彼女は歌を歌わない。
それは、ホグワーツでも特異なぐらいに強い力を持つからだと聞いている。発する言葉の全てが強制力を持ち、人間を操ってしまうせいで。その強すぎる力を恐れ、閉じこもり続けてきたミコトは、とても弱く儚く思える。
人は、その感情をなんと呼ぶのだろうか。
守りたい、という。気持ちを。
ぴゅぃ~ ぴ びー
「なんっかちがうな」
その辺に生えている雑草をむしって、口に当てる。乾いた空気に乾いた草の葉の表面は筋を浮き立たせている。そのくせ反面滑らかで、端の方は鋭利な刃物だ。ふとすると、指に赤い筋をつくる。
だが、今はそんなことよりも重要なことがある。
ぴゅ~ぃ ぴるる~
「…?」
首を傾げて、もう一枚をとる。
空を消して、近くて遠い記憶を思い起す。闇と月と星と、ミコトの歌声と。
びゅるる…
「っ!?」
変な葉を取ったらしいことに舌打ちして、また違う葉をむしる。
浮かべるのはたったひとりの姿でいい。本人がいればベストだけれど、誘っても来るのかがどうかがわからない。それに、すこしぐらい驚かせてみたいというのは当然の悪戯心ではないだろうか。
以前よりも表情が出るようになったとはいえ、まだ少し固い。もっと俺の前でぐらい、驚く顔とか、本当の笑顔をしてほしい。
ぴゅぃぴゅぃぴゅるるるるる~
良さそうな葉がみつかり、今度は音を思い出す。こんな時でなく、いつ使うんだ俺の記憶力。
ぴゅ~るる ぴ ぴひょ~ ぴ~ぴゅ~る…
なんか違う。
最後といった日から、たしかに俺は一度も彼女の歌声はきいていない。もともと警戒心が強いのに、どうやら、殊更に人の気配に敏感になったらしく、歌い声は聞こえて来ないのだ。声に出していない音は相変らず聞こえるけれど、現実に歌っていることはないらしい。
歌うぐらい別に気にしなくても…とか、ふつうのやつになら言える。だけど、ミコトの場合は言葉がそのまま人間を操ってしまうということに繋がる。そう本人が言っていた。
下生えを踏みわける音が近づいてくる。友人なら、声を掛けてくるか、もっと気配を殺してくるだろう。告白するつもりなら、もっとわかりやすく、気づいてもらおうと近づいてくる。その場合は別の甘ったるい気配が共にある。だが、この空気に溶けて消えそうな感じは、たった一人しか知らない。
「ミコト?」
一緒にいるようになってから、感覚がさらに鋭くなった気がする。でなくても、アニメーガスで犬になるようになってから、感覚はさらに鋭くなっている。問いかけながら、視線だけ向けると困ったように彼女は微笑んでいた。
立ちすくんでいるけれど、決して怖がってはいない。
「座れよ」
放っておいた左手を上下に動かして、地面を叩く。気配は動かなくて、がさっと動かない位置で座る姿が見えた。これが、今の距離なのだろうか。
他の女なら喜んで擦り寄ってくるところだけど、そんな控え目さはミコトの長所であり、短所でもある。
ぴぃ~ぴゅるる~ ひゅ…
「その曲、なんて名前?」
小さく問いかけられた声に気がつかないフリをして続ける。こころなしか、声色が楽しそうだったから。あわよくば、歌ってくれないかなと打算もしていたが。
わざと尋ねて来たことには気がついている。俺はこの曲をミコトの口からしか聞いたことはないのだ。彼女は大人しく曲が終るのを待っているようだった。わずかな風に軽く舞う幾筋かの黒髪は、そのまま飛ばされてしまいそうだが、ほの温かさも感じる。
「…歌ってくれねーの?」
「え?」
終ってから聞いてみると、思った通り俯いてしまった。ただそれは、哀しそうにというよりは、肌を赤く染めてしまうという、どちらかというと好ましいものではある。
「なんて曲かはしらねーよ。あの時、ミコトが歌ったんだろ」
寝転がると、ミコトの顔がよく見える。
「そう、だった?」
「そうだった」
忘れたとはいわせないし、忘れさせない。
「今、歌ってよ」
「…ど、して?」
「聞きたいから」
困っている表情にいつもなら焦るのだけれど、今日は違う。
「安心しろ。ここに他のヤツはこれないって、知ってるだろ?」
「…でも…」
「ジェームズはクィデッチの練習で、リーマスはちょっと里帰り中。ピーターは補習中だ。他にここに来れる人間なんかいるもんか」
ホグワーツの中でも特に複雑な道を通らなければ、辿りつくことのできない秘密の庭。俺もミコトも一人で見つけた。ほんの少し、ミコトの方が早かったかもしれないけれど。
