09#よくある二人劇
リンカは馬鹿な
「ーー
魔法を纏わせて振るった剣は、その先に落ちてきていた大きな岩を粉々に分解した。後には砂煙が上がっているので、リンカが無事かどうか、わからない。だが、上に誰かがいるのはわかる。青い龍の紋が刺繍がされている黒いマントを風にはためかせる男は、黒い布で顔の半分を覆っていた。
「ほう、あの状況で外に出て、すぐさま剣に魔法をまとわせ、岩を砕くか。なかなか楽しませてくれそうじゃないか」
くぐもっているが、拡張機でも使っているよう彼の声はよく通る。
「こんなところまでくるとは、ご苦労なことですね~」
「あんたこそ、わざわざこんな場所で寄り道とはな。それとも、わざとか?」
からかう声に平然と返してやる。
「ええ。もちろん、わざとですよ」
気がついていたのか、とでも言いそうな男に畳み掛けていう。
「こうでもしないとリンカと二人きりで話が出来ませんから」
折角リンカを落とすために、幼馴染みたちを置いてきたというのに、こいつのせいで邪魔をされて、僕は自分でも不思議に思うほど不機嫌になっていた。
自分の作った筋書通りに進まなかったというだけじゃない。僕は自身が本当に、リンカを気に入り初めていたことに気づいた。
触れる度、言葉を交わす度に感じる、リンカの魂の純粋さや強さが僕を引き付け、引き寄せる。
「それを邪魔したんですから、それ相応の覚悟はしてくださいね」
「なにを寝ぼけたことを」
ガラガラとリンカが岩を退かせるために動かす音がする。彼女が出てくる前に、これは早急に勝負をつけなければいけない。出てきたら、きっとあの時のように巻き添えにしてしまう可能性は十分にあるだろう。
「ちょっと時間がないんで乱暴になりますけど、いいですよね」
「行くぞっ」
僕はポケットから白い布を取り出し、それを広げて地面に置いた。布には既に爆風の魔法を発動するための紋を描いてある。
「ーー
風は僕の声に合わせて集まり、すぐに巨大な竜巻となる。
「なっ? うわあぁぁぁっ」
刻龍の彼は竜巻につれられて、そのままどこかへ飛んでいった。
瓦礫を踏む足音が後ろから近づいてくるので振り返ると、リンカがうつむいたまま近づいてきていた。
「あんた、本当に護衛が必要なのか?」
「詠唱には時間と集中力が必要なんです」
「でも今」
「それはちょっとした種のある手品みたいなもので」
「さっきの刻龍の幹部のひとりなんだけど」
拳を握り、肩を震わせているのは、心配からかと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
「そうなんですか」
僕があっさり追い払ったのが悔しかったのだろう。そんなところは全然子供だ。彼女の身体を抱き上げる。
「なんにせよ、リンカに怪我がなくてよかった」
「てゆーか、自分の心配しろよ。狙われてるのが自分だってわかって」
はっとしたように、口を押さえるリンカ。狙われているのが自分だってのは、もちろん承知していることだ。なにしろ、この長旅の間にいくつこんなことがあったか数え切れない。
うっかり口を滑らせるとは、ね。せっかくなので突っ込まないで流してしまおう。
「さて、そろそろリズールに行くとしますか」
「え」
意外そうに問い返すとは珍しい。
「おや、不服ですか? たしかにもう少しゆっくりしたいですけど、戻らないと」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「こうして二人きりという機会はなかなかできなですし、僕としても名残惜しいんですけどね~」
「だから、そうゆうわけじゃない」
「姫やシャルは気がきかないし、刺客はもっと無法ですし」
「きけよ」
きいてはいるけど、リンカが怒ったりあきれたりしている姿も可愛いいので、僕はついからかってしまう衝動を押さえられなかった。
「この仕事が終わったら」
