こんなはずじゃなかった。
「きゃー!!」
暗闇に加えて、目の前に感じる何かの気配に私はぎゅっと目を閉じていた。
「東雲、どこへ行く」
「わかりません~」
目を閉じたまま、手探りで進みながら、何かに触れて怯えて、また下がって。それでも音は聞こえるから、やっぱり怖くて。
でも、零一さんには絶対、しがみついたりしない。それで、絶対呼んでもらうの…私の名前を。
*
今日は楽しい嬉しい零一さんとの社会見学…もといデートのハズだった。遊園地で零一さんをメリーゴーランドに乗せてみようと思っていた(きっと嫌がるだろうけど、それが見たい乙女心)。
なのに、待ち合わせしたバス停前には彼の幼なじみのマスターさんがいて、知らない女の人まで一緒にいた。零一さんは私が来たのに気づかないくらい、楽しそうだった。
「レイ! カノジョ来たわよっ」
どうしてかわからないけど、その女の人が私を最初に見つけた。キレイな人。お化粧も上手で、センスの良い上等な服を着こなし、手足も細い。お姉さんって感じで、すごくカッコイイ。それに、零一さんを「レイ」って親しげに呼んでる。
「や、やめなさいっ。東雲、すまない。こいつが…」
指しているのはマスターさんだけど、零一さん、いつもと様子が違う。何が違うとかはっきりとはわからないけど、絶対に、変。
「こいつが、Wデートを…」
いいながら、微かに頬が染まる。目が逸らされて、照れているのはわかるけど、なんだかムカムカする。
零一さんは最近、スーツをデートに来てこなくなった。私が生徒じゃなくなったから。でも、私服でもやっぱり「先生」って空気は消えなくて、たまたま遭った奈津実がすごい逃げ腰で。そして、マスターさんも今日は私服だ。けっこう何を着ても似合うんだ、やっぱり。何を着ても「先生」な零一さんとは大違い。
「こいつは俺のガールフレンドだから、気にしないでね。春霞ちゃん」
「たくさんいる中の一人、よね」
「ははは、わーかってるぅ」
拗ねた顔で彼女はマスターさんを睨みつけていた。あ、ホントにマスターさんのこと、好きなんだ。でも、たくさんの中のひとりって、なんか可哀想かも。
「東雲? やはり、イヤか?」
二人に見とれていて、零一さんが私の顔を覗きこんでいるのに気づかなかった。なんか、子供扱いされている感じがする。きょうはいつも以上に大人で、零一さんが遠い。
「こいつらは放っておいてもいいんだぞ?」
いつもより気安く話す言葉は、もっと私を惨めにさせる。
「そんなこと、言っちゃダメです。お友達でしょ、せんせぇ、の」
いつも通りに、しゃべれたと思う。でも一瞬、零一さんの顔が哀しそうに歪む。
「じゃぁ、決まり!いってみよーか、お化け屋敷!!」
私たちの間に流れる空気を吹き飛ばすように、明るくマスターさんが宣言した。
「は、へ!? お、お化け屋敷!???」
お化け屋敷には、ちょっとトラウマがあるんですけど。
「零一から春霞ちゃんが苦手だって聞いてねぇ~、克服につきあってやろうかと思って♪」
そんなことまで言ったんですか、零一さん。と睨みつけると、視線を外された。
「うんうん。レイもね、密かな野望が…」
「やめないか、二人とも。誰も東雲に克服させることなんか頼んでないぞ」
彼女の言葉が途中で、零一さんの声にかき消されたけど、野望ってなんだろう。そんな素振りなんて全然なかったし、わかんない。わかんないから、考えない。
「克服って、私、別に怖くなんか…っ」
それ以上に子供扱いされるのがイヤでイヤで、強がりを言った。でも、マスターさんと目が合ってしまった。この人の瞳は、優しいのに時々鋭くなる。
「怖くないんなら、別にいいんじゃない?」
