40#よくある移動手段
ヨンフェンの国境を超えるとすぐにリュドラント領になるとはいえ、ルクレシア側と違いはほとんどない。同じような街並、同じような場所にあるリュドラント側警備隊の詰所の奥にある厩舎まで私はヨウに連れて来られていた。もちろん、ディも一緒だ。ジェリンは私を関所で待っていたディに預けると、さっさといなくなってしまった。
「ヨウ、馬車はねぇのか」
ディの問いかけに対して、ヨウは元々深い眉間の皺を更に深くする。それを見たディは真剣な顔で唸り声をあげた。
「馬で移動するの?」
「ああ、隣町だがここからかなり距離がある。馬でいけば日暮れ前にはつける」
本当はもっと早くに出たかったんだといいながら馬を選ぶヨウを見ながら、私も口を曲げる。
「私だって、早く出たかったよ。でも、ヨウさんが余計なことをいうからドレスなんて着る羽目になったんだから」
私は今、汚れないように足元まできっちりと隠れるフード付きマントを上から羽織っているが、ドレス姿だ。昨日からの試着やら着替えやら化粧やらで、精神的には色々と私は何かを削られた気分だ。戦う前から満身創痍。幸いにもジェリンが口出ししなかったのと、完結な「女神らしく」という言葉の魔法で、然程華美なことにはならなかったが。
「そういや、ずいぶんと王の到着が早いな」
何かに気がついた様子で、ディが問いかける。
「…陛下は迅速を尊ぶ方だ」
妙に強張った表情で交わされる会話で不安を誘われ、私は近くにいたディのマントを握った。安心させるためなのか、ディの大きな手が私の頭に置かれ、ゆっくりと撫でられる。
「本隊はどの辺りだ」
「陛下が居られる場所が本隊、すなわち」
「隣はノゼアンだったな。あの場所は小さいし、本隊全てを受け入れられるほどの宿もない。町の外に野営してるんだな?」
「そうだ」
二人の話をまとめると、既にリュドラントは攻めるつもりでこの国境の隣町まで来ているらしい。だからこそ、馬なのだとリュドラントの警備隊長は言っている。それでも、半日かけなければつかないというのだから、それなりに離れているはずだが。
「馬車だと兄貴たちの目的には間に合わないだろう」
事態はハーキマーさんが懸念していたとおりに切迫しているようだ。今朝方、フィッシャー達がヨンフェンに向かっているという連絡があった、とディが言っていたが、待つほどの時間はないのだろう。最初から待つつもりはないが。
「馬は苦手とかそういうことを言ってる場合じゃないんだね、リュドラントの隊長さん」
リュドラントの隊長が持つ馬の一頭に近づき、私は顔を近づける。動物に嫌われるスキルがないのは、たぶん女神の
私が馬に近づくと、何故かリュドラントの隊長が一歩下った。手綱を握られている馬も動くので、私は更に近づく。
「ヨウ、動くなよ」
更に距離を取りそうになったリュドラントの隊長に、ディが制止の声をかけると、ピタリと交代がとまった。
「ちょっとの間だけど、よろしくね」
馬に声をかけながら鼻面を撫でつつ、私は横目でリュドラントの隊長を見やる。視界の端に映るディは、少しだけ愉しそうな顔だ。
「薄々は感じてたが、ヨウはまだ女が苦手なのか?」
「……悪いか」
「ははっ、だから、未だにこんな場所で警備隊長なんかしてたんだな」
やけに愉しそうだが、私は馬に手を軽く食まれて、びくりと震えた。痛くはないが、き、気持ち悪い。
「ルーファス、やめろ」
リュドラントの隊長が呆れた様子で手綱を引き、私と距離を置いてくれる。でも、既に手がベトベトだ。
「むむむ、好かれるのはいいけど、食べないでよ。ええと、ルーファス?」
ルーファスというのは、たぶんこの馬の名前だろう。そう考えて私が呼ぶと、馬は嬉しそうにぶるると口を震わせた。そして、再び大きな舌が眼前に迫って。
「ちょ、待て!?」
慌てて私は後方へと退いた。普段ならともかく、今は化粧までされているのだ。馬にそんなものを舐めさせていいわけがない。
「わかった、おちつけ。戻ってきたら、ブラッシングさせてもらうから、それで折り合いをつけようじゃないか、ルーファス。ね、そうしよう?」
私の言葉が理解できたのかわからないが、嬉しげに嘶き、足を踏み鳴らす馬の様子にリュドラントの隊長さんもディも驚いているようだ。
「女神の
「旅の最中にそこまで好かれている姿は見てねぇが」
何を驚いているのだろう。動物が私に危害を加えないというのは、私にとって生まれた時から当然のことだった。特別好かれるわけじゃないから、撫でさせてもらえるかは半々なんだが、少なくとも野犬に噛まれたりは滅多にない。操られているときは、もちろん噛まれたり攻撃されるから、然程役に立つ能力とは云い難い。
「……時間ないんでしょ。さっさと行こうよ、ディも隊長さんも」
でも、説明するのも言い訳するのも面倒なので、私は苦笑して、馬の首を叩いた。ちなみに、一人で乗ることは出来ない。酔うから、乗馬の練習はしたことがないのだ。
「アディ」
ディの声で彼を見ようとした私は、不意に足が地面から離れるのを感じた。何が起きたかを頭で認識した時には、既に私の身体は馬上にあって、慣れたように同じ馬にディが乗る。どうしたものかと後ろに乗ったディを見上げると、柔らかな笑顔と共に頭を軽く撫でられる。
「どっちにしろそんな格好してちゃ、一人で馬に乗れねェよな」
「そうだけど」
いくら酔うとは言っても、馬に乗るぐらいならできる。自分で操ってもどうせ最後は酔ってしまうのだけど、だからといって、私が人任せにできない性分だとディも知っているはずだ。
私の不満をディは別のコトを受け取っているらしい。
「一応、ヨウは信頼しているが、」
降りてきたディの視線は、不安そうに私の顔の当りを彷徨う。
「俺がアディの騎士だからな」
言葉だけなら今までどおりなのだけど、彷徨う視線としっかりと私の身体に回された腕が「信頼」を裏切っている気がする。同じく馬に乗ったリュドラントの警備隊長は、不機嫌な眉間の皺をさらに深くしているようだ。不機嫌な声が短く告げる。
「いくぞ」
腹を蹴られたリュドラントの警備隊長の馬が、駆け出す。それに続き、ディも同じようにして馬を走らせた。激しい振動で振り落とされないように、私は目の前の馬の首に両腕を回してしっかりとしがみつく。
「っ」
傷はすっかり治っていても関係ない。内臓がひっくり返されると錯覚しそうな振動だ。
「気分が悪くなっても止まれねぇ。我慢してくれ」
私は小さく肯き、既に揺れで気分が悪いことは口にせずにただただ強く両目を閉じて、ディの服を掴んで握り締めた拳を強くした。
41#よくいる従者
どのぐらい馬に揺られていたのか、馬が駆け出して程なく意識を保つことを放棄した私は、馬の止まる気配を感じてうっすらと目を覚ました。馬にしがみつくようにして意識を飛ばしていた私の後頭部に、フード越しに強い日差しが照りつける。足元には濃い目に馬とその上の人間の影が映っていて、その位置から私は今が昼頃であると推測した。
「起きてるか、アディ?」
「ん……」
先に馬から降りたディに促され、私は緩慢な動作で身体を起こす。その際、二日酔いでもここまではならないという酔いの最中の私は、馬から落ちかけた。だが、硬い地面に身体を打ち付けられることはなく、寝物語の病弱な姫君のようにちょうどよくディの腕に収まってしまう。
それに半分の居心地の悪さと半分の心地よさを感じて、私は複雑に顔を歪めた。
「自分で歩く、から」
ディは心配そうにしながらも、私を地面に立たせてくれる。揺れないはずの地面がぐらぐらと揺れている気がする私は、差し出されたディの腕を掴んでいないとそのまま倒れてしまいそうだ。
少し離れた場所で同じく馬から降りたリュドラントの警備隊長が、リュドラントの兵士に何か話をしているのが見える。
いよいよ敵となるかもしれない隣国の王と対面するのだと考えると、私も気を引き締めたいところだが、やはり気分の悪さが先に立って、上手く物を考えられない。こんなことじゃダメだ、と軽く首を振ると被っていたフードが外れてしまった。
周囲からざわめきが上がるが、こういう女性らしい格好の時はいつものことなので、私はあまり気にせずに隣のディを見上げた。彼は何故か眉間に皺を寄せ、口を曲げて唸り声をあげていた。が、私が見ていることに気がつくと、直ぐに何かに気が付き気遣わしげにハの字に眉を曲げる。
「休ませてはやりたいが」
ディが何を言いたいのかわかり、私は軽く首を振って微笑んだ。
「後でそうさせてもらう。今は先にやることがあるしね」