「俺は帰るぞ」
「うちに来ませんか?」
うちというのは、世間一般でいうような小さな家ではなく、当然クラスター城を指していると気づき、リンカは強く僕を睨みつけてくる。冗談にも程度というものがあると、彼女の強い視線が語る。
「だから、帰るって言ってんだろ」
「考えて置いてください。できれば、リンカ自身の意思で来て欲しいので」
もちろん、こちらもせっかく見つけた女神を手放すつもりなんてない。誰がなんと言うと、リンカが僕にとってのたったひとりの女神だという事実は変わらない。これ以上の宝などないと伝えられる女神を、僕は手放すつもりはない。
「考えるまでもない。行くわけないだろ」
一瞬の逡巡の後、彼女は断った。ビジネスとしてはかなりのビッグチャンスのはずだ。しかし、断った。断る理由はやはり、それほどに僕が嫌われているということなのか。
「いいかげん、冗談はやめろよ。あんたには可愛い婚約者がいるじゃないか」
「断りましたよ」
目の前で断ったのに、リンカはまだ信じていなかったらしい。
「そんな簡単なもんじゃないだろ」
「公式に発表するには国に帰ってからですが、姫も納得してますし」
「でも、お姫さんは」
「僕の姫は、リンカひとりです」
まっすぐに見ると、リンカの瞳は吸い込まれそうに深い色をしている。晴れた夜空の瞳を恥かしさと怒りで潤ませて、泣きそうな顔で僕を見る。
沸き起こる自分の中の感情が語るならば、それは何よりも愛しい光を放つ。
「さあ、リズールに行くぞっ」
元気に僕の腕から飛び降りて、さっさと歩き出そうとするリンカ。歩いて戻ったら日が暮れてしまうに違いないのに。でも、まぁ、リンカと二人なら野宿でも楽しいだろうと、僕には容易に想像できる。
「おい」
「なんですか?」
「ここってどこだ?」
「ルクセールの」
「じゃなくて。さっきの道からどんぐらい離れてんだよ」
「大体、馬で1日分ですか」
「馬?」
「短距離移動でしたからね」
「まあ、戻れない距離じゃないか。行くぞ」
距離があるといえばやめるかと思ったが、予想に反して、彼女はすたすたと歩き出す。しかも方向も合っている。さっきの魔法で、と言われたら何か条件でもつけようかと思ったのに。
「リンカ」
「魔法はいやだ」
「そういわないで」
「魔法使って戻るなら、歩いて戻ったほうがマシだ」
「嫌いなんですか、魔法」
「嫌いだ。魔法も、魔法使いも」
そういえば、城で眠りの魔法を使った時もひどく嫌がっていた。女神の関係者が魔法を嫌がるとは聞いたこともないし、別な何かがあるんだろうか。
「…僕も?」
「最初っからそう言って…なかったな。とにかく、俺は魔法とか貴族とか王族とかは大っ嫌いなんだよっ」
僕は環境のせいか大抵の言葉には慣れていたはずなんだけど、リンカのこれは効いた。心の中が暗く、淋しく、闇が広まってゆく。
前を歩くリンカの腕をとって、抱き寄せる。
「なんっ」
「そんなに、悲しいことを言わないでください」
僕は誰になにを言われても気になったことはなかった。世界中の人に好かれようなんて思っていなかったから、別に僕を嫌いなら嫌いでいいと思っていた。でも、リンカに嫌われることは、拒絶されるのはどうしようもなく辛い。
「お、い、なぁ」
「嫌わないで、ください」
リンカに拒絶されるだけで、どうしてこれほどまでに自分が絶望するのか、最初はわからなかった。あとから考えると、たぶんこの時に僕は彼女に落ちていたのだと思う。女神だらなんて理屈で恋をしたわけでなく、リンカだから好きになった。
ほんの一日前に出会ったばかりなのに、僕にはリンカが一緒にいない世界でどうやって暮らしていたのかを思い出せても、到底同じ毎日が過ごせそうにない。
「な、泣くなよ、男だろっ。わかった、わかったよ。できるだけ嫌わないようにはするから離せ」
焦った声でリンカが譲歩する。できるだけ、では足りない。
