新学期が始まったばかりの校内は静かだ。それというのも男子テニス部のレギュラーが遠征に行っていて不在だから。たったそれだけでとも思うけど、やつらはとにかくファンが多い。その煩さといったら、放課後の校内で寝ているのも困難なくらいだ。中庭の人目に付かない木陰では、まだゆっくりと休むことが出来る。空気は良いし、絶好のお昼寝場所なんだけど、あいつらが帰ってくると、それはもう邪魔なのが増えて寝ているどころではない。
「晴樹、みーっけ」
とろとろとまどろみに落ちていきそうになった時、急に名前を呼ばれて引き戻される。校内で私を名前のほうで呼ぶ人物なんて、まったくいなかったはずだ。
「ひまそーじゃん」
大きな目が、少し上から楽しそうに私を見下ろしている。
「…なんだ、リョーマか」
そういえば入学式はもう済んで、こいつも同じ学校だった。校内で会うのは別に珍しいことでもないだろう。
「テニスコート、案内してよ」
「やだ。他当たれよ」
シカトを決めこんで、顔を背ける。しかしなんでか今日は機嫌が良さそうに見える。
横風に髪が流されるのを抑える。
「ひまなんでしょ?」
「…忙しい」
別にやりたいこともないし、たしかにひまっちゃひまだけど。テニスコートはなぁ…。
「テニス好きなら、コートの場所ぐらいわかれ」
「入学したばっかりなのに、無理言わないでよ。晴樹」
「あーそーだねー。迷子で試合に遅れて、失格になるぐらいだもんねー」
「それ、いやみ?」
しゃがみこむと、私の目線よりちょい高めで、でもまっすぐに向かってくる強さは変わらない。
「あたり。先輩を使おうなんて10年早い」
その視線から逃れたくて、顔を背ける。
「晴樹、先輩…?」
ふと呟かれた一言に、ざわざわと総毛だつ。呼ばれ慣れていないからだろうか。
「ヤメロ」
頬をつねり上げようとしたら、上体を逸らして逃げやがった。しかもなんだ、その勝ち誇ったような笑みは。
「晴樹先輩」
「やめいっ」
「晴樹先輩ってば」
両耳を抑えて、両目を閉じても、聞こえてくる。なんでだ。こいつに「先輩」といわれるとものすごく馬鹿にされている気がするのは、気のせいか?
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん、晴樹先輩」
「だーもーヤメロってば!!」
追い払おうと伸ばした手が掴まれる。なんだ、こいつ、こんなに力強かったっけ。
「晴樹」
「な、んだよ?」
「案内してくれるよね?」
いつもは、私が見下ろしていた。それは私のほうが背が高いし、当然なんだけど。でも、こんな風に見下ろされるのは、違う。
「晴樹」
詰め寄ってくると、自然と顔も近づいてくる。そんなことでどうして私がうろたえなきゃなんないんだ。
「Ponta1本」
目の前に人差し指を1本立てる。きょとんとした目は、リョーマの愛猫カルピンにそっくりだ。
「それで手をうってやろう」
「なにそれ」
「案内料。安いもんだろ」
リョーマが考えこんでいる間に、その手を外そうとしたけど、びくともしない。しかし真剣に悩んでいる。
ーーPonta1本で。
「どーする?」
「いいよ」
「じゃ、買って来い」
「は? 前払い?」
「あったりまえじゃん」
「晴樹、ずるい」
「ふふん。案内が欲しかったら買って来るんだな」
目論見通り、リョーマが立ちあがる。
「ちゃんと待っててよね」
「いってらっしゃい」
走って行く後姿を確認して、校舎に戻る。目指すは屋上。待っているなんて、約束してないからね。
ーーごめん、リョーマ。
怒るだろうけど、まぁ自分で探せ。すぐ見つかるし。
「がんばれ、少年」
私はその時、私達のやり取りを見ていた人物がいたなんて、思いもしなかった。
(リョーマ視点)
自動販売機の場所を聞いていないことに気がついてすぐに戻ってきたら、すでにそこに晴樹の姿はない。
ーーこんなことだと思ったけど。
心の中で自分に言い訳して、先ほどまで晴樹の座っていた場所に座る。吹いてくる風が心地良い。目を閉じると、先ほどの晴樹の様子がはっきりと思い出せる。
木陰で寄りかかり、両手をスカートに落とし、柔らかくて温かくなる表情を浮かべて、この緑に解けこんでいて。人間じゃないみたいで、すごく綺麗だった。だから晴樹をみつけるのは簡単だったけど、反面むかついた。だって、あまりに無防備過ぎだし。あんな可愛い顔して寝てたら、襲われても文句言えないよ。
普段下から見上げている顔は、カッコイイという感じが強いけど、思ったとおり上から見下ろすと可愛い。ついにやけちゃったけど、晴樹はきっと気がつかなかっただろう。なにしろ超が幾つつくのかわからないぐらい鈍感なんだから。
閉じ込められるなら、閉じ込めてしまいたい。でも晴樹の羽をもいでしまいたいわけじゃない。
掴んだ手首はとても細くて、やっぱり女だなって思った。ふにゃふにゃして、柔らかいし。けっこう強く掴んだつもりなんだけど、晴樹ってば全然痛がらない。強がりもほどほどにしなよね。
先輩って呼ぶだけで、普段あまり変わらない表情が面白いように変化するし。ただでさえ、普段と違う角度でみれる晴樹の顔をもっとよく見ようと、顔を近づけると、もっと慌ててて。ーー面白い。
そのまま。唇で触れてしまいたかった。ここが学校でも、全然俺、構わないし。むしろ、晴樹のまわりにいる虫を追い払うチャンスだったと思う。
でも、一筋縄じゃいかない。
「Ponta1本で、ごまかしやがって」
ずるいよ、晴樹。俺がPonta好きになった理由も知らないで、ずるい。
全部、晴樹が好きだったからなのに。だから、好きになったのに。それで逃げるなんて。
ーー晴樹らしいっちゃらしいけどね。
風に吹かれて、晴樹の残り香が完全に無くなったところで、目を開く。立って、そろそろテニスコートに向かわなきゃ。
テニスバッグを取りに、俺はその場を後にした。今日の収穫はひとつ。晴樹のお気に入りの場所を知ったこと。
自分の中で、リョーマは『攻めあるのみ』です。
しかし、襲う隙はあるのに襲わないなぁ。
何、狙ってんだろ(笑。
(2003/09/09)