夢を見ている。温かで大きな手の中で、ゴロゴロと喉を鳴らすアタシ。大好きな人の手の中で、気持ちよく眠るアタシ。
「トラちゃん」
大好きな
「早く起きないと、置いていってしまいますよ」
ニンゲンにしてくれるといった優しい魔法使いの声に応えて、アタシはゆっくりと目を開いた。だけど、あまりの眩しさに、前足で目元を擦る。
「まぶしーよ、しょーじろー」
「ふふっ、早く起きないからですよ」
窓のトコについた布を引くシャーという音と瞼越しの光が和らいだのを確認し、アタシはもう一度目を開いた。続けて、二、三回瞬きをする。
目の前には薄茶色でまっすぐな長い髪をひとつにまとめた、開いているかわからないぐらい細い目で優しく笑う魔法使いがいる。小さい頃に見たニンゲンの描いた「大きな白い翼を背中につけたニンゲンの絵」によく似ている。
「しょーじろ、羽根どーしたの?」
「まだ寝ぼけているんですか」
楽しそうにクスクスと笑う魔法使いは大きな手で、柔らかくアタシの頭を撫でた。気持ち良くて、また寝てしまいそうだ。
「トラちゃんは今日から学校に通うって、忘れてますね?」
温かな夢の世界に旅立つ寸前、その言葉にアタシは現実を振り返る。
学校て、なんだっけ。
「トラちゃんが彼に会わなくても、僕は構いませんけどね」
現実と夢の境界でアタシはひとり、うーんと首を捻る。
「おやおや、何のために人間になったのかも忘れてしまいましたか」
それで、あ、と気が付き、飛び起きる。
「
そうだ。アタシは大好きな人を助けたくて、魔法使いに、しょーじろーにニンゲンにしてもらったんだ。
「ええ、だから早く支度してくださいね」
「はーいっ」
クスクスと笑いながら魔法使いは静かな足取りで部屋を出て、ぱたんと音を立てて、ドアを閉めた。
はっきりしない寝ぼけた頭をぷるぷる振り、アタシはまず前足ーー違った、ニンゲンの手で着ていたヒラヒラとした薄布のネグリジェとかって服を脱ぐ。飾りで着いたリボンに引っかかりながらもなんとか脱いだら、ベッドから降りて、素足でペタペタと床を歩く。ニンゲンの足は毛も肉球もなくて、最初はなんだか不安だったけど、この半年でかなり慣れた。
壁にかけてある、昨日しょーじろーからもらったニンゲンの学校の制服ってやつを手にする。スカートは、下から履くんだっけ。白いブラウスを、ってまたボタンだ。このボタン、後でしょーじろーにと思いかけたアタシの脳裏にしょーじろーの笑顔と声が浮かぶ。
「ボタンもかけられないんじゃ、彼に会いに行くのはもっと先ですね~」
本当にそう言われそうな気がして、なんとかボタンを全部かけて、それから白のブレザーを着て、なんだよもーと思いつつもまたボタンを留めて、最後に襟に赤い布をつける。
「う」
つけ、つけ、つけられない。これ、どうやるの。
「しょーじろーっ」
赤い布を手にして、ペタペタと部屋から廊下へと出て、アタシは食堂までまっしぐらに向かった。美味しい匂いのする場所が食堂っていうのは、ニンゲンになって一番最初に覚えたことだ。
「しょーじろーっ、これどーやってつける?」
ドアを開けるのももどかしくて、というか開け方を忘れて叩く。宥めるような声と共にドアは向こう側から引き開けられて、アタシは部屋へと転がり込みそうになった。
どんっ、と勢いのままにぶつかった柔らかな壁に弾き返され、アタシは少しよろけて、後ろへ数歩下がる。一番最初に壁にぶつかった鼻が痛くて、摩るためにあげたニンゲンの手を見て、びくりとする。いつまで経っても、まだまだアタシは自分がニンゲンだということをつい忘れてしまうんだ。
