見上げる空はどこまでもどこまでも蒼い。青く澄んで、すべてを見通しているかのようだ。
「メイ、おっはっよっ!」
背後からどつかれて、一瞬その空に飛んで行ってしまいそうだった。
「頼むから、その声のかけ方だけはやめてよね」
「一人でこんなところでサボってるからでしょー。あたしだってサボりたいのにーぃ」
隣に座ってぶつぶつと呟き出されても、サボりたくてサボっているわけじゃない。
風に髪がなびき、目の前を遮る。それを手で押さえて、今度は上ではなく正面を見た。ここに来てから、まだ誰も目の前の渡り廊下を通らない。
「だいたい、あの先生も悪いわよね。雨が降らないのはメイのせいじゃないんだし」
いや、うん。私のせいなんだけどね。授業で天気の魔法に失敗しすぎて、数日良い天気過ぎてるし。異常気象とか世間で騒がれているけど、先生方もそろって口止めしているけど、知っている人は知っている。
でも、大体呪文を間違えたのは、そもそも先生の文字が汚いからでしょ。それをみんなで私を悪者扱いしてさ。
「…好きでやったわけじゃないっての…」
ここは世界随一の学校、クラスタ王立学院といい、一流の魔法使いや剣術使い、賢者を排出していることで有名だ。当然、入学は狭き門であり、入ってからも勉強だけの日々。勉強がそれだけ好きだというのなら、それもいいだろう。だが、私は友人に付き添いを頼まれ、ついでに受けさせられ、あまつことか友人の落ちた試験に受かってここにいるようなものだ。だから、当然のようにやる気はない。
「え、なに?」
くるりと振り向いた少女は波がかった黒髪を赤いリボンで結い上げて、大きな黒目のくりんとしたリスみたいで可愛い。着ているのは同じ制服なのに、彼女のためにあつらわれたように、しっくりとくる。
「なんでもなーいっ」
答える気がないとわかってくれたせいか、メリアン女史はそれ以降何も聞いてこなかった。
「そういえば、今日はディルファウスト王子殿下が魔法使いの試験を受けているんですって」
ふーん。そうなんだ。彼ならきっとパスするだろう。名前だけじゃなく、本物の魔法使いになるのだろう。昨今、教養としてしか身につけなくなった貴族に珍しく、彼は実に真面目で、実力も本物だ。
「それから、シャルダン様は剣術士の試験に落ちたって」
…この話は何度目だろう。彼も弱い割に諦めの悪いことだ。剣術士は剣を使ううえでも下のランクでしかなく、その試験に受からないということはつまりいーっちばん下の剣術見習いでしかないということだ。
いや、貴族にそれほどの力が必要なわけでもないし、彼にはそれ以外の力もあることだし、別に気にする必要もないことだ。
リーンゴーン。
「あ、次はメティル先生の魔法史だった! メイは?」
「サボる」
魔法史なんてかったるいもの、出てられますか。
校舎内のメイとは逆方向に、中庭に向かって歩き出す。先には大きな木がある。昼寝用の木がある。
「ーー浮空術ーー」
ふわりと身体が軽くなり、軽く飛んで、枝に手をかける。上がりすぎる身体を操作して、枝に座る。これが簡単にできるようになるまで、時間はかかった。別に私は運動神経も良くないし、頭も良くない。だから、枝に登るのに慣れるまで半年もかかったし、枝に登るのに魔法を使えばいいと気づくまでにもそれから一ヶ月。術を制御できるまでに一年。上手く枝に座れるまでに一年かかった。おかげで留年寸前だ。
枝に横たわり、目を閉じる。それが、世界の終わりでも全然かまわない。
「ねぇ、カークさん」
がさりと音がして、気配がすぐ近くに現れる。移動してきたというよりも、すぐそばにいて、枝を持ち上げただけのようだ。
「どうして勉強なんてするのかしら」
特に魔法史なんて、なんの意味もないように思える。
「王族だから、貴族だから。それがなんなの? 同じ人間なのに、生まれひとつでこうも違うなんて、不公平じゃない」
私の家は、どちらかといえば中流家庭で、王立学院ではそれでも下のほうに属する。家柄で力が決まるわけじゃないのに、同じぐらいの成績でも家柄が上であるほうが優遇される。同じように天気術を間違えても、私一人だけが処罰される。そんなの、変じゃない。
「王族ってだけでも優遇されるのに、その上才能まであるなんて、ずるい」
「貴族ってだけで、なんの力もないくせに、大きな顔をしているなんて、許せない」
影の男はいつも黙って聞いている。