笑顔で零一さんに問いかけて、彼が困るのを楽しんでいる。そうしたい気持ちもわからないでもない。現にそのつもりで遊園地に連れてって、頼んだから。
「まぁ、俺が好きなだけだから。ちょっと付き合ってよ♪」
「抱きつかれたいだけじゃないの~?」
「ふふっ、抱きつきたいのかもよ?」
目の前の二人は本当に恋人同士みたいでお似合いだけど、私と零一さんは先生と保護者にしかみえないままなのかな。
「ねぇ春霞ちゃん」
「はい」
「賭けをしないかい?」
この一言が、全ての始まりだった。
暗闇で何かが私の手に触れてくる。何?温かい、大きな手。
「目を瞑っていては危ないぞ」
零一さんの声だと思った瞬間、振り払っていた。本当はもうその腕にしがみついてしまいたい。安心して、しまいたい。
「東雲…」
でも、それじゃせっかくのチャンスを不意にしてしまう。せっかくマスターさんが作ってくれたチャンスを。
「あいつの言ったのは冗談」
「にしないでください。私、本気なんです」
声は横から心配そうにしている。
「だって、せんせぇはいつまでも私のこと、名前で呼んでくれないじゃないですか。賭けに勝てば、呼んでくれるでしょ?」
マスターの持ちかけた賭けは、確かに魅力的だった。どんな手を使っても、零一さんは名前を呼んでくれなくて、半年以上が無為に過ぎた。
「私は賛成していないぞ」
「賭けは賭けです」
「そんなことのために、今、こうしているというわけか」
「そんなことじゃないです!!」
飽きれたような声にムカムカして、思わず目を開いて零一さんを振り見ていた。
「そんなことだ」
冷静に諭す声はもう、耳に入っていなかった。
顔が、あった。
血の気のない、白い顔が。
「ャ――――――――――――――――――――ッ!!」
声なき声をあげて、しがみつくとかじゃなくて、ソレのいない方へ向かって、全速力で走ろうとして、壁に激突した。痛いのと怖いのが混じって、私の中はぐちゃぐちゃだ。もうこんな所ヤダ…。
激痛で流れた涙はいつしか悔しさに代わって、私は嗚咽を堪えていた。
「…ーっ」
少し離れたところで、私を探す零一さんの声が聞こえるけど、今、見つかりたくない。
お化け屋敷に入ったのは、マスターとの賭けのせいだけではない。マスターの彼女だという人に、嫉妬していた。あの人は、きっと私の知らない零一さんを知っている。彼女に負けたくない。そんなココロに駆られていた、ヒドい私。悔しくて悔しくて情けなくて、涙が止まらなくて。壁に向かって、手で口を押さえて、嗚咽が届かないようにと願った。
「…東雲?」
肩を抱くように触れてくる手に、勝手に身体が震える。
「大丈夫か?」
どうして、そんな当たり前のことを言うんだろう。怖くないわけがない。でも、零一さんが来たとたんに、恐怖は半減した。私の中で誰かが大丈夫だと囁いている。零一さんがいるから大丈夫だ、と。
「どこか、ぶつけたか?」
肩にかかる手に力が入って、無理やりに零一さんの方を向かされた。心配そうな顔をしているのを見て、罪悪感が芽生えた。
「あぁ、赤くなっているな」
涙でお化粧も落ちて、ぐしゃぐしゃの私の額に口付けて、自然に抱き寄せた。
これで、私の負け。そう思うと、やっぱり涙がでた。ホッとしている自分に腹が立つ。安心している自分が情けない。もっと、強かったら零一さんに強引に名前を呼ばせる私がいたはずなのに。
「よく頑張った」
髪を優しく梳いてくれる指から、零一さんのココロも知れたらイイのに。これではまるで、生徒のままだ。
「よく、頑張った。…春霞」
耳にかかる温かい吐息から聞こえたのは、気のせいかな。
「せ、せんせぇ…今?」