「シリウス…?」
「すっげ綺麗だった。もう一度、聞きたいんだ」
言うだけ言って、瞳に映る世界をシャットアウトする。
なぁ俺はずっと聞いてるよ、お前の心の奏でる音律を。
でも。現実に聞いた歌はその何万倍も綺麗だったんだ。どこでも聞いたことがないし、本当はそれほど歌は好きなわけじゃないけど。ミコトの歌だけは別で、とても、好きなんだ。
だから、聞かせて欲しい。心の中で響かせている音を。現実に。移し替えて。
(ミコト視点)
小さな小さな笑いが漏れた。いつも格好つけているシリウスの、子供みたいな一面がとても可愛らしかったから。わかっていて、いつもそうやって言わせようとする。
言葉は武器。言葉は力。
でも、あなたがいつもいてくれるから、私は気がつけた。優しい言葉もあるのだと。助けられる言葉も、あるのだと。傷つけるだけの言葉じゃなくて、傷を癒す言葉も在るのだと。
「音が、欲しいわ」
目を閉じている少年に囁く。風がきっと彼に運んでくれる。彼は頭も良いし、きっとわかってくれる。その、意味を。
空も風も山も森も湖も、世界のすべてがこんなに優しく思える「今」を歌おう。世界の歓喜を。あなたに感謝を。
Freude, scho:ner Go:tterfunken, Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken, Himmlische,dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Bru:der, Wo dein sanfter Flu:gel weilt.
草笛の音はたまに外れたりもするけれど、でも彼はとても上手くて歌いやすい。久々に青空の下に広がる自分の声も、増幅されて、澄んで広がり、どこまでも遠く遠く昇っていけそうだ。
この歌が天へ昇って、聞いた誰かが地上へ聞きに来てくれるだろうか。私は、許されるだろうか。
「また、よけいなこと考えてんな?」
風が遮られ、空気が柔らかくなったと思ったら、いつのまにか隣にシリウスが座っていた。もうちょっと離れて座ったはずなのに。
どうして、そんなに優しいの?
泣きたくなるぐらいに、シリウスは優しすぎる。期待、してしまう。
シリウスを見上げると、彼は困り顔で私の肩を抱いて、引き寄せた。そんな優しさは誰にでも与えている人なのだと、知っている。優しくされた女の子は皆、シリウスを好きになってしまう。わからないでやっているのだろうけど、私ももし、恩人でなければ、恋愛の対象にいれていたのかしら。
「…さっきの歌、英語じゃないよな?」
「ええ」
「なんて意味だ?」
でも、無理だ。私には恋愛する資格なんてない。
さっきの歌と同じよ、シリウスは。私の恩人、私の喜び、私の…救い。
「ナイショ」
大きな身体に寄りかかって、小さく呟く。
広い広いあなたの心に小さな私が住んでいるだけで、私はきっと生きられるから。なんにも心配しないで、これ以上私の心を解かさないで。
「じゃ、聞かない代りにこれから毎日歌って」
またそうやって…。
「俺の前でだけでいい。ここで、毎日、ミコトの歌を聞かせてほしい。ーーダメか?」
心を解かして、私を解かして、そうしてどうするつもり?
「…たまに、なら…」
「やりぃ」
あんまり嬉しくなさそうにいうので、不思議に思って見上げると、いつものように優しい眼差しが覗いていた。私を解かし続ける、とても熱い熱量に、瞳を閉じる。
「約束、だぞ。ミコト」
近づく声と熱い吐息が、いつもどおりに重なる。
どんなに冷たい氷も、シリウスにかかってはすべて解かされてしまうのかもしれない。だから、私はただひとつの事を除いてはすべてその手に委ねましょう。熱量の奔流に遊びながら。
恋はしない。でも、家族みたいに愛しているのかもしれない。私の氷を溶かしてくれる、星の名を持つ少年の事を。
シリウス。
でも、離れられなくなる前に、別れられるだろうか。今、シリウスがいなくなっても、前のように戻れるだろうか。
ーーーーー少し自信がない。
交響曲第九番四楽章より(Beethoven)
メインがこれに見えても、違います。歌が歌いたい気分だったのです。
そして、今更新しているのは決して!仕事からの逃避じゃありませんよ?(ほんとかよ。
完成:2003/04/02