「どうしましたか?」
「こひぇ」
痛みと情けなさで泣きそうなのを、顔を抑えた手で隠しながら、赤い布を差し出すと、しょーじろーはああとか相槌を打って、次にアタシを廊下へと押し出した。
「蝶々結びは覚えてますね?」
有無を言わせない口調だったので、つい頷く。
「鏡を見ながら、やってきてください」
「えー」
「できないなら学校はもう一年先ですか。トラちゃんの大好きな
それは困る。とっても困るので、両手で握りこぶしを作って、まっすぐにしょーじろーを見上げる。
「頑張るっ」
「はい、いってらっしゃい」
しょーじろーの声援を受けて、アタシは洗面所へと向かった。細長い棒みたいな取っ手を動かし、その場所へと足を踏み入れる。
「っ」
視界の左側にニンゲンの女の子の姿が見えて、一瞬驚く。でも、さすがにこれが今のアタシの姿だってことは理解しているつもりだ。恐る恐る鏡に向かい、そっと前足を近づける。
コツン、と爪先が固いモノに当たり、また吃驚してしまう。いやいや、こんなことじゃニンゲンになれないって、しょーじろーも言ってたし。もう半年も見ているんだから、いい加減慣れないといけない。
ネコのアタシの時、
壁の向こうをじっと見つめる。そこにいるのはネコのアタシじゃなくて、ニンゲンの女の子だ。
ふわふわとゆれるしょーじろーと同じ薄茶色の髪は、彼と同じく、腰ぐらいまである。だけど、このニンゲンの髪はまっすぐじゃないから、しょーじろーと違って鳥の巣に似ている気がする。瞳は薄い青の混じった黒で、肌はアタシの自慢だった薄茶の毛がなくて、つるつるで真っ白だ。しょーじろーがいうにはこういうのを「ハクセキ」とか言うらしい。
自分の頬に手をやると、ニンゲンの女の子も同じように色付きはじめの桃の実とおんなじ色の頬っぺたへ手をやる。
壁の向こうのニンゲンの女の子はアタシとおんなじ姿でおんなじ行動をするんだって、しょーじろーが説明してくれた。壁の向こうには「鏡の国」があって、真似をするのが大好きなニンゲンが住んでいるんだって。
その鏡の国に住んでるニンゲンの、ぷっくりと膨れて朝露に濡れたみたいに光る、熟れた林檎色の小さな赤い唇が動く。
「おはよう」
声はアタシの分しか聞こえなかった。鏡の国の声までは聞こえないって、教えてもらってるから、別にいいんだもん。別に、寂しくなんかないもん。
視線を彼女の平らな胸元へ落とす。鏡の国のニンゲンの女の子はアタシみたいにボタンや蝶々結びが苦手らしく、赤い布を首からだらりとかけている。アタシがちゃんと結べば、このニンゲンもちゃんと結べるらしいから、アタシはニンゲンから目を逸らさないように慎重に蝶々結びを作っていく。
「む」
何度か失敗を繰り返し、やっと出来た蝶々結びは、ところどころ変な風に捩れているもののなかなかの出来だ。どう、とアタシは肩をぐっと後ろへ下げて、胸を張る。鏡の国でもおんなじに真似した得意顔だったから、アタシは目の前のニンゲンの女の子に歯を向いて、ニヤリと笑ってやった。
「上出来」
「トラちゃんはまた鏡の国とお話してたんですか」
鏡の国でニンゲンの女の子の後ろのドアが開いて、アタシとおんなじ色だけど真っ直ぐな髪を白くて細い紐で一くくりに結わえ、干し草色のスーツ姿を着たニンゲンが現れる。彼はしょーじろーにそっくりだから、アタシは何度も見ているのにやっぱりパチパチと瞬きしてしまう。
同時に後ろでドアが開く音がしたので振り返ると、洗面所に入ってきたしょーじろーが丁度後ろの三段重ねの棚の一番下の段から、黒いブラシを手にしたところだった。腰を曲げて屈んだしょーじろーの肩から、さらりと流れた彼の長い髪はかすかに床に付きかけて、でもすぐに立ち上がった勢いで引き上げられる。
