私に見える世界はたぶん誰ともそれほどの違いはない。私の感じる世界はかなり違うかもしれないけど。
「…来るなって、聞いてない?」
怪訝な声は、白い空に吸い込まれた。
「だって、昨日はシリウスとピーターだけ、フィルチに捕まったんだよ。戻ってくるのも遅かったし、まだ話してないよ。てゆーか、どうしてこんな早朝にミオはここにいるのかな?」
視線なんか揺らさなくてもわかる。声だけで、わかる。落ち着くテノールはまだ声変わり前で、中に潜むはクスクス笑い。クスクスの実でも食べたら、こんな声になるのかしらと考える。
「悪い?」
対する私は今日も最低最悪に機嫌の悪い声で、可愛さの欠片もない。こんな可愛げのない女になんで会いに来るのかしらね。変なやつ。
「悪くはないけど、正解は別でしょ?」
妙に自信ありげな声に視線だけ走らせると妙に勝ち誇った口元が目に入った。移動すると硝子に光が反射して瞳は見えないけど、くしゃくしゃの黒髪が目に入る。
「よく寮に帰らずに見つからなかったね」
ーーどうして知ってるのよ。
昨日の悪戯仕掛人遭遇事件から後、つい眠りこけて実は朝食まで取り逃したということは私しか知らないはずなのに。
「どうして知ってるのか聞きたいかい?」
「いいえ」
捻くれた心が考えるよりも先に返していた。言ってからいつも心が少し痛む。傷つけただろうかと考え、残念そうだけれども何故か楽しそうな彼をみて、間違いと思い直す。
「それは残念だな」
思ってもないことを口に出して、何が楽しいのかしら。
空は白と灰色に覆われて、少し不穏だ。昨日の晴れがずっと遠くに流されて、消されてしまった。このままいたら雨が降るだろう。つばめも低く飛んでるし。
「今日は雨が降るよ」
授業に出たほうがいいかしら。でも、今授業に出ても集中出来ない。頭に入らない授業なんか聞いてもなんの意味もない。だったら、出ないほうがましってものよ。
「授業に出ないと減点されるよ」
「ルームメイトが病欠にしてくれるわ」
吹き付ける風は湿り気を多分に含ませてくる。やはり、雨が降るのか。
「それは、良い友人なのかな?」
「寮の為よ。別に私の為じゃない」
無断欠席だと点を引かれるから、予防線として病欠にしてくれているだけ。だから、本当は彼女が何をどう思って「病欠」としてくれているのかなんて、知らない。知る気もない。
「そうだね、君のためにはならないしね」
聞き流されていた言葉が、急に思考の隅に引っかかった。
「ハッフルパフ生は友人想いって聞くけど、それじゃミオのためにはならないね」
「何しに来たの、ジェームズ・ポッター」
顔を向けると、穏やかで優しい笑顔がさくりと突き刺す。
「ミオに会いに」「ふざけた理由なら、追い出すわよ」
言ってから、言葉が届いたのはやはり遅い、わよね。風の音で消えてしまったことにはーー。
「聞こえたよね。ミオに会いに来たんだよ」
ーーうわ、すっごいもの好きの暇人…。
小さく呟いただけのはずなのに、しっかりそれは届いていたらしく、僅かに哀しそうな視線へ変わる。曇ったせいで眼鏡越しの彼の瞳は夕暮れ時の薄雲から差す光みたいに見えた。少し、悪戯めいてはいたけど。
「心配しちゃいけないかい?」
「いけなかないけど…暇な人よね」
「ちょっと傷つくなぁ」
そんな楽しそうな顔で傷つくも何も。嘘にしか思えない。
困った顔は薄曇の日にはよく似合うけど、彼には少し不釣合いだ。もっと太陽みたいな人だと思っていたのだけど。あ、それは私のせいか。
「それは女の子がここで一人で寝てるから? それとも」
ふと思いついた言葉の悪戯は、半分で断ち切られる。まるで全部わかっているかのように。
「もちろん女の子がこんなところで夜を明かしたからだよっ?」
ごまかすような笑顔のがずっと可笑しくて、笑いを零しながら起きあがる。ぐっと伸ばした手でつかみ取れそうなくらい、落ちてきそうな雨雲だ。本格的にまずい。
「だよね」
欠伸をして溜まる涙をぬぐおうとして、降ろそうとした手が掴み取られた。
手首に自分じゃないもちろん、女でもない少年のすこし大きめの手がかかって、降ろせない。顔が今までで一番近づいて、息遣いが聞こえそうでお互いに息を殺す。
こうしてみると、顔は悪くない。いつも一緒にいる性悪男の造作が良過ぎて気づきにくいが、素材は悪かない。
でも、こんなことされると当然機嫌も悪くなる。
「…離して?」
「ヤダって言ったら?」
何を考えているのか、さっぱり見当もつかない。新手の悪戯か。
「蹴る」
にこやかに小首を傾げて微笑むと、笑いながら拘束を解かれる。長く腕を挙げていたせいで疲れた肩を擦る。髪を軽く手櫛で直し、唯一の出入り口へ向かう。
「ミオ、悪いけど僕は君が気に入ったみたいだ」
「はぁ?」
背後からの不可解な言葉に振り返ると、離れていたはずの姿がすぐ近くにあって、満面の笑顔を浮かべている。向日葵よりも強い太陽の笑顔に少し、心がクラクラする。
「これからよろしくね?」
あぁ、この笑顔は。
「遠慮します」
先ほどと同じ、にこやかな笑顔で言い置いて、急いで出入り口を潜り抜けた。そのまま走って逃げる。
気に入られたってことは、あれよね。
つまり、悪戯のターゲットに認定されちゃった!?
