一面真白い雪に覆われ、何もない一軒の茶屋で一人の若者が休んでいた。その身なり、大小を見れば、それなりの家柄の者と分かる。それに見る者によってはただの若造でないことなぞ直ぐに知れる。
両手を擦り合わせ、白い息を自らの手に吐きかけながら、若者は努めて明るい声を出した。
「うー、寒いねぇ。お茶もう一杯もらえる?」
奥から出てきた白髪の老婆が盆に茶を乗せてくると、若者はすぐにそれを手にして口をつける。
「あっっっつぅぅぅっ!」
その様子に老婆は皺を深めて、息を短く吐き出すように笑った。
「こんな時期に一枚じゃ寒かろうて」
老婆の言うように若者はこんな時期に着物も重ねず、かといって綿入りにも見えない装いをしている。言うなれば夏と同等の格好であり、その上頭巾も無しでここまで歩いてきたのが不思議なくらいだ。
「どちらからいらしたか?」
いくらなんでも途中に立ち寄る町で綿入りを重ねていても良さそうだと言われ、若者はカラ笑いをする。
「そうしたいのは山々だが、あいにくと銭が底をついてしまって」
「……」
「ああ、ちょっと待って。何も食い逃げしようってんじゃないんだ」
老婆の異変に気づいた若者が手を上げる。
「私は宇都宮藩の剣術指南役を勤めていてね、金ならあるにはあるんだが今は持ち合わせがない。そこで、だ。一晩だけここで迎えが来るのを待たせてもらえないだろうか」
「ここに泊まる部屋なんかねぇ」
「土間の隅でも、納屋でも貸していただけると有り難いのだが」
「……」
「このとおり、お頼み申す」
頭を下げる若者を少し吟味した後で、老婆は小さく息を吐いた。
「この時期にそげな薄着で宵は越せね。爺の綿入れを貸すから、使うがええ」
暖かな老婆の心遣いに、若者は一度上げた頭をまた深く下げ直したのだった。
暖かな夕餉も馳走になり、竈の前で炭を返しつつ暖をとっていた若者は静かに眠る老婆をかすかに見やる。人の良い老婆が茶屋をしている店と聞いてはいたが、本当に人が良すぎる。このご時世、そんなことでは食べ物もままならぬだろうに、と。
「さて、と」
土間からそっと夜闇へと若者は身を滑らせる。日暮れに少しばかりの間降っていた雪は止んで、辺りは、しん、と静まりかえっている。辺りに広まる雪の原には月明かりが差し込み、影雪を青く灯らせていた。
白と青に染まる静かな世界で若者は白い大きな息を吐き出す。
「ここを赤に染めるのはもったいないなぁ」
次いで若者は数歩歩いて家を離れた。ざくり、ざくりと雪を踏む足音が静かに響き渡るのは周囲に少しばかり枯木があるだけだからだ。その静かな世界で若者はたった一人ではなかった。適当な場所で立ち止まり、目を閉じる。
「わざわざ出てきてくれるなんて、親切なこった」
「昼の借りを返しにきたぜ、兄ちゃん」
自分ではない雪を踏む複数の足音が間合いの一歩手前で立ち止まるのに合わせ、ゆっくりと若者は目を開いた。寒さで微かに凍える睫毛の上から微かに白雪が舞い散る。
目の前には堅気に見えない男が三人。それぞれに刀を差してはいるが、若者には技量が見て取れる。
「なんだ、おまえたちだけか」
不満そうに口を曲げる若者に彼らは眉をしかめる。
「なに?」
「もう少し金の持ってそうなのを連れてきて欲しかったな。茶代が足りんのだ」
困ったな、と言いながらも平然としている若者を前に二人が刀を抜いた。
「昼にあれだけ大勝ちしといて、わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇよっ!」
刀を手にした荒くれ男が向かってくるというのに、若者は思い出したように綿入れを後方へ放り投げた。風も吹かない夜なので、それはすぐにばさりと地に落ちる。
一人向かうに任せていた二人の男が気が付けば、若者の前に仲間が蹲り、苦悶の表情を浮かべている。
「何?」
「貴様、何しやがった」
問いかけに対し、若者はスラリと太刀を抜き放つ。
「殺生は好きじゃないんだ。大人しく、金を置いていってくれないかな」
中段に構えた後で、鍔を鳴らして刀を返した。それは自信の表れ、それは下位のものに向ける無言の侮蔑。憐れみを受けていると解釈しても当然の好意だ。
