てん、と足を前に交互に出して、手を使わずに歩く。それだけでも最初は不思議だけど、慣れるのには一ヶ月もかからなかった。どうしてかっていうと、アタシにはしょーじろー以外にニンゲンのことを教えてくれるセンセイがいたからだ。
遠くに見える青いスカートを履いて、黄緑色のブレザーを着たニンゲンの女の子を見つけて、大きく両手をあげる。そのまま駆け出そうとしたんだけど、アタシは自分が焦るとどうしても足がもつれてしまうんだって忘れてた。
「もくちゃ」
「あ」
猫のときだったらすぐにでも体勢を立て直せるのに、ニンゲンの身体はなんだか重くて、思うように動いてくれない。地面にぶつかると思って、強く目を閉じたアタシはそのままアスファルトに強く身体を打ち付けた。
痛い。人間は毛がないから、こういうときすごく痛い。
「お、おい、大丈夫か」
「大丈夫ですの、トラちゃん」
そのまま泣き出しそうだったアタシに二つの声が優しく降ってくる。もくちゃんと、ええと、誰だっけ。零れかけた涙を前足で拭って、アタシは上を見上げた。
「だいじょーぶ、よ」
もくちゃんの隣にいた男の人は、一瞬眉を顰めてから顔を背けた。耳が、赤い。
「いつまでも座ってちゃ、汚れますわよ」
もくちゃんのニンゲンの手に引っ張られるように、アタシは立ち上がった。その拍子に思い出した。このニンゲンは。
「ダイスキ、だ」
アタシが口にしたとたん、二人は氷付けにされたみたいになった。何か変なこと言っただろうか。
「どうしたの、もくちゃん、ダイスキ?」
首を傾げると、ダイスキはこちらを凝視したまま、動かない。もくちゃんは何故か怖い顔でアタシを睨んでる。
「トラちゃん、間違えてますわ。これは、大輔」
「おい、これはないだろっ」
「大輔は黙っててください。トラちゃんの大好きは、
笑顔だけど何だか怖いもくちゃんに押されて、アタシは肯く。
「うん、アタシは
「知ってますわ」
いつも聞かせてくれますものね、と笑うもくちゃんはもう元のもくちゃんだ。さっきのは何だったんだろう。
ぽつり、と灰色の地面に黒い染みがまあるく広がる。アタシともくちゃんは同時に耳を欹てた。
「雨っ?」
「ですわね。こっちですわ、トラちゃん!」
急にもくちゃんに手を取られて、つられてアタシは走り出す。アタシと違ってニンゲンの足で歩くのが上手いもくちゃんは走るのも早い。アタシは遅れないように、足がもつれないように必死に二本の足を動かした。
降り始めた雨はアタシたちが走っている間に段々と強くなり、その場所に辿り着いたときには強くなっていた。
透明な屋根の下で聴く雨の音はシャワーみたいにざーざー煩い。冷たい雨に身体が震え、アタシはあのときを思い出す。
「トラちゃんはかなり濡れちゃいましたわね」
優しいもくちゃんの声に、今はそれを考えている場合じゃない、とアタシは頭を強く振って、雫と一緒に寂しさを振り払った。
「だ」
「きゃっ」
急にアタシともくちゃん以外の声が聞こえて、アタシはぴんと背筋を伸ばす。ニンゲンの女の子の声だ。
「会長さんも雨宿りですの?」
ネコ会長さんがいるのかと、慌ててアタシは振り返った。いくら姿がニンゲンになってても、アタシはやっぱりネコだから。だから、振り返った先にニンゲンの女の子を見て、首を傾げた。
「かい、ちょぉ?」
そこにいたのはセーラー服っていう制服姿の黒くて長い髪のカッコイイ女の子で、ベンチに座って小さな本を開いてた。ちらりと見えたその本はしょーじろーが読むみたいに字ばっかりだ。
「トラちゃん、ずぶ濡れね。拭いてあげるから、こっちにいらっしゃい」
もくちゃんに背中を押され、女の子の隣に座ったアタシは、じっと女の子の頭を見つめる。女の子は黒くて少し厚みのある鞄から白い袋に包んだタオルを取り出して、アタシの頭に乗せて、優しく拭いてくれた。だけど、アタシは彼女の頭の上が気になって、しかたなかった。
「かいちょお」
「なあに?」
「お耳、どうしたの?」
ニンゲンの顔を覚えるのが苦手なアタシだけど、この女の子は覚えてた。頭にいつも揺れてる白くて長くて美味しそうなウサギの耳が、とっても可愛い女の子だ。
でも、今はそれがぺったりと後ろに伏せてしまってる。
「耳?ああ、そうか」
女の子ーーウサギ耳のついた会長は、自分の頭に生えてる白くて長い耳を手にして、少し寂しそうに笑った。
「これじゃ、バレるわよねぇ」
「そうですわね」
突然、その長い耳がぴんと立った。アタシも釣られて、背を伸ばす。
「タオル一枚しかないのよ、ごめんなさいね」
会長の視線の先には、アタシよりもびっしょりに濡れたダイスキが雨を滴らせて立っていた。
「酷い格好ですのね」
「しかたねぇだろ」
隣でもくちゃんが小さくクシャミする。ダイスキはひとつ息を吐いて、脱いだ黒い上着を絞って、それをもくちゃんの肩にかける。
「冷たいですわ」
「文句言うな」
口では文句を言ってるけど、もくちゃんは幸せそうに笑ってるから、アタシも一緒に暖かい気持ちになる。近くでクスクス笑う声が聴こえて、アタシは会長を見た。その耳はふたたびへにゃりと萎れてしまってる。笑っているのに、どうしてなのだろう。
「仲がいいのね」
「当然ですわ」
ダイスキが何かを言おうとしてたけど、もくちゃんの満面の笑顔に押されたみたい。でも、アタシは会長の白くて長い耳が気になって仕方が無かった。
だって、いつもの会長は耳をぴんと立てて、とっても格好よくて、アタシの憧れだから。アタシが擦り寄ると、会長は優しく頭を撫でてくれた。
どうしてとかアタシにはわからない。だけど、会長は笑ってないとダメなの。
「かいちょお」
「んー?」
「おうたうたう」
「え?」
「一緒にうたおー」
会長ももくちゃんもダイスキも吃驚してたけど、アタシは構わず歌いだす。しょーじろーが教えてくれた、大好きな雨の詩だ。
:ほらほら おさんぽ日和だよ
:雨がサアサア呼んでいる
:地面はキラキラ輝いて
:お空にウインクしているよ
:
:長靴はいて出かけよう
:傘はなくてもいいかもね
:ほらほら雨が呼んでるよ
:一緒に一緒に出かけよう