「…ま、まさかね」
「ミオ、そこの階段…」
え、と振り返りながらも足は階段を降りていて。
てゆーか、なんで置いて来たはずのジェームズが階段の下の段にいるわけよ。
落下しながら、考える疑問は近づく床の前に閉じる。受身なんて取れないから、せめて医務室に運んでくれると嬉しいなぁとか、これで本当に休む口実ができたとか、でもやっぱりここにジェームズがいるということはこいつに運ばれるってことで、それはすごく嫌な予感がするから遠慮したい。それから、これ以上こいつと関わるのは避けたい。なんだかんだいって、悪戯仕掛人たちは人気ありなのだ。友人にもファンクラブに入ったとか聞くこと多いし。やることなすこと目立つから筒抜けで。
すごく堅い床に叩きつけられると思ったのに、もう少しだけ柔らかいものに抱きとめられて、痛いより苦しいほうが大きかった。
「ないすきゃっち。こないだシリウスが何か仕掛けてたよーって言おうと思ったんだけど、遅かったね」
「遅すぎるわー!!」
耳元で聞こえる声は間違いなくジェームズのもので、動こうにも動けないのは彼の腕の中だからで、力強さに心が戸惑い、勝手に動悸が激しくなる。これは恋ではなく、びっくりしたからだ。ぜーったいにそうだ。
「でも間に合って良かった」
良くない。この状態は絶対に良くない。
「怪我はない?」
肩を捕まれて離れたと思ったら、顔を覗きこまれて、また瞳に吸い込まれそうになる。
「な、ないっ」
腕を突っ張って、顔を背けて、何とか離れないものかと思っているのに、本当にとか心配そうな声が聞こえてくる。
頼むから、顔を近づけないでください。なんだか自分が自分でなくなりそうで、怖い。
私でなくなる? いや、そんなことない。ありえない。いつだって、自分のペースでやってきたのに、今更他人に乱されるような子供じゃない。
「ミオ」
「ひゃ…っ」
頬に当たる生暖かな感触に振った腕は、いとも簡単に止められた。これが男女の違いかってほどの強い力で手首が痛い。
「真っ赤だよ」
「そ、あ、な…っ」
「可愛いっ」
頭ごと隠すように抱きしめられて、体機能の全部を停止させられる予感に青くなる。これが絶対絶命のピンチではなくてなんなのさ。でも、絶体絶命のピンチでも助けてくれる友人はいないよ。むしろ祝福されるか無視されるか虐められるかのどれかだよ。
どれも遠慮させて欲しい。
「あれ、もう捕まえたの?」
「うん」
廊下を走ってくる足音は小さいけど3人分聞こえた。てことは、揃っちゃったってことですか。
今日は厄日ですかー?
「まさか本当に捕まえてくるとはなぁ」
「シリウスのおかげだよ」
「俺?」
「そう」
意図しないシリウスの罠にかかったことを言わないでくれるのはいいんだけど、いいかげん離して欲しいんですが。
「なんでもいいけど、ジェームズ。独り占めはずるいんじゃない?」
穏やかな声だけど、なんだか強制力を感じるのは気のせいですか。…リーマス・ルーピンって、もうちょっと人当たりが良くて、穏やかで、物静かじゃなかったっけ。こんなに黒そうな影が見えるのは私の気のせいですか。
「羨ましい?」
「羨ましい」
何が。
つっこみはくぐもって届かなかったようだけど、ジェームズのささやきははっきりと届いた。
「頑張ってね」
何を。
なんだかわからないけど、嫌な予感だけははっきりと感じているままだ。それもジェームズだけのときよりも強く。
「ミオ、僕はキミと友達になりたいんだけどイイ?」
イイも悪いも選択権がこの状況であるとは思えないんですが。
打開策はどこにもない気がしていた。でも、どこかしらに逃げ道はできてるみたいなことだけはわかる。だって、あの場所へ行くのに私は普通の廊下を通っていないから、抜け道はいくらでもある。
この腹の空き具合だけなんとかなれば。
ーー悪戯仕掛人につかまるのと
ーー空腹と
ーーどっちがましだ。
空腹に決まってる。
「ごめん!」
がっと突き出した腕の一瞬の後に、視界が開けた。辺りを見回すまでもなく、全色力で走りだす。誰かが我に返る前にたどり着ければ、今日は大丈夫だ。明日からがわからないけど。
「 !」
滑り込んで急いで入った絵画のドアを抜けた直後、その向こうをかけて行く複数の足音を聞いた。全部通りすぎるのを待って、壁に寄りかかって座り込む。全力で力が抜けてゆく。
なんでどうして、昨日の今日でこんなことに。私は善良で心優しいハッフルパフ生なのに。平和を愛する一生徒なのに。
なんだか少しくらい同じ世界を感じてほしいと考えこみながら、また私は眠りについた。薄れゆく意識の中に、今はまだ警報は響かない。