「それと、俺は別に王子とか姫を嫌いじゃないぜ。だって、」
全然王族らしくねーもん。
けなされているのかもしれないのに、僕の心は絶望から開放された。あとは、リンカが魔法を嫌いだという点をクリアすれば良いってことだ。
「ありがとう」
「っは、離せって。やめろーっ」
暴れるリンカを押さえたまま、僕はもう一度呪文を唱える。
「え、だから、魔法はっ」
「怖かったら、さっきみたいにしがみついてていいんですよ」
「ぎゃーっ」
本気で怖がっているらしく、しがみついてくるリンカを強く抱きしめる。まだ口実がないとこうさせてくれないのはとても残念だ。触れるだけでも嫌がられるのは、それだけでも少し傷つくんだけどな。
魔法の風に乗って運ぶ途中、僕は気がつかれないようにリンカのつむじにキスをする。この手にした女神が離れていかないように、産まれて初めて女神に希った。
リズールの手前で降りると、リンカは借りてきた猫みたいに大人しくなっていて、さすがに心配になる。だけど。
「言っても無駄だと思うけど、ここは気をつけろよ。あんた、高額の賞金かけられてるから狙われるぜ」
「そうなんですかぁ」
気遣って言ってくれた告白に頭を撫でて返すと、リンカは口を尖らせながらも恥かしそうに反対を向いてしまった。
「心当たりありまくりって感じだな」
「何故か恨みを買うことが多くてね」
「性格だろっ」
声音がだんだんと優しくなっている気がして、僕はもっと嬉しくなって、もう一度リンカを強く抱きしめる。
「やめろーっ」
大好きだと告白したら、リンカは逃げるだろうから。
「僕を守ってくださいね、護衛さん」
今はただ、そばにいてくれることだけを願う。
「っ、し、仕事だからなっ」
腕の中でリンカは変わらず、つれない返答をくれた。
10#よくある宿屋劇2
リズールの俗称は、石の都という。この辺りでは鉱物や宝石の類いが高純度で取れることが多いからだ。だから、坑夫や細工師といった職業のものが多くいる。そして、当然ながら医者も多い。鉱物を掘る時の砂塵を吸って、体を患うものがいるからだ。あまりにそれが多いのと、資源がなくなってしまうのを恐れ、神殿で規制をかけたこともあるくらいだ。
この街は大都市でありながら、領主や王族といった者がいないことでも有名だ。街の治安、統制はすべて神殿で行われており、ここの神殿長が実権的支配者となっている。故に、ここで良い政治統制を行った神殿長は、大神殿長となりうる可能性がもっとも高い。だが、ここで悪政を行う場合、すぐさま神殿長は神官としての資格と権威を奪われる。
「それでいつ、そのアジトに乗り込むんですか?」
先に来ていた姫やシャルダンたちと合流した後、カークがとってきた宿の一室で平然と僕は尋ねる。部屋はリンカがいうには一級クラスの広さだそうだが、城と比べれば納屋ほどの広さしかない。内装も至って質素で、大きめのシングルベッドがひとつと、テーブルと椅子が一組しか置かれていない。床も簡素な絨毯が敷かれているだけだ。
これだけの部屋に王族二人と貴族一人が泊まるはずもなく、ここと同じような部屋をもうひとつとってある。本来なら三部屋はとりたいところなのだが、やはり三人も刻龍に狙われているとあっては、そんなことはいっていられない。
「そうじゃねぇだろ」
怒っているような、呆れているような声で、リンカが唸る。彼女はどうも怒りっぽい。そんなに怒っていて疲れないのかと思う。でも、怒ってもなんだか微笑ましいので、効果は無い。
「さっき俺が言ってたのきいてたか? あんた賞金首なんだぞ」
「わかってるって」
「ぜってーわかってねー。シャルダン様たちからも言ってやってくださいよ」
話を振られたシャルダンは、努めてこちらに関わらないようにしている。傾けているのは、城からもってきたこの地方独特の紅茶葉でいれたレカンタティーだ。それのせいもあって、リンカの機嫌はとても悪い。
