伊東らが入隊し、人も増えてきた屯所のなかはとても賑やかになった。すでにこの場所では手狭だと言うことで、近藤らが移転を考えていることも私は知っていた。
懐から新選組に来るきっかけとなった紙を取り出し、開く。つ、と目で上から追って、思い出を追想で追いかけてゆくだけで、私は自分の目元が潤むのを感じた。乱暴にぬぐって、紙を懐に戻す。
それから、空をもう一度見上げる。空の色は夏も既に盛りを過ぎて、色を変えている。季節は既に折り返し地点だと私に告げるが、私の仕事はこれからが本番だ。だけど、まだ自分があの人ーー芹沢への想いを引きずっているのはわかっている。
移転すればここを離れることになる。それは当然なのだけど、この壬生は最後に芹沢がいた場所で、私が彼を送った場所だ。いればいるだけ私がこの想いに囚われることがわかっているけれど、離れがたいと思ってしまう。
視線を自分の手元に落とすと、かすかに震えている。見間違いでなければあの時の血がこびりついている気がして、私は強く目を閉じる。
「葉桜ちゃん」
そっと引き寄せる気配に、私は抵抗することなく体を預けて寄りかかる。いつからいたのかわからないが、私の隣に座るのは山崎だ。少しだけ目線を送ると、山崎はいつもどおりの綺羅びやかな女姿で、だけど普段は自信に満ちた顔だけが切なげに歪んでいる。
「別に、なんでもないよ。ただ思い出してただけだから」
「……話したいなら、聞くけど」
山崎の言葉の裏に無理に聞き出すつもりはないという優しさを感じて、私は安堵の笑みをこぼした。これだから、山崎は侮れない。話したいけれど、話してしまおうか迷う私の心を後押しする。
「聞いて、くれる?」
どうしてこんな話をする気になったのか、私にもよくわからない。山崎に話せば、それは土方や近藤、そして山南に伝わるとわかっているのに、それでも話して楽になりたかったのか。だけど、心のどこかで私を抑える私がいて、話したい衝動を抑えてくれた。
「私は宇都宮藩である道場をしている人に育てられた。父は私に興味の薄い人で、母は体の弱い人だった。だから、私が物心ついてすぐにいなくなってしまったんだ。一緒にいてくれた人によると、その時に私は感情のすべてを無くしてしまったらしい」
「それから、私の感情を取り戻してくれたのが父様でね、あの人の口癖はずっと、私の幸せ、だったんだ」
父様には他に子どもがいたけど、実子以上にいつも可愛がってくれて、私も父様といるのが大切だった。
目を閉じると思い出す。こんな季節はとても蒸し暑くて、山の中にいるのが一番快適だった。春も夏も秋も冬も、一緒にいてくれて、一緒に遊んでくれた。私が私に押しつぶされそうになっても、いつだって助けてくれた。
山崎が無言で私の肩を抱く力を強くする。
「ある時、父様は重い病にかかってしまってね、だんだんと体が動かなくなるのを私はずっと隣で見てた」
父様を襲った病の名は労咳で、不治の病といわれている。それは今でも変わらない。
「あれだけ強かった人が病一つで剣を握ることさえできなくなったのに、それでも私には心配をかけまいと笑っていたんだ」
耳には今でもあの声が残っている。
ーー葉桜、なんて顔してんだ。
ーー俺は大丈夫だから、心配すんなって。
全然大丈夫じゃないこと、私は知ってた。私にだけは弱っているところを見られたくなかったのだって知ってた。だけど、それでも私は一緒にいたかった。
「丁度、今かもう少しぐらいあとの季節かな。ある日、父様が仕合しようって言ったんだ」
それまでふらついてた癖に、いきなり仕合をしようとか言い出すから私はびっくりした。剣だって握れないくせに、と反論したら大丈夫だと言って、剣を持ってみせて。
「今日は体調がいいし、いい加減葉桜の剣も見てやらねぇとな」
「見てやるって、何言ってる。いくら父様でも、私は病人相手に剣は」
「大丈夫だって」