「顔を上げずに、そのままで聞いて欲しい」
私の頭が上がらないように押さえる手が震えている。零一さんが、緊張している。
「今まで、呼ばなかったんじゃない。…呼べなかったんだ」
温かいココロ、流れてくる。
「いつだって、君を名前で呼びたかった。でも、他の男が気安く呼ぶようには呼べなかった。聞くだけで、私は――」
いつもの、咳払いが身体に響いてくる。
「だから、名前で呼ぶと、歯止めが利かなくなる」
たったそれだけの理由で、呼ばなかったと。
「せんせぇ?」
「今日は、私の負けだ」
緊張を吐き出すような息で笑ってた。
「もう、泣き止んだな」
「ふふふっ」
「春霞」
こっそり笑っていると、耳に直接息をかけて呼んでくる。くすぐったいような恥ずかしいような嬉しいような。
「春霞」
「せんせぇ、もういいですよ」
無理して呼ばなくても。
「春霞」
「せんせぇってば」
顔を上げると、頬に口付けられて、目許まで柔らかな感触が上っていった。
「せ…」
「ずっと不思議だったんだ。なぜ、私服だと先生と呼ぶ?」
「え?あ!!」
そういえば、スーツ姿の時の零一さんはちゃんと「零一さん」だけど、今日、もしかして…。
「私も努力する。だから、君も」
「気をつけます!」
それで、今朝、変な顔していたのか。
「……」
「……」
「練習、するか」
「え?」
「…春霞」
「え、せんせぇ」
「言わないとキスする」
「せ、せんせぇ」
「春霞」
「……」
「春霞?」
「………零一さん」
言った瞬間に口を塞がれた。
結局、私は零一さんに抱えられて、お化け屋敷を抜け出した。お化け屋敷は嫌いだけど、ちょっとだけ好きになった。零一さんとの思い出が出来たから。
お化け屋敷から出てすぐ、私は化粧室に直行した。涙で崩れた化粧で、あの女の人やマスターさんの前には出られないと思ったから。
「…あーやっぱり腫れてる~っ」
目元がうっすらと赤い。これでは泣いたこともばれてしまう。
「どうしよう~っ」
零一さんは気にしないといったけれど、私は気にする。かといって、帰らせられても困る。せっかく一緒に遊園地に来たのに、アトラクションひとつで帰ったら絶対後悔するもん。
第一、まだ零一さんとメリーゴーランドに乗ってない。
「―――――よし!」
鏡と睨めっこして、笑顔を作った。ちょっと引きつってるけど、まぁ平気。腫れてるのもバレないだろう。
出たところで、彼女さんが待ち構えていた。
「レイのカノジョさん?」
「ひゃっ!」
驚いて立ち止まった私の顔を覗きこみ、浮かぶ笑顔が誰かに似ている。
「ダメね。やり直してあげる」
笑顔のまま、手を引いて強引に化粧室に引き戻された。私の意見など聞く気もないとさっさと化粧を落とさせて、バッグから次々に道具を取り出して、勝手に人の顔を弄り出して。
「アナタぐらいなら、そんなに濃くしない方が良いのよ。お肌もキレイだし、そうね…問題は目だけだけど…」
「あの~」
「動かないっ」
「は、はいっ!」
アゴを持ち上げられたまま、器用に彼女さんは両手を操って。
近くで見ると、本当にキレイな人だ。オトナの女の人だ。ちらっと盗み見た鏡に映ってる私は、まるで子供で。敵わない。
「レイのカノジョなんてやってると、苦労するでしょ」
「え、はい?」
「まったく融通は聞かないし、四角四面でやんなっちゃう」
苦笑と共に紡ぎ出される言葉は、私の知らない零一さんの話。
「昔っから、あぁだから敵も多いしね」
このひとはどのくらい前から彼を知っているんだろう。私はまだ、そんなに多くの零一さんの顔を知らない。しかめっ面の顔とピアノを弾く時の楽しそうな顔と、赤くなってうろたえて声を裏返す零一さん。…やっぱり、少ない。今でも二人でいる時の顔は、どちらかというと保護者みたいだし。