俺の前でそれを飲むのは何かの当てつけかと言いたげなリンカの視線が、僕には見ていてなんだか微笑ましい。リンカのいろいろな表情が見られることがとても嬉しい。
「姫ー」
「カーク、お茶菓子も欲しいわねぇ」
「すぐにお持ちします」
まったくこちらを気にしていない彼らに、またも唸りだしそうなリンカの頭を軽く叩くと、涙目で強く睨まれた。本人にその自覚はないが、僕には小動物のようで可愛らしい。
「で、いつ?」
なにかを言おうとして開かれた口は、数度開閉したあと、諦めて閉じられた。
「まだわかんねぇよ。夜になってからだ」
言い捨てて、ベッドによると毛布を一枚剥ぎ取り、リンカは床に座る。毛布を巻き付けて、膝を丸めるとさらに小さく見える。もう、何か質問に答える気はないらしい。
「まだ眠るには日が高いわよ」
もったいないと姫が近づくと強く睨まれ、彼女の足も止まる。
「あんたたちのおかげで疲れてんだよ」
すっかり居竦んでしまっている姫に代わり、言ってみる。
「どういたしまして」
「ほめてねぇよっ」
あの寄り道以来、あんまり可愛すぎて、どうしても僕には笑えてしまう。それをみて、シャルダンがガシャリとカップを取り落とした。なにかをまた思い出したのだろう。
さて、ここからはリンカのためにも三人にはご退出願わないとならない。そんな場所、そんな体勢では、休まるものも休まらない。部屋の中を見回し、できるだけ丁寧に言葉を紡ぐ。
「ああ言ってるし、僕達も休んで置こうか」
まず、姫が立ち上がる。続いて、わたわたと慌ててシャルダンも立ち、彼らが出た後でカークが食器をもつ。
「それは置いておいてもいいよ」
「いえ、あちらでシャルダン様が飲まれますので」
なんだかんだ言って主人第一の忠実な部下が出て行ってから、僕は廊下に顔を出す。
「おやすみ。姫、シーちゃん、カーク」
彼らの目の前で、ドアを閉める。これで、部屋には僕とリンカしかいない。
ゆっくりと膝を抱えて毛布に包まるリンカに近づく。と、彼女が顔をあげた。なんだよと、声には出さず、目に不審の色を浮かべている。
「ベッドで眠ったほうがいいですよ」
実際、今日はこちらの勝手でずいぶんと連れ回してしまった。
「こっちのが慣れてるからいいんだよ。それに、ぐっすり眠れちゃまずい」
「僕のことなら心配しなくても」
「誰があんたの心配なんかするかよ。十分強いくせに」
そんな、少しぐらい心配してくれてもいいのに。
しゃがんでも、リンカと同じ目線にはならない。それをどうにか近づけるために、小さな体を抱え上げ、ベッドに置く。よほど疲れているのか、諦めたのか、暴れる様子はない。
「じゃあ、何を心配してしているんですか?」
同じ目線では、とても泣きそうなリンカの髪を撫でる。城の医務室の時と同じだ。縋るような目に引き寄せられる。
「何も」
かすれた小さなリンカの声は、そうは言っていない。彼女の小さな体を引き寄せる。
「何も心配なんかしてない。あんたたちは無事に国へ戻り、俺もあの町に戻るんだ。心配することなんて」
心配事なんて、一つもない。リンカのその言葉は、それ自体がひとつの願いの響きだ。元の当たり前の日常を望んでいる。
あまりに泣きそうなので、僕にはそれ以上聞くことは躊躇われた。ここで刻龍のことなんて聞いたら、リンカは本当に泣き出してしまいそうに脆くみえる。
だから、張り詰めたリンカの気持ちをほぐすために。
僕は小さなリンカの額に口づけた。
11#よくある伝承劇
室内からはくぐもった音が聞こえている。中にいるのは三人ーー姫とシャルダンとカークだろう。中に入るのが気まずいわけではないが、僕には笑って済ませてもらえるかどうか、自信がない。
右顎の辺りをさすり、その痛みに僕は苦笑いする。
「殿下?」
静かにドアが開かれ、カークに招き入れられる。まったく、気配を殺そうとしてもこの男の前ではまったくの素人技なのだと思い知らされる。だからこそ、シャルダンの側近として、執事と護衛の両方を兼ねているのだろう。