ディの手がさり気なくフードを元に戻したが、何人かの視線を集めてしまった。だが、それは私だけのことを話しているのではないようだ。囁く声の中から推測されることを思い、私はディを見上げる。
「ディはリュドラントの出身だったの?」
彼らは敵国の使者として来た私よりも、ディに戸惑いを隠せない様子だ。ごく一部、あからさまな敵意を向けてくる者もいるが、大半は何故と無言で問いかけてきている。
「旅をしてたときに、寄ったことがあるだけだ」
私に苦笑を返すディの様子は、どこか寂しげだ。
「他の場所より、少しだけ長く、滞在しただけだ」
少しだけ長く、と繰り返すディ瞳の奥の闇色が深くなる。それは何かあると示していて、だけど尋ねることを躊躇わせる色で。どうしたらいいかわからない焦燥感に、私は支えてくれているディの腕を握る手に力を込めていた。
ディの過去を私はただ旅をしていたとしか聞いていない。仕えている人がいたのも知っているし、ずっと女神の眷属を探していたのも、ハーキマーさんから聞いている。だけど、その詳細も、旅に出る前のディのことも知らない。どこの出身かどころか、その剣がどこの流派かさえも、私にはわからない。
詮索をされたくないのは私も同じだから、ディが言わないのならば、知らなくても良いことだ、と私は無理やりに自分を納得させるしかない。でも、今のディはどこか危うげで、自分がいなければどうなるかわからない不安定さを持っている。まるで、そう、仲間を亡くした時の私と同じようなーー。
「着いて来い」
リュドラントの隊長の合図で歩き出そうとしたが、私はまだ揺れる地面に身体がふらついてしまう。転ばぬようにと堪えるためにディの腕を強く掴み、だけど背筋だけは伸ばしてしっかりと前を見据える。
「歩けるな?」
「うん」
ゆっくりと歩く私をリードするディの足取りは慣れていて、今更そんなことに動揺する自分を押し隠す。思えば、出会った時から、ディは言葉とは裏腹に優しく、包むように私を守ってくれていた。
何度も何故と聞いたが、未だ私はディから明確な理由をもらっていない。マリベルに雇われたからとか、女神の従者だから、というだけでは理由の付かないほどの過保護ぶりだ。ディはどこまでに私に着いてきて、そして、何も言わずとも守ってくれる。
今までなら、私はそれに恐怖したのに、ディならば大丈夫だと安心してしまう。その自分の思考の変化にも、未だ私は戸惑っていた。
歩きながらディを困惑に見上げると、大きな手でフードごと軽く頭を叩かれた。何も言わずとも、大丈夫だと雄弁に言われたように感じ、私はほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じてしまい、俯いた。
今はそんな場合じゃないというのに、ハーキマーさんの家で、そしてヨンフェンの詰所で言われた言葉を思い出してしまったのだ。
ーー俺が守りたいと思ったのはおまえだけだ。
ーー俺は、女神なんかじゃなく、おまえに誓ったんだ。
もしもディが言ったそれらが本当だとしても、私には彼に返せるようなものは何もない。
女神の末裔、女神の眷属といった
だから、ディのような女神の従者がいることに驚いたし、本当はとても嬉しかったのだ。まだ自分には価値が有るのだと言われている気がして、心底嬉しかったのだ。
もう一度、私は隣を歩くディを横目で見上げる。彼は今度は私を見ずに、真っ直ぐに前を向いて、エスコートしてくれている。
もしも今私に女神の力を行使することができたら。
(私は、この人を、女神の従者という役目から解き放ってあげる事ができるだろうか)
そんなどうすることもできない仮定が脳裏を過ぎって、私は慌てて首を振ってそれを追い払った。どれだけ仮定しても、既に失われた女神の力を行使する方法なんて、あるはずがないのだから、考えるだけ無駄なことだ。
「ここで少し待っててくれ」
リュドラントの隊長がそういい置いて離れていく背中を見ながら、私は今から対峙する相手へと意識を切り替えた。ディのことは、今は後だ。
42#よくある対談
そこは数カ所に張られた小さな一軒家のようなテントの中でも一際大きく、周囲のテントの三倍はありそうな灰色のテントだった。入口に剣を携えた二人の兵士が立っていることからも、中にいる人物が窺い知れる。
入口を開けずに中の者と対話をしていたリュドラントの隊長が、私達を振り返り、手招きする。その顔は眉間に皺を寄せた厳しいものではあったが、ほんのわずかだけ私は彼の心配を感じ取ってしまった。それは王を心配する臣下のものではなく、気のせいでなければ私を案じるものだ。
思えば、彼は特別私自身を嫌っているわけではないし、嫌われるほどの会話の応酬もない。最初に拳技を見せたといっても、それでも私は小娘にしか見えないだろう。事実、私が女神の末裔であることは、女神の力の行使さえしなければ、早々気づかれるものでもないのだ。
普段ならば反発心を覚える所ではあるが、今は敵陣で緊張しているせいだろうか。素直にそれを有難く思い、私は彼に僅かに微笑んでいた。
ディと一緒に天幕の入口に行くと、それが形式のように入口に槍を交差して止められる。リュドラントの隊長が呆れた様子で軽く咎めると、彼らはすぐにそれを外し、元のように直立にその場で姿勢を正した。
私は入口の前にきても、まだ自分がディの手を握りしめていたことに気づいた。緊張でじっとりと汗ばんでいるのが自分でもわかるが、こうして繋いでいることで、みっともなく震えることなくここまでこれた。
ディを見上げると、私の視線に気づいた彼が気遣わしげに目で問いかけてくる。今までなら、それはオーサーの役目だったことを思い出した私は、自分が最も信頼する幼馴染みと同等にディのことを信用しているのだと自覚せざるを得なかった。
まだ出会ってひと月も経っていないというのにここまで信用してしまうのは、やはり彼が女神の従者であるからなのだろうか。それとも、私はこの男のことをーー。
「アディ?」
小さなディの問いかけに、私は慌てて首を振って、考えを振り払った。今は、戦を止めることだけを考えなきゃいけない。色恋なんて、私には無縁のものだ。
「大丈夫」
私は深呼吸して、繋いでいた手を自分から離した。離れていく熱量が寂しいなんて、思っていちゃいけない。でも。
「ーーそこに、いてよね、ディ」
真っ直ぐに顔を見て云うには恥ずかしくて、私は視線を逸らしたまま言った。が、何の反応も返ってこないことに不安を覚えて、横目でディの様子を伺う。彼は少し意外そうな顔をした後で、照れくさそうに笑って、大きな手で私の背中を押した。
「心配すんな」
勢いのままに天幕に入り込んだ私は、ディに抗議する前に、目の前の相手に身体を強張らせることになった。
外はまた十分に明るかったために、急に暗いところへと入った私は、直ぐには目が聞かなかった。だが、呼吸することを一時忘れるほどに、私は動けなかった。
「王、客人をお連れいたしました」
直ぐ様リュドラントの隊長が私を背後に庇ってくれなければ、私はその場で無様に膝をついてしまっていたかもしれない。
ともあれ、お陰で一息つくことが出来た私は、強く自分の意思を思い起こすことが出来た。逃げることはできないし、私は自分ができることをするために、ここにいる。それを思い出し、深く息を吸い込み、吐き出す。
「アンバーグリス、主は席を外せ」
「……はっ」
僅かな逡巡をしたものの、リュドラントの隊長はあっさりと身を翻し、私の側を歩いて出て行った。その際、私だけに聞こえるように囁いていったが、それが聞こえていた室内の男は苦笑する。ようやく薄暗さに慣れた私の目に、椅子に座った男が映った。室内にいるものは彼だけであることから、彼がリュドラントの王で間違いないだろう。
ディほどの大男が五人ぐらいは悠々と座れそうな室内の中央には、燭台ひとつに燈された頼りない明かりしか無い。その明かりの向こう側に据えられた椅子に座っている男からは、未だ絶えずに息苦しいほどの圧力を感じる。
私はゆっくりと深呼吸し、改めて男を見据えた。
見た目だけなら、白が少し混じった黒髪をリュドラントの隊長と同じく後ろへなでつけ、リュドラントの紋章入りの鎧を身に着けた強面の壮年男性である。ではどこから彼への畏怖というか恐怖感が出てくるのかというと、その黒の濃い双眸からだろうか。意思の強さを感じさせる目元は細められ、私をじっくりと観察しているようだ。
「名は何という」