「…全然、カノジョなんかじゃないです」
気がつくと、小さく言葉が勝手に滑り出ていた。
「零一さんより全然子供で、全然釣り合わな…」
「あら、最初からわかってたんじゃないの? もう敗北宣言? もうギブアップ?」
負ける? 負けるなんてコト、零一さんの完全な生徒だった私にはありえない。
「いつか」
よしできた、と。彼女さんがにっこりと微笑んで肩を叩いた。
「いつか、せんせぇが手離したくなくなるぐらいイイ女になります」
向けられた鏡に、さっきまでの自信のない私はいない。はず。
「あらら、春霞ちゃん帰っちゃったの?」
お化け屋敷の後の待ち合わせ場所に一人で来たオレに、親友は明るくそう言ってよこした。そういうヤツもひとりで待っていたのだが。
「…貴様…」
「え、マジで帰っちゃったの? 残念~」
「そんなわけあるかっ」
掴みかかるオレにその笑みを崩さず、親友は落ちつけと手で合図する。
「でも、泣いちゃったみたいだね」
なんでそんなことがわかるのかと問うと、肩口を指された。そこには滲んだ涙の痕跡がある。
こんなことになった直接の原因はへらへらと笑っている。こういうやつだと知っていても、こみ上げる怒りは他にぶつける場所がない。
「だいたい零一がハナっから「春霞ちゃん」って呼んでやりゃ良かったんだよ。そうすりゃ賭け自体が成立しないんだからさ」
こいつの言うとおり、間接的な原因が自分にあることもわかっていた。
「そんなこと、できるか」
出きるはずがない。
「できるよ。だって、もう先生と生徒じゃないだろ」
そう、彼女が卒業してからもう半年になる。同時に、俺たちが付き合い始めて半年。
なんとなく過ぎていった半年を後悔している訳じゃない。彼女が高校生だった時分、いや俺のクラスだった時に比べれば格段に会う回数は減った。だが、その分強く心で結ばれていると思うのは、俺だけなのだろうか。
「ほら、戻ってきた時に一言、言ってやればいいんだって!」
軽く肩に乗せられた手が、むりやりに方向を変えさせた。それが、合図。
こいつの連れが先に追い抜かしたとたんに、春霞の歩が止まった。
「…悪い」
手を振り払って俺が駆け出すのと、春霞が踵を返すのは同時だった。
数歩もしないうちにその姿を見失ってしまったのは、不覚としか言いようがない。思えば、半年前まで勉強・運動共に学年トップをひた走ってきた彼女だ。ただ闇雲に探してなんとかなる相手ではない。 絶対に春霞の方から姿を現す方法として、俺が思いついたのはふたつ。
「零一?」
「レイ?」
追いついて来た二人はへとへとになっていたけれど、事情を説明するとあっさりと承諾してくれた。二手に分かれて探す前に、親友は性懲りもなく楽しそうに呟いていた。
「手のかかるお嬢ちゃんだな」
全く。本当に。
影からそっと私は3人の様子を窺がっていた。零一さんもマスターさんも彼女さんも困っている。 でも、もうあの3人の間にいるのはイヤ。一緒にいるだけで比べられる。私が子供だって、思い知らされる。
そっと零一さんの後をつけた。彼は目的を持って、どこかへ向かっているようだ。あ、あの人わざとぶつかってる。なんでそんなにスキだらけなのよ、零一さん。気づいてよ。
ねぇ本当に私は、零一さんのカノジョなの?
半年も経つのに、やっとキスしてくれたのが今日。名前を呼んでくれたのも今日。こんなことなら、高校の時に告白しとくんだった。あのクリスマスの時に、言っておくんだった。そうすれば、学校で目いっぱい逢える時を楽しめたのに。こんなに自分が子供だって思い知らなかったのに。
(あ、れ…?)