部屋に入ると、姫はすぐさま立って、荷物から応急セットを持ち出して来た。その間に僕がシャルダンの隣に座ると、後ろからカークがお茶を入れたカップを差し出す。
「追い出された、のか?」
シャルダンの質問に僕が答えるよりも先に、姫が憤慨した様子でまくしたてる。
「リンちゃんをいじめるからよ」
つけられた薬がしみるのは、一番効いて、一番しみる薬を使っているせいだろうか。それを堪えて、僕は笑って返す。
「いじめてるわけじゃないんだけどなぁ」
ますます不機嫌そうな姫に、湿布薬を叩きつけられた。
「本気だから、タチが悪いんでしょう。ディルの場合」
姫の本気も痛い。すごくしみる。
「え、本気っ? あんなのに、おまえが?」
「あんなのとは酷いな。僕の運命の女神だぞ」
耳慣れない言葉に、カークが首を傾げている。彼が知らないのも無理はない。これは俺たちがまだほんの小さな頃に聞いた話だから。
「運命の女神って、子供の時の叔父上の御伽噺の中のあれか。あれを信じてるって? しかも、あんなガキがそれっ?」
容赦ないシャルダンの言葉には、さすがの僕も傷ついた。たしかに今二十歳の僕たちと比べれば、まだ十に満たないリンカはほんの子供でしかない。リンカからみた自分は、どうしたっておじさんと呼ばれるだろう。
「シャル、言い過ぎよ。確かに嘘みたいな話だけど。でも、リンちゃんはそんなの関係なく、ディルの心を捕らえたの」
それでいいじゃない、と姫はお茶をすすった。彼女の言葉に僕は安堵する。彼女の言うように、確かに最初はただの子供だと思っていた。ただリンカを取り巻く人々に触れ、彼女自身の行動や言動が確かに琴線に触れて、ただそのままのリンカがとても愛しくなっていくのに時間はかからなかった。
「どんな格好をしていても、リンカは綺麗だよ。このラルク石の原石みたいにね」
小さく秘密の言葉を僕は紡ぐ。開いた自分の右の掌の上に虹色の光が灯り、リンカに渡した指輪よりも十倍はあるラルク石が現れる。光はその石の内側から溢れており、壁面に僕ら四人の影を幻想的に揺らしている。
姫、シャルダンもだが、恐らく僕自身の瞳も、とてもなつかしげであることだろう。石を見ながら思うのは、遠い過去の冒険の思い出。
子供の頃、旅暮らしの叔父上が帰ってくる度に僕たちは話をせがみ、彼が来なくなった頃から三人で冒険をするようになっていった。その中でも最高だったのはラルク石の輝くばかりの資源を称えた虹色の湖だった。そこで出会った一人の女性に僕は欠片のひとつをもらったのだ。
ーー貴方のたった一人の女神にそれを渡しなさい。
白い布を一枚纏っただけの彼女はまるで絵本に出てくる女神のようで、ゆるく微笑みながらも真剣な目でそれを託した。あとはどうやって城まで帰ったか覚えていないのだけれど、三人で僕のベッドに丸まっていたと、部屋付きの侍従から聞いた。
想い出を忘れないために、彼女との約束を守るために、僕は魔法でそれを隠し、こうして魔法によってのみ呼び出せるようにした。子供心にそれがどれだけ高価であるかも理解していたし、義母には疎まれていた。だから、あの女性との約束を守るためにはどうしても隠さなければなかった。そういう魔法を編み出すまでは時間もかかったが、それまでは三人だけの秘密の場所へ隠した。僕が数多の魔法を操るようになったのはそれを隠し、絶対に見つからないようにするという理由もある。もともとの素質も手伝って、リンカのいうように大抵の護衛は必要がないほどの力を手に入れた。
指を伸ばしたシャルダンが触れる前にそれは消え、部屋は元通りの色を取り戻す。
「そんなのなくてもあの子、面白そうだけどね」
リンカとの約束をすっかり忘れて、姫は楽しそうに笑い、僕もうなづく。
「それもある。だからつい、な」