男の問いかけを聞いて、私はふと自分がまだローブを着たままだということに思い至った。何故かリュドラントの隊長も、ディも注意を促してこなかったが、いくらなんでも不敬だろう。特に私がこれからリュドラントの王に願うのは撤退、すなわち非公式とはいえ和平の使者であるともいえる。私は着ていた濃茶のローブをゆっくりと脱ぎ、スカートを膝のあたりで軽く摘んで、頭を下げた。
「アデュラリア、と申します」
「…
「これ以外の名を持っておりません」
喉の奥を鳴らすような男の笑いに、私は今にも逃げ出したくなる足を踏みしめて耐える。女神の立場だって今までに何度も、怖いと、逃げ出したいと、何度も何度も思った。だけど、口にしたことで女神を継ぐ覚悟は決まったから、私はもう逃げないと決めたから。
ローブの下に私が着ていたのは、ジェリンが選んだ装飾の少ない真白い布で作られたシンプルなドレスだ。金属を一切使わず、布だけで構成されたとは思えないこのドレスは、壁画の女神が着ているものに極めて酷似していることで有名だ。素材自体も希少な糸を使っているので、当然かなり値が張る。だから、私は違うものにして欲しいと頼んだのだが、ジェリンに押し切られてしまった。
その時のことを思い出して、眉間に軽く皺を寄せた私を見て、男は面白そうに口を歪めたが、その目はまったく笑っていない。
「それで、その女神が我に何用じゃ」
「此度のルクレシアとの戦争に関して」
口に出した次の瞬間には、私の喉元に鋭い剣先が突きつけられていた。避けることが出来たとしても、今はそれをするのは得策ではない。驚きも恐怖も努めて押し隠し、私はそれをした男を真っ直ぐに見つめた。首筋を冷たい汗が流れ落ちてゆく。
「我はアークライトがいるならば、ルクレシアのような小国ぐらい、諦めても良いと思っておった。だが、先に約定を違えたはそちら。后と王子を奪われた報復を我がするは必定」
「主は知っていてここにきたか、それとも王家の命で来ただけのただの操り人なるか」
肌を粟立たせる男の威圧を、私は受け流すことだけに努める。
「私がここにきたのは無用の戦を避けるため」
「無用ではない」
「無用です。アークライト様が貴方へ嫁がれたのは両国の平和のためであるのに、自らの死をもって再びの戦となれば、天にて嘆かれることでしょう」
「…」
「何より、私のために殺害されたとあっては」
不意に顎を掴んで、顔を上げさせられる。壮年、いや初老とまで言えるかもしれない皺の奥、ギラギラと野心に満ちた黒耀の瞳が私を射抜く。
「主の代わりにアークライトが死んだとなれば、主が代わりになるか?」
「え?」
「代わりに我が隣に立つか、女神の名を持つ者よ」
意味を理解した私は、咄嗟にその腕を振り払っていた。顔を赤くした私を、男は愉快そうに笑う。しかし、未だ目はまったく笑っていない。
「女神を抱くは真の王のみ。我に世界を捧げるというならば、考えてやらなくもない」
どうだと言われて、私は奥歯を強く噛む。ここで逆らえばすぐにでも戦争が始まるかもしれない。だが、言うとおりにしても、近くルクレシアはこの男に蹂躙されてしまうのは容易に想像できる。
私に女神の力はないのだから。
「どうする、幼き女神よ」
こちらの迷いを見抜き、愉快さと野心を隠しもしない男の視線を前に、私は唇を噛み締め、強くスカートの裾を握った。
43#よくある乱入
リュドラントという国を端的に言えば、専制君主の軍事国家だ。当代の国王は血生臭い政権戦争を経て、約十年前に王となった元軍務大臣という経歴を持っている。彼が国王となった頃のリュドラント領土は今の約三分の二程だったが、国王として君臨してから三年で国内を軍事国家として制定し、そして周辺の国々に次々と攻め込んで領土を拡大していった。
その中で何故ルクレシアへの侵攻だけが遅れているのかといえば、それは女神信仰の総本山を抱えているからに他ならない。代々のルクレシア国王は知略に優れていたことも一因ではあるが、何よりも女神神殿の神官兵は守りが堅いことでも有名だ。
十分に国力を溜めたリュドラントがルクレシアに対して開戦したのが約八年前で、イネスの図書館蔵書が燃えたのもその一端である。収めたのは史実通り、アークライト姫自らの提案した和平案(以降、アークライト和平条約)によるものであり、その証として彼女は自ら敵国の花嫁となった。
当初はリュドラント王が条約を早々に破棄するものと誰もが考えたのだが、嫁いだ翌年にはアークライト妃は懐妊、王子誕生となり、以降両国はアークライト和平条約に基づいて平和を謳歌することとなった。
「どうする」
背中に隠した短剣をこっそりと私は手にする。気がついているのかどうかわからないリュドラント王は、野心に満ちた瞳で愉快そうに私を見つめている。
「話に、なりません。私に先の王妃様を超える魅力はありませんし、貴方に世界を捧げる誓いは立てられません。それに、リュドラント王、貴方は神の力に頼らずとも、それを成し得る力があるように見えます。それならどうしたって戦争は起こるし、私がリュドラント王の元へ行く理由にならない」
先の戦争を止めることが出来たのは、アークライト様あってのものだということは、子供でもわかることだ。他の誰でも、彼女の代わりは務まらなかっただろう。アークライト様はこの時代において珍しいほどの謙虚で聡明な女性だったそうだから。
この交渉がどういう形を持つとしても、私にはアークライト様のような方法で、ただ戦を止められるとは思えない。だが、相手が私を女神の系統としての価値を求めるというのなら、それが譬え偽りであっても、私は利用されてもかまわない。
男は笑いを堪える様子で、言った。
「ならば、お主が生きている限りルクレシアを攻めないと誓えば、我のもとにくるか」
「私が生きている限り、ルクレシアを攻めないでいてくれるというのならば、考えなくも……っ」
話の途中で、急に風が強く天幕の中へと吹き込んだ。私の口を大きながさがさとした男の手が塞ぎ、後ろから低く囁く。
「だから、おまえは馬鹿だってんだ」
呆れと怒りを内包した苦しげな声の男が、ディの手が私の口を塞ぐ。
「誰か一人が犠牲になるようじゃ、意味がねぇだろっ」
ディは戸口に控えていたし、天幕の壁としての布は、他の天幕よりは厚みがあるとしても、防音効果が高いわけでもない。魔法での防音もかけられていないようだ。だから、ディには会話の内容を聞こえていても不思議はない。彼の怒りの矛先は、次に私から目の前の男へとぶつけられるようだ。
「あんたもこいつをからかうな」
気安い言葉は初対面の、それも隣国とはいえ、国王に使うものではない。
「久しいな、ディ・ビアス」
男から愉しげに名を呼ばれたディは、らしくなく苛立ち、舌打ちする。
「よく我の前にまた姿を現せたものだ」
「俺もあんたのツラなんか二度と見るのはごめんだったさ。だが、俺の主人がそう望むなら仕方ねぇだろう」
普段の飄々として陽気なディの様子は影もなく、彼は強く憎しみをこめた瞳で男を射貫く。男は少し意外そうに目を見開き、私を見た。
「主人、か。そこの女神を騙る小娘に仕えておるというのかよ」
私がディを目だけで見上げると、彼は眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠しもせずに、男を睨み続けている。
「白の王子との誓いはもう良いのかよ」
男の言葉に、ディが私から離れ、剣の柄に手をかけた。乱入した時からある、強い殺気に、私は彼を止めることが出来ない。
「あんたの首を取れば戦争は起こらないよな」
「ディっ」
らしくなく、ひどく怒っているディの理由は分からない。だけど、こんな風に剣を使う人じゃないというのはわかる。こんな風に怒りにまかせて剣を振るわせてはいけないのは、付き合いの短い私でもわかる。
「短気はよくないといったじゃろう、ディ・ビアス」
「っ…あんただけは、ルーシャンとの約束さえなきゃ、さっさと斬り捨ててるところだ」
男はくつくつと、しわだらけの顔をゆがめて笑う。
「ルーシャン王子、かよ」
今はとにかく、ディをここに、これ以上リュドラントの王と話をさせてはいけないと、私の直感が訴えていた。ディから発せられる殺気に負けそうになる心を強く叱咤し、私はディの正面に、リュドラント王との間に割って入る。
「出てって、ディっ」
だけど、ディはまったく私を見向きもしない。その腕を抑えて、入口へと押し戻そうとしても、びくともしない。
「多少はその性格が丸くなっていることをあいつは願っていたが、無駄だったらしいな。女神の祈りじゃ、あんたを矯正なんかさせられないか」
「ディってばっ!」
