こういうのも癖というのだろうか。私はまだ日が出る前に目を覚ます。それはまだバスケをしていたころからの習慣で、早朝ランニングの時間。いくらでも直せるとは言うが、私にはまだ無理なようだと結局ジャージに着替えて、そっと外へ出る。一応、毎朝起きないように足掻いてはいるのだが、結局起きてしまうものはしかたない。
音を立てないように閂を掛け、軽い準備運動をして、地面を蹴る。前ほどに強くはないが、ゆっくりと流れる景色を見る余裕はない。使うのは視覚以外の感覚全てだから、以前以上に頭が疲れる。
薄く照らし出され始める世界には、まだ自分以外の動くものはない。好都合ではあるが、油断をしてはいけないのも事実。それがいくら目をつぶってだって走れるコースであっても。
走っている最中に腕を引かれる。強い大きな力に始めは驚いたし、その人本人にも驚いたけど。さきほどまでの進行方向に電柱やら樹やら壁やらあったりするほうがもっと驚く。
「ありがと」
何も言わずに抜いていこうとする影に並ぶ。走る足音は揃っているけど、彼が走る速度を緩めかけるたびに私が抜かそうとするという攻防をしつつ、コースの公園に入る。
自販機でPontaを買って、一休み。半分以上飲み終わるころに、1周してきた彼と再会。
「飲む?」
無言で拒絶されるのはいつものこと。残りを一気に流し込み、適当に放り投げる。彼の視線はいつも缶の行方を追い、私はそれがゴミ入れに入る音をスタートにして走り出す。炭酸の一気のみはやめなさいといわれているんだけどね、今更。
それから彼の足音がついてくる。すぐに左側に並んでくれる。そうして、たぶん私の目の代わりをしてくれているのだと思う。直接たずねたことはない。尋ねる気もなかった。
「おい」
彼の名前は知らない。学校も知らない。そして、彼も私を知らない、と思っていた。
「おい、麻生」
自分よりも背の高い影を見上げる。
「なんで、この間いたんだ?」
「は?」
あまりこの男はしゃべらない。常なら私が勝手にしゃべっているだけなのに、急に言われても主語がないとわからない。
「だから、うちのテニス部に」
この間のテニス部というと、あれしかない。竜崎先生にはめられたアレだ。
「あそこにいた…? てゆーか、同じ学校!? まさか、青学?」
思いっきり聞き返すと、蛇みたいな形相で睨まれた。
「何度も校内ですれ違ってんだろ」
「知らない」
即答すると、長い腕を力なく落として、少しスピードを落とす。
「声かけてくれればいいのに」
「………」
どうやら、声をかけられても気がついていなかったのは、私のほうらしい。乾いた笑いで誤魔化し、追い抜かそうとしたところを腕を引かれる。目の前を自転車が通ってゆく。
「…いや、ほら、学校じゃちょっと余裕ないからさ」
自嘲の笑いが零れるのを、止める気も起きない。知られてるんなら、知ってるんだろう。
「ふしゅ~…」
「とりあえず、同じ学年? クラスは一緒じゃなかったよね?」
「7組。海堂薫だ」
規則的な呼吸音は、走り慣れている人のものだ。
「海堂…薫?」
どこかで聞いたことがある気がする。
「おい、考え事なんかしてっと、ぶつかるぞ」
またも腕を引かれる。間一髪、歩道橋が避けて行く。
「悪ぃ。7組ってことは隣か~」
左手を振って、背中を叩く。
「次は気づくように声かけて」
「…あぁ」
なにか間があった気もするが、気にしないでおくか。
家の前まで着いてきてもらい、そこで分かれるのが私たちの日課。しかし、その後も同じ中学に行っていたとは。
ーー世間って、マジ狭いわ。
すっかり日の昇った住宅街に段々と薄れてゆく背中を見送りながら、笑う。朝から笑うなんて、変な気分だ。
海堂、薫。か。半年も一緒に走ってて、よく今まで私も気がつかなかったものだ。それだけ、学校じゃ周囲に気を配る余裕がないってことだが。あの様子じゃ、かなり頻繁に会ってたようだ。
ーー今日は学校に行ってから、少しだけ周りを見てみようかな。
そう思えた朝だった。
(海堂視点)
校内で麻生晴樹を知らないもののほうが珍しいというのに、本人にまったく自覚が無いのは不思議だ。半年前までは元気で明るい普通の少女で、バスケの天才とまで謳われていたが、言葉を交したのは丁度半年前。麻生がバスケをやめる直前である。
それまでの麻生は、俺とコースが同じであるというか、実は同じコースを走っていることに気がつかなかったであろう(ストーカーじゃねぇ。偶然、同じコースだっただけだ)。
噂とは正反対の努力家で、朝夕のランニングは欠かされるコトなく、スピードも落ちることなく、大抵の男では付いて行けないほどだった。
初めて声をかけたのは、左側のフェンスにまっすぐ向かって行く彼女。数度ぶつかりながら、ふらふら走り、危く電柱と喧嘩をしそうなところで引き止めた。
ーーあっぶな…っ 悪い、ありがとう。
そんな第一声は朝の空気によく通り、あげられた顔の晴れやかさより、数カ所のぶつけたばかりの擦傷と目尻の雫が焼きついた。今まで見た、誰のどの笑顔よりも明るく、綺麗で。一瞬でオちた。
ーーちゃんと見えてんのか?
冗談で言った言葉に、朝露を氷に変えてまとってしまうのを間近に見てしまった。それから、ぼんやりしたように笑って、じゃあねとか言って来た道を戻っていった。その走る背中はとても小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
登校中の俺の横を走り抜けて行く自転車の何台目かの荷台から、声がかかる。
「お、はよ。海堂」
誰か、男の荷台に乗って、手を振っているのは。
今朝会ったばかりの麻生その人。
付き合っている奴なんだろうか。それでも、なんだか納得してしまって、らしくないため息が漏れた。わかっていたコトだ。彼女は人気がある。今更、付き合ってる奴がいないほうがおかしい。そう、わかっていたはずなのに、どこかやりきれない想いがある。自転車を漕いでいる男は、麻生の目のコトを知っているのだろうか。
「頑張れ、桃! 日直だろ!?」
彼女の声が男を呼ぶ。「桃」なんて呼ばれる別の男を思い出して、小さく舌打ちをする。朝からあんな奴を思い出すなんて、ついてねぇ。
「おまえが降りれば余裕なんだよ!」
声まで似てやがる。
「乗せてくれるっつったのは、桃のほうだろ。男なら最後までやりとおせ!」
「うぃーっす」
…てか、本人じゃねーのか。あれ。隣にはたしか桃城の野郎もいた気がする。クラスメイトか、あの二人。そう考えると、気分的にも少しだけ楽になり、笑みが零れた。その瞬間、俺の周囲から人が遠ざかったのはいつものコトだ。
半年前、あの時声をかけてからしばらく休学していて、戻ってきたら以前の彼女ではなくなったと皆言うけれど、俺は朝の彼女だけは変わっていないと思う。朝しか会っていないが、変わったフリをしているだけなんだ。逃げているだけ。わかっていて苦しんでるのを見て、なにを言えるわけじゃない。誰かに縋るコトも知らないのだろう。学校の中で、ひとりでもそんな奴がいれば、麻生も息をつけるだろう。
一台の車がスピードを上げて風を起こしていった。