二月の冷たい風に身を竦ませ、私は慌てて調理室の窓を閉めた。
「うー寒い!」
放課後の調理室に、私は例によって一人きりだ。昼休み以外は他の生徒を入れてはいけないことになっているので、ここは私が本当に息をつける数少ない憩いの空間なのだ。といっても、時々ここでみよさんやカレンさん、手芸部の面々とはおしゃべりに興じたりもしているわけだが。その程度は、と大迫先生たちも見逃してくれているようなのだ。
窓の外には下校中の生徒たちが歩いていて、私は窓際でコーヒーを飲みながら、それを眺めつつ、勉強している。もうひと月で学年末だ。成績を落とさないのも勿論だが、どうせならもう少し順位もあげたい。
というのが、私がみよさんたちに語った調理室に居座る理由なのだが、本日はどちらかというと逃げ込んでいる、という方が正しい。
だって今日は、琉夏君風に言うと「チョコの日」なのだ。だから、学校中が浮ついた雰囲気に包まれていて、そういうものに無縁な身としては、非常に居心地が悪い。そりゃあ、私だって、昨日お母さんと一緒にお父さんに作ったよ。なんでか、今朝、お母さんにチョコの包を渡されたよ。でもさ、家族以外の誰かにあげるなんてーー恥ずかしいじゃないか。
「というか、こないだの下校は、絶対私間違えたよね……」
遠い目で思い返すのは、つい二、三日前の琥一君たちとの下校時の会話だ。
「そろそろバレンタインだね?」
なんとなくで途切れた会話に、なんとなくで季節の話題を振ったのは私だ。そこに他意はない。
「チョコの日だ」
真っ先に嬉しそうな声を上げたのは琉夏君だ。
「ふふっ、チョコもらう予定は?」
「えぇと、どうだっけな……」
目をあさっての方向に泳がせる琉夏君に、すかさず琥一君がつっこむ。
「トボケんな。テメェは毎年チョコまみれだろうが」
まあそうだろうな、と私は顔のいい幼馴染みを見上げる。
「やっぱり……」
「あれ、なんか俺だけ悪いヤツみたいじゃん」
「悪いヤツだろーが、実際」
兄弟でポンポンと遠慮の無い言葉が飛び交うのを、私は微笑ましい気分で見ていたのだが。
「コウだってさ、意外ともらってるよ?このツラで」
琉夏君の言葉に私は思わず目を瞬かせていた。勇気ある女子っているもんだなぁ、と。
「そうなの?」
私が琥一君に問いかけると、不機嫌そうに琥一君は琉夏君につっかかる。
「ウルセーな、喰うのはテメェだろうが?」
「だってさ、喰ってあげなきゃチョコが可哀想じゃん。コウの方が悪いヤツだ」
今の話を総合すると、二人ともチョコは貰えて、全部琉夏君のお腹に入る、ということで。
貰えない心配を私がする必要はないわけだ。
「そっか。じゃあ、わたしのはいらないよね?」
「あぁ!?」
「えっ!?」
そうだねとかそういう同意を期待して言ったはずだったのに、何故かものすごく聞き返されてしまった。その上、琉夏君にはリクエストまでされてしまったんだが。
そもそも水曜日ではないので、ランチ会はないわけで。
琉夏君も琥一君も呼び出しで忙しいのか、驚くほどに会わなかったわけで。
(無駄に、なっちゃったなぁ)
私は机の上に置いた茶色い円筒型のシフォンケーキを見つめて、疲れた笑いを零すわけだ。ちなみに、トッピングは粉砂糖とカラースプレーとアラザンで、ほどよくシンプルにまとまっている。
用意していなかったわけじゃない。お母さんに渡された分は既に級友の不二山君にあげてしまった。ここにあるのは、今朝早くに登校してから焼いたものだ。
「……慣れないことは、するもんじゃないね」
椅子を引いて座り、私は用意しておいたフォークをケーキにーー。
「美咲ちゃんー」
「っ!?」
外から聞こえた声に、思わず私はフォークを取り落とした。耳障りな金属音を立てるフォークを拾ってから、私は戸口に目をやる。誰かが覗いている様子はない。
じゃあ、と窓の外へと目をやると。
「な、なにしてんの琉夏君」
窓の外、正確には少し脇に植えてある木の上に登った琉夏君は、そこから調理室を見ていたようなのだ。
