氷室が開けてくれたドアを通ると、一斉にクラッカーの音が炸裂した。クラクラする私を、後から力強い腕が支える。
「大丈夫か?」
「…なんとか」
私を後ろに庇うようにして、氷室が前に立った。
「あぶないだろう」
ここに来ると、氷室の声は格段に柔らかくなる。それは幼なじみがいるという安心からかもしれない。
「一緒に来たってことは、そーゆーことだろ? いーじゃねーか、めでたいんだから!」
その幼なじみのマスターが進み出て、私たちをピアノの前のテーブルに案内した。
「一人だったらどーする気だったんだ?」
「ありえないね」
キッパリと言い切るマスターに氷室が不思議そうに返す。
「理由は、まぁ、ともかく」
「待て。なにがともかく、だ」
「そんときゃ、残念パーティーでもやるさ。なぁ?」
マスターの意見に常連が皆、頷いた。要は、騒げれば何でも良いと。
「…貴様…」
ため息をつきながらも、氷室の口角が上がっている。ひょっとしたら、この冷かしが嬉しいのかもしれない。
「ほらよ。今日はオレの奢りだ」
二人の前に出されたのは、いつものレモネードではなかった。
透き通る赤色のグラスを持ち上げると、マスターを睨みつける氷室が赤く染まっている。
「おい。東雲はまだ未成年だぞっ?」
「まぁまぁめでたいんだから…」
「そういう問題ではない!」
赤い赤い液体はすごく魅力的で、私を飲んで、と誘っている。
「東雲」
「ぅはいぃぃぃっ!!」
声に驚いてグラスが手から滑り落ちた。
「あっ!!」
制服が…。
場が一気に静まり返った。
「すまない。驚かせてしまったか?」
「…グラスは無事です、けど」
グラスはスカートの上で抑えているが、中身はすべて制服のスカートの内に吸い込まれてしまっている。
「グラスなんぞはどうでもよろしい。割れたところで困るのはこいつだけだ。それより問題なのは…制服、か」
「春霞ちゃん、タオルどうぞ」
マスターがカウンターから真っ白なタオルを差し出してくれた。
「マスターさん…」
「ごめんねぇ、奥の部屋で着替えるかい?」
着替えるといっても替えはなし。
「そうさせてもらう」
私が断る前に、氷室が腕を取って立ち上がらせた。
「せんせぇ、私、着替えが無いんですよ?」
「問題ない」
「ありまくりですっ」
抗議の意見もお構いなしに、勝手知ったるカウンターの奥へと私を引きずって行く。
「襲うなよ~零一♪」
「……」
無言で外野を睨みつけて、私を奥の扉に押し込んだ。
「…覗かないってば」
「ホットレモネード」
「はいはい」
せんせぇ? それはもしや…私が飲むのですか?
「そんな拭き方では残るぞ」
扉を閉めた氷室の、第一声はそんな色気もそっけもないセリフで。
次に、バサリと大きな上着が降ってきた。
「脱ぎなさい」
冷静に降ってくる言葉に私は冷静でいられるハズもなく。今までの優等生の仮面も役に立たず。
「せ、せんせぇ!?」
そして、氷室は私に背を向けた。
「私の上着を掛けていればいい。そのまま拭いても後が残るだろうから、水洗いする」
いつもの機械的なセリフに、少しがっかりしたような安心したような複雑な気分で、私はスカートを渡した。言われたとおりに、上着をしっかり掛けるまで、氷室はこちらを向かなかった。
「でも、今日以降、この制服着ないんですよね」
「そうだな」
流水の音と氷室の背中に、一抹の寂しさを感じる。
「別に無理して落とさなくてもいいんじゃありませんか?」
「よくはない」
「どうしてですか?」
洗う手が一瞬、止まった。
「どうして――?」
「そんなことはどうでもよろしい」
焦ったような、でも、すごく優しいいつもの口癖。
「いや、どうでもよくはない、か」
自分に言い聞かせるような囁きが聞こえた。
「私はまだ、迷っているのだと思う」
生徒である、正確には生徒であった東雲に想いを告げた時、正直OKされるとは考えてもいなかった。教師が生徒に想いを寄せるなど、間違った行為だと信じてきた氷室自身には、血迷ったとしか言いようがない所業。でも、東雲は静かに受け止めてくれた。穏やかな湖面にも似た彼女の優しさに、さらに気持ちは溢れそうになる。
「東雲を、高校生であった東雲には、この制服のままにいて欲しいのだ」
ただ汚れない純粋であったままに。
「でも、卒業しましたよ。今日」
氷室の目の前で。
「私が言いたいのは、この制服が私の生徒であった象徴なのだということだ」
だから、汚れたままにしてはおけない。後も残さずに、すべて洗い流してしまわなければならない。
そんなことを云われたら何も言えなくなってしまって、私は大人しく待つことにした。先生の上着からはタバコの匂いはしないけれど、男の人の匂いがした。
「よし!」
水の流れる音が止まったことに、私はなんとなく気がついた。その時には、ほとんど夢の世界に落ちてしまっていたが。