急にディが私の腕をつかみ、引き寄せたので、私は彼に抱きつくような形でぶつかってしまった。だが、彼は意に介す様子もなく、私を引き摺るように歩き出す。
「交渉は決裂したんだろう、アディ。さっさと引き上げるぞ」
「まだ終わってないってばっ」
むしろこれからが本番なのに、ディが乱入するから滅茶苦茶になってしまった。
「だからって、さっきみたいな交渉はなしだ」
ディに逆らい、足を踏ん張ったが、ズルズルと足元が動いてしまう。
「なんでディがそんなこと決めるの……っ」
私は、私がどうなっても構わない。利用できるなら、利用すればいい。そう思っていた。だからこそ、もう少しでリュドラント王から誓約を引き出せるはずだったのだ。それなのに、あんまりだ。
思わず泣きそうになった私を、不意に引く力をゆるめたディが抱き寄せた。
「っ」
私の額に柔らかな暖かさがふれて、すぐに離れる。ディからはこれまでも多少のスキンシップはあったものの、それとは全く違う熱だと、私の本能が告げる。触れられた場所が熱をもち、私は一時瞬きさえも忘れて固まっていた。
「あんたにだけはやらねぇよ、ヒース。こいつは女神であって女神じゃねぇ。俺の大事な女だ」
強く抱きしめてくるディの力強い腕の中で、私は混乱する。急に起こされた彼の行動の意味がわからなくて、何故こんなにも彼が怒っているのかわからなくて、思考がまとまらない。
「くくく、女神の従者が女神に落ちたかよ」
「なんとでも言え」
天幕からディの腕に抱かれたまま連れだされ寸前、リュドラント王の笑い声が追いかけてくるが、私は未だ抵抗らしい抵抗も出来ずに固まっていた。
「ハーッハッハッハッ! 面白い、実に面白いっ! 歴史を繰り返すか、女神の従者よっ」
足音荒く場を離れようとしたディの前に、リュドラントの隊長が眉間の皺を深くしたまま、一頭の馬の手綱を引いて待っていた。
「ヨウ、悪いな」
手綱を受け取ったディは、軽々と私を馬上に座らせる。
「いいよ、兄貴に振り回されるのには慣れてる。さっさと行ってくれ」
ディもすぐに同じ馬に、私の後ろに乗って、しっかりと私の腰に腕を回す。ここに来るまでに乗っていた時よりも、強い力で抱いてくるディの腕は、何故か小さく震えているようだ。
て、呆けてる場合じゃない。
「だめだ、ディ! まだ交渉がっ」
ディが馬の腹を蹴り、馬が駆け出す。酷く揺れる馬上で、私はディを止めようと振り返るが、すぐにリュドラントの陣営は遠ざかっていく。
「いいんだ、アディ」
「よくないよ。私、止めるって約束をしたんだから」
「無理だって事ぐらい、ハーキマーはわかってる。だから、少し黙れ」
揺れる馬上で会話をしていては、舌を噛む。だから、黙っていろというディは正しい。だけど、このまま私が黙ってディに従っていては、戦が始まってしまうのに、黙っていられるわけがない。
「私をリュドラントの陣へ戻して、ディっ」
「駄目だっ」
ディの絞り出すような苦しげで強い語気に、抗議しようとした私は口を噤んだ。
「悪い。でも、駄目だ。それだけは聞けねぇ。これ以上あいつの前に、おまえを一秒だって居させたくねぇんだ。ーー事情は後で話すから、今は……」
そんな謝罪の響きの深いディの声に、仕方なく私は肯いて、ただ馬の揺れに身をゆだねて目を閉じた。意識の途切れる寸前、もう一度ディの謝罪の声を聞いた気がした。
44#よくある騎士の昔話
ディが手綱を操る早馬で、夜にはヨンフェンまで戻った私は、いつも通りに意識はなかった。後で聞いた話によると、駆け寄ってきたジェリンを退けて、ディが私を寝所まで運んだらしい。そして、目が覚めてすぐの私のベッドの傍らに、剣を抱えたまま微動だにしないディがいるだけだったのは、ディ自身が遠ざけたかららしい。
えっと、ちょっとだけ、ディの姿に怯えた。だって、部屋の中真っ暗な中、大剣抱いた大男がちっこい椅子に座って、感情のない目で私を見てるし。誰だって、怖いだろう、これは。
「あの、ディ、だよね?」
「ああ」
低い聞き慣れた声が聞こえて、私はホッと安堵の息をつく。それから、ようやく冷静になって、辺りに目を向ける余裕が出てきた。
外からの灯火はあるが、室内も室外もシンと静まりかえっていて、誰もいないみたいだ。部屋にはもちろん私とディ以外いないのだろうが、世界に他の誰もいなくなってしまったかのような錯覚を受ける。以前にここ、ヨンフェンのルクレシア側の詰所で手当されたときはもっと賑やかだったから、余計に静けさが際立つ。
静寂に耐え切れなくなったわけではなく、私はただ静かにディに問いかけた。
「ディはどうして、あんなことをしたの」
私たちは逃げ出すみたいに、リュドラントの陣から戻ってしまった。これではもう、戦を止めるどころではないし、戦が始まるのも時間の問題だろう。相手は既にすぐそこまで迫っているというのに、一度のチャンスを不意にしてしまった。
「すまねぇ、アディ。あいつは、あいつだけは……駄目なんだ」
苦しげな声を絞りだすディの表情は闇と、それから彼が俯いているせいで私には見えない。
あいつ、というのはリュドラントの王ということだろうか。だが、問うことを躊躇わせるディの雰囲気に、私は流され、それを口に出来なかった。
「俺が前に仕えていた主人は、ルーシャン・ディア・リュドラントといって、リュドラントの第二王子だった」
静かに静かに、闇から拾い上げるように、ぽつりぽつりとディは己の過去を話してくれた。
私もディが以前、ハーキマーさんと共に旅をしていたという話は知っていた。そして、いつまでも女神の眷属を諦めきれないディに愛想を尽かして、彼女がディから離れて、あの薬屋を始めたということも。
そのハーキマーさんと別れてから一人で旅をしていたときに、ディは重傷を負い、リュドラントの第二王子に助けられたのだという。
当時、リュドラントという国は御家騒動の最中にあった。そして、当事者でありながらも権力欲のないルーシャン王子は、民の人気という点から命を狙われていたらしい。怪我の礼を兼ねて、ディは王子の護衛を願い出たのだという。
「最初はただの礼で、ルーの身が安全になったら再び旅に出るつもりだった。あいつもそれは承知していた」
しかし、数日を過ごす内に、ディは王子の人柄に惚れ込んだ。あいつは天性の人誑しだった、と軽く笑うディの声は昏い。
それだけならば、最初の話通りのまま、ディはその地を後のするはずだった。
「リュドラントの御家騒動が収まる兆しを見せたのは、ルーシャンが第一王位継承者であった義兄に、臣下の礼を宣言した後だ」
自分が火種となるのなら、と王子は自ら進んで、臣下に下ることを申し出でたのだという。
そして、騒動は平穏に終わるはずだった。
「その頃宰相位にあったのは今のリュドラント王で、第一王位継承者であったルーの義兄の後援者だった。亡くなる前の先代から宰相位についていて、ルーのこともよく気にかけてくれていた。ルーもよく懐いていたが、たぶんどこかで知っていたんだろうな。義兄を操ろうと画策していた、あいつの心を」
「義兄が王位を継承するという前夜、ようやく俺はルーからその話を聞くことが出来た。やっとこれで国が平和になると喜ぶ割に、浮かない顔をしていたあいつを酒に酔わせて問い詰めて、聞き出した」
「話を聞いて、俺はルーが殺されるかもしれないという懸念を抱えた。臣下に下るとはいえ、ルーは継承権を持っている。それを放棄したとしても、正統な王家の血筋だ。もしも宰相が王位簒奪を考えるとしたら、ルーも危険だと思ったんだ」
「ルーは、ルーシャンは、民のための王になることのできる男だった。だが、それ以上に、俺にとってはかけがえのない友人だった。いるかどうかの女神の眷属を探すよりも、その時の俺にとってはルーの命こそが最も優先すべきで、何にも換えることの出来ないものだった。だから、俺はルーシャンの騎士になることを申し出たんだ」
「元々女神がいるかどうかなんて、誰にもわからない不確かなことだ。だから、正直どうでもいいとさえ思っていた。だが、そんな俺を、ルーは叱り飛ばして言ったんだ」
そこまで話して、ディは一呼吸を置いて、まっすぐに私を見つめていった。
「おまえの女神はきっといる。だから、俺のためでなく、彼女のために騎士の誓いをとっておけ。女神は孤独なのだろう? おまえ以外に誰がその孤独を癒せると思う。誰に、彼女の心を守りきれると言うんだ」
はっきりと女神がいると言い切られたのは、ディにとって初めての事だった。今まで、誰も女神が地上にいることなど信じては貰えなかった。ディにその役を譲った先代の従者さえも、だ。