「でも、なによりもなんの力もないくせにここにいる自分が許せない」
一緒に試験を受けた友人のほうがはるかに力があった。彼は四大元素の術を操ることができたし、いろんなことを知っていた。私は木に登ることだって満足にできない、力のない子供だった。今でもどうして私が受かって、彼が落ちたのかわからない。わからないと気になるし、気になると落ち着かなくて、勉強も手に付かない。
手が顔に触れてくる感触に、頬を摺り寄せる。大きくて冷たくて、ゴツゴツしている、男の人の手だ。
「力がないのに入れるほど、ここは甘いところではないのだろう?」
低い声は、身体に響いて、とても落ち着かせてくれる。
「ならば、お前には潜在的にその力があったということだ」
自信を持てと、泣くなとは決して言わない男は、私を柔らかく抱き寄せる。羽で包むように、守るように。それほど弱いわけでも強いわけでもない。そんな私を、どうしてか守ってくれるようだけれど。
それも今だけ。彼の主人は別にある。
「…ねぇ」
抱かれたまま、問う。
「カークさんは、どうしてシャルダン様に仕えているの?」
とても穏やかだけれど、殺伐とした空気を抱えて。彼に近づく全てを、殺気を持って、見守っている。どんな人生を歩んできたら、こんな風になるのだろう。想像なんて、出来ない。
「どうして、私によくしてくれるの?」
彼にとっては、主人であるシャルダン様以外はどうでも良いはずなのに。
「…それは…」
「それは?」
珍しく口ごもる。今日は、少し様子が妙な気がする。
「カークさん?」
その目線が一点を捕らえ、歩く人を追いかける。様子がおかしいわけではなく、仕事のようだ。
仕方がないので、私も同じほうへ目線を追いかける。そこにはいかにもな様子の貴族がいて、その隣にはもっと弱そうな王子殿下がいて、そして。
「…みたことないのがいる…」
「王子殿下の従妹君だ」
王子とシャルダンに挟まれて、笑っている可憐な姫君。本物の姫君だと、誰が見ても一目でわかる。波打つ金の髪、透き通る肌、紅色の頬、朱の唇。ピンクのドレスに繊細なレースの上着がかけてあり、見るからに高価なものだとわかる。
「私の主は、シャルダン様お一人だ」
不意に、彼が話し出す。低い声は静かに響いて、胸を叩く。トントン、とノックをされている気分だ。
「今はあの方のためだけに生きている」
言われなくたって、見ているだけでわかる。
「だから、他のことに構っている時間はない」
いやだから、わかってるんですってば。
返答するのもめんどくさくて、適当に相槌を打っていたら、いきなり顎をつかんで上を向けられた。目の前に無表情で厳つい顔がある。
「ちょ、カークさん?」
「それより、何故お前は私に平気で話しかける? 怖くはないのか?」
怖い? どうして?
「だって、助けてくれたじゃない」
まだこの木に登るのに慣れていなかったときに、落ちかけたことがあった。それを寸でのところで捕らえ、引き上げてくれた。そうされなければ、最悪死んでしまっていたかもしれない。
「あーゆーときにとっさに人を助けられるっていうのは、良い人の証拠よ。どこに怖がる要因があるっていうの?」
彼はとても困った顔をしていたから、少しからかいたくなった。腕を上げて、彼の頭を引き寄せて。
かすかに唇が触れた。
「…!?」
「それに私は、カークさんのこと、好きよ?」
ポツリと、水がこぼれた。すぐにそれは大粒の雨に変わる。誰かがまた、天気の魔法に失敗したのだろう。なんてタイミングだ。
無言で私を抱き上げたまま、彼はすぐに屋根の下へ飛んだ。本当に急で、避ける暇もなかったから、二人ともずぶぬれだ。
「すっごい雨…」
顔をあげて、元居た場所を見ると、その場所にだけ雨雲がある。局地的に大雨となっている。誰がやったのかと見回すと、渡り廊下の向こうに王子殿下が消えるところで。カークをふりかえると、彼はいつもどおり無表情で。今の告白をどう思ったのか思わないのか、わからない。
「いっちゃたわよ。追いかけないの?」
彼はじっと私を見つめている。黒目の双眸は、闇空を閉じ込めてあるみたいに綺麗だ。月も星も届かない、闇。
「……… 今のは、本気か?」
とてもとても、小さな声。小さな子供みたいに、不安そうに言うから。その頭を胸に引き寄せ、抱きしめる。
「大好きよ」
胸の中で、そうか、と呟き、彼はただ「ありがとう」といった。