「アタシ、ちゃんとひとりで結べたよ」
えらいでしょとアタシが言うと、そうですね、としょーじろーは細い目を更に細めて、名前の知らない赤い花びら色の口角をあげて、柔らかく笑う。
一度しょーじろーと外にお出かけした時に、一緒について来てくれたタローちゃんと遊ぶアタシに向かって、おんなじく笑ったことがあった。そこはただの公園だったのだけど、しょーじろーが笑顔を見せたとたんに、公園の内外問わずに色んな方から悲鳴みたいなのが聞こえたり、誰かが倒れたりしたり、揚句ウルサイ音を出す騒々しい車が来たりと、大変なことになったのだ。
タローちゃんがいうには、しょーじろーはセイテーの天使って呼ばれてて、ものすごい美人なんだって。しょーじろーが歩く道は老若男女問わず、一キロ先までずらりとプレゼントを持った人で埋まるらしい。
でも、今までのしょーじろーとのお出かけの時もそのお散歩の時もそんなの見なかったから、お家に帰ってからしょーじろーにどうしてって聞いたら、やっぱり今みたいに笑ってた。
「髪を梳いてあげますから、鏡の方を向いてくださいね」
外に出たときに気が付いたけど、しょーじろーやタローちゃんはとっても平均的なニンゲンの顔をしてる。道を歩いているヒトの顔の目とか鼻とか顔のパーツを丁度良い感じに組み合わせていった感じだ。もちろん、
「はーい」
ツンツン、と後ろから軽く引っ張られるのはまた心地よくて、アタシの瞼もだんだんと重く落ちてゆく。瞼の裏側には、夢の続きみたいに、温かな
「ふふっ、トラちゃん。寝てもいいですけど、」
楽しそうなしょーじろーの笑い声で、はっとアタシは現実へと引き戻される。同時に瞼の裏にあった
「うあ! ね、寝てないよっ」
また
真っ直ぐに見つめる鏡の向こうから、四つの目が真っ直ぐにアタシを見つめるのを見て、自然と体が固まって、アタシは自分が緊張しているのがわかる。
「さて、トラちゃん」
「はいっ」
落ち着いたしょーじろーの声に、更にアタシは緊張する。鏡の向こうでもふわふわした髪を頭の後ろの上でまとめた女の子が、真面目な顔で口をしっかりと引き結んでいる。
こういう声を出すときのしょーじろーは魔法使いじゃなくて、ニンゲンの先生の顔をしている。こういう顔をしているときのしょーじろーは決まって、アタシに問題を出すから、アタシは気持ちごと身構える。これは、どれだけニンゲンに近づいたかのテストだから。
「これはなんて髪型でしょうか」
教えましたよね、と尋ねられ、さあ来たぞと必死に記憶の引き出しをパタパタ開けて答えを探す。
「ええと、」
ふわふわしてゆれる長い毛は、ネコ以外の何かの動物の尻尾だった気がする。ふさふさで、長くて、と考えながら、脳裏を忙しく動物の姿が巡ってゆく。長い尻尾で、ふわふわで、ひらひらしてて…美味しい。
「お、」
尻尾の長い鳥がぴたりと止まる。図鑑で見た、すごく丸々してて美味しそうな鳥、と思い出すだけで、口の中に唾が溜まる。
じゅるり。
「オナガドリのシッポっ!」
アタシが自信満々に答えたとたん、しょーじろーは口を片手で抑えて吹き出した。間違いらしい。
「尻尾までは覚えてたんですね」
「合ってるよねっ?」
「ええ、合ってます。正解は言っていいですか?」
問いかけに対して、アタシは首を横に振って、首だけ振り返って、しょーじろーを見上げた。
「もうちょっと待ってっ」
「ええ、いいですよ」
