1#願いの書
庭で雀のさえずりと羽ばたきが聞こえてくる。私は一度は閉じた目を開き、それから胡座をかいた左足に左腕を乗せて、左手に頬を乗せて、右目を閉じて、手元の紙を見ていた。
一度大口を開けて欠伸をし、まだ歪む左目だけの視界でじっと紙を見つめる。和紙ではなく、もっと滑らかな紙だ。上質であると証明する光り輝く白さを眺めながら、私は口元を歪める。
ここは宇都宮藩の城下にある小さな町道場で、私はここの仮道場主だ。先代が亡くなった時に弟がまだ幼かったため、私が代理を務めて既に五年になる。
稽古も片付けも掃除も終わり、あとは着替えるばかりとなった私は、いつもどおりに居眠りをしていた。いや、眠っていたかどうかは定かではない。眩しい光に導かれ、目を開けた私の前には、少ない布を身につけた十五、六の少女がいた。
白い四肢を惜しげもなく露わにしている、西洋の絵画でも見ない、二の腕と太股をあらわにするような服ーーたしか、スカートといったかーーを着ている少女は、肩口で雀色の髪を揺らして、私に頭を下げた。
「お願いします」
少女特有の鈴なる声が泣きながらに訴える。
「あの人をーー新選組を救ってください」
透明な水を惜しげなく流す少女に私が肯くと、彼女は二枚の紙を私に差し出し、消えてしまった。
普通ならば、たぶん物の怪か妖怪かと大騒ぎになるところかもしれない。だが、私は仕事柄こういう事象に慣れすぎていた。
仕事ーー道場主として勤めるほかに、私は先代からもう一つの仕事を継いでいる。一言で言ってしまえば、よろず相談屋。依頼されればなんでもする、それこそ飼い猫探し、迷子探しに、人生相談から妖怪退治まで、なんでもありだ。
今まで様々に依頼を請けてきたし、その中に人外が混ざっていたことも否定しない。だから、別に女の子が何もない場所から出てきて消えたぐらいで動揺もしない。
(どうしたもんかね)
そんなことよりもこの依頼だ。手元の紙を何度見直してもそれは首を傾げるばかりの文字が並んでいる。
まず元号。今は文久元年の皐月だが、これは文久三年の水無月から始まる。隣に四つの算用数字が並んでいるのも意味が分からない。
内容に至っては、文武両道を謳うここの道場主である私が見たことのない文字も多い。書を読むのは好きだし、読めない漢字などはほとんどないと自負しているだけに、これは少しばかり悔しい。
文字を追っていくと、気になるのが「旧幕府」の文字。過ぎる不安を私は頭を振って振り払う。
確かに今は世情が不安定に揺れてはいるが、辿り着く答えは余りに危険な考えだ。二百年以上続いている江戸幕府が終わるなどと口にすれば、私もただではすまない。
「てか、マジで何これ」
もう一度、少女にもらった紙を読み返す。会津藩やら京やら、宇都宮藩に留まっているだけでは縁のなさそうな名前が多い。
少女の依頼内容は、ここにいる「新選組」とかいう連中を救ってくれということらしい。確かに相談屋という仕事をしてはいるが。
「私ぁ便利屋になったつもりはねぇんだけどな」
こんな離れた距離では何もできないから、当然長期にこの道場を留守にすることになる。少女の残したメモから察するに、短くとも五年は戻ってこられない。
先代が亡くなってから、ようやくここまで軌道に乗せたというのに、今道場主である自分がそんな留守にするなど許されるだろうか。
「姉上、母上が……て、どうしたんですか?」
母屋と繋がる道場の戸を開けながら声をかけてきた青年が、私のすぐ隣まで来て、手元を覗き込む。年は私と六つ違いで、実を言えば彼にいつでも道場を渡す準備は整っている。
「ねえ、あんた道場継ぐ?」
「藪から棒になんだよ。依頼?」
私の手元から紙を取り、弟はそれを陽射しに翳す。
「……姉上、依頼内容は?」
「そこに書いてある」
「書いてないから聞いてるんだけど」
良い紙みたいだけどね、と返された私は首を傾けた。
「書いてあるじゃない」
「ないよ。僕に見えなくて、姉上に見えるって事は、また物の怪がらみ? やめといたら?」
「うーん、もう約束しちゃったしなぁ」
じっと紙を見つめても、やはり私には文字が書いてあるように見える。隣に弟が座る気配に顔を向けようとすると、身体で強く押された。
「道場の話するってことは、長いの?」
「ん」
「どれぐらい?」
「短くて五年、かなぁ」
ふーん、と気のない返事をしながらもぐいぐいと押してくる。
「そりゃー、長いね」
「うん、だから流石に長く道場主が不在にするわけにもいかないし、あんた継ぎなさいよ」
ぐっと弟の身体を押し返す。私よりも大きくはなったが、まだなんとか力で勝てる程度なのは、弟が武よりも文を得意とするからだ。
「それは嫌」
「なんで?」
弟とは今まで何度となく、この問答を繰り返してきた。だけど、彼の答えはいつも同じだ。
「ここは姉上の道場なんだ。代理ならいいけど、僕は継げないよ」
押し合いをしていた身体から僅かに力を抜く。
「わぁっ」
私の膝に倒れこんできた弟を上から笑う。
「馬鹿、ここはあんたの道場だって、言ってるでしょ。父様の息子はあんた一人なんだから」
「姉上だって」
屈んだせいで私の肩から滑り落ちた髪が弟にかかるのを、彼の頬を撫でるように避ける。
「約束したでしょ。あんたが元服したら、あんたが道場を継いで」
「姉上が相談屋の仕事を継ぐ。僕が元服するまでは、姉上が道場主を代理する」
わかってるじゃんか、とぺしりと額を叩くと、痛くもないのに痛いと弟は呟いた。
「でも、姉上。僕は姉上ほど剣の腕もないし、学もないよ」
「そりゃー、私はあんたの姉だからね」
自信なさげだが、私は弟が私以上に学に通じていることを知っている。私以上に本の虫なんだ、この大きな弟は。
「大丈夫、あんたならできるって。それに、叔父さんだって助けてくれる」
「でも、姉上」
「私はしばらくここで教鞭もとってないし、実質あんたの道場になってるでしょうが」