それなのに、リュドラントの第二王子はそれを断言したのだという。理由はただの勘だというが、それでもディには十分なことだった。
「はやく見つけてやりなよ。彼女はきっと、ずっと君のことを待っているはずだから」
知らず涙を零すディに、王子はそう言って、騎士になることを諦めさせたのだという。
そして、二人は騎士ではなく、友の杯を交わし、ディは王子のためにならば、いつでも駆けつけると、その剣を振るうと誓った。
翌日、ディは式典を見届けて、リュドラントを旅立つつもりだった。だが、そこで事態は急展開となる。第一王位継承者であった王子が、式典の最中に宰相の手のものに殺されたのだ。そして、同じように魔の手はルーシャン王子にも伸び、そして、ディの助けも間に合わずに殺されてしまった。ディはほんの僅か遅れてしまったのだという。
「死に際にあいつは、誰も恨むなと。もしも自分が死んでも、それは女神の意に沿わなかっただけだから、と言っていた」
ディは淡々とそうして、長い昔話を語り終えたはずだった。その顔は表情が抜け落ちて、いつものディではないみたいで。
だけど、私の耳には不思議と静かに落ちる雫の音が聞こえていた。実際に聞こえる音じゃない。脳内で響くような、透明な雫の音だ。カップに落ちる一滴の滴のような音が、いくつもいくつも響いている。
「俺にとってルーシャンは主人であり、友だった。仇を討ってやりたかったが、それはあいつの望むところじゃない。だから、俺は黙って、リュドラントを去ることにした」
私は涙音にひかれて、ディに腕を伸ばした。音は、ディから生まれていると感じたから。表情はないけど、ディの心が響いてきて、私自身も押しつぶされそうだ。
ディの前に立った私は、座ったままのディの頭を胸に引き寄せ、そっと抱きしめた。
「誰よりも国を想い、憂いていたルーシャンこそが、リュドラントという国を継ぐべきだった。俺はあいつの描く未来をこそ、共に見たかった。なのに、俺はーー」
ディに触れたことで、より一層哀しみが流れこんでくる。深い深い、哀しみと、後悔が、押し寄せてくる。それは、私にも経験があった。あのイネスでの最後の一夜のような。
「今回のことはヒース……今のリュドラント王にとって良い口実というだけのことだ。遅かれ早かれ、あいつはルクレシアを取る気でいた。だから、戦争が起こってもそれはおまえのせいじゃない、アディ」
だから泣くな、とディに言われて、私は頭を振る。今、私の涙が出るのは、それが理由じゃない。
「ディが、泣かないから」
腕の力を強めて、私はその髪に顔を埋める。ディからは土と汗と埃の匂いがした。
「あなたが泣かないから、私が代わりに泣くの」
言葉は最後まで口に出来ず、私はディを抱く腕に力を込めて、嗚咽を堪えることしかできない。
ディは泣いていない。でも、私には、どうしてもディの心が子供みたいに、あの時の私みたいに、泣きじゃくっている気がして、辛かった。可哀想とか、そういう感情じゃなく、ただ哀しかった。
泣き続ける私を、ディは何故か苦笑し、優しくあやす様に何度も、何度も私の頭を、髪を撫でてきた。
45#よくある報告
入り口の壁を叩く音で我に返った私は、咄嗟にディを突き飛ばしていた。といっても、私が少し押したぐらいでディがよろける筈もなく、逆に私が後ろに飛ばされてしまった。丁度少し離れていたベッドに座るような形になった私を見て、ディは柔らかに目元を緩ませている。
居たたまれないというのは、こういうことをいうのだろう。そんな実感を隠しながら、私は入口に向かって誰何の声をかけた。
「だ、誰っ?」
ディが近づいてきて、サイドテーブルにあった濡れ布巾で私の顔を拭ってくる。目元が熱い気がするから、たぶん少し腫れているのだろう。
「俺や、アディ。おまえに客が来てるけど、通していいか?」
外から聞こえた声はジェリンのもので、義務的な口調からは彼がしっかりと警備隊長を務めていることを示している。そういえば、仕立屋の前で話した以降、彼とは碌に話をしていない。
「名前は」
告げられたのが賢者の名であることから、私は深く肯き、通してくれるように促した。
賢者が来る前に、ディは室内の燭台に火を灯し、私は着ていた白いドレスを少しだけ調え、ベッドの端に座りなおす。と、急にマントを外したディが私の身体を覆うように包んで、肩口をピンバッジで止める。自然な動作ではあるが、別にそれならわざわざマントでなくてもよいのではないだろうか。
私がディにそれを問いかける前に戸が叩かれ、深い蒼のマントに身を包んだフィッシャーが部屋へと入ってきた。狭いに部屋に入らず、戸口に立つのはオーブドゥ卿だろう。外からの淡い光でゆらりと揺れるフィッシャーの影が私の足元まで伸びてくる。彼らは戸口で立ち止まって、少し嬉しそうで、それでいて残念そうな様子で私を見ていて。私は、自然と頭が下がっていた。
「ごめんなさい。私、止められなかった」
隣国との戦を、どんなことをしてでも止めると言ったのに、私は何もできずにここにいる。どんな理由があろうと、約束を守れなかったのは事実だ。だから、言い訳はしない。
「アディが悪いんじゃない、俺が無理やり交渉をやめさせたんだ。あいつは、リュドラント王は今回を好機と見ているから、今更どうしようと止められやしねぇ。それがわかったから、俺が無理矢理にアディをつれて戻ったんだ」
擁護するディの言葉に、私は頭を振る。確かにディは私を無理矢理に連れ帰ったけれど、それは私の交渉の仕方がディを納得させるものではなかったからだ。もしもあのまま交渉していれば、私一人が赴くことで僅かでも平和を勝ち取れたはずだ。
交渉時まで戻りかけた私の思考を、肩に置かれるディの手が押し留める。何も言うなと無言で伝えてくる、見上げることも許さない様子に私は自然と固くなる。
和らげたのはフィッシャーの、あのいつものうさんくさい笑顔だ。
「いいえ、あなたは充分に働いてくれましたよ、アデュラリア。おかげでこちらも準備を整える時間ができました」
足を進めたフィッシャーは蒼衣を揺らして、私の前で床に膝をついた。その隣にオーブドゥ卿が、少し後方に離れてラリマーも同じく膝をつく。
まるで私を敬うような態度に、私は困惑に眉を下げる。そんな資格など、約束を果たせない愚かな女神となってしまった私にはないのに。
「リュドラントとの戦いは元々避けられないものです。アデュラリアのせいでも、誰のせいでもないのですよ」
そっと私の右手をとるフィッシャーに、私は小さく身体を震わせた。その真っ直ぐで曇のない目に見つめられると、どうしてか身体が動かしてはいけない気分になってしまう。
「女神を継ぐ決心はついたようですね」
目を見開く私を面白そうに見ながら、フィッシャーは私の右手の甲に口付ける。
「っ」
「できれば貴女の隣で女神の宣言を見たかったのですが、残念です」
全然残念そうに見えないフィッシャーに私が固まっていると、ディが不機嫌に唸り声をあげた。
「アディから、さっさと手を離せ」
「フッ、ディは随分と余裕がないようだ」
素直にフィッシャーが手を離すと、ディが私とフィッシャーの間に立つ。本当にあの交渉以来、彼はずいぶんと苛々していて、最初の頃の飄々とした余裕は鳴りを潜めている。
「ディ?」
「余裕なんか、あるわけねぇだろ…っ」
私には背中しか見えないけれど、ディの焦りが見える気がした。
「あんたらが何を企んでるか知らねぇが、これだけは言っておく。アディを傷つけるなら、」
背中の大剣の柄にディが手をかけると同時に、辺りに重い殺気が満ちる。自分に向けられているわけでもないのに、息をすることさえままならなくなる。苦しさに、私は自然と自分の喉を押さえていた。
「俺は容赦しねぇ」
警告というには強すぎるディの威嚇に震えるしかない私に対して、正面からそれを受けているはずのフィッシャーとオーブドゥ卿は、二人ともが笑みを浮かべている。そのフィッシャーの手がゆっくりと持ち上がり、私を指す。振り返ったディから殺気が消えると、思い出したように私の体中から汗が噴出し、私は呼吸を再開した。バクバクと強く脈打つ心臓のあたりを右手で抑え、荒い呼吸を整える。
「す、すまん。大丈夫か、アディ」
慌てた様子のディが私の前で膝をついて、顔を覗き込んでくる。そこにはただ心配の色しか見えなくて、私は大丈夫だと笑ってみせた。
「よく倒れませんでしたね。流石は、」
「慣れてるだけで、女神かどうかなんて関係ない」
私がオーブドゥ卿の言葉を遮ると、彼は小さく笑った。