「何って、えーと、なんだろうね?」
「危ないよっ」
「大丈夫。ヒーローだからね」
「……琉夏君」
「それより、そっち行っていい?」
いくよ、と今にも飛び込んできそうな琉夏君に、私は慌てて制止をかける。
「だ、ダメ! 危ないから、ダメ!!」
「大丈夫だって」
「落ちたらどうするの。それに、土足でしょ? ちゃんと靴を脱いで、入口から」
「入口から、ね?」
瞬間ニヤリと琉夏君が笑ったのを、私はすっかり見逃していた。だって、木の上から調理室まで、それなりに距離があるのだ。三階の高さから飛び降りても平気な琉夏君だけど、危険なことに変わりはない。だから、とにかくそれだけに必死だった私は、琉夏君が木から降りて昇降口に走っていくを見送って、ホッと胸を撫で下ろしてから気づいたのだ。
「っ、やば……っ!」
机の上のケーキを隠さなきゃ、と私はケーキを両手で持って、慌てて準備室へと駆け込む。綺麗に片付けた机の上にそれを置いて、私は急いで準備室を出て、鍵をした。
「美咲ちゃん、あーけーてー」
「うわぁぁぁっ?」
早いよ、早すぎるよ、と私は内心で酷く動揺しながら、調理室の鍵を開ける。そこにいたのはーー。
「げ」
思わず口からこぼれた驚愕の声を拾い上げ、琉夏君と一緒にそこにいた琥一君が、眉間の皺を増やす。
「おい、荒川」
「な、なに、かな? ええと、二人とも今日は先に帰ってーー」
「ケーキの匂いだ」
私の隣を素通りして、琉夏君が調理室に踏み込んでくる。止める間もないとはこのことか。
「ちょ、琉夏君だめだよ! 調理室は放課後に他の生徒をいれちゃダメなのっ」
「ケーキ、ケーキどこかなぁ」
琉夏君は私の言葉なんて全く聞こえないとでも言うように、調理室を嗅ぎまわっている。
どうしよう、どうしよう、と焦る私の耳に、琥一君の苦笑が聞こえる。
「あー、ありゃ、ケーキやるまで、ルカの奴は諦めねぇぞ」
「そ! んなこと言ったって……」
「それで、どこにあるんだ?」
「な、ないよ?」
「本当か?」
何故か私の正面に回って、頭を抑えてくる琥一君に、私は目を合わせないように首を振る。
「あああるわけないじゃんっ! 第一、今日は水曜日じゃないし」
「荒川」
低い低い琥一君の声に、私は恐る恐る顔を上げた。
「美咲ちゃん」
その後ろにしょんぼりと肩を落とした琉夏君が、私を見てくる。え、なんか垂れた犬耳と犬尻尾の幻覚が見えるんだけど。
だけど。
「……やだ」
「え?」
「だって、ふたりとも、今日はもうおなかいっぱいでしょ? だから、やだ」
ささいな、本当に些細なことなんだけど。たぶん、二人は喜んでケーキを食べてくれるとは思うんだけど。
だけど。
「そんなことないよ?」
「腹が膨れてんのは、ルカだけだっつったろ」
琉夏君が否定して、俺はチョコは苦手なんだよ、と気まずそうに琥一君も呟く。
そんなこと、知ってる。琉夏君は甘いモノなら、きっといくらでも入るし、琥一君は甘いモノが苦手だから、甘いチョコも苦手だ。そんなこと、知ってる。
だけど、私は、私は。
「バレンタインとかじゃ、ないから。ただのケーキだよ? それでもいい?」
私が思わず泣きそうなのをこらえて、二人を見上げながら言うと、琉夏君は目を丸くして、琥一君は何故か固まってしまった。
「食べる! 美咲ちゃんのケーキなら、いくらでも食べるよ、俺!」
満面の笑顔で飛びついてきた琉夏君を支えきれずに、私は床に尻餅をついた。
「きゃっ」
「っ、こら、ルカ!」
慌てて琉夏君の首根っこを掴んで、琥一君が助けてくれたんだけど。目の前で繰り広げられる兄弟のやり取りが、何故か私を安心させてくれて。
「ふふっ」
思わず笑ってしまった私は、しばらくそのまま二人を眺めていたのだった。
準備室からケーキを運んでくると、二人には何故か呆れた様子で笑われ、溜息を吐かれた。
なにしろケーキは十八センチホールサイズ。どうみても一人で食べる量じゃない。