二年半ほど前に元服した弟に道場と寺子屋を任せてからは、私は相談屋の仕事しかしていない。たまに冷やかしにいったりはするがその程度だ。
「もう私がいなくても大丈夫でしょ」
「そんなことっ」
起き上がろうとした弟を押さえつける。
「それに、あんたもそろそろ所帯もってもいい年頃だし、道場もってて損はないよ」
「それ言ったら、姉上は行き遅……ぐぇ」
押さえつけたまま肘を落とすと蛙が潰れたみたいな声をあげる。
「私はいいんだって」
二十歳を過ぎても男装して、剣を振り回しているような女性を娶る男などいないだろう。それを後悔した事もないし、これからも後悔することはない。
だって、私はーー。
「姉上」
いつのまにか手が緩んでいたのか、私を見上げる弟の顔が目に入る。泣きそうな彼の瞳をじっと見つめる。
何かを言おうとした口は開いた形で一度留まり、だが直ぐに閉じられた。弟は複雑そうな顔で眉を顰め、それからため息をついて私から目線を外す。
「……いつ発つんだ?」
え、と驚いた声を上げると何驚いているのさと返される。
「行っていいの? てか、ここ継ぐの?」
訊ね返すと、口をへの字に曲げられた。
「だって、姉上はもう決めたんだろ。だったら止めても無駄じゃん」
確かにその通りだが、まったく引き止めてくれないというのでは、流石に寂しい。
「姉上がそうしたいっていうならしたらいいよ。道場も僕が引き受ける。ーーでも、これだけは忘れんな」
私の両肩を強く押さえ、弟はまっすぐに私を見る。
「ここは姉上の家なんだ。俺も母上も、姉上が帰ってくるの待ってるからな」
そういってあんまり真剣に言うから、吹き出したら怒られた。
「なんだ、おまえまだ私がいないと寂しいの?」
「ーー姉上」
「しかたないなぁ。じゃあ、さっさと片付けて、できるだけ早く帰ってこられるようにするよ」
弟の腕を外し、私は立って、母屋へと足を向ける。
「べ、別に寂しいとかじゃっ。姉上こそ、家が恋しくなって、仕事途中で帰ってきたりしたら、二度と家の敷居は跨がせないからなっ」
「はいはい」
「本当にわかってんのかっ?」
私の背中を追いながら騒ぐ弟を笑いながら、母様の部屋を目指す。途中の庭に面した縁側を通るときに雀がバサバサと二、三羽飛び立ってゆくのを、足を止めて眺める。
追い付いた弟が隣に立つ気配がした。
「明朝、発つよ」
できるだけ悟られないよう、静かに告げる。たぶんだけれど、予感がする。たぶん私はもう二度と戻れない。そんな簡単な依頼じゃない。
「母様を頼む」
ここはもう自分がいなくても大丈夫だ。このまま時は巡るだろう。
ただひとつの心残りは、母様のことだけだ。父様が亡くなってからも気丈に振る舞っているけれど、実はとても弱い人だから。
「母様に不孝だけはするなよ」
私の願いに、弟がうなづいたかの確認もせず、私はまた歩きだす。
巡りだした新たな歩みを進めるために。その先に待つ者が誰かも知らず、その先に待つ時間が何かも知らず。ただ示された時の先を変えるために、私は一歩を踏み出すための戸を叩いた。
「母様、葉桜です」
2#不機嫌な局長
文久三年、皐月。あの日と同じ初夏の風音を、私は別の場所で聴いていた。
実家と同じく古い木の温もりに包まれた家の一室で大小を外して、隣に置き、正座で時を待つ。目の前は隣室の襖が開かれていて、私と並んで緊張した面持ちの十四、五歳の少女が一人座る。
あれから、少しの旅をした後で三月ほど前に江戸の会津藩の屋敷へ私は入った。目的はもちろん、浪士組に入隊するためである。
年明頃、幕府は将軍警護の名目で浪士を募集した。そのまま入ってしまっても良かったのだが、将軍上洛のこれを建策した清河八郎という男に疑念が合った為というのと、自分が女と侮られて門前払いされるのを避けるために、会津公からの紹介を求めた。
何故会津公かと言えば、現京都守護職についているというのもあるが、依頼人から託された紙から会津公との関わりがわかったからだ。
紹介を求めた際、会津藩主松平容保様の姉君が同席し、彼女から託されたのが隣にいる少女ーー桜庭鈴花である。
くりっとした大きな黒目、ほどよい餅肌ながらほんのり朱に染まる頬、肩口でばっさりと切りそろえられたわずかに波打つ髪。男装をしていないときはとても可愛らしい女中である彼女は、剣で身を立てたいという願いを携えてここにいる。
鈴花の意志の強さは表情に強く現れていて、とても好ましいものだ。ことのついでではあるが、手を貸してやりたい気持ちはある。
私はというと、いつもどおりに伸びすぎて腰まで届く黒髪を高く結い上げ、薄水の着物に濃藍の袴、瑠璃の羽織を着ている。化粧なんてするはずもなく、今朝早くに顔を洗っただけだ。
今朝、壬生浪士組の門を叩いてから既に一刻。待つのは好きではないが、これも依頼のためと我慢して一刻。私にしては待った方だ。
「鈴花ちゃん」
「だめですよ、葉桜さん」
先に窘められて、苦笑する。たった三ヶ月とはいえ、毎日共に稽古していたせいなのか、彼女には私の考えがわかったらしい。
「すぐに戻るって」
「だめです」
「どうせ私たちのことなんて、筒抜けなんだし」
「葉桜さんっ」
鈴花に説得されてから半刻過ぎた頃、ようやく部屋に近づいてくる気配があった。
心中で歎息しつつも、居住いを正す。そして、障子が開くと同時に私は声を張った。
「遅い!」
急に私が声を上げたのと、障子が開いたことに驚いた鈴花が隣で慌てる。
「いくら気が乗らない面接だからって、女性を一刻半も待たせるなんて、ここの局長って弛んでるわよね、鈴花ちゃん」
部屋に入ってきた二人の男に目を向けることなく、顔ごと鈴花を向きながら話しかける。
「あ、ちょっ、葉桜さんっ」
「毎日毎日酒浸りになってるような馬鹿じゃあ仕方ないけどね。そう思わない?」