リンカの色々な表情が見たくて、彼女がどんなことを考えて生きてきたのか、生きているのかが知りたくて。何を言えば笑ってくれるのか、知りたくて。話を聞いているときのリンカのまっすぐな視線が眩しくも嬉しくあり、言葉一つでいくらでも変化する彼女がもう愛しくて仕方がない。
姫やシャルダンと合流する前、リンカに言った言葉は確かに本心だ。出会わなければ知らなかっただろうけれど、もう出会ってしまったから。リンカがいない後の人生をどう生きていけばいいのか想像も出来なくなっていた。
そういえば、と思い出す。遺跡で壁面の遺文に触れた後から少しだけ様子がおかしかった。出会ってからリンカがそこまで動揺するのを見たのは初めてだった。必死に何かを探り出そうとしていたようにも思えるけれど、小さく何かを言おうとして、何度か小さな口が開閉していた。あれは、一体ーー。
小さな物音が聞こえ、隣の部屋だと気が付くより先に体が動いていた。さっきまで一緒にいたし、リンカ自身の強さも理解している。だけど、彼女自身がこの町に、刻龍という存在に脅えてもいたのは間違いなく真実。不安が騒ぎ立て、気持ちが落ち着かない。
リンカのいる部屋のドアを、僕がノックしても返事はない。幼なじみたちが駆けてくる足音もする。もう一度、僕は強くノックする。
「リンカ?」
今度は、さっきよりも強く大きく聞こえたはずだ。
「っ入るな!」
強い制止をはらむリンカの声は、反論を許さない。それに一瞬だけ僕は躊躇したが、奥の焦りの響きとさきほどまでのリンカの不安げな様子が過り、ドアを開けて部屋へ足を踏み入れた。
窓から差し込む夕暮れの弱い光で照らされるベッドで、座ったままのリンカはまっすぐに目の前の影を見つめている。丁度光と闇の境界線の辺りには丸いテーブルがある。その側で一瞬だけきらめく紅を見た。
その紅で、僕はようやく気づいた。テーブルには見知らぬ男がリンカを向いて、座っている。
「こんばんわ。リンカのお連れさんか?」
よく見れば、黒装束の背中に、光沢のある紅い糸で城で見た刻龍の紋が緻密に、鮮やかに刺繍されている。
「そうだ。もう用は済んだんだから、出て行け」
リンカは、ベッドに座ったまま微動だにしない。
「随分、面白い顔触れだ」
男は楽しげに笑った。
「おっさん」
リンカの畏怖と嫌悪と恐怖を綯い交ぜにした声に男が嗤う。声だけでは結構若く、二十代後半ぐらいに聞こえる。
「クラスターの王子。次期公爵閣下。それに…姫」
瞳しか見えないのに、僕は萎縮してしまう。男にはそれだけの存在感があった。
「また来る、リンカ」
「いいから行け」
「例の件、考え直せ。こちらは本気なんでね」
男は黒い風のように消えた。
「……………………なにあれ…」
僕の視界の端に映る姫は自分の両肩を抱いていた。さきほどの視線を思うと、僕も凍えるほどの寒さが足元からじわじわと追い詰めてくる。とても自分たちでは敵わない相手と悟れるのは、王族らしくなく何度もしてきた冒険のためだ。でなければ、どんな言葉で噛みついていたかしれない。
「刻龍の使いですか」
普段と変わらない平静なカークの声が、この場ではひどく不自然な気がする。
ベッドに座ったままのリンカは、小さく頭を振る。
「あいつは使いなんかじゃ…。くそっ、こんなに明るいうちに来るなんて」
そうはいっても、もうすぐ黄昏も過ぎる時間だ。早いというほどではないだろう。
王子とリンカの間を縫って、まっすぐに姫が窓へ向かい、外を確認してから閉める。窓が姫の手で閉められると、リンカはやっと息をつけたようだ。
「リンカ、大丈夫ですか? まさか、なにかされたんじゃ」
「んなわけあるか」
反論にいつもの覇気が無い。彼女の恐れていた畏怖、恐怖そのものが彼か。
僕は歩み寄り、外したマントで小さなリンカを包み、そのまま抱き締める。身じろぎするモノの、リンカの震える腕に力はほとんど入らない。こうしてみると、虚勢をいくらはっていても、やはりまだ小さな子供なのだと実感する。