「体調がよろしいようでしたら、今後のことについての話をしましょう」
オーブドゥ卿の言う今後とは、十中八九これからおこる戦についてのことだろう。避けて通れぬ道ならば、と私は眉を寄せて深く肯いた。これからやれることはまだあるはずだから、私が先に諦めるわけにはいかない。
私が自分で立ち上がるよりも先に、ディの手によって身体がベッドを離れる。
「ディ、私は自分で歩ける」
「気にするな」
「するってばっ」
慌てる私に構わずディは歩き出し、すぐそばの椅子に、降ろして……くれない。それを見ていたフィッシャーはたまらずに噴出したが、当事者としては笑い事ではない。
「遺跡では触れることにさえ躊躇っていたのに、女神と宣言したとたんにこれですか。ディも案外、器が小さいですね」
フィッシャーのからかいから少しの間をおいて、ようやく私は椅子に下ろされる。だが、やはりディはとても離れがたいらしくて、ぴったりと私の後ろに張り付いたまま離れてくれない。
「…話を、進めましょう。戦を回避する方法はなにかないの、フィッシャー」
ヨンフェンに着いてからの自分の行動やなんかを考えると、ディがこれだけ過保護になるのもしかたないのかもしれないなと思い直し、私はフィッシャーらに向き直った。
「リュドラント王と直接対峙したならわかるはずです」
フィッシャーの言葉に、私は実感をもってうなづく。高く昇る業火のような男で、交渉していたのに、私は逃げ出さないだけで精一杯だった。
「彼を留めるためには、戦争以上に魅力のあるものが必要となります」
――代わりに我が隣に立つか、女神の名を持つ者よ。我に世界を捧げるならば、考えなくもない。
世界を望むと、あの男は言った。世界とつりあうような存在だと、私を、女神を求めた、あの瞳を思い出すだけで、私は恐怖に身体が震える。自分が立っているかどうかさえ、わからなくなる私を、後ろからそっとディが支えてくれる。
「しかし、倒す相手が王でなくともよいのです。リュドラント王は恐ろしい男だが、部下を捨て駒にするほど愚かではない」
私を安心させるように柔らかい、だがしっかりと自信に満ちた瞳で真っ直ぐにフィッシャーは見つめる。
「私にお任せください。必ずや、貴女の望む終結を約束しましょう」
芝居がかった仕草でうやうやしく頭を下げるフィッシャーに苦笑しつつ、オーブドゥ卿もそれに習って頭を下げる。そして、私とディは同じように眉を下げて困った顔を見合わせ、同時に溜息を付いた。
「フィッシャー、さっきからそれなんなの。私はただの庶民だよ。王族でも貴族でもない」
そもそも出自がない。だから、傅かれる理由がないというと、顔をあげたフィッシャーは、妙に嬉しげな顔で笑いがながら言った。
「何を言っているんですか、アディ。貴女が自分で宣言したんでしょう。女神の末裔だと」
だから、私達が従うのは当然だと口にしてはいるが、フィッシャーの目は明らかにからかいの色だけを見せている。
「今の世で女神の身分なんてものは存在してないし、どんな
そう口にしながらも、内心でやっぱり嬉しくて。隠しようもない喜色に口元を隠すこともできず、私は彼らに体ごと背を向けるのだった。
46#よくある一言
「とはいえ、ここからは我々の仕事ですから、アデュラリアは休んでいてください」
このまま話し合いが始まるのかと思いきや、フィッシャーは笑顔とともに言った。そのまま帰り支度を始めてしまう彼らを、私は困惑のままに見つめてしまう。
確かに、私にはできることなどないし、戦の作戦など立てられるわけもない。だけど、仮にも今世の女神である自分が何もしなくていいのだろうか。
私の言いたいことを察知したフィッシャーが、目尻を下げて、ゆるく笑む。まるで、聞き分けのない小さな子供を見るような目で。
「アデュラリア、戦は貴女が思うほど綺麗でも輝かしくもないものなのです。できれば、経験などさせたくはない。もし彼女の記憶があったとしても、貴女達はあまりにーー」
何かを言いかけたフィッシャーは不自然に言葉を切り、小さく咳払いをした。
「もちろん、何もさせないわけではありません。女神の末裔であると宣言した以上、それに見合う働きをしていただきますよ。当然、その従者であるディにも、相応の働きを期待します」
だから、と言いながら、フィッシャーは私の頭を軽く叩いて撫でた。
「今は英気を養っていてください」
離れていく手元を見ていると、すぐにその姿は戸口の向こうへ消えていった。
不思議と安心が広がるのは、何故なのだろうか。フィッシャーに任せておけば、きっと大丈夫だと、私の中の何かが言っている。そんなによく知っている間柄でもなければ、幼女趣味の変態賢者でしかないはずなのに。……それでも、世界でも五本の指に入る魔法使いであるということだからなのだろうか。
「いい忘れてましたが」
不意に戻ってきたフィッシャーが戸口から顔だけをのぞかせて、悪戯する子供みたいに笑う。
「今は非常時だから共にいてもいいですが、私の未来の妻に手を出さないでくださいよ、ディ」
しっかりと余計な釘を差しに戻ってきたフィッシャーが、最後まで言い終わる前に、私はその辺りにあった椅子を持ち上げ、彼に向かって投げつけた。
寸前に彼の姿は見えなくなったが、閉められた出入口のカーテンではなく、すぐそばの壁に当たって、大きな音を立て、椅子は床に転がった。
私が無念に震えていると、ディが堪えきれない様子で笑い出す。
「はははははっ」
「ディ、なんで笑って、」
腹を抱えて笑っているディは、目尻に涙まで浮かべている。
「だって、おまえ、さっきまでアレ思い出して震えてた奴が、椅子掴んで投げるって」
「あれはフィッシャーが馬鹿なこというからっ」
私が怒りながら近づいていくとディは一時笑うのをやめ、優しい顔で私の頭に手を置き、自分の胸に引き寄せた。あまりにも予想できない行動だったため、私は完全にバランスを失い、倒れ込んでしまう。それをディが両腕でしっかりと抱きしめてしまうと、腕にすっぽりと収まる私は身動きが取れない。戸惑う私の頭上から優しい声が降ってくる。
「アディ」
だが、直ぐにディは噴出してしまい、結局言葉にならない。そのまま五分以上も経ってから、改めてディはそれを口にした。
「俺が絶対に守ってやるから、無茶するんじゃねぇぜ」
体勢的に顔は合わせられないままなので、ディがどんな表情でそれを口にしているのか、私にはわからない。だけど、触れる箇所から伝わってくるどこかくすぐったい雰囲気に、ついつい私の口元は緩んでしまう。
「騎士だから?」
「それもある」
「ああ、マリ母さんたちと契約してたっけ」
「…それもあったな」
完全に忘れていたらしいディが自然と腕の力を抜いてくれたので、私はただ顎を上げた。そのままディの顔を覗き込もうとしたら、またもディの胸に頭を押し付けられてしまう。さっきよりも強引だったので、今度はちょっと痛かった。
「まあ、なんだ、その辺は気にするな」
「う、うん」
私が文句を言わなかったのは、かすかに見えたディの顔が、なんだか蜂蜜でも食べたみたいに蕩けそうに甘かった気がするからだ。それに、後頭部を上から下に撫でる手が以前と違う気もする。これらは全部、気のせい、なのだろうか。
何度も何度も私の頭を撫でていた手が、唐突に止む。
「頼むから」
切ない声で、抱きしめる腕にかすかに力を込めて、ディが私に願う。
「俺に二度も大切な…主人を失わせないでくれ」
私よりも何倍も大きなディが震えている気がして、どうにかそれを止めてあげたくて、私も両腕を回しても届かない大きな背中を抱きしめる。
「ーー……」
かける言葉は見つからなくて、舌に乗りかけた言葉を飲み込む。嘘はつきたくないから、だからひとつだけを口にする。今、明確に口にできるのは、私が女神の末裔でディが女神の従者だという事実だけだ。
「頼りにしてるよ、ディ・ビアス。ーー私の
ディの身体はまだかすかに震え、なにかに耐えていて、私は彼がかつての主人を思い出して、また泣くのを堪えているのだと思った。
47#よくある初戦
ルクレシア軍が陣を置いたのは国境の町のリュドラント側で、一般人は既に逃げた後だ。リュドラント王が陣を置いている町との境は僅かな草木が生えるばかりの荒涼とした平原で、少し歩くだけで土煙が舞う。日が昇る前から国境の町の外で陣形を整え初め、今薄雲のかかる空では頂点より二十度ほど下で太陽がぼやけた光で地上を照らしていた。その中で私はというと、戦争が始まる前というよりも祭りの前のようなざわついた兵士の中で、馬に跨っている。