怒りに沸き立つ二人の男がつっこんでくるのに対し、若者は小さく跳ねた後で、極軽く地を蹴った。若者のいた場所を二つの刀が交叉する。
「ちぃっ!」
彼らが舌打ちした時には、軽業師のごとく宙を舞った若者が先ほどまで二人のいた位置にふわりと降りていた。人外の者のようにも見えるが、ざくりと雪を踏む足音が人であることを伝える。
「別に命まで捕ろうってんじゃないからさ、大人しく…っと」
向かってくる相手の剣をたたらを踏んで後方へ避ける。それは偶然にも見え、かすかに勝機を抱かせる。そして、後方から最初に若者に悶絶させられた男が刀を振りかぶりーー。
振り下ろした。
それで全てが終わるはずだった。が、男達の期待に反して、冬空に澄んだ音色を響かせ、振り下ろされた刀は折れ飛んだ。
「なにっ!?」
弧を描いて刀が落ちる前に彼らの間を一陣の嵐が吹き荒れ、三人は三方向へとほぼ同時に飛ばされる。
力の差がありすぎて、勝負にもならない。恐怖する三人の前で若者は平然と刀を担いだ。
「寒いから動くのは賛成だけど、汗かくと冷えて寒いから嫌なんだよね」
一見すれば隙だらけだが、先ほどの速さで動けるとなるとそうも言えない。
「そういうわけでさ、」
笑顔のままで、若者は一人の喉元に切っ先を向けた。
「財布置いてけ?」
触れるか触れないか、ギリギリの位置で唾を飲み込むことも出来ない。
「はは、は、早く財布を出せっっ」
二人が慌てて財布を雪上に放り出すが若者は動かない。笑顔の中でただ一部笑っていない闇色の双眸で彼らを見つめている。切っ先を向けられている男は、震える手で懐から財布を放り出した。ポスッ、と軽い音を立てた財布からは雪埃も舞わず、まるで若者の作る空気に恐れをなしたかのように風も吹かない。
「ん、素直で助かるよ」
にっこりと微笑む若者が刀を引くや否や、男達は来たときとは対照的に雪に足を取られながら逃げ帰っていった。その様を少しだけ申し訳なさそうに眺めた若者だったが、刀を鞘に収めると財布を回収し、中身を抜き取る。
「ギリギリ足りそうか。ま、三下程度じゃこんなもんかな」
収穫を自分の懐に納め、雪上に投げてしまった綿入れを取って、若者は茶屋へと引き返した。
翌朝、代金を老婆に渡して若者が出発する朝方はまだ空が白み始めたばかりだ。影雪が昨夜の跡を静かに映し出す。
「ぃっっっくしっ」
大きなくしゃみをした若者は小さく鼻を啜った。
「ゆンべは寒かったろぅ」
「うん、寒かったっ」
好意で出してくれた茶で身体を温めながら、若者はハァと白く大きな息を吐き出す。目の前には昨日と変わらぬ雪原が広がるばかりだ。
「これからどこへいきなさるかね」
「北へ行こうかと思ったんだけど、寒いからやめとく」
「それがええ」
笑いと共に老婆に見送られ、若者は雪道をゆっくりと歩く。南へ続くと教わった道をゆっくりゆっくり踏みしめる。その道を十人ほどの男達が立ち塞ぐ。
「やあ、夕べはどうも」
へらりと若者が返すと強い怒りがぶつけられて来た。それらを制して進み出てきた男に若者は口端を吊り上げる。
「昨夜はうちのモンが世話になったな」
「わざわざ御礼を言いにきてくれたの? …なんて、ね」
笑顔のままで若者は刀を抜いた。
「やっと会えたね、材木屋の祐造さん」
「へぇ、俺を知ってんのかい」
「八年前に会ってるんだけど、私を覚えてないか?」
「あん?」
いぶかしむ男を前に若者は刀を昨夜と同じく中段に構える。
「せっかく祓ってやったってのに甲斐のない奴だ。足を洗えって父様が忠告してくれたのを無視して、外道に落ちやがって」
しかたないな、と若者は髪結の紐を解いた。はらりと落ちる漆黒の黒髪は腰まで長さがある。その振分髪を揺らし、ゆるやかに若者が動いた。あまりにゆっくりに見えたが、はっとして男は振りかぶられた刀を受け止める。
高く重い音が辺りに響いた。
「…っまさか、おまえ…いや、あんときのガキは女だったはずだ。おまえ、何だ?」
「何だ、とは失礼な。これでもれっきとした女だよ?」
鍔迫り合いから一転、飛ぶように後方に身体を引いた女はその刀を水平に構えた。