挑戦的な問いかけは、部屋に入ってきた二人に向ける。先頭の手に灰色の扇子を手にした男は顰めた眉を更に寄せ、彼の後から入ってきた男は厳しい顔ながら、どこか面白そうに瞳で笑う。
先頭の男が手にしているのが鉄扇であれば、彼がこの壬生浪士組の筆頭局長、芹沢鴨だろう。いるだけでその存在を強く示す男は不機嫌に鼻を鳴らした。
「やぁ、待たせちゃってゴメンね。今日は頼んでた着物が届く日だったからさぁ」
芹沢の隣で、軽い口調で話す男も芹沢ほどではないにしても、それなりの存在感を放つ。だが、大抵これだけの嫌味を言われたら不機嫌で返してきそうなものなのに、彼はへらへらと笑っている。妙な男だ、と私は気を引き締める。
「俺は近藤勇。この壬生浪士組の局長だ」
脳裏にざっと紙の内容を思い出し、私は気づかれないように眉を顰めた。一覧にあった名前だが、この男は相当腕が立つ。守るべきであるとしても、自分の出る幕などない気がする。
「で、こちらの方が……」
芹沢がまっすぐにこちらを睨みつけてくる。不機嫌に不機嫌を返しても逆効果だから、私は受け流して笑いかけた。
「あー……こちらの方が筆頭局長の芹沢鴨さんね」
この芹沢と私は初対面ではない。だからこその対応とはいえ、あまりに大人気ない。
芹沢は私ではなく鈴花に問いかけた。
「女……名は何という……」
それに対して平伏した鈴花が馬鹿正直に答える。
「は、はいっ! お初にお目にかかります! 桜庭鈴花と申します」
そっちがその気なら、と私も芹沢から視線を外して、近藤に挨拶する。
「葉桜、と申します」
近藤は何か言いたげに私と芹沢を見比べた。
「あの~、お二人はお知り合い?」
「こんな馬鹿知りません」
恐る恐るの問いに私が即答すると、芹沢の眉間の皺がまた深くなった。
それで、近藤はここで私たちに何かを問うのは諦めたようである。
「え~っと、桜庭君と葉桜君は会津藩主松平容保様の義姉君、照姫様のご紹介だったね」
話を進める近藤に鈴花が「はい」と答える。私は「君」などとつけて呼ばれることなど無い為、いささか居心地が悪くなった。
だがここでそれを見せるわけにはいかない。弱味など欠片も見せるわけにはいかないのだ。
私が気合を入れなおしたところを見計らったかのように、近藤が気の抜ける息を吐いた。
「はぁ~……まいったね」
明らかにこちらに聴こえるように呟く。確かに、私と芹沢の間の空気はかなり険悪だから、わからないでもないが。
「会津公を通して話がきた以上、会津藩主お預かりのうちが拒否するワケにもいかないからなぁ……」
続いた言葉は、私たちが女だからと如実に語る。
「まぁ、きみたちに関しちゃ除隊は自由ってコトにしとくからさ。きついって思ったらいつでも抜けちゃっていいよ」
明らかに厄介者と言われ、隣で鈴花が膝に置いた拳を強く握る。近藤が言うのは最もであるし、だからこそ私は会津公を通して、ここに入隊するのだから。
そうでなくても、芹沢と関係が悪いというだけで追い出される気がしなくもない。
「じゃ、そういうコトで」
「待ちなさいな、局長さん方」
そのまま逃げるように出ていこうとする二人を私は引き止めた。怪訝そうな顔と、実に嫌そうな顔。そんなことでこの私から逃げられると思ったら大間違いよ。
別に今の言動については文句を言うつもりはない。それとは別件で、私には言いたいことがある。
「遅れた理由は本当に着物? 私には約束の刻限には、すでに近くの部屋であなた達の気配があったように思うけど」
笑顔のままの近藤が口を開く前に、芹沢が不機嫌そのものの声で言う。
「話す必要はない」
ぴしゃりと言い放ち、芹沢は足音荒くさっさと離れて行った。その姿を見送る近藤は再び私に問いかける。
「……知り合い?」
「少し、ね」
にやりと笑ってみせると、近藤は堪えきれずに吹き出した。
「あはは、葉桜君は面白いねぇ。あの芹沢さんにあそこまで物怖じしないで発言できるなんて、珍しいよ。いつから知り合いなんだい?」
物怖じしないのは生来の性格だから、私の場合は大したことではない。
「最近、ちょっと旅籠で会っただけですよ」
京に入って最初の宿で、酒浸りで脅迫まがいのことをしている芹沢を倒していただけだが、それを口にしてはいけないという常識ぐらい、私にだってある。
「それだけじゃぁないんだろ。是非今度その話聞かせてほしいなぁ」
「あはは。嫌ですよ、近藤さん」
笑顔で返すと、そうだよねーと近藤も同意するが、勘付いているのは次の言葉ですぐにわかった。
「まぁ出来れば其の話は隊内でしないでほしいなぁ。芹沢さん、お酒がはいんなきゃ志の高い、立派な人なのよ」
立派ねぇ、と私は心の中だけで呟く。
ふと隣でじっとその会話を聞いている鈴花に気が付いた。
「鈴花ちゃんは気にしないで良いからね。鈴花ちゃんは自分の目的に専念しなさい」
鈴花は不思議そうにしながらも素直に「はい」と頷いた。
私たちの様子を苦笑している近藤に鈴花が問いかける。
「入隊試験とか本当にしなくてもいいんでしょうか?」
「したいのかい?」
問い返された鈴花が肯く前に、私は彼女の頭を抑えるようにわしゃわしゃと撫でる。
「鈴花ちゃん、あんたねー。わざわざ自分から無茶な試験することないのに」
「無茶じゃないですっ」
「はいはい、どれぐらい上達したか、ここで剣が通じるか知りたいわけね」
やめてくださいと私の手を抑えようとする鈴花で遊びながら、どうしようかなと悩む。このために鈴花を鍛えておいたから、ある程度の相手ならば問題無いだろうが。
視線を近藤に向けると、微笑ましげな表情を浮かべている。そういえば、近藤には女好きという噂があった。ここにきて、女として見られるのは困るし、予防線は張っておくにこしたことはないだろう。
「近藤さん」
「葉桜君と桜庭君は仲がいいんだねぇ。姉妹だったりするのかい?」
「違います」
まったく見当違いの話を振られ、私はわかりやすく嘆息した。
