ねえ、と彼女が言う。
「ねえ、マヒロ」
健康的とは言い難いような青白い肌と、不釣合いに赤いルージュを僕は見下ろす。大きな土色の瞳が言葉と同じくささやく。
ねえ、と。
「なんだい?」
そんな風に声をかけるとき、決まって彼女は笑っている。とても綺麗で消えてしまいそうな笑顔で、笑っている。
本から目を離さずに返していると、それが急に取り上げられ、しっかりと抱え込まれてしまう。
「もう、話すときはちゃんと見てっていってるじゃない」
全然怒っている風ではなく、楽しそうに僕の本を細い腕に抱える。細すぎる腕に大きく重過ぎる本は、とても不釣合いに見える。彼女は別にその本を読みたいわけじゃないから、気にしないのだろう。
「なんだい、今日は」
「うん、あのね」
聞きたいことがあるの、と。本を少し離れたところに追いやって、胸に頭を摺り寄せてくるので、僕も彼女の髪を撫でる。
「私はマヒロが好きよ」
それはいつも言われていることだけど、いつ言われてもやはり嬉しいものだ。僕も、と返そうとするより先に、彼女が続ける。
「マヒロも私を好きだろうけど、もっと好きよ」
顔を胸に埋めたまま、両腕を背中に廻して抱きしめられる。僕は、動けないでいる。
「絶対私のほうが好きよ」
強く、力を込めて。声は強いのに泣きそうで、消えそうで。抱きしめたいのに、指一本動かしても彼女は壊れてしまいそうで、動けない。
「いつか、離れ離れになっても」
いや、泣きそうなのではない。
「それだけは忘れないで」
泣いていたのかもしれない。彼女はそのとき決して顔を上げなかったから、僕は何も知らない。
彼女には何か特別な力があったわけじゃないけれど、おそらくその後のことを予感していたのかもしれない。今となっては、何もわからない。
あのときを同じことをいって、小さな少女は僕に背を向けた。真剣で、強く真っ直ぐなのに、どこか縋るような黒い瞳が焼きついている。僕は、彼女を追うべきか追わざるべきかを迷っている。少女はとても小さいけれど、あのときの彼女と同じ目で、同じことを言っていた。
「私が真行寺を好きだってことは、それだけは、忘れないで」
ただ違うのは、少女が僕の気持ちを知らないことだ。あれから、何度も迷ったけれど、やっと気がついた。彼女とリサトは違う。絶対の境界がそこにあるのだけど、違うようで同じ。
一歩を踏み出す。神の宮と外界の境界を越えて。後を追う。
腕を引くと、思ったとおりにリサトは泣いていた。大きな瞳が零れてしまいそうな大粒の涙を流しながら、しっかりと前を向いて、普段は薄紅の唇を引き結んで。
「一緒に、行きましょうか?」
後ろから肩を抱いた腕に、振動が伝わる。
「そ、そーゆうわけにはいかないのよ。一人で、いかなきゃいけないって知ってるんでしょう?」
「僕はリサトの護衛ですから」
だから、一番近くにいられる。そばで守ることが出来る。もう二度と大切な人を失うことのないように。
腕に力を強く込めて、抱きしめる。僕の大切な、リサト。
「なにも入り口から入ってはいけないと言われたわけではないですしね。儀式の間の前までお供します」
「な、なにいってるのよ。神殿に一歩入ったら、そこからはもう」
見上げてくる濡れた瞳は、不安と動揺を物語っていて、さっきまでの行動が虚勢だったと言っている。
「忘れたんですか。僕も一応聖職者ですから、儀式の間の前まではいいんですよ」
「え、そう、だ、った?」
今まではあえて、神殿には入らずに待っていたのだけれど。今こんなことをいう少女を一人にしては置けない。何かあったときに、今度こそ助けたいから。もう、彼女のようなものを増やしたくはないから。
「扉の前で待っています」
彼女とは違って、まだ生きているのだから間に合う。あのときのように、壊れそうだから抱きしめないのではなく、守るために抱きしめる。ここにある、と。まだこの腕の中にあるのだ、と。
「、し、んっ、く、るしっっ」
「ふふ」
苦しがっているけれど、本気で嫌がっているようではないので安堵して、もっと力を込める。もちろん、加減はしている。壊してしまう気はないのだから。
僕の楽しがっているのが分かったのか、口元が動いて、風が強く僕に吹き付けた。それぐらいで手離すことなんてないのだけど、少しだけゆるめてあげた腕からリサトが抜け出す。肩で大きく深呼吸して、強く僕をにらみつけ、微笑む。
まるで、彼女と同じタイミングだったので、一瞬だけひるむ。
「大丈夫だよ。すぐに戻るから宿で待ってて」
すぐに戻るから、家で待っていて。
そういって、彼女は帰ってこなかったことを思い出す。境界をすでに踏み出したはずなのに、僕はまだ、あと一歩を進んでいない。後足が残ったままだ。このままでは、いけない。
「どうしてですか?」
そう聞くと、とても困った顔で見上げてくる。それでも、引くわけにはいかない。あと一歩なんだ。
「簡単な儀式だし、別に危険なわけじゃないもの。それに、ここは神殿よ」
神殿には、リサトに弓引くものなどいない。そう、わかっているけれど。なによりも怖がっているのは彼女のほうだ。姿の見えないものに、おびえているのはリサトの方。
でも、これだけ言い切るからには、引く気などないのだろう。ならば。
「僕は、リサトに必要ないんですか?」
柔らかくいうと、驚いたように目が見開かれた。
「そんなことないっ! 真行寺がいないと、あたしっ」
「じゃあ、儀式の間の前で待ってますよ」
たたみかけると、口を引き結んで悔しがる。小さな手をとり、歩き出す。最初はしぶしぶ歩いていたが、諦めたように小走りに僕の隣に並ぶ。
「今日は変よ、真行寺。いつもはそんなこと言わないのに」
変なのは、リサトの方だと思うな。
「そうですか? じゃあ、そうなのかもしれませんね」
いつものように笑って見せると、今度は本当の本当に安心して腕を絡ませてくる。細いけれど、強い腕。その意志と同じく大きく強い瞳で、笑う。
境界の向こう側では優しく微笑む彼女がいるけれど、境界を越えた先に待つリサトの本物の笑顔のために、僕は生きている。
今度こそ、守るよ。君を。
一題一週間はどうなった。
長らくお待たせしました。待っていなくても、お待たせしました。境界、です。
なんとなくリサトと真行寺で書いたらうまくいったので、やっと更新です。
このシリーズ、もしかすると女神の眷属なんじゃないかと思いはじめました。
姫と従者ってシチュエーションが、ね。
でも、姫…うーん…リサトが、姫?
つか、真行寺は従者じゃないし。教育係兼護衛だし。