(…騙されたかな)
数冊の本を抱えて運びながら、首を捻る。現実には真っ直ぐ無表情で歩いているようにしか見えないが、たしかに心の中では首を傾げていた。
手伝いを了承した後で渡されたのは、1冊の、びっしりとテニスルールの書きこまれたノートだった。手書きであるが、竜崎先生の書いたものではない。手伝うのにどうしてテニスルールを覚える必要があるのかわからない。数学というより、テニスメインなのだろうか。あの教師はたしか男子テニス部の顧問だ。ずっと昔に世界レベルの選手を育てたとも、聞いたことがある。
ーー男子テニス部か。
おそらくリョーマはそこに入るだろう。そして、あの性格だ。おそらく荒れるだろう。
(…そういう意味なのだろうか)
逆を返せば、リョーマに騒ぎを起こさせなければ良いのかもしれないが、言ってきくような少年じゃない。
(…不安…)
頭では不安だと思っていても、心の奥では楽しそうだと思っている自分は否めない。喧嘩も祭りも大好きだが、目のことがあってからすっかりご無沙汰だ。
これは久々に楽しめるかもしれない。
バスケばかりで生きてきたけど、そろそろ本当に別のなにかを見つけなければいけない。バスケではない、別のなにかを。今すぐ決めろと言われても困るし、正直、竜崎先生の申し出はありがたかった。ただひとつの難点はうちの男子テニス部が結構強いらしく、女子ファンがとても多いということだ。やっかみや嫉妬というのが、一番厄介。それをどうするか今から対策を練っても遅くはないだろう。
教室のドアを叩く。骨と鉄の板のぶつかる音は、時として澄んだ音色を響かせる。
「竜崎先生、麻生です」
中から、複数の気配がある。誰がいるのだろう。気がついていないのかと、もう一度ドアを叩く。
「…すまないね、麻生」
「いいえ」
先生の体の影から見えるのは、男子テニス部員のようだ。青と白のレギュラージャージが目に痛い。
「麻生?」
ひとりが近づいてくる。優しそうな雰囲気を持つ男だ。見たことが、ある。
「なんで、麻生さんが?」
「大石先輩、男子テニス部だったんですか?」
思わず、目を丸くして聞いてしまう。その後ろで、竜崎先生が大声を挙げて笑った。
「あんたたち、知り合いだったのかい」
「前に保健室で…」
まだ目が悪いことも知らず、健在だった頃の話だ。たった半年ぐらいしか経っていないのに、何年も前の出来事みたいに懐かしい。前に保健室で合ったことが数回ある程度だが、向こうも覚えていたことにも安堵した。その向こうにいる生徒会長、手塚が男子テニス部の部長だというのは有名な話だから、驚くことはなにもない。
「丁度良かった。彼女には今後お前達の手伝いをしてもらう」
と、竜崎先生が言い出したとたん、手塚会長の眉間に深い皺が一本増える。大石先輩は、怪訝そうな顔をしている。
私も相当な表情を出してしまっていたのだろう。3人を見まわして、彼女はまた大きく笑った。
「なんて顔してんだい、3人とも」
「竜崎先生、男子テニス部のサポートするとまでは言ってませんよ」
「言ったはずじゃよ。部活関係でも手伝ってもらうことがある、とな」
たしかに言っていた気もするけど、マネージャー業みたいなことをやるとは言っていない。なんで私がサポートまでしなきゃならないんだ。面白そうかもとは思ったけど、話が違う。
「マネージャーは必要ないでしょう」
私のいう代りに会長がきっぱりと言い切った。よかった。反対してくれる人がいる。
「それに、彼女はバスケ部の…」
なんでそんなことまで知ってるのかなー、生徒会長。
「その点はもうバスケ部の先生と話をつけてある」
反対もしなかっただろう。だって、私はもう戦力外だ。コートに立つことも出来ないのに、続けられるほど強くない。
「しかし…」
(頑張れ、会長。粘ってくれ…!)