「そんなことより、今日も入隊試験てやっているんですよね?」
「そのはずだよ」
深く頷き、私は立ち上がって、鈴花の手をとって立ち上がらせる。不思議そうな鈴花が立ち上がったのを確認してから、私は近藤に宣言した。
「その試験、私たちが参加してもいいですよね」
わかっていただろうに、意外そうに近藤は口にする。
「本気?」
「そのほうが、近藤さんの手間も省けますよ」
いくら会津公の紹介とはいえ、試験もなしに入隊したとあっては、他の隊士に納得させるのは難しいだろう。私の提案に、近藤は満足気な笑顔で深く頷いた。
3#過信の代償(追加)
道場に案内された私たちが戸を開けてすぐに見たのは、近藤ぐらいの身長の浪人を、鈴花ぐらいの身長の少年が突き崩し、弾き飛ばした場面だった。おおよそ、頭ひとつ分の身長差がある。
二十畳程度の道場は実家と比べるとかなり狭く、半分程度の広さは一試合するにも狭いと感じる。あの小柄な少年の間合いでは、狭すぎる気がする。
「あ、近藤さん」
「調子はどうだい、藤堂君」
近藤に気づいた少年は彼を嬉しそうに見た後で、怪訝そうに私と鈴花を見つめた。
「まあまあかな」
こちらを検分するように見つめる少年は役者のような整った顔立ちをしているが、私が愛想笑いを返すと、秀麗な眉目をひそめる。
「近藤さん、彼は?」
藤堂と聞いた時点でわかっていたが、私は鈴花のために問いかける。それと気づかない近藤はすんなりと藤堂を紹介してくれた。
「彼は藤堂平助君といって、北辰一刀流の使い手だよ。今日の担当は藤堂君だっけ?」
前半は私と鈴花に、後半は藤堂に向けていった言葉だろう。隣で、鈴花が緊張をさらに強くしたのは流派を聞いたせいだろうか。
「今日は新八さんだよ。でも、朝からいないんだ」
「ああ、最近お気に入りの娘がいるっていってたね」
しかたねぇなぁと苦笑する近藤に藤堂が訊ねる。
「そんなことより、近藤さん、後ろの二人は誰なのさ」
紹介してよ、という藤堂の作られた笑顔の前で、鈴花が僅かに頬を染める。何しろ私が見ても美少年なのだから、その反応は当然だ。
「彼女たちは会津公の紹介で入った新入隊士だよ。是非、君の試験を受けたいっていうから、連れて来たんだ」
大仰に鈴花が頭を下げる。
「初めまして、桜庭鈴花と申します。よろしくお願いしますっ」
藤堂は鈴花を腑に落ちない表情で見た後、私に目線を移した。ああ、自己紹介するんだっけ。
「私は葉桜」
特別に笑顔もつけてあげると、私に頬を上げて、目を細めてみせた。
「これからよろしくお願いしますね、藤堂センセ?」
藤堂はわずかに頬に朱を上らせてから、誤魔化すように口を尖らせる。
「それは俺に勝ってからいいなよ。どちらか一人でも俺から一本とれたら、認めてやる」
案外にあっさりとひっかかってしまったので、私はつい本気で驚いてしまった。
「望むところで……葉桜さん?」
「ふ……っ」
「葉桜君……?」
怪訝そうな近藤と鈴花を構う間もない。慣れない猫を被るのも飽きてきたことだし、そろそろいいだろうか。
「あ、い、いいだろう。藤堂が勝ったら、私たちは入隊を諦めるよ。でも、私たちが一本でも藤堂から取ったら」
相手をなめるつもりはないが、過大視することもないだろう。鈴花にはまだ無理だが、私には勝てる。
「葉桜君たちが勝ったら?」
誰かがごくりと唾のむ音がした。
「私たちを他の隊士に紹介してもらおうかな」
片目を閉じて笑うと、鈴花がホッとしたように笑った。近藤も安堵しているようだが、藤堂は違うようだ。
「そんなこと言っていいの? 俺、強いよ」
「そっちこそ、後悔するなよ?」
一番手は鈴花、と木刀を渡す。ついでに小さく彼女だけに囁き、私は鈴花を送り出した。
壁に寄り掛かる近藤の隣、同じく私も壁に背中を預ける。
「あんな約束していいの? あの子じゃ勝てないよ」
「わかってますよ」
じゃあなんで、と近藤が疑念を口にする前に二人の試合が始まった。互いに打ち込んでいるわけじゃない。鈴花が打ち込むのを藤堂はただ防いでいるだけだ。
「私が鈴花ちゃんの道を塞ぐわけないじゃありませんか。先に行ったように、近藤さんの手間を省いてあげるってだけです」
「藤堂が言ったのはあくまで二人で一本。鈴花に無理でも、こうして見ていれば私でも一本とれます」
近藤の笑顔が少しだけ固まった気がした。
「君なら勝てるって?」
「たぶんですけど、勝てますよ。だてに女だてらに武術指南なんかしません」
「へー……え? 武術指南て、どこの!? ていうか、葉桜君て何者」
木刀の高い音が響いて、私は声を上げた。
「そこまで!」
近藤の問いは聞こえなかった振りをして、私は鈴花に近づく。完全にへばっている鈴花の肩に手を置くと、悔しそうに目尻に涙を浮かべていた。
「鈴花ちゃん」
「ごめんなさい、葉桜さんっ」
「いいのよ」
満面の笑顔で鈴花の頭をなでる。
「その代わり、今日は素振り千回ね」
「っ!」
「わかった?」
私の言葉にしぶしぶと頷く鈴花を近藤の元へと送り、私は彼女が手にしていた木刀を持った。
木刀を肩に担いでいる藤堂は息も切れず、余裕気な表情だ。
「あんたさ、俺のことナメてるよね」
「そんなことないよ」
さっきの鈴花との試合で、藤堂のだいたいの腕前はわかった。思っていたよりも強いのは認める。だけど、私はもっと強い北辰一刀流を知っている。
「藤堂は強いよ。でも、」
真っ直ぐに藤堂と目線を合わせ、私は笑顔を向ける。
「私はもっと強いよ」
ざわと、空気が泡立った。素肌で感じる冬の気配のように、初夏の水辺に吹く風のように、ざわざわと私の気が揺れる。
手にした木刀を右手に持ち、左手を添えて、腰を落とす。居合の構えにか気組みにか、藤堂も北辰一刀流の青眼である中段に構える。
「始めようか」
誰かが唾を飲む音が、はっきりと道場に響いた。
互いに睨み合ったまま、静かに時が過ぎる。私は嬉しさに騒ぎ立てる心を押さえて、じっと中腰のままで藤堂を見つめる。