私はパンフレットを取り出して、零一さんの進む方向と見比べた。予想が間違っていなければ、その先にあるのは。
「!!」
影から飛び出して、ドアを開けようとした零一さんの腕に飛びついていた。ドアプレートには「迷子出会いスポット」と。
「何考えてるんですか! 私、そんなに子供じゃありません!!」
驚いたような顔の口角がかすかに上がった。
「やはりついてきていたか」
次にはふわりと体が浮いて、腕に抱えられていた。唇が触合うぐらいまで顔を近づけて、キス、されるかと思って目をぎゅっと閉じる。
「…ったー!」
なのに、頭突きされて、目を開けるってどうよ。
「心配させるな。東雲」
騙されたことより、優しい優しい声に何も言えなくなってしまう。零一さんは絶対に私を怒らないの。何をしても怒らないの?泣きそうになってることを悟られたくなくて、首に腕を回していた。
「だから、あいつらと一緒がイヤなら、言えと言ったはずだ」
「別に一緒がイヤな訳じゃないです」
言い訳のように呟いてみる。だって、マスターさんも彼女さんも嫌いじゃない。
「では何故逃げた?」
「…逃げた訳じゃないです」
それ以上何かを聞かれるのが怖くて、しっかりと抱きついた。
「東雲」
「…約束」
「……」
観念したようなため息の後、零一さんは困ったような微笑みを浮かべていた。
何に乗りたいんだという問いに、笑顔で私が示した物を素通りして。
「せんせぇ!」
「わざと、言っているな?」
「ええ。本気です」
一見噛み合わなそうな会話は、キラキラというよりメロメロなアトラクションの前で行われていた。零一さんは周囲をひどく警戒している。おそらく、悪友とその彼女の姿を。
「ジェットコースターではどうだ?」
「これがいいんです」
「観覧車…」
「臨海公園のが大きくていいです」
「バンジー…はやめておこう」
「だからーぁ、一緒にこれに乗ってくださいってば!」
目の前を通過する陶器の白馬やらカボチャを装った馬車やらを指差しながら、なおも私は食い下がった。いつもは簡単に折れてくれるが、流石にこれを前にそうはいかないらしい。
「あぁあいつらに連絡するのを忘れていたな」
「乗りたく、ないんですね」
話題を変えようとするのを捕まえて、泣き真似をしてみせたが。
「…あぁ。そうだ」
あっさりとそんな言葉が返ってきて、本当に泣きたくなった。
「私と一緒でも?」
「…あぁ」
「姫条くんは一緒に乗ってくれたのに…」
「………なっ!?」
スタスタとメリーゴーランドに向かう私の手を零一さんが掴んだ。
「いつ!」
「いつだっていいじゃないですか。それより、いいんですか?このままだと、私たちの番になりますけど」
そう。すでに順番待ちをする親子の渦中で、私たちは並んでいた。
逡巡する顔色に少し満足して、私は列から離れようとした。
「待ちなさい」
捕まれたままの腕を引き寄せられ、大きな体に抱きすくめられる。
「いつ、姫条と乗ったと?」
いつもと同じ優しい口調なのに、どこか強固な意志を感じた。零一さんらしくもない。
「いつでもいいじゃないですか」
「教えなさい、東雲…」
抱きしめられる腕に心臓がバクバクしてくる。おっきな腕の中は安心するけど、上を向くときっといつもと違う零一さんの顔があるだろう。
「どうぞーっ」
係員の案内に二人してハッとした。目の前にはカボチャの馬車があって、緩んだ腕から逃げるようにそれに乗る。一瞬躊躇しながらも、零一さんは長身を屈めて乗り込んできた。
「ごゆっくり~っ」
――かかった。
メリーゴーランドの中では、零一さんはまっすぐ私だけを見ていた。視線は少しも動くことなく。それに気づかない振りをするように、私も笑いを堪え続けていたのだった。
降りた私たちを待っていたのは、必死に笑いを堪えるマスターさんと彼女さんだった。
「まさか、これに乗ってるとはねぇ~予想外だったよ」
「アナタの頼みだったらなんでも聞くのかしら?」
零一さんはただ私の手を引いて、足早に二人から離れた。長身の零一さんと私ではコンパスの長さが違いすぎるけど、さっきはめてしまった少々の罪悪感も手伝って、気づかれないように小走りでついていった。
「ごめんなさい、せんせぇ」
小さく呟くと、その歩が止まった。なにか言いたげに口が開閉し、何も発せずに閉じられる。代わりに大きなため息が吐き出されて。
「せ、せんせぇ?」
彼は力なく、その場に座り込んでしまった。道の端を歩いていたから良いものの、歩道であることに代わりはない。
「大丈夫ですか?」
「…東雲、君は…」
「具合でも悪いんですか?」