しょーじろーの了承を得て、もう一度アタシは脳裏に動物の姿を思い浮かべる。あれでもこれでもないと、アタシがうんうんと唸っている間に、しょーじろーは制服のリボンと同じ色の布を使って、アタシの頭に大きな蝶々をきゅっと結んだ。
その布はとっても長くて、蝶々の端は、アタシの襟足をさわさわと擽る。考え事をしている視界の端でかすかに揺れる布を、本能的にくるりと首を回して追いかける。追いかけた先からひらひらした布は端に移動してしまうので、それを追いかけて体も動かす。
ひらひらひらり。
「なー!」
「おやおや…フフッ」
くるくると体ごと布を追いかけるアタシの両肩を、唐突にしょーじろーが抑える。
「普段なら気がつくまで見ているのもいいのですが、今日は新学期です。そろそろ朝食にしましょう」
しょーじろーはアタシがあんなにも苦労した身支度を、あんなに時間がかかった胸のリボンを、端を少しずつ引くだけであっさりと整える。それから、制服の端も少しずつ引っ張って、ピンと伸ばす。最後にスカートの襞を払うように整えて。
「はい、これでいいでしょう」
鏡に向かうようにアタシの肩を押して、耳元で満足を宣言した。
鏡の国の女の子は大きな瞳をすっかり見開いていて、その隣にはやっぱりしょーじろーにそっくりな人がおんなじに彼女の肩を抑えて、満足の顔でアタシを見つめている。こうしていると、アタシとしょーじろーはよく似ている。それはしょーじろーが自分に似せて、アタシをニンゲンにしたからだ。だから、ニンゲンになってから一緒にお散歩をしたときは、姉妹に間違われたりした。
「トラちゃん」
静かに、静かにしょーじろーは言う。
「正解はポニーテールですよ」
一瞬何のことだか分からなかったけど、さっきの問題を思い出す。
「あれ、尻尾じゃないの?」
「テールは英語で尻尾のことで、ポニーは仔馬さんです」
頭の中で茶色い馬を思い浮かべて、頭から尻尾までずーっと思い出していって、鏡を見たアタシはもう一度首を傾げた。
「似てないよ?」
「ええ、トラちゃんのが可愛いですね」
そういうことじゃないと思うんだけど、と困っているアタシの両肩に、しょーじろーが手を置く。ずっしりくる重さと、静かで真剣な瞳はすべてを見通しているみたいで、時々怖い。
「約束は覚えていますか」
鏡越しのしょーじろーの瞳に、あの日と同じに、心臓がドクドクと高鳴りだす。あの日というのは、しょーじろーとアタシが約束した日のことだ。大雨の中、
「うん」
その時、ニンゲンにしてくれる代わりに、アタシはしょーじろーと約束をした。それさえ守るなら、アタシはずっと
いつもは優しくて暖かい
なんで、逃げてしまったのかわからない。だけど、アタシはあの時逃げちゃいけなかった。怖くても、その手を受け止めなきゃいけなかった。
これが怒りなのだと、教えてくれたのは誰だったか。
某CMをみてたら思いついた話。猫が人間になる話。
昨日の今日だけど、ちょっと書き直しました。
タイトルと主人公の名前も変更。サブタイトルも追加
(2009/04/15)
なかなか登校できないっていう。
(2009/04/16)
登校以前に、朝食にありつけるのはいつだろう.
後半よんぶんのいちほど書き直すので削除。
(2009/04/17)
帰りの電車で座れないのって辛い~
(2009/04/28)
長いので分割。ていうか、なんか本当に長すぎ。
少しずつとはいえ、ケータイだけで書く量じゃない(笑
(2009/05/28)
5000byteで分割中。
(2009/06/29)
改訂
(2009/07/08)
公開
(2009/09/03)
ファイル調整
サブタイトルを追加
(2012/09/26)