世界を渡る風が馬上の私の髪を撫ぜてゆくのを感じつつ、私はしっかりと前方を見据えた。手綱を握るのは動きやすい深い紅の乗馬服に着替えた私自身で、私の跨る馬上には私の他に誰もいない。もちろん、馬に乗れない私の馬の側には、ラリマー側に付いている。
私の隣には同じく馬に乗った普段どおりの装いのオーブドゥ卿がいて、少し前にはいつもの騎士の鎧姿のディがいて、彼の隣には普段となんら変わらない蒼衣のフィッシャーがそれぞれの馬上で手綱を握ったまま何か話をしている。ディは遊軍を率いるのだと聞いたから、二人が話しているのはその打ち合わせだろう。
ここだけ見れば私達はとても戦場にいるようには見えないが、周囲をぐるりと見渡せば、辺りにはルクレシアの紋章をつけた鎧姿の兵士や、神殿の証をつけた白衣に顔までフードで隠している神官兵しかいない。
私の手に力が篭ったのを受けて、私の乗る馬が小さく鼻を鳴らす。それをラリマーが、馬の首筋を撫でて宥める。
「ディがそばにいないのは不安ですか、アデュラリア嬢」
オーブドゥ卿の穏やかな声音に私は頭を振った。
「そういうわけじゃない、です」
ともすれば上手く吸えない息を意識して吸い込み、私は心を落ち着かせようと務める。
村にいた時までの私は、人を、他人を本当に頼りにしたことなどない。オーサーは守るべき存在であったし、いくら村の大人たちが強くとも、私にとっては守るべき存在だったからだ。女神だからとかそんなのではなく、自分自身が災厄の種と知っているから、自然とそう考えるようになった。
だから、守るべき存在を頼るなんて、考えられないことだった。だから、オーサーがいなくても、ディがいなくても私は平気だ。その、はずだった。
「そうじゃないんです、イェフダ様」
涙に濡れてしまいそうな声を抑えているので、喉が詰まってしまいそうで、私は奥歯を強く噛んだ。
ディがそばにいないことが不安なわけじゃない。いつだって、私が大切に想う人たちは私を守って死んでしまう。そうならないためにいつも壁を作ってきたのに、自分は二人に近づきすぎてしまったのではないかということが不安なのだ。だから、大切に想う人をこれ以上失うことが、怖くて怖くて、仕方がない。
自分の手で握りしめている手綱が震えているのが、私の視界に入る。
私のそばにいればまだ、この身体を犠牲にしてでも止められる。でも、オーサーは遠い大神殿に、私の身代わりとしているし、ディだって、これから側を離れていく。この手で守れないことが、怖くて、とても怖くて。
黙り込んでしまった私を少し思案するように見守っていたオーブドゥ卿は、不意に私の肩を軽く叩いた。
「私の知るフィッシャーは約束を守る男ですよ。少なくとも今この場で血が流れることはありません」
賢者の称号は偽りではないのですよ、とオーブドゥ卿は柔らかに微笑む。彼のすぐそばで彼の馬の綱を手にして控えているラリマーは、じっとこちらを見守っているだけで何も言わない。
私はフィッシャーから、計画の詳細は何も聞かされていない。女神である私はただいるだけで良い、女神は象徴だから戦う必要がないのだと言われた。だから今、私が持っている武器といえば、いつもどおりに何食わぬ顔でホルスターへ納まるベレッタひとつだ。それをそっと手で撫でると冷たい反応しか返してくれない。だけど、わずかながらも心強さをくれる大切な相棒だ。
「そんなことが本当にできるのでしょうか」
「できます」
オーブドゥ卿は力強く頷いてくれても、それでも私は不安に揺らぎながら、前方のディへと視線を向けた。そのタイミングが良かったのだろう。丁度振り返ったディと私の視線が交わる。
それはほんの一瞬だったのだけど、心配や不安、その他にも何かいろいろと見透かされてしまいそうで、私のほうから外してしまった。それだけ、ディの視線は強かったのだ。
「アディを頼む」
「はい」
オーブドゥ卿ダが肯いた後に間を置いて、ディは少数の騎馬を率いて離れていってしまう。その姿を見えなくなるまで見つめていた私の隣に、フィッシャーが馬を寄せてくる。
「それでは女神アデュラリア、あなたの忠実なる兵士達に勝利の祈りを」
促され、私は何度も見た周囲をもう一度首を巡らし、見回した。視線は全て私に集まっていて、普通なら怖いと思う状況だというのに、私は懐かしさを憶えている。それは何度もみている、過去の女神の記憶のせい、というのが大半を占めることだろう。
私は両目を閉じて、軽く頭を振る。過去の女神の記憶になど、流されてはいけない。思い返していては、いけない。そんなことで、女神を名乗るなど烏滸がましいにも程がある。
フィッシャーとオーブドゥ卿との間に埋もれてしまう自分自身の体格を自覚しているので、私は右手を天に高く差し上げた。
「これは奪うための戦いではなく、守るための戦いです。天の女神はそれを知っておられる。だから、必ず勝利は私たちの手に残るでしょう!」
語る言葉は、事前にフィッシャーから示されていた。それを諳んじるだけだから、私自身が考える必要などない。だけど、口から紡ぐ言葉とは別に、違う、と心のうちで騒ぐ声がする。
「女神は私たちを見捨てることはしません!」
違う、と私の心のうちの扉を叩く人がいる。
「守るための剣をもって、必ず、勝利をっ!」
言葉にならない想いに胸が詰まる前に最後まで叫ぶと、大歓声と共にぐらぐらと地面が揺れ、馬も人も騒ぎ立てる。祭りかと勘違いしてしまってもおかしくない状況だというのに、私の心の中は水底のように深く暗く沈んでいく。
(女神は、いない)
(女神は、世界を捨てた)
(女神は、世界を忘れた)
「…ぅるさぃ…っ」
否定の声は、私にしか聞こえない。
(女神の見捨てた世界に、女神の加護などあるものか)
強く女神のことを考えれば考えるほど、それらは声高に叫ぶ。いつもはこういう時にオーサーがいて、震える私の手を握って支えてくれた。いつも隣にいて、私を宥めてくれた。けれど、だけど、今はいない。
「…オーサー…」
私は不安そのままの小さな声で、その名を呟く。助けてと、いいたくても、彼は今私の隣にいない。
「それでは女神、まずは私が行って参ります」
大げさな程恭しく、フィッシャーが私に向かって頭を下げた。
「え?」
「え、じゃないでしょう。こういう時は素直に頷いておくものです」
てっきりここでフィッシャーが指揮を執るものと思っていただけに、私はオーブドゥ卿を振り返り、見えないディの消えたほうを見やる。
「約束しますよ。貴方の望むように、一滴の血も流さずにこれを治めましょう」
「だからって、フィッシャーがわざわざ行かなくてもいいんじゃないの?」
焦った様子の私に、フィッシャーは困ったような、嬉しいようなと複雑に笑みを歪める。
「心配せずともすぐに戻りますよ。貴女の見える距離ならば、私の移動魔法で充分です」
いってきますというや否やフィッシャーの身体を景色が透けて、すぐに姿は掻き消える。魔法で移動したのだろうが、詠唱したと気が付かないほどの賢者としての、フィッシャーの実力を、私は初めて目の当たりにした気がする。
「フィッシャーって、実はすごい人?」
「あれでも賢者ですからね」
苦笑交じりのオーブドゥ卿の返答に、思わず私が頬を緩めるのとそれは同時だった。地を震わせる音と共に荒野の向こう側一面に土煙が上がる。リュドラント軍だ、と私は緩みかけた気持ちと表情を引き締める。
「アデュラリア様、これを」
徒歩で近づいてきたラリマーが、フィッシャーのつけているマントよりも藍の濃いマントを投げ上げてくれる。見た目よりもそれは軽く、風に流されかけるのを、私は慌てて掴む。
「別に寒くはないよ?」
ラリマーは何も言わずに元の位置まで、つまりオーブドゥ卿の側まで戻ってしまう。首を傾げる私に、オーブドゥ卿が指で前方を指し示す中、それは起きた。
天が割れたのかと、思った。
耳を塞いでも防ぎきれない雷鳴の音と光が土煙をさえぎり、視界を白く染め上げる。
「っ!?」
「また広範囲で来ましたね」
オーブドゥ卿でさえも驚きの声を上げている。音と光の応酬、それだけで人馬の悲鳴が私達のいる場所まで聞こえてくる。うそつき、とあの時と同じく私は小さく呟く。マースターの時だって、フィッシャーはうそつきだった。魔法を使わないといったのに、あろうことか女神の力まで引き出して。おかげで、私は女神としてのほとんどの記憶を取り戻してしまった。
「フィッシャーは昔から負けず嫌いなのです。だから、貴女は何も心配しなくて良いのです」