「荒川、おまえ、これどうするつもりだったんだ?」
「え、ひとりで食べようと思ってた」
私があっさりと白状すると、琉夏君が目を丸くする。
「ひとりでって、美咲ちゃん……」
「あはは、じょーだん! ちょっと味見で一切れ食べたら、残ってる先生たちに振る舞うつもりだったよ。大迫先生とか氷室先生とか、たぶん残ってるし。お世話になってるからねぇ」
バレンタインってことでなければ、受け取ってくれるだろうし。
そう呟きながら、ケーキに包丁を入れる。四分の一は自分、四分の一は琥一君。残りの半分は琉夏君の分だ。
「美咲ちゃん、それだけでいいの?」
「いいの。太っちゃうし」
コーヒーに口をつけつつ、私は自分からケーキにフォークを入れた。ひとくち食べて、うんと頷く。
「琉夏君にはちょーっと苦いかも。ビターな上に、隠し味入れちゃってるし」
「隠し味って、お酒?」
「んふふ、なーいーしょ。琥一君にも食べられるはずだよ? あんまり甘くしないでおいたから……あ、忘れてた」
私はフォークを置いて、準備室の冷凍庫を開けた。中にはよく冷えたハーゲンダッツのバニラアイス。それをもって戻ると、不思議そうに私を見ている二人の前で、琉夏君の皿に半分、自分にその半分、残りの半分を琥一君の皿に乗せる。
「え、なにこれ」
「バニラアイス。一緒に食べるとおいしーよ」
召し上がれ、と言いつつ、まっさきに食べるのは私だ。琉夏君も琥一君も美味しいといって食べてくれて、思わず私もふにゃりと表情が崩れる。
美味しいものは誰かと分け合ったほうがもっと美味しい、というのが母の持論で、私もそれは正解だと思う。
「好きな人と食べるともっともっと美味しいわよ~」
脳内で再生された母の声に、私は手を止めた。
(好きな、人、かぁ)
たぶん私が目の前の二人の幼馴染み感じている感情とは別なものなのだろうな、とは思う。それは、母が父を好きなように、誰よりも一緒にいて幸せだと思える人。世界で一番、大切な人。
「荒川?」
「どうしたの、美咲ちゃん?」
ぼんやりしていた私は幼馴染みに不思議そうに名前を呼ばれ、慌てて取り繕った曖昧な笑顔を返した。
「なんでも。ーーって、もう食べ終わったの、琉夏君!? 早くない!?」
既にカラとなった琉夏君の皿を見て私が目を丸くしている前で、彼は琥一君の皿をじっと見つめている。琥一君も食べてくれているようだ。
「コウ、もう食べらんないだろ?」
「……やらねーぞ」
「えー」
「てめぇも食べただろうが」
「えー」
不満そうな琉夏君に、私は首を傾げる。
「琉夏君、まだお腹空いてるの?」
私の問に、琉夏君は直ぐ様頷いた。じゃあ、と私は自分の食べかけのケーキをフォークで一口分さして、差し出す。
「じゃあ、どうぞ?」
驚いた様子の琉夏君がいいの、と首を傾げるので大きく頷いてあげると。ぱっくりとフォークの上のケーキが消えた。
「お、おい……」
「もっと食べる?」
「マジ? いいの?」
「うん。ーーはい」
今度は先程より大きめの一口にしたのだが、それも一口で消えたので、私は面白くなってーー。
「荒川」
「え?ーーんぐっ」
笑っていたら、琥一君にケーキを口の中へと突っ込まれました。って、なに二人で爆笑してるの。
「美咲ちゃん、ハムスターみたい。ちょーカワイイっ」
むぐむぐと口の中一杯のケーキを食べながら琥一君を睨むが、人の悪い顔で笑っている。
「俺も、俺もやるっ」
「ほら、ルカ」
琉夏君がやると言い出した所で、琥一君が食べかけのケーキを差し出すと、琉夏君は迷うことなくそれに飛びついてくれた。ーー助かった。
「っ、はー。いきなりなにするの、琥一君」
「何じゃねぇ。おまえ、少しは考えろ」
「何を」
「何じゃねぇだろ」
「あ、もしかして、琉夏君が羨ましかったんでしょー」
私がからかうように言うと、何故か一瞬琥一君の顔が赤らんで見えた気がした。きっと気のせいだろうけど。
「ばっ、誰がだっ」