「それにマネージャーではなく、サポートだよ」
マネージャーとサポートの違いってなにさ。
「あの…竜崎先生」
「なんだい、大石」
「サポートといって、彼女に出来るサポートなんてないんじゃないですか?」
彼は、大石先輩は私の目のことを知っている。言っていることもわかる。たしかに片目では。でも、片目でも出来ることはあるわよ。ないなんて言い切られると、逆に腹が立つ。胸のあたりがむかついてくる。
「そうなのかね、麻生?」
「お言葉ですが、大石先輩。何をどう判断して「何もできない」とおっしゃるんですか?」
言ってはダメだと、止めようとしてももう止まらない。
ーー負けず嫌い、発動中。
「できるかできないかは、やって見てから判断していただきたいものですね」
サポートぐらい、できるわよ。そう、言い切ってしまったことに気がついたのは、その直後で。
「だそーだ。どうかな、手塚、大石」
にやりと微笑む竜崎先生の口元を見て、ようやく私ははめられた事を知ったのだった。
「これからアタシの代りによろしく頼むよ。麻生」
(手塚視点)
竜崎先生は何を考えているんだと頭を抱えたくなったが、それは麻生も同じらしい。元バスケ部の特待生で、今は左目の弱視故にそれを取り消された少女。話には聞いていたが、会うのは初めてだ。肩口よりわずかに下で揺れる真っ直ぐな黒髪。無理やり押し殺していた表情が今は、相当の自己嫌悪を映している。それは堅く結ばれた薄紅の口元からも、整えられた細い眉の間で刻まれる皺からも、震える長めの睫毛からも読み取れる。一見、とても落ち着いていて、何事にも動じないように見えたが、今のやりとりからするとかなりの負けず嫌い。
「……」
視線がなんとかしてくれと訴えてくる。というより、恨めしげに睨んでくる。しかしそれだけで、何を言ってくるでもなく、数分後、彼女は深いため息を吐いた。
「もしかして、最初からそのつもりだったんですか?」
「ちょっとしたリハビリだと思えば良いだろう?」
肩を叩かれた麻生ははっきりと嫌そうな表情を浮かべていたが、しぶしぶ頷く。彼女も大石も俺も、何のリハビリかは問わなかった。
「ノートには目を通したかな?」
「はい」
「他の事は大石、手塚、おまえたちに頼むぞ」
こちらに向ける視線は怯えることなく、ただまっすぐで、吸い込まれそうだ。
「よろしくお願いします」
ふわりと微笑む。先程までの興味のまったくなさそうな表情とは打って変わって、花が開くような、そんな笑顔に。
射抜かれた。
「早速だけど」
切替の早い大石が彼女に話す。俺は麻生を直視できなくて、手元に視線を落とした。今度の校内ランキング戦のオーダー決めはまだ終わっていない。ランキング戦の説明を麻生は熱心に聞いている。
「どうだい、手塚!? うまく4ブロックに分けられそうかい」
現在のレギュラーは4ブロック均等に分けるとして、後は…。
「今度の校内戦は都大会のレギュラー決めみたいなもんだしね。気を使うだろう」
「…はい」
他はどうするか…。
話を聞き終えた麻生が窓を開ける姿が視界に入った。
「そういえば、竜崎先生はお目当ての選手がいるんでしょ? 例えば1年に…」
窓の外を見て、麻生は一瞬だけ眉をしかめる。何にも興味がなさそうに見えたが、何かあったのだろうか。
「アタシの考えはともかく、基本的にウチの部じゃ、1年は夏まで出れないんだろう?」
「そうなんですか…?」
外に視線を注ぎながら、彼女は極めて普通に会話に加わる。
「まあそれは、部長が決めることですから」
大石の声ではなく、視線を感じて顔を上げると、丁度麻生がまた窓の外に視線を戻したところだった。
こちらを見ていた?
「…それは…」
その呟きは俺にしか聞こえなかったのかもしれない。
『つまらないわね』
ごく小さな声に驚いていると、こちらに気がついた麻生は口元だけそっと微笑み、口元に人差し指を立てた。それから手招きに惹かれるように席を立つ。
窓の外に見えるのはテニスコートだが、見たところ指示したとおりの活動をしているようには見えない。コートに入っているのは2年の荒井と…1年、か。インパクト音からして、ガットも張り替えていないようなラケットなのに、1年の彼は体全体を使って綺麗なフォームで打つ。2年が圧倒されている。
「…知り合い、か?」
麻生の視線は楽しそうに1年を見つめる。その熱心さを羨ましいと少し、感じた。こちらの問いなど聞こえていない。ただ熱心に、なぜか勝ち誇る光を瞳に宿す。
席に戻って、ランキング戦のオーダーに書き加える。
「どう思う、手塚!?」
「規律を乱す奴は許さん…。全員走らせておけ」
「え? レギュラー達も?」
「あいつらもだ」
見ているだけで止めなかったものも同罪。
俺たちが教室を出て行くときも、彼女は窓の外を見つめたままで振り返りもしない。それほどに、彼女の気に止まる1年なのだろうか。
「麻生」
「………」
「麻生!」
「はい」
踊るように回転して、ようやく振り返る。少し前までの不機嫌さなど嘘のように、楽しげに。
「どうしたんだ、手塚?」
大石の問いにハッとする。どうして、彼女を呼んだのだろう。
しかし、呼び止めた俺の代わりに竜崎先生が彼女に問う。
「麻生は今度のランキング戦から手伝ってもらうことにして、今日は見ていくだけ見ていくかい?」
「竜崎先生の御用がこれ以上ないのであれば、少し見学していきます」
顧問の了承を経て。数分後、俺たちは3人で教室を後にする。彼女の軽い足取りを、俺はいつになく落ち着かない気分で聞いていた。