宥める声音に少しの異変を感じ取って、私はオーブドゥ卿を顧みる。彼はいつもと同じ顔で、だけど…目だけが真剣で。その瞳が夢の中で女神が愛した男によく似ている気がする。
「イェフダ、様?」
彼は私から視線を外さないままに、右手の人差し指につけた赤い石のはまる指輪へ口を近づけ、歯を立てる。
がり、と硬い石の砕ける音が聞こえた。
「っ!?」
同時にオーブドゥ卿を中心とした魔方陣が地面から紅く立ち上り、円柱のなかに私とラリマーを閉じ込める。
「な、何!?」
「こちらはフィスとディにまかせれば大丈夫です。私達は先に参りましょう、アデュラリア様」
「どこへっ?」
私の問いかけにオーブドゥ卿の右の口端だけが上がり、今まで私が彼に見たことのない皮肉な笑顔を見せる。
「ーーもちろん、大神殿に決まっています」
ゆらゆらと揺れる景色の中、誰も私達の異変に気が付かない。見えていないはずなどないのに、誰の視線も前線を見たまま動かない。
「い、嫌だ…っ」
泣きそうな子供の声が、私から零れる。これじゃあ、何もかも放り出しているのと変わらない。私のせいなのに、私のせいで戦が起きているというのに。
「嫌だ、イェフダ様…っ」
目の前の荒野が、すぐに冷たい石壁に囲まれた通路のような場所に切り替わり、呆然としていた私は、落下の感覚の直ぐ後で、ラリマーに抱きとめられていた。彼女はいつも通りに無表情で、私を地に立たせる。オーブドゥ卿は普段と変わらない笑顔を浮かべて、私の前に立ち、腕を大きく広げた。
「おかえり、アデュラリア」
混乱している私は、ただ首を振ってあとづさる。
「なに、どうして、イェフダ様っ」
「まだ気が付きませんか?」
私の頬を溢れた感情が伝う。この女神の気配の濃い場所だと、より強くわかる。
「なんで、」
オーブドゥ卿は、彼は、関係ないのだと勝手に思っていた。ただの女神研究家で、ただの貴族で、ただの…人が女神にそれほど執着するわけがなかった。既に世界が女神を必要としていないのは、明白な事実だからだ。
何故気が付かなかったのだろう。
「まさか、あなたが、ーーなの?」
オーブドゥ卿の仮面を捨てた男は、ただ、心底嬉しそうに、笑った。
話休題二九、よくいる従者
前回感想を下さった寝逃げさん、緋桜さん、ILMAさん、韻さん
それから、楽しみに読んでくださる方々も有難うです♪
とうとう300ですよ、終わらないですよ…orz
まともに野心的に王様を書こうとして挫折してます
どうやって交渉しようかと悩んでいたら、王様が勝手に…っ
てことで次回は、
【三〇、よくある主従】
次回はディの昔話をできたらいいなー
感想・批評・酷評大歓迎です♪
ここまで読んでくださり、有難うでした
まだまだ続きますが、最後までお付き合いください~
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299 2009-04-21 19:49
300 2009-04-21 19:53
話休題三〇、よくある主従
前回感想を下さった寝逃げさん、緋桜さん、ILMAさん、慧さん
それから、楽しみに読んでくださる方々も有難うです♪
それから、逃げてごめんなさいっ
ディの過去はあえて簡略しました
も、もちろん本編ではちゃんと書きますですよ?
次回は、
【三一、よくある顕現】
そろそろフィスらを合流させましょうか……
感想・批評・酷評大歓迎です♪
ここまで読んでくださり、有難うでした
まだまだ続きますが、最後までお付き合いください~
301 2009-04-27 18:32
302 2009-04-27 18:44
303 2009-04-27 19:13
304 2009-04-27 19:19
305 2009-04-27 19:22
306 2009-04-27 19:26
307 2009-04-27 21:18
308 2009-04-27 21:24
309 2009-04-27 21:29
310 2009-04-27 21:35
話休題三一、よくある警戒
前回感想を下さった慧さん、寝逃げさん、ILMAさん、緋桜さん、韻さん、 それから、楽しみに読んでくださる方々も有難うです♪
まだまだディ祭真っ最中! オーサーを待っている方には申し訳ありませんが、次回も無理! もうしばらくお待ちください~
次回は、
【三二、よくある初戦】
リュドラント戦を如何に簡潔に終わらせるかが問題です
感想・批評・酷評大歓迎です♪ ここまで稚拙な粗筋を読んでくださり、有難うでした 最後までお付き合いください~
311 2009-05-15 08:50
312 2009-05-15 08:55
313 2009-05-15 09:13
314 2009-05-15 09:19
315 2009-05-15 12:47
316 2009-05-15 12:54
317 2009-05-15 18:43
318 2009-05-15 19:00
319 2009-05-15 19:15
320 2009-05-15 19:22
話休題三二、よくある初戦
前回感想を下さった寝逃げさん、神恭さん、ILMAさん、緋桜さん、 それから、楽しみに読んでくださる方々も有難うです♪
これで何転目だろう(ぇ やっと終幕が見えてきた気がします
それから、やっとイフの出番が…!長かった! 大神殿に移動したので、次はオーサーも出せますよ~たぶん
次回は、
【三三、よくいる護衛】
ディと賢者はひとまず置いといて。
感想・批評・酷評大歓迎です♪ ここまで読んでくださり、有難うでした~
321 2009-05-22 19:09
322 2009-05-22 19:20
323 2009-05-22 19:30
324 2009-05-22 19:33
325 2009-05-22 19:37
326 2009-05-22 19:40
327 2009-05-22 19:45
328 2009-05-22 19:49
329 2009-05-22 19:56
330 2009-05-22 20:01
ふと気がつけば、リュドラントの隊長に名乗らせないまま時間が過ぎてますね。
「ヨウ」はかなり略した呼び方だし、きちんと名前があるだけに、どこかで名乗らせてあげたいですが…。
(2013/05/02)
うぅん、何故か長くなる……。
あと、あらすじ書いている最中も思いましたが、かなりディ祭りデスネ。
最初から好みのキャラで、ある意味理想像だからかなぁ。
(2013/05/09)
終わらせたい。
というか、全部書き直したい。
一からアディの話を作り替えたいです。
なので、ここからできるだけ駆け足で進めたいと思います。
(2013/08/22)
某所であらすじを書いた時に、キャラの表情が見えない、とアドバイスをいただきまして。
……そして、その修正に苦戦するという、ね。
表情とか動きとか、いつまで経っても上手く伝えられないのがもどかしいです。
次は、ディの過去話。
……あらすじでも書いてない過去話。
妄想しか無いのに、どうやって補完しようか……。
(2013/08/24)
表情、表情かー。
以前にアドバイスいただいた時、表情がないと言われたんですよね。
言われてみれば、心当たりが多い。
でも、このシーンのディには無表情が一番だと思ってます。
笑いも泣きもしない。
ただ、淡々と事実だけを述べる。
普段のが表情豊かなので、このぐらいでいいんじゃないかなぁと。
…女神の遺跡を回っている時も、たぶん無表情です。
あれですね、神社とか目的なくお参りする時見たいな顔ですね(何だそれ
一週間で一話が、こんなに大変だとはっ。
て、他所事が多いせいですねー。
仕事してきますー。
(2013/09/04)
何度か書きつつ、保存を忘れて、うわーとなりつつ。
やっとここまで。
推敲だけなのにね。
なんでだろうね…orz
続きは…早めに推敲を終えたいです。
てか、現代版でリンカを書きたい。
(2013/10/17)
急ぎ足で遂行中。
この勢いがいつまで続くか…。
(2013/10/18)
かつてのアドバイスを元に遂行中。
もうちょっとで、あらすじ追いつく。
何年越しだろうなぁ……。
とりあえず、この章はここまでにします。
舞台が変わる前に、ディとフィッシャーのお話を挟みます。
これは直しではないので、また更新に時間がかかるかと。
……おまたせして、本当に申し訳ないです。
どっちの視点で書くのが楽しいだろうか(違うだろ
(2013/10/19)