「ははっ、そんなに美味しかった? わざわざ朝から作った甲斐があったなぁ」
嬉しくって笑っていた私が自分の失言に気づいたのは、その直後だった。
「朝から?」
「え、マジで?」
二人の驚いた声音に、私は慌てて席をたち、空になった皿を片付ける。
「そ、そんなに、早くは、ないよ? い、いつもどおり、いつもどおり、だからっ」
カチャカチャと耳障りな音を立てる食器を引取り、私は流しへ持っていく。その後を当然のようについてきた琥一君が、スポンジを奪い取る。
「あ、今日は別にーー」
「はいはい、で、美咲ちゃん、今日は何時起き?」
「ご……その手には乗らないよ!? ていうか、二人とも、そろそろ帰らないと」
「美咲ちゃん?」
私の両手を掴んで、目の前にしゃがんだ琉夏君に見上げられ、私は口を噤んで、目尻を下げる。
「そんな、早くないよ。毎朝ジョギングしてる時間に、登校しちゃえばいいだけだし」
「ジョギングしてるんだ。えらいね」
「うん、まあ」
えへへ、と褒められた嬉しさで思わず微笑んでいたが、真剣に見上げてくる琉夏君に私は首を傾げた。
「どうしたの、琉夏君」
「……ケーキ、美味かった」
自分の作ったものを美味しいと言ってもらえるのは素直に嬉しい。なので、私はまたふにゃりと笑う。
「うん、ありがとー」
それで、何故か頭を撫でられましたが。なんでだろう。気持ちいいからいいけど。
「……美咲ちゃんて、時々猫みたいだよね」
「ん?」
「なんでもないよ。気持ちいい?」
「うん、琉夏君も」
私も琉夏君の頭に手を伸ばし、そっと撫でる。夢の中の琉夏君は黒髪で、今は金髪だけど。
「琉夏君、髪傷んでない? だめだよー、ちゃんと手入れしないと」
「じゃあ美咲ちゃんがやって?」
「いいよ」
そんなことをやっていると、後ろで大きな音がして、驚いて振り返った隙に、私は琉夏君の腕の中に抱き込まれていた。
「わぁっ」
「ルカ、っ」
私達を見た琥一君も目を丸くする。琉夏君は、私の腰のあたりに両腕を巻きつけて、背中に顔を寄せているようだ。
「美咲ちゃん、いい匂いする」
「え? あ、ケーキの匂いまだ残ってる?」
「うん、美味しそう」
「えー?」
琉夏君はマイペースに話しているけど、琥一君を前にしている私は戸惑いを隠せない。えーと、これ、どういう状況だ。
「……ルカ」
低い声で琉夏君を呼ぶ琥一君に、私はビクリと身体を震わせる。それに対し、琉夏君は小さく震えるように笑いを堪えているようだ。
「荒川を離せ」
「やだ」
「ルカ」
「美咲ちゃん、いい匂い」
「ルカっ」
これは、琉夏君、琥一君をからかって遊んでいるな、と私は軽く琉夏君の頭を拳で叩いた。
「いたっ」
「こら、琉夏君。あんまり、いじわるしないの。琥一君、泣いちゃうよ?」
「泣くかっ」
私の言葉は面白かったらしく、笑いながら離した琉夏君が私の隣に立って見下ろしてくる。
「ぷっ、だな。コウ、泣き虫だもんな?」
「誰がだっ」
それを琥一君が飛びかかって止めようとした所で、私は間に割って入った。見たところ、洗い物は済んでいるようだ。
「はいはい、喧嘩なら外でやってねー。ここはもう締めるからねー」
強引に二人を追い出し、私は洗い終わった食器を布巾で拭いて、棚へとしまってゆく。ひと通り終えてから、テーブルを拭いて、戸締りを確認して。
調理室の外で待っている幼馴染みを目にして、破顔する。
「待っててくれたんだ」
「一緒に帰ろう、美咲ちゃん」
「鍵戻してからねー」
こうして、高校一年の私たちのバレンタインは終わったのだった。
季節外れにも程がありますが、バレンタイン。
まあ、読んでいる人もいないしね。
100%自己満足だしね。
調理室で朝からこもってケーキを作っていたのは
おそらく、みよさんとカレンさんにはバレバレ。
きっと翌日に守備を聞かれることでしょう。
で、たぶんヒロインはなんでもないように。
「うん、あげたよー」って感じで、話すと思う。
(2013/08/09)