先程まで緋色だった放課後の薄暗い教室に、淡い闇が侵食を始めている。音もなく静かに。
そんな状況に恐怖を憶えるのは、私だから、だろうか。私だから、かもしれない。校内じゃ、超現実主義者で通っているし、まさか、この私が、と考える人も多い。この私が極度の怖がりだなんて。
「…もうすぐ、4時半…」
虚ろに自分の声が響くことさえも怖い。だけど、聞えないのもまた怖い。そんな矛盾に歯噛みし、シャーペンを握り込む。手元には苦手な確率の問題が書き並べられている。確率なんていくら考えたって仕方ないじゃない。起こるモノは起こるんだから。いくら睨みつけても、それをいってやれる相手さえいない。そして、どんどん時間は迫ってくる。先日読んだばかりの学校の怪談が思い出されてくる。
ーー4時44分の伝説。
(何も起きませんように…!)
強く念じる私を嘲笑い、4時40分のチャイムが響く。後4分。
「まだ、残っていたのか」
「…っ!」
教室の後ろのドアから聞える落ち着いた声音に、体が震える。それが級友の手塚君でなくても、誰であっても、先生であっても、きっと私は動けない。恐怖が足元から私を絡め取り、身動きを封じる。
「もう時間も遅い。早く帰ったほうが良いぞ。麻生」
近づいてくる足音一歩一歩よりも、時計の針が怖い。あと、3分。机の側に止まる足音。近くにある存在に、ほんの少しの安堵と自尊心が生まれる。1、2度口を開閉し、動くことを確かめる。
「確率…?」
「かえる、わよ。今、そう思っていたところ。手塚君も今、帰り? 生徒会長も大変ね」
一気にまくし立て、プリントを奪い返し、もう一度時計を見る。あと、2分。
「麻生が確率を苦手とは知らなかった」
あと2分で、校内を離れられるだろうか。
「ごめんなさい、急いでるの。さよなら、手塚君っ」
鞄をひっつかみ、机から離れようとする私の腕を強く掴む。
「手塚、君? 何かしら」
「…」
掴まれている間に、あと1分。
「離して」
「…」
あと40秒。
「離し…」
だめだ、間に合わない。
「麻生」
あと、何秒?
「ごめん、手塚君!!」
恐怖と理性の狭間で、私が出来ることなんて、たかが知れてる。でも、そうせずにはいられない。彼は、急に抱きついてきた私に驚いただろう。何が起きたなんて、わからなかっただろう。それが普通の反応だ。
「麻生?」
「…いま、なんじなんふん…?」
声が震えてることなんて、わかってる。でも、きっとこの人なら言わないで置いてくれる。
「4時45分だ」
過ぎた時間に、やっと安堵の息が零れる。よかった、何も起きなかった。全身を絡め取っていた恐怖という鎖がバラバラに砕けて、解けて、外れる。
「そ…う」
ゆっくりと離れようとすると、柔らかく抱きしめられる。
「もう少し、こうしていろ」
震えが止まるまで。こうしているから、と。何も話していないのに、そうしてくれる優しさに泣きそうになった。この恐怖は誰にもわからない、私だけのモノだ。他の人なら笑い飛ばしてしまう類のものだ。だから、誰にも話せなかった。
深く響いてくる手塚君の心臓の音は、規則的に時を刻んでいる。こんなに鼓動の早い人だとは知らなかった。いつも落ち着いていて、変化を悟らせない、とても大人びた級友だから。近づかなければわからない。
見ているだけじゃ、わからない。近づくほどに手塚君の核に触れそうで、触れたら、好きになってしまう気がして。強く、腕を伸ばして離れる。今度は素直に離してくれた。
「もう、大丈夫。ごめん、手塚君」
「いや」
どこまでも落ち着いた声だけれど、少し上ずっていた気がするのは気のせいね。
「やっぱり、プリントやってから帰ることにする」
自分の席の椅子を引き、鞄に適当に突っ込んだペンを取り出す。
「もう遅いぞ?」
「まだ明るいから」
ガタガタと音を立てて、プリントに向かい直す私の前の席に、手塚君が座る。
「どこがわからないんだ?」
どうやら、教えてくれるらしい。
「全部」
眉間に皺が増える。
「本当か?」
「本気も本気。真面目にわからないの」
神妙に言うと、丁寧に解説してくれた。一つ一つ丁寧に。おかげであんなに悩んでた問題が30分もかからずに終わってしまった。
職員室によって、プリントを提出し、二人で昇降口に向かう。校内も校外もすでに闇が深い。
「さっきのことだが」
私の半歩後ろを歩く足音はとてもゆっくりしていて、穏やかだ。
「あー…忘れてくれると、助かる」
振りかえらずに、昇降口で曲がり、靴箱を開ける。
「何を怖がっていたんだ?」
「聞かないでいてくれると、もっと助かる」
しかし、それでは済まないようだ。
靴を履き替えた手塚君がドアの前で待っている。私の答えを訊く為に。
「えーっと…誰にも、言わないでよね」
「わかった」
約束を違える男ではないと、よくよく知っているし、しかたない。
先に立って校舎を出て、くるりと振りかえる。自身の起こした風でスカートの裾が広がり、すぐに重力を思い出して落ちる。少しだけ、手塚君が目を細める。
「私、おばけ嫌いなの」
「怖いのか」
「嫌い、なの」
彼の言葉を強く訂正する。誤解、ではないけれど、訂正する。
「ホラー映画だって好きだし、ミステリーも、怪談も大好き」
「……」
「でも、嫌いなの」
「……」
ホンモノのおばけは、嫌い。
月の光に導かれるように顔を上げると、後ろから頭を押される。
「行くぞ」
「え、あぁ、うん」
そっと抱かれた肩は優しくて、暖かい。態度はそっけないけど、手塚君なりの優しさで不安が解けて、安心へと変わってゆく。
「…麻生」
「うん? あ、手塚君は家どっち?」
「………」
不安を優しく包んで、安心へと変えてくれる手塚君に告白されたのは、その翌日のことーー。