/19)


公開
(2008/06/25)


統合
(2014/7/16)