「それに次はないと言ったはずだよ」
「っ!?」
女の姿が一瞬消える。次に男が気が付いたときには女の刀が深々と体の中心に突き刺さっていた。巧妙に急所を避けているのはわざとだろうか。刀を突き刺したままで女は淋しげな瞳で囁く。
「飲まれる前に来て上げられなくて、ごめん」
「は、葉桜…っ」
離れながら刀を振り上げる。吹き上げる血潮を被る女の前で男は絶命した。
半身を赤黒く染める姿は昔語りの修羅さながらで、残された者達は恐怖に身を慄かせる。若者を殺し、身包みを剥がすはずが首領は殺され、その場には修羅が残ったのだ。小さな山間の野盗崩れでは無理もない。
「う、わ、わわっ」
「ひ…っ」
「化け物…っ」
統率する者がいなくなり、共にいた男達が散った後。死んだはずの男が身体を起こした。先ほどよりもギラギラとした瞳で、恨めしそうに葉桜を睨む。
「貴様、何者ダ…っ。タダノ人間ニ、何故、我ガ斬レル」
「唯人じゃあないからね」
顔にかかっている血を袖で軽く拭い、葉桜は刀を無造作に下ろす。無限と呼ばれるその変幻自在な構えを使いこなせる者は世に多くない。
「あの時に始末しておいたほうが良かったかな。折角呪いをしておいてやったってのに甲斐もない」
「アンナモノドウトデモ引キ千切レルワッ」
姿は変えず、四足で唐突に飛び掛ってきた相手を身体を開いてかわす。それでも微かに爪でもかすったのか、頬を新たに血が流れた。
「こんな予定じゃなかったんだ。祐造さんは心根も強かったし、お前程度に飲まれないはずだったんだけどなぁ」
「キシャァァァァァッ!!」
呟きながらも巧みに葉桜は攻撃を避け続ける。
「私はただ、一緒に昔話をしたかっただけなんだよ、本当」
「シャァァァァァッ!」
面倒そうに言うと、葉桜は面倒そうに無造作に刀を振り上げた。相手は避けたつもりなのだろう。わずかに後方へ飛んだ相手へ向かって葉桜も身を投げる。
ザクリ、と肉に突き刺さる音を聞くや否や葉桜はその刃を返した。
「ギャァァァァァァァァァァッ」
耳を劈く悲鳴を残して、相手は、霧散した。だが、勝ったはずの葉桜は雪道に残る赤い痕跡の前で胸を押さえ、息を継ぐ。
「っは…っ」
闘っているときの余裕はどこへいったのか。震える手で首にかけた薬入れを取り出し、中から取り出した丸薬を飲み込む。それからすぐに仰向けに寝転がった。
荒い息を繰り返す葉桜は涙溢れる瞳で、雪雲の厚い空を見上げる。
「葉桜様」
その傍らに一つの影が降りる。
「何だ、烏」
全身白装束に包み、雪と同化したような錯覚をさせる男は、葉桜の身体を静かに起こした。言うべきことを迷う目でじっと見つめていたが、口にしたのはたった一言だけだった。
「風邪を召されます」
「ほっとけ」
「できません」
起き上がらせた葉桜の身体がまったく動くことがないのを見て、徐に担ぎ上げる。
「近くに猟師小屋がありました。そこでお召しかえと休息をとりましょう」
返答も聞かずに烏と呼ばれた男は枯木の中へと歩き出した。
二人の姿が消えた後、雪道をひゅるりと風が吹く。風は静かに雪を運び、赤い跡は静かに埋もれていく。日が落ち、再び辺りが月明かりに包まれる頃、そこはもうただ白く、影雪さえも見えなかった。
影雪で葉桜でときたら、茶屋しか思い浮かばなかった。
何度書き直しても幽霊モノになるのでどうしようかと思ったが、とりあえずこれでまとまった?
恋愛モノじゃないのを書くのって久々なので不安です。
これは養父が亡くなった後の旅の話。なので、一緒に旅をした記憶を頼りに廻っていく予定。
幕末で出るとしたら、龍馬とかかなぁ。あと、勝海舟とか松本良順とか(趣味全開で(ェ。
(2009/01/12)
書きなおしたら、ものすごく妖モノになった。
こんな感じで続いていきます。
(2009/01/15)
公開
(2009/01/23)
2月【暁の如月】
3月【尽恋の弥生】
4月【桜心の卯月】
5月【苗珠の皐月】
6月【薫風の水無月】
7月【星韻の文月】
8月【紫雲の葉月】
9月【雲散の長月】
10月【朧景の神無月】
11月【葉寝の霜月】
12月【絆繋の師走】