こうして見上げていてもわかる端正で、少しだけ幼い顔立ち。実家の弟を思い出すが、藤堂のほうがさらに幼く見える。
(二十歳だっけ)
藤堂平助ーー伊勢・津藩主の落胤との噂があるのも頷ける養子であるが、北辰一刀流としてはまだ未熟だと知っている。藤堂は皆伝する前に道場を出ているのだから。
廊下をドタドタと走る音が近づいてくるのが聞こえる。互いに木刀を握る手に力が入る。
(頃合か)
緊迫した空気を打ち破る音を、藤堂と私の両方が期待した。
「おい、平助っ」
道場の扉を遠慮もなく、勢いつけて開ける音と同時に私たちは動く。どちらもその動きに遅れはないが、二、三の打ち合いだけで勝敗はすぐに決した。
「そこまで!」
空手の藤堂の喉元に切っ先を向けたまま、私はぴたりと動きを止める。藤堂の木刀は私の足元だ。
「な、なんだァ?」
部屋に入ってきた無精髭の男が目を丸くし、手ぬぐいをぐるりと巻いた頭を手を当てる。
「近藤さん、あの女ァ何者だよ。いくら油断してたからって、平助を負かすなんて」
それに、と無精髭の男は続ける。
「俺と同じ技を使うってェことは、神道無念流、か?」
木刀をおさめ、私は藤堂に手を差し出しつつ返す。
「そういや、これは神道無念流の技だったか。久々だから、手が滑って焦ったよ」
藤堂は私の手を払いのけ、自力で立った。ひどく不機嫌な藤堂は負けた様子も弟と同じで、私はもう笑いを堪えるつもりもない。
「強いって言っただろう」
「……」
「約束は覚えているね?」
藤堂はふて腐れた表情で私を睨んでから、無精髭の男を見る。
「新八さん、彼女は新入隊士の葉桜さんだよ!」
「何拗ねてやがんだァ、平助」
「拗ねてないっ」
私は軽く、ぽん、と藤堂の肩を手を置く。かすかに肩を震わせる藤堂はこちらを見ない。
「もうひとり、いるだろ?」
「っ」
「い、いいですよ、葉桜さん。私は自分で、」
鈴花を制し、藤堂の耳元へ私は口を寄せる。藤堂の体が小さく震えるのは、自尊心のせいだろうか。
女に負けるということが相当悔しいらしい。
「私たちが一本とったら、認めてくれるんだろう?」
敢えての藤堂の宣言を通す。藤堂はやはりしぶしぶと鈴花を無精髭の男に紹介した。
互いの紹介も終えてから、近藤と私と鈴花は、晴れて道場を後にする。
「武術指南て、どこでやってたの?」
「道場の近所ですよ~」
そんな軽口を叩きながら。
4#朝の習慣
私と鈴花が近藤と土方の部屋の隣に部屋をもらった翌日、日が昇らないうちに私は着替えて部屋を抜け出していた。鈴花の寝付きはとても良く、彼女は気配に鈍感なので気がつかれずに私は部屋を出ることができるのだ。
まだ梅雨に入らない日が続いていて、初夏の空気はとても心地良い。私は昨日教わった井戸の前に立つと両腕を高く伸ばし、それから襷を掛けて、井戸水を汲み上げた。
一杯目は両手で水を掬い、口に含んで漱いで吐き出す。同じ水で顔を洗い、腕を洗い、足を洗い、最後に手ぬぐいでふく。水の冷たさに残っていた眠気も飛んだ。
二杯目を桶に汲み上げ、片手で担いだ私は、昨日の道場へと向かう。何をするのかと問われれば、掃除だ。実家の道場で長く習慣にしていたので、ここでもやろうと思っただけだ。単に他にやることがなかったのもあるが、これは道場主として過ごしてきた自分のけじめであり、礼儀でもある。
機嫌よく早朝の道場を開けた私は、だがそのまま呆れた息を吐いた。入口を開けて直ぐ、人が倒れてきたからではない。別に人が飛んできても驚きはしないし、そんなことよりももっと重要なことがある。
「道場で酒盛り? 舐めたことしてるじゃないの」
狭い道場内を埋め、気持ち良く眠る男たちを前に、私はまず手元の桶の水をぶっかけた。とりあえず、人の掃除が先決だと判断したからだ。これで慌てて飛び起きる者はまだ良いが、それでも尚寝ている奴らに一喝する。
「な、なんでぇ!?」
「~~~み、耳がーっ」
「……うるせぇな……」
尚寝ている馬鹿者共は容赦なく、蹴り起こす。そうして漸く目覚めた彼らは、言うのだ。
「朝っぱらからなんだよ、葉桜さん。オレ、昨日飲み過ぎて、」
眉を寄せて米神をおさえる藤堂に、昨日よりも凄みのある笑顔をむける。
「ほぅほぅ、飲み過ぎて、ねぇ。道場で?」
目を覚ました平隊士数人がその私の様子を察して、一目散に道場を飛び出してゆく。
「堅ぇこと言うなよ、葉桜。おら、平助、二日酔いには迎え酒がいいんだぜ」
尚、藤堂に飲ませようとする原田の頭を拳で殴りつける。ほとんどの隊士には昨夜の夕食時に挨拶を済ませてある。
「飲むなら庭でやれ、原田」
原田は痛ぇーなとぼやきつつ、大きな欠伸をした。寝起きだからか、乱れた着物の隙間から腹が見え、夕べも聞かされた切腹に失敗したとかいう横一文字の傷痕が覗いている。
「ん、何してんだ、葉桜?」
それから、と私はまだ寝転がって眠っている永倉に近づく。
「いつまで寝てるつもりだ、永倉。さっさと起きないと蹴るぞ」
無造作に踏み付けようとした私は、だがしかし、蹴り足を捕まれて、そのまま後ろに倒れ込んだ。強かに頭も打った。
「っいっつー」
「バーカ。んなに何度も蹴られてたまるか」
周囲から、おぉと歓声があがる。
寝転がったまま私が自分の足元に目を移すと、にやにや笑っている永倉が右足首を掴んで離さない。片足を押さえただけでいい気になるなよ。
「そうかよっ」
私は体を捻って、空いた左足で永倉を蹴りつけようと仕掛けた。しかし、それも難なく避けられて、抑えられる。
「げっ」
「はははっ、甘ぇな、葉桜っ」
「くっそ、離せ、バカ倉」
悪態を付くと永倉に捕まれた足首に強く力が加えられた。半端ない痛さに思いがけず、目元が潤むのを感じる。
実家の道場ではこんな簡単に抑えられることもないし、足を取られたこともない。永倉とは実力が均衡しているとはいえ、こんな風に負かされるのはひどく悔しい。