「いいかげんに冗談はやめてくれ、クラスター王子」
「冗談なんか言ったことはありませんよ」
リンカから返されるのは、信じられないという弱々しい光で。力で押し返して来る腕に僕は素直に押されてやり、マントの中の存在を見つめる。
「本気なら、余計にタチが悪い。お姫様は取り戻したんだ。あんたは国へ、家に帰れ」
帰れと言いながら、リンカの瞳は縋り付いてくる。まだ、彼女の手は小刻みに震え続けている。
「さっきのやつは、誰です?」
いつも、何にも負けまいと虚勢を張っている少女が、これほどまでに本気で怯えるほどの恐怖に半ば確信はあった。だが、確信するにはあまりに大きすぎる相手であり、違ってほしいという淡い期待で僕は問い掛ける。
「刻龍の…頭領だ」
黒ずくめの隙間から見た瞳を思い出し、僕は納得した。一瞬目が合ったというだけで、あれだけの恐怖を与える男だ。刻龍の頭領、それにリンカが震えるほどの恐怖を感じても、不思議はない。
「彼が、何故自らリンカを訪れるんですか?」
リンカが小さく息を呑んだのが分かった。こちらから接触しようとしているのだから、刻龍の誰が訪ねてきてもおかしくはない。だが、あえて頭領が出てきて、しかも殺す気もないというのが気にかかる。僕らが部屋に入った時も、僕らを殺すことなど容易だったはずだ。それに本当に殺す気で来ていたなら、わざわざリンカだけの部屋を狙い、座って話などしないはず。
「それは、俺がアイツに気に入られちまったからさ」
リンカは躊躇い、一度言葉を切る。しかし、僕がなにかを言うより先に続けた。
「嫁に、アイツのモノになれ、と、言われている」
笑い出しそうながら、リンカは笑わなかった。笑えなかったのは、それが本気だと彼女が確信しているからこそだろう。
「恋敵か」
なかなか手強いが、まぁ、そうこなくては。リンカを狙うやつがいないことのほうが不思議だ。
「そういや、王子と同じだな。あの男も最初から俺が女と気づいていやがったよ。俺の意志も聞かずに、二人とも勝手いいやがって」
リンカの声には本当に、まったく、出会った頃からこの町に入る前までにはあった覇気が無い。
「一人に、してくれ」
僕にはリンカの言葉がそのものの意味とは反対に聞こえた。それに今リンカを一人にしたら、連れ去られてしまいそうで。
「今、もう一度あの男に来られたら困るでしょう。守ってやるから、安心して眠りなさい」
本当は守られるべきは自分じゃない。リンカがいなければ、この世界に意味がない。理由なんか関係ないんだ。リンカのいない世界は想像することさえ、僕には怖い。
だけど僕が差し伸べた手は、強く押し返された。
「違うだろ。あんたが守るべきは姫たちであって、俺じゃない」
守りを拒むリンカは、顔を上げようとしない。
「頼むから、一人にしてくれっ」
腕を離れ、そのまま布団に潜り込んでしまうリンカに伸ばそうとした腕は、横から姫に押さえられる。
「引き際も肝心よ」
「ですが」
「あなたがいると余計に安心して眠れないんじゃない? さっきも襲うかなんかして、殴られたんでしょ」
襲ったことなんて、ない。ただ安心して欲しいと、自分がいるということを知って欲しかっただけだった。だが、姫のいうことも一理ある。今はまだ刻龍の頭領の来訪で、混乱しているのかもしれない。
「何かあったら、すぐに呼びなさい」
聞いているのかわからないが部屋を出る前にベッドと、部屋全体に魔法をかける。自分の力で刻龍にどれほどの対抗ができるかわからないが、リンカとベッドに守護と防御の魔法を。
守らなければ、そばに置いておけない。守れなければきっと、一生後悔すると心が警告していた。ずっとずっと探し続けていた自分の女神を奪われないために、そのために自分は力をつけてきたはずだから。
「余計なことを」
部屋の戸を閉める前にかすかに聞こえたリンカの苛立つつぶやきに、少しだけ安堵して、僕はその扉を閉めた。