「東雲…?」
だって、氷室の上着に包まれていると、抱かれているようで安心してしまって。
「ここで寝るな」
「…はぃ…」
寝るなっていっても無理です。これ以上に安心して眠れる場所なんて、きっと世界のどこにもない。
「…ち、さん…」
「なんだ? こら、眠るなといっている」
上半身が浮かび上がる浮遊感の次に、大きな腕と氷室のムースの香りがした。
「…おやふみにゃ…」
「おい、寝るなと…」
氷室の声が段々と遠くなった。
夢の中では、せんせぇが名前で呼んでくれて、軽くキスをしてくれた。
腕の中で完全に眠ってしまった東雲を前に、氷室は途方にくれていた。 規則正しい寝息に規則正しく上下する胸。
「…春霞」
無防備なその姿に、氷室はそっと髪を手に取った。柔らかくて真っ直ぐな髪は彼女そのもののようで、手に取れてもすぐに滑り落ちてしまう。
せめてこの手をすり抜けない様にしておきたい。
手に入れても、不安は付きまとう。幸福の中にいても、同じこと。しかも目の届かない場所に行ってしまうだけに、余計に不安は膨れる。手に入れるまでこの不安は消えないと思っていたが、手に入れた安心と同時に不安は振り子のように膨らんだ。
「春霞」
何度、名を呼んでも消えない。生徒であったうちは、決して呼ぶことの叶わなかった名前。ソレが、一枚の壁のように隔たっていた。
「春霞…」
小さな口に自分のを重ねる。
印を付けたかったのだと、思う。
★cyanyas_inemuri_me.jpg★ちゃんやす★「居眠り」★
部屋を出ると、一瞬の静まりのうちに歓声が沸き起こった。私はもう制服ではない。いつ用意したのか、目が覚めると渡されたのが赤いドレスだった。明るい赤だけでなんの柄もないシンプルなドレス。
外で待っていた氷室が差し出す腕に飛び込んだ。
「せ、せんせぇ…」
「心配ない」
服にしがみつく手を取って、席へつく。待ち構えたように、マスターがグラスを運んできた。
今度は湯気の立つレモネード。
「…ぁぅ…っ」
もうさっきのは飲めないのか…。手に入らないとなると、余計に惜しくなるもの。手を滑らせなければ、飲めたかもしれないのに。
残念そうな私の頭を軽く叩いて、氷室は席を立った。そして、ピアノに向かって弾き始める。今日のはクラシックといっても、空気に合わせてなのか、かなり陽気な曲目だ。その中の優しさを感知して微笑みが零れる。
「楽しそうだねぇ~春霞ちゃん」
「はい~」
陽気に返す私に一瞬驚いたようだったが、マスターはテーブルに軽く寄りかかった。
「零一なんかのどこがいいの?」
不満そうというよりも、どこか暖かい眼差しで問い掛けられ、私はうつむいた。顔が熱を帯びてくる。
「全部、です」
「へぇ~」
「でも、ピアノ弾いているときのせんせぇが一番ですっ」
握りこぶしを握り、強く主張するのはたぶん最初の印象がそれだったから。優しい音色につられ、放課後の音楽室で見た、それは楽しそうに演奏する氷室の姿。
「ふっふっふっ…いーこと、教えてあげようか」
「なんですか?」
「あいつね、昔、ピアノが嫌いだった時期があったんだよ」
そういって、マスターは席を去った。
いや、そこでいなくならないで。気になるから。
「マスターさん…」
「続きは本人に聞いてみな」
至極楽しそうに言った笑顔は私の後ろを見ている。
「東雲に何を吹きこんだんだ」
「な~いしょ」
少しの間の後、諦めたため息と共に、氷室は席についた。
「もう弾かないんですか?」
「質問があるのだろう?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、たじろいでしまう。
「え…と」
射抜かれたように動けなくて、見つめたまま息が止まりそうになった。
初めて会った時は、おっかなそうな担任だった。でも、ピアノがその印象を覆した。たった一曲が、私を変えた。
「ま、マスターさん!!」
だめだ。視線を逸らし、わたわたをマスターを呼ぶとすぐに来た。
「ああの、さっきのカクテル、なんてゆうのですか?」
マスターの視線が氷室を盗み見る。何かあったの?と、目が楽しそうだ。
「あぁあれ?ロイヤルカルテット」
「?」
「ホントはチェリーブロッサムにしようと思ったんだけど、強すぎるかなって」
「あれもコニャックを使ってあったとおもうが?」
間に割ってはいる氷室の目は、マスターには厳しい。けれど、どこか優しい気がするのは気のせいかな。
「今日という日には丁度いいだろ。なにしろ、クルボアジェVSOPルージュを使っているんだし」
特別だ、とマスターが微笑んだ。でも、まるで意味がわからない。
「アレに使ったブランデーはね、かのナポレオンの奥さん、ジョセフィーヌをイメージして作ったものなんだよ」
「…へぇ~…え…?」
お、奥さんて、あの、それって、その、そーゆう意味!?