「離してください永倉様、って言ったら、離してやる……」
にやにやと私を笑っていた永倉の表情が、急に驚愕へと変わる。
「バカか、誰が言うかっ」
なんで私が「永倉様」なんて言うんだ。私は仕えるために来たわけじゃないし、女として付き合うつもりもない。
「お、おい」
悔しさに歯噛みしていた私だか、急に目の前の永倉の姿が歪み、吐きそうな気分の悪さに襲われた。ヤバイ、さっき頭打ったせいか、目の前がちらつく。
「は、なせ……っ」
「しっかりしろ、葉桜!」
暗転する意識の向こう、私は誰かの温かな腕に抱き上げられるのを感じていた。それは遠い遠い記憶と同じに、とても強く、安心できる腕だった。
穏やかな午後の陽気に、まどろむ瞼をゆっくりと押し上げる。とろり、と世界が蕩けて、とても甘い砂糖菓子でもつまんでいる気分だ。
だが、次の瞬間には後頭部の痛みで、私は頭を抱えていた。
(え、なんで)
状況が分からないが、昨日、自分が壬生浪士組へ入隊したことは覚えている。歓迎会ということはなかったが、夕食で酒が振る舞われたのは珍しいらしい。最初だからそれも一杯でやめたし、それほど強い酒でもなかったから、二日酔いということもないだろう。だとしたら、この痛みは眠っている間にどこかにぶつけたりしたのだろうか。
「気がついたかい」
傍らの落ち着いた男声を聞いて、私は漸く自分の布団の脇に男が座っていることに気がついた。
芹沢や近藤とも違う、穏やかな大人の雰囲気を醸し、文人とも見えるこの男は山南敬助という。昨日挨拶した時も思ったが、とても穏やかな人で、剣を持つ人には、噂で聞く壬生浪士組の一員とは到底見えない。山南は爽やかな竹林の緑で統一された着流し姿で微笑んでいる。
「え、あれ?」
更に酷くなる頭痛を堪えて私は起きあがった。困ったことに本当に状況が見えない。なんで自分の部屋に山南がいて、しかも温く微笑んでいるのか。そもそもどうしてこんなに外が明るいのに自分は眠っていたのか。
「あ、朝餉!」
そういえばお腹が空いたと叫んだとたん、山南は微笑を崩して笑った。
「もう当にお昼だよ」
初日から寝坊ですか、私。良い根性だ。昨日、土方に散々念を押されたってのに。
土方というのはこの壬生浪士組で副長という名の雑用を務めている男だ。彼の持つ雰囲気から固い剣をもつのかと思いきや、実に不規則で荒削りな剣を使うらしい。彼が日野で暴れていた噂を思い出したのは、その後のことだ。
噂を教えてくれたのは沖田という年若い少年だ。彼自身を簡単に紹介すると、藤堂と同じぐらいの歳だというが、その剣の腕はずば抜けているという。
「葉桜君は寝かせておいてくれと永倉君が頼んだようだから、土方君へ報告をしなくても大丈夫だよ」
「え、永倉……さんが?」
「なんでも自分たちのせいだからって。早朝から永倉君達とやりあったそうじゃないか」
「やりあっ……?」
「自分たちの不注意でこうなったから、と言っていたよ」
山南と話す間にだんだんと私は思い出してきた。やりあったって言い方は、まるで稽古していたみたいに言ってるけど、つまり自分たちが道場で酒盛りしてたことを隠しているんだけじゃないのか。
「彼らも別に悪気があるわけじゃないんだよ」
どうしてそれを山南が弁明するのか。怪訝な視線を向ける私に、山南が穏やかに微笑む。
「ただ、なんというか葉桜君とは多少考え方が異なる部分があるというだけで」
「考えが異なるから道場で酒盛りするんですか?」
半眼で問いただしても彼の相好は崩れることが無く、それで全部わかっているのだと私は知ってしまった。これでは、どう考えても自分が悪者だ。どうやらここではそういうものなのだと、受け入れるしかないらしい。
「ーー……郷に入っては郷に従え、てことか」
私が小さく呟くと、山南は目を丸くする。
「山南さん、どうかしました?」
「いや、そんなにあっさりと納得されるとは思わなかったから」
「私、そんなに頑固そうに見えます?」
山南からは言葉ではなく苦笑で返答され、私は何度となくされた誤解に同じく笑って返した。
「あんまり堅苦しく考えてたら、見えるものも見えなくなりますからね」
山南の両眉が微細に上がる。
「時間や状況ってのは変化する生き物だから、囚われていてはいけないと」
「時間と状況が、変化、ですか」
「そうそう、過去の歴史にもあるでしょう? ーー祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、と。日常っていうのはどう足掻いたって変わっていくものであるし、変えていかないといけないものでもあるんです。だったらどんなコトでも受け入れてしまった方が楽しいじゃありませんか」
一応実家の道場は塾も兼業していたというのもあるから、わたしだって一通りの漢詩は読んだし、漢文も読んだ。身体を動かすのが好きだと気がつくよりも先に、書に親しんできたのはやはり好きだからだ。
山南に諳んじてみせたのは「平家物語」の最初の一節で、世の中は変わっていくものだと、どんなものでも美しい時を迎えれば、老いていく時も迎えるのだとかって内容だった。それを教えてくれた人の感想は、それなら一瞬一瞬を楽しんだ方がいいに決まってる、悲しんでばかりいる人生の何が楽しいというのか、というものだった。
過去の出来事を思いだし、思わず私の口元にも笑みが溢れる。
「葉桜君は、誰かに師事していたことでもあるのかい?」
問われて山南に視線を移すと、先程よりもわずかに頬に赤みがさしている。どうしたのだろう。
「え?」
「ずいぶんと文学の知識がありそうだから」
「本を読んだりはしましたけど、師事しているかといわれるとそういう人はいませんね」
「そう、なんだ」
がっくりと少し肩を落とす山南が少し哀れに思えたが、真実なのだがらどうしようもない。書を読む以外で知識をくれたのは、父様ぐらいのものだ。その人も今は亡い。
