校内の自動販売機でPontaを購入するのは、日課のひとつだ。ようやくひとりになれたと安堵し、木陰で目を閉じる。そうすると聞こえてくるのはいつもボールの音ばかりだ。テニス部、野球部、バレー部に卓球部といろんな種類の音が聞えるけど、一番良く聞えるのは、一番遠いはずのバスケ部の音だ。まだ、忘れられない。狂おしい想いに胸が痛くなる。
どうしてと、何度も思った。夢であって欲しいと、いつだって願ってる。だけど、現実だと誰よりも自覚している。
戻れるのなら、戻りたい。バスケの出来た、あの頃に。
「あれ、越前君の保護者がのんびり寝てて良いの?」
やんわりと避けるのも面倒なナイフで突き刺してくる声に、瞳を開ける。ジャージの足が見える。履いているのは、テニスのシューズ、か。そのまま視線を上げるが、光量が多すぎて、誰なのかわからない。もし見えていたとしても、誰なのかわかったかどうか、疑問も残る。
「もうすぐ3年のレギュラーとの試合が始まるけど、応援しないの?」
いちいち棘のある言い方をする。別に良いじゃない、私の勝手だ。
「晴樹ちゃん?」
いっそ手もとのPontaを思い切り良く振って、こいつに向かってプルタブ引いてやろうかしら。
「名前で呼ぶほどに親しい仲ではないと思いませんか」
「でも、英二は呼んでるじゃない」
あれは、あれ。これはこれだ。
「ふふ…おかしなことを言うね」
どっちが。
小さな鳥の飛び立つ羽音が聞える。一緒に私も連れていってくれたら、いいのに。でも、もう私には飛ぶ力なんてないんだけど。
考えるだけで鼻の奥がツンとする。瞳が潤みそうになる。
「それで、用事があって、ここを通っただけなんじゃないですか?」
「うん。乾と越前君の試合を観戦しようと思って」
じゃあ、さっさと行ったらいい。
「一緒に見ない?」
「見ません。リョーマが負けるわけないもの」
リョーマが負けるのは、リョーマの親父にだけだもの。テニスで、リョーマが敵わなかった相手の話なんて、聞いたこともない。もともとすっごい負けず嫌いで、手を焼かれたわ。それがいつのまにかしっかり男の子、してるなんてね。
「それはどうかな」
「たしかに青学のテニス部ってちょっと有名らしーですけど? そんなの相手じゃないわ」
「乾はうちのナンバー3だよ」
青学最強は、手塚部長。2番目が自分だと。いけしゃあしゃあと。
でももう3年だ。リョーマは1年。流れが変わる。留まったままの風が流れて、逆風が吹き荒れる。その中でもまだ、最強を名乗っていられるだろうかーー?
「別に、僕らが名乗っているわけじゃない」
なんだろう、この人の周りは不穏な風が吹く。
「見ればわかると思うよ。それとも、越前君が負けるのは見たくないってことかな?」
「絶対、リョーマが勝ちますっ」
「賭ける? 乾が勝ったら、僕は君にマネージャーを強要したりしない」
「賭けにならないって言ってるんだよっ」
「ーー逃げるんだ」
ーーこの人、人の話聞いてるのか!?
立ちあがり、私よりも僅かに高い身長を見上げる。その笑顔の裏で何を考えているのか、何を思っているのか。まったくわからない。細い目が僅かに開いて、私を見つめる。値踏みするような推し量る無遠慮な視線を全力で受け止めて、睨み返す。
「約束、守ってくださいね」
そのまま方向を変えて、テニスコートへ向かう。こうなったら、何が何でもリョーマに勝ってもらわなきゃ。
風に乗って、小さな笑い声が聞えた。
(不二視点)
なんて負けず嫌いな女の子だろう。睨みつける視線はとても強く、人を惹きつける。いや、惹きつけられたいうべきか。
先に歩く真っ直ぐな背を追いかける。彼女の後には道が出来るみたいだ。誰もが避けて通るというわけじゃない。道を自然に開けてくれる。そして、一瞬見惚れ、強い瞳から視線を逸らす。大抵の人間があの視線を恐れる。恐れないのは、彼女に負けない精神力を持った人物というわけだ。
ーー絶対負けない。
それで思い出した。たしか、球技大会の時も同じことを言っていたから。
ーー負けると思ったら負ける! まだまだいけるよ、頑張ろう!
チャンスをそうして作って、道を切り開いていく。強い、女の子。
「晴樹ちゃん」
「賭け、私が勝ったら、その呼び方もやめてください」
振りかえらずに、前を向いたままの晴樹は、今どんな顔をしているのだろう。あのときを同じ表情をしているのかな。
足を速めるだけで、簡単に追いつけるし、追い越せる。でも、左隣に敢えて並んでみる。まっすぐに前だけを見ている横顔は、僕に気がついた様子もない。左目が見えないというのは本当なのだろうか。
あの時の英二とのゲームは、レギュラー以外が相手にできないほどの強さ。とてもバスケ一筋だったとは思えないし、半年もスポーツをしていないなんて考えられない。ましてや、片目で追い続けられる速さのボールじゃない。
「どうして?」
歩きながら、肩が震え、嫌そうにこちらに体を向けてくる。なにか言いたげに口が開閉し、深い息を吐き出して、足を速める。
風にほのかに混じる甘い香りは彼女から香ってくるのだろうか。きつい香水とかそういうのではなく、自然に甘い蜜の様なそれは、揺れる髪からこぼれて来るのか。それとも、時折のぞく白い項からなのか。無意識に色香を漂わせているのか。
「どうしたの?」
「なん、でも、な」
息切れというには妙な区切り方で返ってくる。強く、拳を握りこんでいるせいで、彼女の手は余計に白く、手の甲に静脈が薄青く浮かび上がっている。
指先で軽く触れるだけで、大げさに振り払われる。そこまで嫌われているとは思わなかったけど、別に好かれているとも思ってないから、それほど気にはならない。
「リョーマが勝ちますよ」
「断言できるの?」
立ち止まる彼女に合わせて、僕も止まる。左斜め上から彼女にむかってくる陽光が、鋭い眼光を映えさせる。
何か言いたげに開いた口からは音も息も零れず、キュッと引き結んで、背を向ける。
「試合、始まりますね」
その後、小走りの彼女を追いかけたおかげで、試合前にテニスコートに着いた。