結局私が押し切られてしまったのは、確かに父様が剣を握って立っていたことが嬉しかったというのもあるし、久しぶりに剣を交えられるのが嬉しかったというのもある。
「具合が悪いようなら、すぐにやめるからな?」
「ははは、大丈夫だって」
庭先で互いに向かい合い、剣を構えた。それだけでも、全然衰えはなくて、私はそれがすごく嬉しくて、まるで元気だった父様みたいな気がしてしまって。
「行くよ、父様」
「ーーなあ、葉桜」
「っ、な、なんだよっ」
懐に飛び込もうとした私は、いきなり機先を制されて、口を尖らせる。
「俺はな、葉桜にだけは絶対に幸せになってもらいてぇ。だから、おまえはここで立ち止まっているべきじゃねぇんだ」
一瞬、私は父様が何を言っているのかわからなかった。訝しむ私に父様は続ける。
「お前の手にかかって死ねるなら、それは俺の本望だ。だって、愛する娘の手で、剣士として死ねるなんて、そうあることじゃねぇからな。だから、もし俺が死んだとしても気に病むなよ」
私は父様がバカなことを言ってると思った。だけど、今思えば、あれが父様の最後の告白で、残される私が進むための道を示してくれたのだとわかる。結局、父様は最後まで私に甘くて、誰よりも優しくて、残酷だった。
「負ける気ならやらない」
「おぉっと、すまんすまん。じゃあ、やろうか」
そういって、前みたいに父様はおどけて笑ってから、また中段に剣を構えた。
そこまで山崎に話してから、私は目を閉じる。それからのことは、どうしたって忘れられない。どんな命よりも、自分の命よりも大切で、私は世界で一番父様を愛してた。それなのにーー。
「葉桜ちゃん?」
私は山崎から体を離し、目元をもう一度ぬぐう。
「なんでもないよ。それより、蒸ちゃんは今日仕事だったんじゃない?」
私が笑いかけると、山崎は少し戸惑う素振りを見せる。おそらく土方から私に探りをいれてこいといわれているはずだが、それには気がつかない振りをして、報告するかは山崎に委ねることにした。
他愛もない昔話にはもうひとつの意味が含まれる。
私が大切な人をこの手にかけるのはあの時が初めてじゃない。だから気にするなと、そう伝わればいいし、伝わらなくてもいい。ただ知って欲しいのはひとつだけだ。
「土方に報告に行くならさ、伝えておいてくれる? 私は、大丈夫だからって」
伊東が来てから、土方は特に私の様子を気にしている気がする。やることが多いくせに、余計な気まで回さなくてもいいのに、それは土方の性分なのだろう。
そして、おそらくは山崎も同じで、今更私に探りを入れるなんてことをするのは、ただ心配だからで、きっと私の素性を話したとしてもなんら問題はないかもしれない。それでもーー。
山崎がいなくなった後のその場所に手を置く。
「まだあの人のことまでは話せないんだ。ごめん、蒸ちゃん」
ぱたりと落ちた雫が縁側の木目に落ちて、じわりと吸い込まれて闇に消えた。
芹沢とのことまで話せない理由は、自分でもわからない。父様は愛していた。だけど、芹沢を想うのと父様を想う気持ちは全然別で、私は芹沢を憎んでもいたんだ。私を裏切って、置いていってしまったあの人を憎んでいたから、だから私は自分の手で送ったのに。
最後の最後に気づいてしまった。芹沢も父様と同じだったと。
私の好きになる人は、父様も、芹沢もいつも私を置いていく。きっと、山南も、土方や近藤も同じだ。蒼の空を高く仰ぐいだ私は、眦をこぼれ落ちる雫が頬を伝い落ちるのを感じながら、強く誓う。
これ以上、誰も死なせやしない。私が、この命に代えても守り通す。だから、どうかーー。
(私を置いていかないで)
子供じみた願いを誓いに変えて、私は強く天を睨みつけた。
やや?明るくしようとしたんだが、何故か暗くなった。
次が土方控えてるし別な人で葉桜に探りを入れようとしたわけですが。
失敗した気がします。
(2010/03/27)