ここまで目の前で落胆されると申し訳ないような気がして、私は声をかけようと口を開いたが、障子の向こうに人影が現れたのはほぼ同時だったので口をつぐんだ。
「山南さん、葉桜は起きたのかい?」
人影は永倉の声をしていて、山南が起きてると告げると部屋に入ってきた。永倉の後に原田と藤堂も続く。三人は山南とは対面に並んで、私の布団の側に座った。
「もう平気なのか?」
「まさか頭を打ったなんて思わなくってよ」
最初に口を開いたのは原田で、本当に心配してくれているように見えた。次が永倉で、口調に詫びる響きはない。
「藤堂は大丈夫?」
何か言う前の藤堂に私が声をかけると、きょとんとした表情が返ってきた。まるで仔犬のような可愛いさに、最初の勝負のことを忘れそうだ。抱きしめて、ぐりぐりしたい衝動を掛け布団を握って抑える。
「ほら、あの時二日酔いっぽかったし」
「あのぐらいは別に、いつものことだから」
いつもなのか。たぶん永倉と原田とつるんでるからだろう。この二人と飲むのは楽しそうだし、わからなくもない。
「楽しいのはいいが、飲み過ぎちゃいけないよ。過ぎれば良薬も毒だから」
伸ばした手で頭を撫でると、藤堂は複雑そうに私を見る。美少年で可愛いなあ、と気持ちがほのぼのする。
「てか、俺らは無視かよ」
永倉と原田の抗議に、私は二人へ視線を移す。それから、また美少年の瞳を見る。
「別にそんなつもりはないよ。ただ、ほら藤堂はなんとなくかまいたくなるというか」
「え!?」
「弟みたいで可愛いし」
言ったとたんに藤堂は項垂れ、永倉と原田は爆笑した。山南の視線を感じて向き直ると、彼は複雑な顔で私達を見ている。
「山南さん、どうかし……!」
向き直ってすぐ、胃に不快感が起きて、私は少し気持ち悪くなる。
「葉桜君?」
気づかれないように深呼吸し、もう一度山南に笑いかける。
「なんでもありません。で、永倉たちは何しに来たの?」
ことなしに続けようとしたら、永倉に肩を軽く突かれて私は布団に倒された。
「へ?」
「まだ具合悪いんなら無理すんな」
なんでバレたんだろう。疑問に思っているうちに、掛け布団を頭まで被せられてしまった。
「今はとにかく休め。仕事は明日からってことにしてもらったしよ」
そんなことを言われても。
「土方さんの許可はとってあるぜ」
なにより、葉桜は自分の班だからと言っているが。そうじゃなくて。
「何だ? 他になにか必要か?」
さらに何か続けようとする永倉の言葉を遮って、私は漸く口にできた。
「お腹空いた」
一瞬の間を置いて、私は全員に大笑いされてしまった。朝から何も食べてないんだから、仕方ないじゃないか。
鈴花に昼食を持ってきてもらえるまでの間に、私は結局自分で謝った。三人はどこか罰が悪そうに笑っていて、面白かった。
5#大阪の暑い日
文久三年、水無月三日。うだるような暑い日だった。
壬生浪士組入隊して程なく、隊士達は大阪に出てきていた。目的は大阪で「天下浪士」という偽名をもって不逞浪士が人に斬りかかるという事件が起きたせいだ。不逞浪士捕縛の為に京を離れ、大阪市中取締りへと向かう事となったのだった。
「うぅむ」
しまったと私が気がついた時には既に遅かった。道の端で腕を組んで状況を考える私の前を足早に何人もが通り過ぎつつ、たまにこちらをちら見してゆく。
一、はぐれた。
二、迷った。
三、何処に行けばいいのかわからない。
(てゆーか、全部だ、全部)
私自身、協調性なんて欠片ももっていない自覚はあるが、まさか一緒に歩いているのにはぐれるとは。なんというか我ながら凄すぎる。
道行く人を眺めながら、運良く知り合いでも通らないかと考えてみるが、大阪に知り合いなんていない。その辺の人に聞いてみるのがいいか、いっそこのまま見物でもしてしまおうか。
しかし、それでは間違いなく私は土方の大目玉をくらうだろう。あの仏頂面を鈴花はかなり怖がっているから、私が怒られるというだけで心配もするだろう。鈴花に余計な心配をかけるというのは、彼女自身のためにも避けた方が良い。
顎をあげて空を見上げると、今日は快晴で暑いくらいだ。こんな天気の良い日に何が起こるか私は知っているが、あまり進んで関わりたくはない。
(力士なんて暑苦しいモノ見たくもないしね)
普通なら喜ぶ人の多い出来事かもしれないが、私的には贔屓の力士がいるわけでもなく、なによりも過去の経緯から関わるのは遠慮したい。過去について、と考えかけて眉根を寄せた私は、頭を振って、それを振り払った。
あの紙に書いてあったのはこうである。
ーー文久三年、水無月。大阪にて舟涼み。その後力士と乱闘。梅さんと遭遇。
出来事は別に死人が出るようなものでもないし、私の出る幕はない。どうせなら屯所でサボっていたかったのだが、いつの間にか大阪行きに入っていたのだ。近藤が画策したのかどうかわからないが、面倒なことをしてくれたものである。
(梅さんが誰かは気になるけど、留守番がよかったなぁ)
クラクラとしてくる頭で私は空を仰ぐ。まったく、少しぐらい雲が出てくれてもいいのにと心の中で呟いた。
「あら、葉桜ちゃんじゃない?」
聞いたことのある声に私は振り返った。と、すぐに視界が暗転する。
(やば、倒れる)
倒れるときには倒れるとわかるけれど、どうせならもう少し早めに察知したいものだ。原因はなんとなくわかっているが、しかしどうしてこういうものは急なのだろう。
辛うじて私は腕を着いたものの、ついた側はどこもかしこも鈍く痛む。だが、頬に着いた地面は冷たくて気持ち良くて。埃っぽいのが難点だが、暑いより良いと感じた。地面に耳をつけているせいで響いてくる複数の足音が、私を眠りへと誘う。
「葉桜君!?」
「葉桜ちゃん!?」
二つの声、が、私を呼んだ。直後にふわふわと体が浮かぶのを感じる。
(近藤、さん、と……誰、だっけ?)