「春霞ちゃん、そのドレスすごく良く似合ってるよ」
まだアタマがパニックしていて、マスターが何を言っているのか聞いていなかった。
「零一が見立て…っが!!」
何か云おうとしたマスターは突然、脇を押さえてうずくまった。氷室が横から殴ったらしい。
「余計なことは言わなくてよろしい」
「…っで…」
「あっちへいってろ」
どこか恨めしそうに、マスターは言った。
「春霞ちゃんがせっかく呼んでくれたのに…」
「東雲もあいつなんぞ呼ばんでよろしい」
自分のグラスに口を付ける氷室の顔が、微かに赤い。
「何を笑っている」
自分の顔に手を当てて、にやけているのを確認する。たしかに、笑っている。
「いえ…、怒りません?」
「何をだ」
「マスターさんとせんせぇのやりとりが微笑ましいなぁ、と」
露骨にイヤな表情が返ってきた。
「くだらん」
一刀両断に切り捨てられてしまうのは承知の上。でも、理由はもう一つ。
「いつ、このドレスを買ったんですか?」
聞いていたのかと、氷室の眉がしかめられる。
「聞いてどうする」
「聞きたいだけです」
今度は困っている。…楽しい。氷室を困らせると色々な表情を見せてくれるから。
「…秘密だ」
「えーっ」
酔ったら、教えてくれるのかな。
「じゃぁ、教えてくれなくて云いです」
意外そうな顔。私はわざと、顔をそむけてレモネードに口を付けた。胸に広がる温かさと、安心感。
「東雲?」
でも、このままでは終わらせない。
「せんせぇ、私のこと、本当に好きなんですか?」
わざと乱暴に言ってみる。
「嘘や狂言で、生徒に…コホンッ…告白などできない」
テーブルに顔を付けると、木の冷たさとぬくもりが伝わってきて気持ちイイ。
「名前、呼んでください」
こういうのも出来心というのだろうか。
我侭を言いたかった。恋人になっての初めての我侭。これまで我慢して来たこと、全部ぶちまけてしまいたいけど、それを全部押さえてでもほしい一言。
「東雲?」
「それは苗字です。私の名前は、春霞です」
本当に本当に困った顔が返ってきて、私は少し後悔した。
「酔ったのか?」
ホットレモネードで酔うわけがない。
「せんせぇ」
「…もう遅い。車で送ろう」
私を置いて、氷室は車を取りに行ってしまった。
「せんせぇのバカぁ」
やっぱり、呼んでくれない。
「そーゆー春霞ちゃんもいつまで「せんせぇ」って呼んでるんだい?」
からかい気味のマスターの言葉に、私もやっと気がついた。
そーいえば、私も名前で呼んでない。
せんせぇ。
氷室先生。
ずっとそう呼んできた。私はただの生徒だったから。
先生サマ。
ゼロワン。
バイナリー。
ヒムロッチ。
は、奈津実や他の生徒が呼ぶあだ名。
じゃぁ、恋人としての私は?
零一。
はなんか、私のイメージじゃない。呼び捨てになんて、出来ない。
レイちゃん。
は、ちょっと…。せんせぇはそんなに子供じゃない。
「東雲、帰るぞ!」
戸口で呼ぶ声に、私はスキップする勢いで飛びついた。
「なっ…やめなさい」
決めた。
零一さん。
これに決定。
「…いつか、呼ばせてやるんだから」
助手席で、聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさで呟いてやった。
本人の預かり知らぬところで呼ばせてみました~っ
あぁでもこの主人公もなんか違う(爆
はぅぅぅっむずかしいねぇ~こんなに書いといて何だけど。
氷室と主人公のやり取りは、どうしてもマツモトトモさんの『キス』が過ぎります。
だから、こんなんになるのかなぁ…うぅっ
完成:2002/08/26
備考として、『CHERRY BLOSSOM』が絵的にすごいイイんですが…。なにしろ強すぎる。
ので、『ROYAL QUARTET』に下げてみました。
イラストはちゃんやす様にいただきました♪