いつも尽にやるように、抱き込んで広い背中を摩る。さすがは大人の男の人ということなのか、尽よりもおおきな背中だ。
「なっ…やめなさい!」
「吐きそうな時は無理しちゃダメですよ?」
「そういうわけではないから、少し離れなさい」
言われたとおりに離れようとすると、今度は腕を引っ張られて、隠すように私が抱き込まれた。
「せせせんせぇぇぇっ!!」
「いや、やはり具合が悪い。今日はもう帰らないか?」
弱々しい声で囁かれて、思わず頷いていた。
気がついたのは車が発進してからで。
運転する零一さんが鼻歌を歌っているのが聞こえて。
「…マスターさんたちは?」
「あいつの車で来るだろうさ」
まだ、二つしか乗ってないのに。ひどい、零一さん。
そんな感情も運転する横顔で、かき消されてしまう自分。――単純、よね。こんなちょっとした瞬間が大好き。
「で、いつ姫条とアレに乗ったと?」
信号で止まると待ちかねたように聞かれて、私は吹き出した。
「答えないつもりか…?」
「あんなこと、気にしてたんですか?」
「あんなこととはなんだ」
まるで、子供みたいに怒ってる。そんな時って、私たちの年齢差なんてなくなってる気がする。
「本当に聞きたいんですか?」
「…いや、ただ、その」
「聞きたくないんですか? じゃ、この話はここまでってことで」
打ち切ろうとすると、目がバックミラー越しにみえてしまった。困っているかと思ったら、すごく真剣な顔で。思わず鼓動が早くなる。
「明日は午後からの講義だと言っていたな?」
車が私の家を通りすぎる。
「よく、覚えてますね」
「当然だ」
そして、着いたのは例の場所で。
「中で待っていなさい」
バーの前で私は途方にくれた。マスターさんたちが先に帰っているはずないのに。置いてきたのは零一さんなのに。
扉にはまだ「Close」のプレートがかけられている。
「開いている訳ないのに」
ここで、どうする気なの?
………ん?
明日の予定を聞いたってコトは、そ、そそそうゆうことですかっ?
「あぁ、すまない。キーを渡し忘れていた」
戻ってきた零一さんは、ポケットから小さな鈍色の鍵を取り出して店に入りこんだ。動揺しまくって、立ち止まっている私の手を引いて、カウンター前の席に座らせる。
そして、カウンターに立ったのは、零一さん。
「そんなところで、なにしてるんですか。せんせぇ?」
答えは返ってこなくて、真剣に棚を眺めている零一さんは少し不自然。
「何って、カクテルをつく」
「作れませんっ」
「…何故そう言いきる」
私の前に細いグラスが置かれる。中身は当然カラだ。そこに、零一さんの手から氷が入れられ、透明な液体が注がれる。
グラスと氷の間の空気が抜ける澄んだ音色が、幻想曲へと私を誘う。仮にも教師が未成年にお酒を勧めるって、どうなんでしょう。それをそのまま伝えると、今日は特別だ。と返ってきた。
特別なグラス。特別なカクテル。初めての…お酒。
「失礼します」
なんとなく神妙な面持ちになって、そっとグラスに口をつけた。
たった一口で口の中に桜色の甘味が広がり、汐が引くようにさーっと通りぬける。
「お」
カウンターを出てきた零一さんが隣に座った。
「おいしーい!!」
「それは良かった」
「なんですか、コレ。お酒、入ってるんですか?」
彼は答えずに微笑んだだけ。
「ぜ、全部、飲んで良いんですよね?」
「どうぞ」
さっきの感動をもう一度味わいたくて、また一口と喉を通す。
また一口、もう一口、あと一口と飲みこむ度に、身体全体に広がる透明感。
「いつ姫条と遊園地に行ったんだ?」
「それはタマちゃんたちと皆で…」
「ほう。みんなで」
透明感…。
「コレ、自白剤でも入ってるんですか?」
つい言ってしまった真実に少しの後悔を伴った甘い傷み。
「なるほど。それで東雲は姫条とアレに乗ったんだな?」
「うー…」
まんまと策に溺れてしまったらしい。
「ずるいです、せんせぇ」
「十分楽しんでいただろう」
気づかれていたらしい。
「ちなみに、入れたのは自白剤でなく」
クラクラとする眩暈は、やっぱり初めてのお酒のせいかな。
「……だ」
冷たいテーブルに高校生の時のように突っ伏して、睡魔に誘われていった。
うーわ、続きそうな勢い。でも、ここまでにしよう。うん。
何を入れたのかは皆さんのご想像のままに(笑
なんとなく先生勝ちの方向です。
マスターは何時帰って来るんだろうなぁ~。……あ。『彼女さん』の複線が。残っ…
続きを書くかどうかはBBSリクエスト5人以上の場合に限ります。なーんてね。
完成:2002/09/26