絶対に聞いたことのある声の主を見ようと思ったけど、私の目蓋は重くて上がらない。
「しっかりしろっ」
「勇ちゃん、とにかく宿に運びましょう!」
「おう」
大きくなった揺れに気分の悪さを感じながら、私はそのまま意識を手放した。
(空が、茶色い)
目を覚まし、ぼーっと見上げる其れが天井だとわかるまで数秒かかった。おそらく、今日の旅籠となる大阪八軒屋旅宿京屋だ。ついてからだといくらでも思い出せる。それから、何があったのかを考える。
「私、倒れたのか?」
「そうよ」
額に冷たい手ぬぐいが置かれたので、そちらへと視線を移すと、そこには寸分の隙もなく着飾った女がいた。晴れやかな着物を幾重にも重ね、長い髪は煌びやかに飾り、白粉を叩き、紅を引く姿は私と対照的だ。
「……なによ」
「いや、可愛いなぁって」
私の言葉に、当たり前でしょと女ーー山崎烝は答えた。
宇都宮藩を出て旅をしている最中に何度となく遭遇している人物で、初対面から珍しく意気投合した希有な人で、今やマブダチとなっている。格好こそ女性を装うが、山崎は医学的には男性だ。心は女性と主張する山崎は、私にはとても自由で羨ましい。
「見つけたとたんに倒れるんだもの。吃驚したわよ」
私が倒れた原因は、やはり単なる熱射病らしい。まぁ、大阪に来て休む場所にたどり着く前にはぐれ、二、三刻は彷徨っていたのだ。今日の天気では無理もない。
「サラシ、取ったわよ」
怒りながら、山崎に責められた私は苦笑いを返すほかない。どうやら胸を締めつけていたのも原因らしいが、こういうときの女の身はつくづく厄介だなと、静かに歎息したのだった。
「あぁ、まぁ、あんたならいいか」
一応相手が男であれば恥じらってみせるのがつねかもしれないが、別に今更山崎が男か女かどうかなんて気にするわけがない。実際、山崎の格好は本人にとても良く似合っているから、私は構わないし、女だと主張するならそう対応するまでだ。
山崎はまだ何か言いたいことがあるのか、まだ不機嫌そうに私をみている。
「ずるいわよね」
「は?」
「あんた男みたいなのに、しっかり女なんだもん」
どうやら、体つきのことを言っているらしい。そうは言っても筋肉は付きにくいし、力ではどうしても男に敵わないこの身は不便だと、私自身は思っている。それを話したところでどうにもならないから、私は苦笑で受け流す。
「悪いな」
「悪いわよ」
むくれている山崎はとても女性らしくて可愛くて、私は笑いをこらえきれない。笑わないで、と山崎にまた怒られて、それがまた可愛くて、連鎖する。仕舞いには山崎もつられて笑った。
「そろそろ入ってもいいかい?」
襖の向こうから、控えめに声がかかる。この声は近藤だ。意識が戻ったときにはそこに気配があることに気がついていたから、最初から私たちの会話も聞いていることだろう。
「どうぞ」
起きあがって、近藤を迎えようとすると、山崎と二人で止められた。
「そのままでいいから」
「そうそう。病人はおとなしく眠ってらっしゃい」
近藤は山崎の隣に座って、私を見る。
「もう具合はいいみたいだね」
「ええ、だから」
「待った。とにかく、今は起きあがらない方がいい」
具合がいいなら別に起きあがってもいいと思うのだが、近藤は何を言っているのだろう。
私が考え込んでいると、襖の向こうにまた気配が現れる。今度の堅い気配は、土方だろう。
「近藤さん、いるかい?」
「あぁ、トシも入ってくれ」
藍の着流し姿をした機嫌の悪そうな男が入ってきた。土方歳三ーー壬生浪士組で副長という名前の雑用をしている、と言ったら怒られるが、実際とりまとめ役の仕事なんてそんなもんだ。土方は私を一瞥すると、山崎たちとは反対側に座った。怒るのだろうか。はぐれたのは私自身の責任だし、何を言われても仕方ないから反論するつもりはないが、癖でつい身構えてしまう。
「具合はどうだ」
開口一番の土方の気遣う言葉に、私はよほど吃驚した顔をしていたのだろう。私の反応を見た土方は眉間の皺を深くし、それを見ていた山崎と近藤が大笑いする。
「二人とも煩い」
私が起きあがると笑うのを止めてくれたが、起きるなとかいろいろと別な意味で煩い。二人の制止を無視して、私は土方に向き直ることにする。
「ご迷惑をおかけしました」
「もういいのか」
「はい」
私が笑顔を作って頷くと山崎に体を引き寄せられ、後ろ向きに倒される。
「うわっ」
「駄目よっ、まだ絶対安静っ」
何を言っているのか、近藤まで何度も頷き、それに同意している。
「トシ、怒らなくてもいいじゃないの。葉桜君は無事だったんだからさ」
近藤と土方の会話が私の上を素通りする中、私は山崎から逃れようと苦戦してみる。だが、まだ本調子ではないせいか、振り解く力は出ない。迷子の後で、気心の知れた友人に出会えて、気が抜けているというのもあるかもしれない。
「ほら、大人しく寝てなさい。まだそんなに動けないでしょ」
それを察知している山崎に、私は反論する言葉を持たない。
「わかったから、離せ。大人しくしてるから」
満足そうに微笑む山崎に従い、私は大人しく布団に寝直す。
このやりとりを見ていた近藤と土方が意外そうな顔をしているのは、入隊後の私の行動によるものだろうか。
「知り合い?」
引きつった笑顔をしている近藤の問いに、私と山崎は互いに顔を合わせてから、自然に笑った。
「マブダチ」
土方の眉間の皺が、また深くなったようだ。
2#不機嫌な局長
不審な入隊者。芹沢と顔見知り編<ぇ。
(2005/11/15)
主人公らしさを考え直したら、こんなことに…!
(2005/12/13)
4#朝の習慣
たぶん、ドリームとしては駄作。
でも、書いてる本人としては、日常にいられることが楽しい。
故にこのまま突っ走ります。
もちろんオールキャラ夢でもあるので(?)、恋愛イベントも起こります♪
襲われる方向も、襲う方向もあり♪
山南さんとの会話を修正。
(2006/01/11)
5#大阪の暑い日
そんな方向です。
是非とも山崎とは悪友になりたい!
そんで、土方さんと近藤さんを困らせたい!!<まて。
(2005/11/15)
改訂
(2009/12/28)
~次回までの経過コメント
芹沢
「我々、壬生浪士の名をかたり金策を企てた不逞浪士の輩を斬ったそうだな」
「皆、その調子で頑張ってくれ。商売敵が増えては我らへの献金が減って困るからな…」
(2006/04/04 13:19)